【第一章】闇冥に覆われし月夜の下に、剣の乙女は光を掲げる
第一話 その少女は、刃の光を纏う

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家々は壊され、人びとは屠られ、
皆、火と剣に捧ぐ贄(にえ)とされた。
あらゆる富がひと時に奪われ、
父祖の代より積み重ねし繁栄は、血と灰に変わる。
見よ、我らの大いなる都が、劫火の中へと灼け落ちていく。
その偉容、その栄華、もはや跡形もなく、ただ潰えるのみ。

ああ、堪えがたき悲愴なり――


 「流亡悲歌」第11篇44〜48節





 空が、燃えていた。
 月下には、ヴェルトリア帝国繁栄の象徴とされた、白亜の巨城。
 その巨城が、天を焦がさんばかりの劫火に包まれている。
 火元となった存在(もの)は今、北の回廊上を移動していた。
 原因不明の爆発が数度にわたって城を襲い、そのたびに城兵たちのものと思われる怒号や悲鳴を呑みこんでいく。
 絶えることなく続く爆発と激震に耐えかねた回廊が崩壊を始める中、城館から西の塔へと通ずる跳ね橋が、勢いよく下ろされた。
 開け放たれた城館側の連絡口から飛び出してきたのは――、二人の少女だ。
 一人は純白のドレスに身を包み、右の手に鋼の長剣を携えていた。左の手は、はぐれぬようにもう一人の少女の右手とつながれている。前方を見据える眼差しは強く、揺るぎない。
 右手を引かれるように走るもう一人の少女は薄桃色のドレスに身を包んでいたが、左の手にはなにも持たず、ただドレスの裾を踏まぬようにたくし上げているだけだった。前方を行く白衣(びゃくえ)の少女の背中を見つめる眼差しは不安げで、怯えに満ちている。
 両者とも金色の美しい髪をしていたが、白衣の少女の方は後れ毛を多めに残すようにして首の後ろで一つに束ねていた。顔立ちも同様に見目麗(みめうるわ)しく、並んでいると姉妹に見えなくもない。しかし、互いの物腰を比べる限り、姉妹のそれとは趣が全く異なっている。
 跳ね橋の上へ進み出たところで白衣の少女が足を止め、そこから覗くことのできる範囲で周囲の状況を確認した。
 火明かりによって炙り出された惨景が瞳に灼きついて、彼女はこらえるように唇を引き結んだ。
 朱(あけ)に染まる夜空。そそり立つ猛焔。灼け落ちる城郭。中庭に穿たれた大穴。そして、四肢を散り散りに吹き飛ばされた城兵たちの亡骸――
 その目に映るすべてが、悪夢のごとき受け容れがたい光景だった。さりとてどうすることもできぬ彼女を嘲笑うかのように、熱気と煙を孕んだ旋風が身体を撫でていく。鼻腔に纏わりつく死の香り。焦げた血と肉の匂いか。
 だが、眼前に拡がる現実がどうであろうと、彼女のやるべきことに変わりはない。
 少女は前方を振り仰いだ。
 そこには、大理石で築かれた白い尖塔が聳え立っている。
 斎女(いつきめ)の塔。
 そこは、彼女にとって忌むべき場所(ところ)であり、行くべき場所(ところ)でもあった。
 日中は太陽の光を撥ねて輝く真っ白な塔だったが、今は焔の色に染まっている。
「セフィナ様――」
 主君であるヴェルトリア皇女の名を口にしながら、白衣の少女が振り返る。不安げにこちらを見つめているもう一人の少女――セフィナと、目が合った。
「急ぎましょう」
 そのようにだけ告げて、つないだ左手を微かに引いた。
 いや、微かに引くと見えたのだが、数瞬も経たぬ内にその挙動が一変する。
「あっ!?」
 主君が驚くのも構わず思い切り引き寄せ、背後へ庇うようにした。
「ルシェル……?」
 名を呼ばれても、白衣の少女――ルシェルは、振り返らなかった。その瞳は、今しがた自分たちが走り出てきた城館の連絡口へと向けられている。ルシェルの眼差しに、険しさと鋭さが数段増した、直後。
 小さな黒い影が、空を奔った。
 そう認識したときには、既に身体が反応している。
 一筋の白光。
 ルシェルの前方に閃いていた。
 宙で分かたれた影が、彼女の足元に落ちる。
 中ほどから断ち切られた短刀が、そこに転がっていた。黒ずんだ刃が、鈍い光を放っている。
「ひっ……!?」
 背後から、セフィナが悲鳴を呑みこむ気配が伝わってくる。
 ルシェルは、右へ払い下げた長剣を中段に据え直した。右手一つで振るった剣の切っ尖は、微かに震えている。皇女付の侍女として宮中に入った今でも、剣の稽古は課せられていたが、実戦で真剣を振るうのは、これが初めてだったのだ。
