星が綺麗な夜だった。 真夏であれば、初更(しょこう)に入っても残照が空を薄朱く染めていて明るかったが、セミの声に替わってスズムシの声が聞こえてくる頃になると、夜の帳(とばり)が降りるのも早くなる。 スズムシは元々この地方に生息していなかったのに、東国からの移民たちに紛れて移入してきて以来、そのまま居ついてしまったらしい。この辺りの自然環境が、アストのご先祖様たちが元々暮らしていたところに似ていて、偶々(たまたま)水が合ったということなのだろう。 アストは、やかましく鳴くせいで真夏の暑苦しさを倍増させてくれるセミよりも、透き通るような音色を奏でて清涼感をもたらしてくれるスズムシの方が好きだ。 しかし、村のすぐ傍にある野原が近づいてくると、スズムシたちの声は次第に大きくなる人びとの歌声にかき消されて、全く聞こえなくなってしまった。 祝え 称えよ 祝え 称えよ 戦士はこの世へ 妖婆はあの世へ 天地(あめつち)荒(すさ)ぶる黄泉返しの夜に 古の戦士ぞ 降り来たる 祝え 称えよ 祝え 称えよ 我らが戦士 黄泉返りの刻を 巨大な焚き火によって照らし出された山野に、祭りの唄が響き渡る。古の戦士、オルグが黄泉(よみ)の国から還ってくる――つまり、復活して再び地上に戻ってくるのを祝う唄だ。 復活したオルグは、時同じくして復活を果たそうとする妖女イゼレバの邪悪な魂を黄泉へと送り返し、次の祭りが開かれる来年の晩夏まで村を守護してくれることになっていた。 戦士は黄泉返りを果たす一方、妖婆は黄泉へと送り返される。それが、黄泉返しの祭りに込められた意味であるらしい。 この祭りの由来になっているのが、村に語り継がれてきた戦士オルグの伝説である。 今より何百年も昔に、グラードの戦士であるオルグが、この地を支配しようと現れたイゼレバと戦い、相討ちになったのだという。 その後、人びとを救った英雄の復活を祈願するために執り行われた儀式が、黄泉返しの祭りの起源になっていると、村の大人たちから教えられていた。 「なんだ。まだ踊りが終わってないじゃん」 野原の中央にある巨大な焚き火を囲みながら、踊り子の衣装を纏った女たちが円舞している様子が見えてきた。 「どっかの誰かさんが居眠りぶっこいてて来ねえから、新前のお姉さんたちが場をつないでくれてるんだよ」 返ってきたオレスの言葉と視線には、やや棘が含まれているように感じた。 「それは、悪かったよ」 アストは心持ち俯(うつむ)きながら侘(わ)びを口にしていた。 「でもお前、今夜はずいぶん損したんだぜ」 一旦足下へ落とした視線を戻すと、オレスのしかめ面が、いつの間にか薄ら笑いへ変わっていることに気付いた。 「なにが?」 「なにがって、お前――」 傍で聞き耳を立てているマナミの存在を警戒したのか、オレスはそっと耳打ちしてきた。 「今年の衣装がかなりの良作だったんだよ。なんかやたらとひらひらしてるし、太ももとかお腹とか――おっぱいの谷間のほうも大胆に見えててさ、それが踊るたんびにゆっさゆっさと揺れるんだぞ?」 「そんなによかったのか?」 「ああ! 去年のもいい線だったけど、今年のはさらに上を行くな! あとはお尻のほうも限界まで挑戦してくれると、もっとよかったけどな!」 「マジかよ……。そりゃ本当に損したかもな」 小声で話していたつもりだが、マナミにはしっかりと聞こえていたらしく、牽制するような咳払いをされてしまった。 「あ、そうだ! じゃあ、迷惑かけてしまったのでごめんなさいって一言謝ってくるかな?」 「駄目だって。もうそんな時間はねえんだから、俺たちはこのまま櫓(やぐら)に直行」 「なんでだよ。ちょっとくらい見せてくれたっていいだろ」 「それが目的なんだろ? じゃ、尚更行かせるわけにはいかねえな」 「それが目的に決まってんだろ! だってここからだったら、小さくて点々にしか見えないじゃねえかよ!」 