【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十六話 月下の芍薬

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 肌や、髪の色から察するに、ヴェルトリア人の少女だろうか。やや大人びた雰囲気を携えているせいでアストよりやや年上に思われたが、東方の民の血が混ざっている自分たちは異国人に比べて幼く見えるらしいので、案外同い年くらいなのかもしれない。
 十五、六の少女と見れば、早熟と思える面立ちの中にも、それなりの幼さが残っているように感じられた。その細身を包んでいる純白のドレスが、少女が持つ清楚にして優艶な美をこの上なく引き立てている。薄絹で織られたドレスを着ることのできる人は、ヴェルトリア人の中でもそれなり以上の地位や身分のある人に限られるはずだ。
 まさか、天からお姫様が降ってきた――
 ……とでも、いうのだろうか。
 流れ星のように落ちてきた光の中から少女の姿が現れた様子を思い返すと、そう考えた方が自然な気がしてくる。
 やましい気持ちがあったわけではないが、アストは、自分の視線が少女の美しい肢体に注がれてゆくのを止めることができなかった。あまりの美しさに目が奪われてしまう、というのは、きっとこういう感覚のことをいうのだろう。
 襟足のあたりで一つに束ねられた、金縷のごとく輝く長い髪。絹のようにきめ細かく、珠のように透き通った白い肌。そして、艶やかに濡れた薄桃色の唇……。
 瞳は閉じられていたが、柳のように細い眉と、すらりと通った鼻梁を見ていると、きっとそれらに相応しい綺麗な色をした瞳がそこにあるのだろう、と思えてくる。
 まるでお人形のように眠り続けている少女だったが、視線を身体の方に移すと、白いドレスの胸のあたりが、彼女の呼吸に合わせて静かに上下動を繰り返しているのがわかった。その薄絹の下には、仰臥してもなお形の良い、張りのある乳房があるのだろう。そんなことを想像してしまい、アストは独りで顔を赤らめた。わずかな間とはいえ、さっきはそこに顔を埋(うず)めていたというのが自分でも信じられない。頬のあたりには、まだ少女の温もりと柔らかさが残っている。女の身体とは、こんなにも柔らかいものだったのかと思う。
 アストの目を惹き付けてやまない豊かな胸の上には、首飾りのように下げられている水晶球があった。揺らめきながら様々な色の光を放つそれは、七宝の輝きを一身に閉じ込めた奇石のように思える。
 視線をさらに下の方まで走らせたアストは、少女の腰がくびれているあたりに、黄金の鞘に納まった剣が吊られていることに気付いた。
 宝剣……、だろうか。
 この少女が、本当に空から降りてきたお姫様かどうかはともかく、珍しそうな石や宝剣を持っているくらいなのだから、やはり一介の庶民というわけではなさそうだ。
 それにしても、美しい寝顔だと思う。
 美しい女性が歩く姿を百合の花に喩えるのは知っていたが、静かに眠り続ける女性をなんと喩えればよいのかはわからなかった。幼い頃に、そういう童話を母が語って聞かせてくれたこともあったような気がするが、今は思い出せない。
 薄手の生地を幾重にも重ねた純白のスカートが床の上に広がっている様子は、アストに芍薬の花を連想させた。
 とにかく、これ以上のことは観察していてもよくわからないので、彼女を起こして直接尋ねてみるしかない。
 ――でも、この子がおれたちの敵になる人だったときは、どうすればいいんだ……?
 ヴェルトリア人とグラード人は、敵対関係にある民族同士だ。帝国の支配から抜け出そうと、アストが赤子の頃に起きた独立戦争ではグラードが勝利を得たものの、それから十五年経った今でも両国の民は烈しくお互いを憎みあっている。アスト自身だって、戦場で父の命を奪ったヴェルトリアの民に対して、恨みに近い感情を抱いているのだ。
 かといって、いま自分の前で静かに眠り続けている少女の姿を見ていると、この子とだけは戦うようなことになって欲しくない、という気持ちが頭をもたげてくる。
 オレスや、他の友人たちは、こんな自分を裏切り者だというだろうか。
 ――知るかよ……! そんなことは、後で考えればいい!