 それでも、大事な人を護るために剣を振るえたという手応えがあった。
 この手応えさえ忘れなければ、次も、振れる。
 心の中で呟きながら、皇女から離した左手も剣の柄へ添えた。
 第二撃目が飛んでくる気配はなかったが、こちらへ放たれる殺意は急速に密度を増している。
 城館の連絡口の、さらに奥。
 その暗闇の中に、殺気の群れが蠢いているのを感じた。
 数は十から二十……。それ以上か。
 もとより、何者かに後を尾けられている気配は感じていた。
 姿は、まだ見えない。
 いや、見えた。
 火明かりの届かぬ暗がりの中から生まれ出るかのように。
 全身を黒装束で包んだ人型の影が、闇の世界より具現した。
 首から上はすっぽりと頭巾で覆われており、それがどんな顔をしているのかはわからない。東方のエルダナという国には、このような出で立ちをして、暗殺や諜報を行う者たちがいると聞いたことがあるが……。
 ルシェルの目の前に現れた敵が、エルダナから差し向けられた暗殺者であると断定するには、なにか違和感がある。
 頭巾の、人ならば目の位置に当たる隙間からは、深淵のような闇が漏れ出していた。
 その奥に潜むなにかが、こちらを見つめている。
 黒装束の右手に提げられた抜き身の短刀が、城を蝕み続ける焔の照り返しを受けて不気味に煌いた。
 連絡口から姿を現した黒装束は五つだが、奥にまだかなりの数が控えているようだ。一人ひとりが、その風貌に違わぬ俊敏な身ごなしを得意とする連中なのだろう。前へ進み出る際の油断ない足運びを見ただけでも、それはわかった。運動の不得手な皇女を連れたまま逃走を続けるのは、よほど不可能な相手に思える。背を向けた瞬間を、先ほどのように短刀で狙い撃たれたらたまらない。
 皇女とつないだ手に、強い力が込められるのを感じた。
「あなたたちは何者なの!?」
 ルシェルの背後へ隠れながらも、セフィナが思い切ったように誰何(すいか)の声を発した。
「…………」
 反応はない。
「この城を襲うということは、ロゼウスの人たちなんでしょう? どうしてこんな酷いことをするの!?」
「…………」
 セフィナは叫ぶように問いかけを続けたが、それでも黒装束たちからの反応はなかった。
 だが返答を拒否したところで、彼らが現在ヴェルトリア帝国と戦争状態にあるロゼウス公国の手の者であることは、ほぼ間違いないだろう。
その正体が何にせよ、塔へ彼らを入れるわけにはいかない。
「セフィナ様は塔の中でお待ちください」
 つないでいた手を放したルシェルは、皇女に振り返らぬまま囁(ささや)くように告げた。鋭く尖らせた瞳は、音もなく現れた追跡者たちを睨みつけたままだ。少しでも不穏な動きを見せたら、すぐに剣を振れる準備はできている。
「あなたはどうするつもりなの?」
「ここでしばらく彼らの相手をします。私が斃(たお)されたときは、門を閉めて――」
「そんなのだめよ! ルシェルも私と一緒に逃げるの!」
 続けるはずだった言葉を皇女に遮られ、ルシェルは別の答えを探した。
「ですが、ここで彼らの隊伍を乱しておかなければ、すぐに追いつかれてしまいます。それに……」
 セフィナの不安げな視線を頬に感じながらも、表情と声音からは冷静さが失われぬように努めた。
「たった一人であろうと、胡乱(うろん)な輩を斎女の塔へ入れるわけにはいかないのです」
 そう言えば、理解してくれると思った。セフィナ皇女なら、あの塔が持つ意味を知っている。
「……わかったわ。でも、絶対に、死んではだめよ」
「心得ております」
 完全に納得したわけではないだろうが、セフィナの気配が背後に下がっていくのがわかった。
 しかし、この数を相手にするなんて、簡単に口にしてしまったものだと思う。
 一対多数の稽古ならいくらでも積んできたが、やはり、実戦となれば全くの別物だ。
 ここが狭い橋の上である点を利とするなら、敵をできる限り入り口付近に押し留めた状態で戦うしかない。そこで抑えきれずに敵が溢れ出して、前進に勢いがついてしまったときは、……もはやそれまでだ。
 胸中に覚悟した直後、連絡口から湧き出した黒装束の群れのうち、中央の一体が橋板の上に右足を乗せた。
「それ以上近づくなら、斬ります」