「はははっ! 健全な青少年なら、後は想像力で補うんだな!」 自分は間近でしっかりと堪能してきたくせに、オレスはそんなことを言ってアストを妖婆の櫓がある女山(おんなやま)の方角へ押しやった。この場にアストの味方をしてくれる者はなく、マナミは軽蔑するような冷たい目をしてこちらを見ているし、ユータはずっと「櫓に乗るのイヤだなぁ」「イヤだなぁ」とぶつぶつ独りで繰り返しているだけだ。 戦士や妖婆を模(かたど)った人形櫓同士の戦いは確かに危険なもので、毎年のように怪我人が出ていた。ユータは去年くらいからこんな調子で、今度の祭りで怪我をするのは絶対に自分だと言って、憂鬱な顔をしているのだ。 肝試しの時ですら「びっくりして死んじゃったらどうするんだよ!」と泣きべそをかきながら抵抗するぐらい、ユータは臆病な少年だった。アストたちとしては、村一番の怖がりがいないと盛り上がらないので、引き摺(ず)ってでも彼を連れて行ってしまうのだが。 とはいえ、「祭りの前に脱走するんじゃないか」と冷やかされていたのはユータだったのに、実際に姿を消してズルをしようとしたのはアストだったのだから、あまり偉そうなことは言えたものじゃない。 女山に向かっているせいで、一向に近づいてこない踊り子たちの姿を遠目にしながら小走りで急いでいると、戦士の櫓が控えている男山(おとこやま)の方から歓声が上がった。 「勇敢なる戦士の子らよ!」 男山まではかなりの距離があるはずだったが、その声はよく通ったので、はっきりと聞き取ることができた。 「聞いてくれ。間もなく雌雄を決する一戦が始まる。今後一年の吉凶が定まる重大な戦いだ。俺たちが勝てば戦士様のご威光が村を守護してくれるが、負ければ妖婆の呪いが村を支配することになる。この戦いに勝利し、晴れて一人前の男と認められるか、敗北し、村に妖婆の呪いをもたらした厄介者へと成り下がるかは、すべて皆の働きに懸かっている。戦士の櫓を任された以上、俺たちに敗北は許されない。相手が半人前の連中だと舐めてかかれば痛い目を見ることになるだろう。必ず勝利を収めて、この祭りを成功へと導こう。そのために、皆の力を貸してくれ」 声の主は、そこでわずかな沈黙を挟んだ後、 「――勝利を、我らに!」 その言葉を結びとして、独演を締めくくった。 「うおおおおおおおっ!」 沸き起こる喚声。それはすぐに地を揺るがすような雄叫びへと変わり、アストたちのいる女山の近くまで響いてきた。 「ちぇっ……。いちいちカッコつけやがって」 オレスが不愉快そうに足元の石ころを蹴飛ばしていた。 「いいよな、新前の連中は。向こうは景気づけの一杯が許されてるんだよな」 「それもムカつくけどよ……」 「今の声って、オレスの兄貴か?」 「そうだよ!」 オレスが苛立ちも露(あらわ)に怒鳴り返してきたところを見て、アストはようやく彼の機嫌が悪い原因に気付いた。 「たかだか乾杯の音頭を取るだけのことだろ。それをあの野郎は、ああやってカッコつけねえと気が済まねえんだ。なーにが、『勝利を、我らに!』だよ!」 「でも、向こうは全員で盛り上がっててすごい迫力だよ。オレスの兄貴は度胸があって皆からも慕われてるし、こっちの大将と違って仲間をまとめるのも上手いし――いてっ!?」 ユータが余計な一言を挟んだので、オレスに小突かれた。 「ばっきゃろー! 俺だってあれぐらいはいくらでもできんだよ! ただよ、これから乾杯ってときにわざわざウダウダとああいう余計な話を入れて、いかにも俺が大将だぞってツラをすんのがムカつくんだよ!」 「すぐに暴力を振るって大将ヅラしているだけの人よりは、よっぽどいいと思うけど――あいてっ!?」 「頭の形がベコベコになるまでぶん殴られたいのかよ、お前!」 