 アストは、まだ目を醒ます気配のない少女の肩に手をかけてみた。触れただけで壊れてしまいそうな、細い肩。そのしなやかな感触に、思わずどきりとする。
「あの――」
 アストは、少女の肩にかけた手を、恐る恐る揺り動かしてみた。
「ん……」
 儚げな声を漏らした少女が、微かに身体をよじった。声を少し聞いただけなのに、心臓の拍動が跳ね上がる。全身が、かっと熱くなりそうだった。もう一度声をかけたら、起きるかもしれない。
「だいじょうぶですか?」
 少女が気絶しているのか、ただ眠っているだけなのか判断しかねて、どんな言葉をかけるのが適当なのかはわからなかった。
「……?」
 少女の瞳がゆっくりと開かれてゆくのを、アストは不思議な気持ちで見つめていた。
 少女が微かに瞳を動かして、こちらを見る。
 目が合った。
 雲ひとつない、澄み渡った蒼穹を思わせる、空色の瞳。
 少女の瞳が、思っていた通りの綺麗な色だったことに、アストは嬉しくなってしまった。
 しかし、そんな彼の思いとは無関係に、綺麗な瞳は強い警戒の色に染まってゆく。少女は、アストが身じろぎ一つできないうちに素早く起き上がると、間合いを取って剣の柄に手をかけた。
「あなたは、誰?」
 投げかけられた声に敵意や殺意は感じられなかったものの、アストは軽い落胆を覚えた。しかし、少女の反応は当然といえば当然のものなので、仕方ないと諦めるしかない。
 彼女が発したのはヴェルトリアの言葉だったが、ある程度ならアストにも理解することが可能だった。
 ヴェルトリアと東方諸国との交易はグラードを経由して行われていたため、交易路沿いにある町や村では帝国の言葉を話せる人が多い。アストの場合は、母親が各地を渡り歩いて旅の武芸者らしきことをしていた人なので、「いつ必要になるかわからないから、覚えておけ」とヴェルトリアの言葉を教えられていたのだ。
 そのような経緯はどうであれ、話が通じるなら今はそれでよいと思えた。でも、自分の訛りがひどいのかどうかは、少し気になる。
「誰って言われても、そこらへんの村の者だとしか、答えようがないんだけど……」
 とりあえず諸手を挙げて、こちらには敵対する意思がないことを示した。
「村……? ここは、どこかの村なの?」
 少女の反応からすると、彼女はいま、自分がどこにいるのか把握していないようだ。
「オーミの村だよ」
「その村は、どこにある村なのかしら……?」
「グラードのはずれにある、つまんない村だよ。まぁ、この辺では割と大きい方だけど」
「グラード?」
 呟いた少女は、難渋げな顔をして俯いてしまった。
「私は……、帝都から、グラード地方まで飛ばされてきてしまったというの……?」
「やっぱり君は、ヴェルトリアの人なのか?」
「ええ……」
「一体どうして空から降りてきたんだ?」
「お城で、とても恐ろしい魔女に襲われて……」
 少女はアストとの会話を続けながらも、身の回りの様子を確かめるように視線を廻(めぐ)らせていた。
「魔女?」
 まさか、魔女の魔法でこんなところまで飛ばされてきたのかと思い尋ねたが、少女から返ってきたのは、質問への答えではなかった。
「セフィナ様は……?」
「え? 誰?」
 ふと漏らされた一言にアストが反応しかけると、彼女は、はっ、とした様子で慌てて言葉を付け足した。
「私のほかに、ここへ飛ばされてきた人を、見かけなかった?」
「いや、おれが見たのは、君だけだよ」
「そう……」
 少女の瞳が物憂げに翳った。
 先ほど出てきたセフィナという名前の人は、この子の主(あるじ)なのだろうか?
