祖母の教えは、本当だった。 「あれが、《常に月を見つめる窓》?」 十三になるまでこの塔で暮らしていたが、あんな天窓があるとは知らなかった。塔の中央部は主柱(おもばしら)になっているものだと思い込んでいたのに、実際は吹き貫けになっていたようだ。 ともかく、あそこに見えるのが祖母の話していた窓に違いないだろう。 遥か頭上にある天窓の中央には、一片たりとも欠けるところのない真円のごとき満月が姿を現している。 しかし、いつも見上げている満月とは様子が違う。 満月の下弦へ触れるように、一筋の光の河が流れているのが見えた。 星々の輝きとは違う、静やかで、優しげな光の清流。 それは、淡く色づいた、蒼白い光だった。 天窓を通して見る、夢か幻かと思えるような霊妙な光景に、ルシェルは束の間心を奪われた。 その直後のことだ。 満月が、眩(まばゆ)い光を発した。たった一度きりだが、視界が眩(くら)むような強い光だ。 それを合図としたかのように光の河がうねり出し、流れが二手に分岐し始めた。分かれた一方の支流とでも呼ぶべき光流が、満月を囲むように大きな環を描いてゆく。そうして夜空に描き出された光の環が、次第に窄(すぼ)まりながら満月に巻きつき、黄金色の地表を覆い尽くしていった。見る間に、月が蒼白い光の珠と化す。そのような状態になっても尚、光は徐々に強さを増していった。 中天に輝くその姿は、まるで夜空に生み出された白真珠のよう……。 いったい、なにが起ころうとしているのだろうか。神が起こす奇跡を、目の当たりにしているのではないかと思えた。この異常な天体現象は、自分がこの場に立ったことと関係しているのだろうか。 天窓の向こうには、いまや日輪のごとき光輝を湛えた満月がある。光が、さらに膨れ上がった。 やはり、なにかが起こる。 この《剣の間》に。 事態の急変を予感したルシェルが、天窓の下から離れるよう皇女へ叫ぼうとした、刹那。 満月が、溜め込んだ光を放出した。 解き放たれた膨大な光の奔流が、斎女の塔へ降り注ぐ。天窓を透過した光が、ルシェルの身体を―― 撃った。 視界が、白い光の中に溶けてゆく。手から零れ落ちた燭台が足下に転がった。それ以外のことは、よくわからない。 皇女がなにか叫んでいたが、反応することなどできなかった。 痛みはない。 苦しくもなかった。 むしろ、身体にも心にも、安らぎがある。 優しい光だった。 温かい光だった。 気付くと、淡く清らかな光の衣が身体を包んでいた。頭上の月は、まだ白く輝き続けている。 天窓から注がれる光が、ルシェルの身体を通して剣の間に拡がっているようだった。光の拡がりとともに、石の床と壁のみしか存在しなかった剣の間が、全く異なる光景に塗り替えられてゆく。ひび割れた床や壁が、磨き上げられた大理石のように輝き始め、床下から古代の神殿と見紛うような円柱が伸び上がる。さらには三方から広間を見守るように、三体の美しい女神たちを象(かたど)った神像が実体化しつつあった。 その女神たちの名は、ヴェスティール。 聖神ラルスとともにこの国を守護するとされている三女神であり、神剣そのものでもあるとされる存在だ。言い伝えにある通りなら、神剣は、ヴェスティールの三女神たちがそれぞれ、剣、鞘、腕環、の三つに姿を変えて、この剣の間で、人間に――初代の斎女であるルシエラに与えられたものであるはずだった。 斎女として生まれた自分でも、お伽話のような言い伝えのすべてを信じていたわけではない。 でも、この光景を見た今なら、信じられる。 剣の間に起きた変化――顕現とでもいうべきその現象に、まだ終息を迎える気配はなかった。 剣の間を満たした光が、今度は二人の正面にある床の一点に向って集まり始めているのだ。集積した光の粒子が天井に向って隆起し始め、白鑞(はくろう)の台座らしき形状へと変わってゆく。 そこに、特に強い光を放つなにか≠ェ、立て架けられていた。 剣だ。 溢れんばかりの清光に包まれた一振りの剣が、厳然たる風情で台座に納まっている。剣が、天窓から降り注ぐ光を一身に集めているように思えた。