「その辺にしとけって」 オレスの暴力が過激になる前に、アストは止めることにした。 「なんでアストは大将にならなかったんだよ? オレスと喧嘩したって、負けないんだろ?」 ユータは、これ幸いとアストの背中に隠れながらも、減らず口を叩くのだけは忘れていないようだった。大将を交替しろ、と言っているのだ。 「おれはそういう器じゃないんだよ。みんなをまとめるのなんて、向いてないんだ」 「そりゃそうだ。仲間を放って裏の丘でズル休みしてたようなやつに、大将が務まるわけねえよな」 「ああ……」 改めて指摘されると自分の軽薄な行いを後悔するが、今はオレスの言いようを認めるしかなかった。 「まぁ、オレスの兄貴が皆から支持されてるのを見てると、おれにはとても真似できないと思うよ。品行方正で悪い話なんて一つも聞いたことないし、自警団期待の若手なんだろ?」 「あんなの大したことねえよ! 火事が起きたときに、ちょっと火の中に飛び込んでお年寄りを何人か担いで助け出したりとか――、熊が村まで降りてきて暴れ回ったときに、タイマン張って山に追い返したりとか――、行商の警護のときに盗賊十人に囲まれたけど、独りでみんな薙ぎ倒したりした――ってくらいだろ!」 「ずいぶん大したことだと思うけど」 「…………」 ユータはまだアストの背中に隠れていたので、オレスは殴れずに閉口するだけだった。 「火事場からお年寄りを何人も助けたのがオレスの兄貴で、焼き芋を焼くために畑と山を丸焼きにしたのが僕たちだもんね……」 「俺たちの方が、遥かにスケールがでかいだろうが!」 しみじみと呟いたユータに対して、オレスが大真面目に怒鳴り返す。 「そりゃあ、向こうは女子からも人気があるわけだよな……、だろ?」 「うん。私の友達も、オルグさんみたいに優しくて、頼りがいのある人に憧れるって言ってた」 確認するように尋ねてみると、マナミはあっさり肯いた。友達が、と言っているが、妹だって、村の英雄と同じ名を与えられた青年に密かな好意を寄せていることを、アストは知っている。 オレスも薄々は気付いているはずで、だから尚更、同じ血を分けた兄弟のことが認められないんだろう。兄のいないアストには、少し想像しにくい感情だった。少なくとも、アストとマナミは争いあうような関係ではない。母は、素直で言うことをよく聞くマナミの方を猫可愛がりしているが、アストはそれで納得している。怠け者で言うことを全く聞かない自分の方が可愛がられるようなことがあったら、母は、頭がどうにかなってしまったのかもしれないと心配するところだ。 「ちくしょう! こうなったら俺もああいう演説みたいなのをやって、みんなの士気を上げるぞ! 付いてこい!」 オレスはそう叫ぶなり、妖婆の人形櫓を目指して駆け出したのだが、アストたちはその背中を見送っているだけだった。ずいぶん遠くまで走ったところで、誰も付いてこないことに気づいたオレスが振り返る。 「付いてこいって言っただろ! 俺を裸の大将にする気か!?」 遥か彼方に小さく見えるだけの大将が、跳びはねながらわけのわからないことを口走っているので、アストたちは苦笑しつつも後を追いかけることにした。 人形櫓というのは、簡素な造りの移動櫓に面や衣装の飾りを施して、戦士や妖婆に見立てたものだ。頭頂までの高さは十メトレ(十メートル)近くもあり、動かすためには三十人ほどの人手が必要になる。装飾を取り除けば攻城用の櫓に見えなくもないが、内部には戦士様や妖婆の魂が宿るための彫像が納められており、人が乗れるのは両脇に取り付けられた巨大な手の形をした足場と、首周りに設けられた足場だけだ。両手に一人ずつ、長い木刀を持たせた攻め手が配置され、首周りの足場には大将が陣取るので、各所に選ばれた三人以外が押し手となって櫓を動かすことになっていた。