「…………」
 やはり、反応はない。
 一度だけ、ルシェルの肩がほんのわずかに震えた。
 ……自分に、斬れるのだろうか。
 だが斬れなければ、自分はおろか、皇女の命すら護れないのだ。
 斬らなければならない。
 絶対に、斬る。
 黒装束の足取りは慎重なものに見えたが、その前進に止まる気配は感じられない。
 一歩。
 一歩。
 もう少しで、剣の間合いだ。
 また、一歩。
 さらに、一――
 そこで、前進が止まった。
 黒装束の上肢が宙を滑り、跳ね橋の脇へと落下していく。
 後には、主を失ったことに気づかぬ下肢だけが立ち尽くしている。
 その瞬間、跳ね橋上のあらゆるものが静止していた。
 右へ薙いだ直剣を、流れるような美しい剣捌きで構え直した白衣の侍女以外には――
 周囲の黒装束たちに、動揺は見られない。 
 まるで一切の感情が存在しないかのように、その細腕に似合わぬ鮮烈な一撃を繰り出した少女と、仲間の死を、冷然と見つめている。
 そして、動き始めた。
 城館から、跳ね橋へ。
 猛火に照らし出された黒波のうねりが殺到する。
「――!?」
 その時ルシェルは、先ほど斬った黒装束の下肢が不自然な恰好で崩れていくのを見た。それは既に下肢としての形状を留めておらず、橋板の上で黒い水溜りと化している。
 これは――?
 理解できない。
 だが、目の前には新手の黒装束が迫っていた。
 喉元へ黒い短刀が突き出される。
 擦れ違った。
 頭から断ち割られた黒装束がその勢いのまま橋板に突っ伏し、黒液の水溜めへと変わる。
 もはや確かめるまでもない。
 彼らは、人間ではないのだ。
 ルシェルは剣を翻した。
「たとえあなたたちが、死を恐れぬ妖魔の群れだったとしても――」
 さらに接近していた後続の一体を斬り払う。袈裟懸けに斬撃を受けた敵が、たたらを踏みながら中庭へと落下する。
「――私の背中より先へは行かせない!」
 ルシェルは叫んだ。
 それは、細身に秘めた決意と闘志を吐き出したような、凛呼とした咆哮であった。
 たった一人の少女が、前進を続ける黒装束の群れを迎え撃つ。
 次に接近してきた一体が、長柄の武器を手にしているのが見えた。
 槍、だ。
 音も無く突き出された鋭鋒が虚空を貫く。
 跳ね橋上に火花が散った。
 歯噛みするような残響を道連れに、槍撃が脇へ逸れていく。
 真横から剣を合わせたルシェルが、その軌道を外へ押しやっていたのだ。同時に、彼女の剣は槍身を滑りながら敵へ殺到していた。石火。瞬いた剣光が、敵の頭から腰までを引き裂いていた。倒れ掛かってきた骸を払いのけ、中庭へ落とす。
 視界の左隅から、黒い線が真っ直ぐに伸びてくるのを捉えた。また、槍だ。
 跳躍し、胸を貫くはずだった一撃をやり過ごした。宙で身を翻す。剣を一閃。頭蓋を分かたれた黒装束が橋板に崩れ落ちる。
 中空でそこまでを見届けたルシェルが着地する直前、短刀を投げ撃たれた。剣で払い落としたが、体勢を崩して腰が深く沈む。
 正面には、新たな敵。毒蛇のようにうねる長槍が、中腰のルシェルを襲う。身体を右に捻って躱わし、槍の柄を左脇に挟んだ。
「はっ!」
 その拍子に肺が圧迫されて、思わず声が漏れる。力任せに槍が引かれたが、ルシェルの踵が黒装束の足下を蹴り払う方が先だった。相手の身体が浮き上がる。だが、剣を振るには持ち手が不十分だ。ルシェルは橋板を蹴った。相手の喉元に――肘。ゴッ、と鈍い音を響かせながら、敵の身体が橋板に叩きつけられた。
 が、すぐに起き上がり、再び猛然とルシェルへ襲い掛かってくる。彼らに人間の体術は通じぬようだ。しかし、そうとわかったところで驚いている暇などない。
 繰り出された槍の穂先を断ち落とす。敵は穂先を失ったことも構わずに柄(え)を水平に払ってきた。だが、その時既に、ルシェルの身体は相手の懐に潜り込んでいる。鳩尾に、刃を突き入れた。
「退がりなさい!」
 叫ぶと同時に身を当てていた。数秒の間を挟んでから、弾き飛ばされた黒装束が黒液に変わる。それを踏み散らすように次の黒装束が現れた。剣を返す。先に槍が突き出された。しかし、侍女の姿は消えている。ルシェルは、敵の背後を取っていた。いや、もう終わっている。剣光が、相手の胴を奔り抜けていた。その骸も、やはり黒液の水溜めへと変わっていく。
 ……あと、何体斬ればよいのだろうか?