ルシェルの身体を包んでいた光の衣も、渦を巻きながら剣を目指して流れてゆく。 やがてそこら中にあった光という光が、すべて剣に吸収された。 剣の間に、再び静寂が這い降りる。だが、暗くはなかった。 神剣が放つ蒼白い光が、四方を照らし出しているのだ。 澄んだ夜空に閃き渡る、流星のごとき光。 それは、神秘と夢幻の混淆(こんこう)が生み出した、奇跡の結晶であった。 三百年の時を経て、三女神の剣が再び現世(うつしよ)にその姿を現わしたのだ。 金色(こんじき)の鞘には、これが求めていた神剣であることを証するかのように、斎女の紋章が浮かんでいる。柄に、白金の腕環がかけられているのも見えた。 ――これが、《ヴェスティール》……。 代々の斎女たちが護り続けてきた、神威の剣。 運命の気まぐれというものさえなければ、自分ではなく、母が手にしていたかもしれない、宿命の剣……。 「な、なにが起こったの……?」 足下から、皇女の声がした。いつの間にか、ルシェルのドレスに縋(すが)りついていたようだ。 「剣の間が、本当の姿に戻ったのです」 立ち上がろうとするセフィナに手を貸しながら、答える。 「これが、本当の剣の間? ルシェルがやったの?」 「いいえ、月から送られてきた不思議な光がやってくれました」 「今の光は、お月様から降ってきたの?」 「はい」 「なんだか、とても信じられないわ……。光が、なにもかも全部塗り替えていくんですもの……」 セフィナは、立ち上がってからもルシェルの腕を掴んだ手を放そうとしなかった。もともと怖がりな皇女であったが、無理もないと思う。自分だって、目の前で起きた不思議な現象のすべてを理解することなどできなかったし、もし母が健在でここにいたら、今の皇女と同じようにしていたかもしれない。 「あれが、神剣なのかしら?」 「恐らく……」 二人の視線は、台座に立て架けられた金色の剣へと向けられていた。 いまや頭上から降りてくる月の光までもが、台座上の神剣のみへと向けられている。 天を仰ぐと、ルシェルの真上にあったはずの天窓は、台座を垂直に見下ろす位置に移動しているのがわかった。 先ほどの不思議な現象は、斎女の塔の構造にまで変化をもたらしたようだ。 神剣が放つ光によって蒼白い明るみを帯びた壁や床にはひび一つなく、朽ちかけていた広間が全く別のものへと生まれ変わったように感じられた。 「これが、聖女ルシエラの剣……」 呟く声に視線を戻すと、セフィナが台座へ吸い寄せられるように近づいていくのが見えた。覚束ない足取りだ。早く神剣を手に入れてこの城を脱したいという焦りが、皇女を急き立てているのかもしれない。 「セフィナ様――」 ルシェルが呼び止めるより早く台座のもとへ辿りついたセフィナが、遠めにも震えているとわかる両手を神剣の鞘にかけた。 幾度かその細腕に力が込められたようだったが、神剣はびくともしない。 「この剣、どうして外れてくれないの?」 焦りと苛立ちの滲む声を上げながらこちらを振り返った皇女の瞳は、今にも泣き出しそうなほどに潤んで見えた。 「その剣は、ルシエラの血を引く者にのみ手に執ることを許す、と聞いております」 説明の口を開きながら、ルシェルが駆け寄ろうとした直後。 神剣の鞘が、二度、三度、と眩(まばゆ)く明滅し始めた。 柄にかけられていた腕環が、厳かな金色の光に包まれながら、悠然と宙に浮き上がっていく。ゆったりと宙に浮いた腕環が、次第にその動きを早めながら、ルシェルの周囲を旋回し始めた。弧を描きながらも弾むように上下動を繰り返す様子は、腕環が躍っているようにも見える。 その挙動を目で追っていると、腕環を包む光が一度だけ強く瞬いた。 「えっ――?」 ルシェルが驚声を漏らしたのは、その光が自分に何かを語りかけてきたように思えたからだ。なぜ、そう思ったのかは自分でもわからない。 すると、突然目も眩むような白光と化した腕環がその軌道を変えて、ルシェルの左腕に巻きついてきた。 予想外の変化に目を瞠(みは)ったルシェルだが、その場に立ち尽くしたまま微動だにすることもできない。