櫓の基底部には四つの車輪があり、櫓の両側から突き出るように三本の丸太が渡してある。一本の丸太には、左右五人ずつの計十人が取り付いて押すのだが、ほとんどが骨組みだけのような櫓でも、要求される労力は相当なものだ。 今、アストたちは妖婆の人形櫓が置いてある女山の麓へ辿り着こうとしていた。櫓には、襤褸(ぼろ)切れを繋ぎ合わせただけの覆いが被せられており、まだその姿は見えないようになっている。 「あ!? 戻ってきたぞー!」 見張りのように櫓の上へ陣取っていた少年が、アストたちの姿を認めて大きな声を上げた。 「チャラム! さっさと覆いを取っ払ってくれ!」 オレスが大きく手を振りながら、櫓上の少年に声をかける。 「あ、ああ!」 チャラムと呼ばれた小柄な少年は、やや泡を食った様子を見せながらも指示通りに櫓の覆いを外していった。猟師の見習いをしているチャラムは、普段から山で木登りなどをしているためか、高所でもやたらすばしっこい。 星明りの下に、妖婆の人形櫓が姿を現す。闇色に染められた長衣が夜風に煽られてはためいた。 使い古した雑巾などを適当に裂いて作ったもじゃもじゃの白髪と、不調法に目鼻や口をくっつけられた頭部の面が、異相の妖婆をうまく表現できている……と、言えなくもない。 妖婆と戦士の人形櫓は、それぞれ半人前と新前が自分たちの手で組み立てを行うのが慣例となっていた。 櫓をすっぽりと包む巨大な長衣の作製には、機織(はたおり)場で見習いをやっているマナミたちの力を借りたが、材木の切り出しから組み立て、雑巾の白髪と奇怪な面を用意するまでは、すべて半人前の少年たちが独力でやったものだ。 勝負は櫓作りから始まっており、櫓同士の戦いを行う前に動かしただけでばらばらになってしまったら、その時点で負けである。 雑巾で作った白髪の手抜きぶりと、オレスが「俺が魂を込めてやる!」と張り切って作ったへんてこな面はともかく、櫓の造り自体はしっかりしているので、本番で荒っぽい目に遭っても多少は耐えてくれるはずだ。これは大工の見習いをしているゴンタの頑張りによるところが大きい。見てくれは決して格好良い出来映えではないのだが、なぜかオレスは満足げに肯いている。 「よーし! んじゃ、決戦を前にちょっくら話があるからみんなを集めてくれ!」 「わ、わかった!」 了解の返事をして櫓を降りてきたチャラムだが、オレスの視線を避けるように首だけをあらぬ方向へ向けていた。 「ん、なんだお前? 具合でも悪いのか?」 「い、いいや、なんでもないよ」 「?」 にわかに訝しげな目つきに変わったオレスが、チャラムの顔を覗き込む。 「なんだその、口をもごもごしているのは?」 「もごもごなんか、してないって」 「してるじゃねえかよ! それになんだ? この匂い……、香ばしい、肉でも焼いてるかのような……」 櫓の周囲に漂っている匂いをしばし嗅いでいたオレスの目玉が、直後に大きく見開かれた。 「あっ!?」 一声叫ぶなり、彼は血相を変えて櫓の裏へ回り込んだ。顔を見合わせたアストたちも、念のためオレスの後を追いかける。そちらの方角が心なしか明るくなっているのが、アストも気にはなっていた。 「なにやってんだ!? お前たちっ!」 オレスの怒声とともに目に飛び込んできたのは、串に刺された干し肉を焚き火で炙って食べている、ゴンタたちの姿だった。 「やべっ、見つかったぞ」 そう言いながらも、ゴンタは干し肉にかぶりつく手を止めなかった。恰幅(かっぷく)がよくて大柄なゴンタは、その体躯に違(たが)わぬ大飯喰らいである。焚き火の周囲には干し肉を刺した串が何本か立てられており、彼が火加減を見る番をしていたようだ。それを他の少年たちが円になって囲み、灯りが外に漏れないように自分たちの外套(がいとう)を広げて覆いを作っていた。ゴンタが炙り終わった肉を、皆で順番に分けているようだ。 