 跳ね橋に向って突撃を続ける黒装束の群れには、途切れる気配がなかった。
 これでは、きりがない。
 息は、疾うに上がっていた。手足の感覚が重い。
 徐々に、押され始めていた。跳ね橋へ躍り出る黒装束の数が、増えてゆく。これ以上増えれば、もう終わりだ。
 稽古での十人掛けなら息一つ乱さずにこなせるのに、互いの刃が、互いの命を奪うために撃ち交わされる実戦が、ここまで消耗するものだとは――
 突然吹き付けてきた冷たい風が、ルシェルの思惟を寸断する。夜風ではない。刃風(はかぜ)だ。
 斬られる。そう思ったときには、左右から同時に振り下ろされた短刀を躱していた。自分の身体がどう動いているのかは、もうわからない。しかし、動いている。もう限界に来ているはずなのに、身体は動き続けている。黒装束が、二体倒れていた。いつ斬ったのか、憶えてなどいない。頭の中が、白一色に塗り潰されてゆく。確かに、限界は超えているのだろう。敵の攻撃に対して、身体が反応しているだけだ。このまま動けなくなるまで戦い続け、そして力尽きたときに、自分は死ぬのだ。
 だとしても――
 ルシェルは跳んだ。また一体、黒装束が倒れた。
 もうしばらくは、戦える――
 再び、ルシェルの剣が黒装束たちを跳ね橋の入り口へと押し返し始めていた。
 その時。
「あぁっ!?」
 声。背後から。
 セフィナの声だ。
 まだ、力尽きるわけにはいかない。
 主君を、護らねば――
 たとえ己が命と引き替えてでも――
 その時、視界がぐらりと傾いていた。ここで、倒れるのか。いや、違う。跳ね橋が、戻り始めているのだ。城館側に控える黒装束たちが、橋を操作しているらしかった。このままでは、垂直になるまで引き上げられた橋桁から、振り落とされてしまう。
「ルシェル!」
 瞬く間に上げられていく跳ね橋の先端で、皇女が叫んでいるのが見えた。なぜ塔に入っていないのかと思ったが、その前に竦(すく)んで動けなくなってしまったのかもしれない。ルシェルは、既にかなりの傾斜がついた跳ね橋を駆け上がった。こらえきれずに橋板を転がってきたセフィナを抱き止める。そのまま駆け続け、橋の先端に足をかけた。下方には、塔の入り口が見える。高度にはかなり差がついていた。
 でも、これくらいなら、届く。
「このまま塔へ跳び移ります。お覚悟を」
 皇女の返事を待つこともなく、橋板を蹴る。
「覚悟って――、どうすればいいの!?」
 抱きかかえられたままのセフィナが身を硬くする。二人の身体が、黄昏色に灼けた夜空の下に舞っていた。束の間の空中浮遊と、自由落下。わずか二秒後には、ルシェルの足が入り口の床へと到達した。着地の衝撃を殺しながら、セフィナの身体をそっと降ろす。
「お怪我はございませんか?」
「どこも……、平気だけど」
 皇女のきょとんとした瞳が、ルシェルを見上げていた。だが、互いの無事を喜び合う前にやらなければならないことがある。塔の門を閉鎖すべく、入り口を振り返った。そこには、黒い影。
 一体の黒装束が、二人を追って跳躍していた。
 手にした長剣を、投げ放つ。
 喉元を貫かれた黒装束が、塔の外壁にぶつかりながら落下していった。
 塔の入り口からは、再び下ろされ始めた跳ね橋と、そこに溢れんばかりの黒装束の群れが張り付いているのが見える。
 すぐに門を閉じ、内側から閂(かんぬき)をかけた。しばらくは持ちこたえてくれることを祈るしかない。
「ルシェル、急ぎましょう!」
「はい、こちらです」
 再び手をつなぎ合い、二人の少女は走り始めた。



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