やがて左腕を取り巻いた光は収まり、元の腕環へと戻った。 「腕環が……」 ひとりでに填まった腕環を見つめながら、束の間呆然とする。 「ルシェル、だいじょうぶ?」 「……はい、ご心配には及びません」 心配そうにこちらを見つめる皇女へ、できるかぎり落ち着いた声音で応じたルシェルは台座に歩み寄り、正面で立ち止まった。 神剣の様子に、変わりはない。 だが、剣の内から何者かがこちらを睨みつけてくるかのような威圧感がある。剣に姿を変えたという三女神たちが、ルシェルが自分たちを手にするのに相応しい人間なのか、厳格に見定めているような気がした。 もし、自分が所有者となることを剣に拒まれてしまったら、どうすればよいのだろう……。 出し抜けに湧き起こってきた危惧を打ち消すように、台座の神剣を睨み返した。腕環が、再び淡い光による明滅を繰り返し始める。その光に呼応したのか、鞘に刻まれた斎女の紋章も輝き出した。神剣が、問いかけているのだ。 我々≠フ前に立つお前は、何者だ――と。 ルシェルは、祈りを捧げるように両手を組み合わせ、静かに瞳を閉じた。 「――我、古の盟約によりて捧げられし、斎女の末裔」 祖母に教わった誓文(せいもん)を呟く。 「約定(やくじょう)の刻はきたれり。我、ここに誓う。御心(みこころ)に仇為す者どもを討滅せるその時まで、剣とともに戦い続けんことを。願わくば、今ふたたび御前(みまえ)に現れし剣の斎女に、三女神の祝福とご加護を……」 意を決して瞳を開き、神剣ヴェスティールに手をかけた――その時。 斎女の紋章が烈しい光を放ち、ルシェルの瞳に灼きついた。 「……?」 紋章から、なにかが溢れ出している。 それは淡い光を帯びた、文字か、記号のように思えた。いや、文字というよりはもっと図形に近い、紋様と呼ぶべきものなのかもしれない。 清淡な白光によって紡ぎ出された幻像のごとき紋様がルシェルの周囲を取り巻き、そして彼女が纏う白衣(びゃくえ)の内へと浸透してきた。 人よ―― 娘よ―― 不意に、声が聞こえた。 ひどく遠いところからやってきて、身体の内側に響くような、不思議な声。 身体に染み込んでいく紋様を通じて、何者かの意思が語りかけているように感じた。 約定の刻はきた。 心を開き、剣に宿りし命の紋を受け容れよ。 さすれば我らも、誓いに応えん。 その意思へ被せるように、別の、第二の意思が語りかけてくる。 人よ―― 娘よ―― 懼(おそ)れるな。 目を瞠(ひら)き、しかと見よ。 我らが力の、目醒めの刻を。 さらにその二つとは異なる、第三の意思が続けた。 人よ―― 娘よ―― 躊躇うな。 剣を執り、光を掲げよ。 今こそ我らが―― 誓いを果たせ。 そのように語りかけてきた三つの意思が、ルシェルの身体の内側に入り込み――そして、盟約は実効した。 刻まれる。 神威の光と紋様。 それは、三女神と交わされし盟約の言葉。 目醒める。 聖女の魂と器。 それは、命に宿りし霊威の力。 体内の隅々にまで光が満ちていき、自分が生まれ変わっていくような感覚をおぼえた。現れた紋様が、すべてルシェルの身体へ吸い込まれるようにして跡形もなく消えてゆく。 いつの間にか閉じられていた瞳を、開いた。 三女神の威光を湛えた金色の剣が、白鑞の台座に勇然と納まっている。 もう、三つの意思が語りかけてくる気配はない。 あれらが、剣となった三女神の意思であったとするなら、彼女たちが言う《誓い》とは、いったい何なのだろうか。 あの誓文には、剣の封印を解くこと以上の、なにか重要な意味が含まれているのではないかと思えてきた。 我、古の盟約により捧げられし、斎女の末裔。 約定の刻はきたれり。 我、ここに誓う。御心に仇為す者どもを討滅せるその時まで、剣とともに戦い続けんことを。 願わくば、今ふたたび御前に現れし剣の斎女に、三女神の祝福とご加護を……。 胸裡に誓文を繰り返したルシェルは、ついに神剣を手に執った。 三女神の剣が、なんの抵抗もなく台座を離れる。 剣――ヴェスティールは、ルシェルを主と認めてくれたようだ。 |