「お前らっ!? 松明(たいまつ)を点けるための焚き火でその肉を炙るな! 食うな!」 オレスが一同を睨(ね)め回したが、皆、それを無視して肉を頬張ることに専念している。 「アストも食うか?」 ゴンタが、炙ったばかりの干し肉を一つ、アストの前に差し出してきた。よく焼けた肉の、いい匂いがする。チャラムが、肉の表面に素早くなにかを振りかけた。塩と、香料のようだ。 「じゃあ、一つ貰おうかな」 差し出された干し肉の串を受け取り、一口食べてみた。炙られることで滲み出てきた肉の脂が、口の中に拡がる。近火にするとすぐに焦げてしまうから、遠火でじっくり焼いたのだろう。塩加減も、ちょうどいい。 「お前まで食うなよ!」 オレスは怒っているが、皆と同じようにひとまず無視しておくことにする。なんの肉かはわからなかったが、しっかり血抜きをしてから干して乾燥させたものらしく、臭みはあまりない。 串一本分の肉が、あっという間になくなった。 「これ、結構旨(うま)いな」 「ああ! そりゃ旨いだろうさ!」 「ユータも貰(もら)っとけよ」 アストは、傍で見ていただけのユータに声をかけた。引っ込み思案なユータは、こっちが気を遣ってやらないとなんでも貰いそびれてしまう。 「貰っていいの?」 「いいわけねえだろ!」 オレスは、ゴンタの傍に置かれていた革袋をひったくるように取り返した。 「そんなに怒ることないんじゃないか? 決戦の前に腹ごしらえしてたんだろ?」 「この肉は俺のだ!」 「そうなのか?」 オレスをなだめようとしたアストだが、かえって大声で怒鳴られてしまった。 「あーあ、こんなに減っちまって……」 革袋の中を覗き込んだオレスが情けない声を出して、がっくりとうなだれる。 「それ、やっぱりオレスのだったんだ。櫓の頭のところに隠してあったから、あんまり食うと怒られるよって言ったんだけど」 まだ口の中をもごもごさせているチャラムが、まるで他人事のように言ってのけた。 「ヘビ肉はそんなに食われてねえな……。あー、やっぱりイノシシばっかり食われてやがる……」 「これ、イノシシの肉なのか? 火で炙って食うとすげえうまいぞ」 「だから食うなって!」 オレスは振り向きざま、ゴンタの手に残っていた干し肉をむしり取って自棄気味に齧(かじ)り付いた。 「塩はいらないの?」 「それも俺んだよ!」 オレスはチャラムが差し出した小袋をひったくり、そこから一つまみの塩を取り出して口の中にふりかけた。 「そっか。それで見張りを立てて、オレスが戻ってくるのを警戒してたのか」 アストが口の端に笑みを浮かべながら言うと、チャラムが「うんうん」と小刻みに肯いた。 「だって、オレスがキレると、なにしてくるかわからないしさ」 「じゃあ、俺にキレさせるようなことをするなよ!」 オレスが凄むように怒っていたが、チャラムたちに怯(ひる)んだ様子は見られなかった。皆、普段はオレスより恐い親方連中に怒鳴られているから、大声を出されるのには慣れているのだ。 「オレスが悪いんだよ。こんなの持ってきて、一人でこっそり食おうなんてずるいぞ!」 「そうだそうだ!」 「オレスが悪い!」 本当は、持ち主に断りもなく食べる方が悪いはずなのだが、アストは目の前で繰り広げられているやり取りが面白かったので、黙っておくことにした。隣にいるユータはというと、日ごろからよく小突かれている恨みもあるためか、やけににやにやしながらこの状況を見守っている。 「お前ら、大将の俺に向って……、本来ならこれは反逆罪で死刑だぞ!」 「大将のくせに、干し肉を食われたくらいでわめくなんて器が小さいぞ!」 「そうだそうだ!」 「器が小さい!」 ことあるごとに少年たちが束になって言い返してくるので、さすがのオレスもたじたじとなっていた。 「ぐっ……、盗人猛々しいとはまさにこのことだな……!」 苛立たしげに呟かれたその一言を、チャラムが聞き逃さなかった。 「聞いたかみんな! 大将が俺たちを盗人だと言ってるぞ!」 「えー!? 仲間を盗人呼ばわりするなんて、本当に俺たちの大将なのかよ!」 周りの少年たちが、あからさまに不満の声を上げ始めた。オレスの表情に動揺の色が浮かぶ。 「ち、ちげえよ!」 「なにが違うんだよー!」 「ちげえんだって! この肉はなんつうか……、アレ! アレだ!」 「『アレ』じゃわかんねえよー!」 「だからアレだよ! 新前どもに勝ったらみんなに振舞って酒の肴(さかな)にしようと思って持ってきた肉だから、今はまだ食っていいやつじゃないんだ!」 それは今思いついた言い訳だな、とアストは思った。長年の付き合いから鑑(かんが)みて、オレスが他人に気前よくなにかを奢(おご)ることは滅多にない。酒の肴にするつもりだったのは確かだろうが、自分だけでこっそり愉しむために隠し持っていたのだろう。 「本当だな? 勝ったらそれ、ちゃんとみんなで分けるんだな?」 言質を取ったチャラムがしたり顔で念を押す。 「あ――、ああ! 男に二言はねえ!」 勢いで断言したオレスだが、やはり「しまった!」という顔をしている。 「よーし! 戦士様の櫓を焚き火にして、新前どもが吠え面かいてるのを眺めながら、オレスの干し肉を肴に一杯やるかぁ!」 誰かが言い、少年たちの輪に「おおおおーっ!」と喚声が広がった。 「待て待て! もう一回言っとくが、勝った時だけだからな! それに、余ってるヘビはやるが、イノシシは絶対ダメだ!」 オレスだけが喚声の輪に加わることができず、仲間たちの暴走に歯止めをかけようと躍起になっている。 「なんでだよー! やっぱり旨いやつは自分だけで独り占めにする気だったんじゃねえかー!」 「違うって!」 「ならイノシシよこせよー!」 「イーノシシ! イーノシシ!」 「ぐぬ……、ちくしょう……!」 オレスが歯軋りしたまま黙り込んでしまったところで、大勢は決したようだ。 「向こうは地鳴りみたいな雄叫びで、こっちはイノシシの大合唱か……」 急に空しい気分に襲われたアストは、ため息をつきながらユータへ振り向いた。 「なあ、ユータ」 「なに?」 「勝てると思うか? おれたち」 「うーん……、ううん」 少しは考えるそぶりをしたユータだったが、彼が答えを口にするまで大して時間はかからなかった。 「だよなぁ」 誰に訊いても、きっとそう答えるんだろうと思う。 「でもまぁ成り行きはともかく、みんなの気持ちを一つにしたんだから、おれたちの大将も負けてないってことかな」 「そういう慰めはいらねえよ!」 干し肉入りの革袋をしっかり抱え込んだオレスが、いつの間にか傍に立っていた。チャラムたちを止めるのは、もう諦めたようだ。部下たちの謀反を防ぎきれずに、私財を抱え込んで逃げ出した大将がいたとしたら、こんな感じなのだろうか。 「あれ? みんなに演説するんじゃなかったの?」 そこへ追い討ちをかけるように、ユータが底意地の悪いことを言った。 「もういいよ……」 いつもならすぐに拳を振り上げているはずなのだが、今のオレスにはそんな元気もなさそうだ。でも彼と、彼の干し肉のおかげで、自分のことが目立たずに済んだのはアストにとってありがたかった。 「オレス、ありがとな」 「なにがだよ」 「おかげでおれが遅れてきたの、うるさく言われずに済んだからさ」 「お前……、食われた干し肉の分は、きっちり働いて返してもらうからな!」 「わかったよ」 軽く笑いながら答えたが、そのくらいは本当にやらなければいけないだろうな、とアストは思った。 「あんたたち! いつまでふざけて遊んでるんだよ!」 「ん?」 突然やってきた怒鳴り声に振り向くと、一人の少女が眉を怒らせながらアストたちを睨みつけていた。 |