 彼女の慌てぶりからすると、見ず知らずの他人の前で、迂闊に名前を出してはいけないほどの人物だったのかもしれない。民族的な対立感情を念頭に入れるなら、グラード人の前でヴェルトリアの貴人の名前を口にするのは迂闊だったと気付き、焦ったのだろう。その点についてはアストにも理解できるから、あえて詳しく訊き出そうとはしなかった。
「さっき、私の声に応えてくれたのは、あなただったの?」
「声って、さっきの、空から聞こえた声?」
「きっと、そうね……。私は、光の河を通ってきたみたいだから……」
 そう言って空を見上げた少女の横顔を、アストはとても美しいものだと思って眺めた。上空は依然として界瘴に覆われていたが、少女が光の珠となって突破してきた一点だけは今も大穴が空いたままになっており、その奥に浮かぶ満月の姿が露になっている。
 だが、それに気を取られたせいで、危うく重大なことを聞き逃すところだった。
「君は、《環》が視えるの?」
 アストは膝を着いた状態からいきなり立ち上がったが、少女は剣を抜かずに注意深く彼の挙動を見守っているだけだった。このとき、アストの身振りから少しでも邪気や悪意というものが発散されていたら、彼女に斬られていただろう。それはアストが、突然目の前に現れた美少女への下心を一時(いっとき)忘れて、邪念のない自然体で動けたことを意味しているが、彼が意識してやったものではなかった。
「《環》が視えるって、なんのこと?」
「いま言った、光の河だよ。おれは《環》だと思ってたんだけどさ」
「あの河は、《環》になっているの?」
「あ、いや、おれが勝手にそう思ってるだけで、確かめたわけじゃないんだけど」
 確証のないことを張り切って喋りすぎたと自覚して、アストは顔中が熱くなっていくのを感じた。生まれて初めて《環》のことが視える人に出逢えたからって、少しはしゃぎすぎてしまったらしい。
 でも彼女は、その中を通ってきたと言ったのだ。
「あなたは何者なの?」
「だから、村の少年だって、さっき……」
 そういう質問は、こっちがしたいくらいなのに、と思う。
「そうね、ごめんなさい……」
 少女の声や表情から次第に警戒の色が薄れてきたので、アストが言ったことを信用してくれているのかもしれないと感じた。硬さが取れた少女の声が、空の上から語りかけてきたときと同じ、澄んだ、優しい声音だったことにほっとする。
 やっぱり彼女は、敵になる人なんかじゃない。
 そう信じることができたアストは、せめて彼女の名前だけは知っておきたいという衝動を抑えきれなくなって、口を開いた。
「おれは、アストっていうんだけど、君は――」
「オルグってんだ。みんなは俺を、戦士様≠チて呼ぶぜ」
 答えは、真横から来た。
 塔の縁に立って腕組みをした戦士様≠ェ、いやらしい微笑を浮かべながらこちらを見ている。
「いやー、初々しいねぇ。俺もちょっくら仲間に入れてくんねえかな?」
「お前は、どうやって……?」
 戦士様が滑らかなヴェルトリア語を話せたのは意外だったが、それよりも、遥か下にいたはずの彼が僅かな時間で塔頂まで昇ってこれたことが驚きだった。
「鬱陶しい聖域化の咒紋が消えたからって、必死こいて外壁を登ってきたのよ。そしたら、これだ」
 オルグが言うように、古塔の周囲を囲んでいた紋様の柱は既に消え去ってしまっていたようだ。天に向っていた伸び続けていた塔もいつの間にか上昇をやめていたらしく、今は沈黙を保っている。
「ま、そいつはともかく――」
 オルグの視線は、彼が姿を現してからずっと、アストではなく隣の少女に向けられている。
「そこの嬢ちゃん、ルシエラのやつにそっくりだな」
 アストのすぐ傍で、少女が身を固くしたのが気配でわかった。
「ルシエラ?」
「こっちじゃ醜い妖怪おばばって言われてるが、ありゃ嘘だぜ。本当は、好(い)い女だったよ。この俺様が、精悍な美男子の英雄として祀られているのは、まぁ、当然のことだがな」
「あのイゼレバが、本当は、ルシエラ?」
 アストは、自分の隣に立つ少女の横顔を目の端で確かめた。自分たちが作った妖婆の人形櫓はひどいものだったが、この子のご先祖様なら、もっと美人さんにするべきだったのかもしれない。
 ヴェルトリア人は征服者として嫌われていたから、醜い妖婆として祭りに取り込まれていたのだろう。イゼレバ≠ニいう名前も、本来のルシエラ≠ゥら訛って定着してしまったものだと想像することができた。
「まさか、本人じゃねえよな? あれから三百年も経ってんだ。――とすると、子孫か? 名はなんてんだ?」
「あなたに語って聞かせる名前などありません」
「おいおい、つれねえこと言うなよ」
「私がルシエラの子孫だとしたら、どうするつもり?」
 少女の声からは、いつでも剣を抜き放つ気迫と戦意が感じられた。
 両者を押し包む空気が、一瞬のうちに張り詰めてゆく。
「だとしたらよ――」
 僅かな沈黙の後に呟いた戦士オルグが、その背に負った漆黒の剣に手を伸ばす。そして、
「闘(ヤ)るに決まってんだろ!」
 吼(ほ)えた。
 豺狼の眼が鋭い殺気を放つ。
 オルグは石床を蹴りつけるように跳んだ。その次の瞬間には、漆黒の剣を振りかざした彼の姿がアストたちの頭上にあった。
 速い。
 速すぎる。
 アストが懸命に逃げても瞬時に追いつかれてしまった理由がわかったが、これでは死を覚悟するしかない。もう一瞬後には、隣の少女もろとも、あの黒い大剣で真っ二つに――
「うわっ!?」
 だが、その一瞬後に待っていたのは真っ二つではなかった。
 少女に腕を引っ張られ、魔戦士が振り下ろした漆黒の剣からは逃れることができたようだ。
 しかし、足が床に着いてない。
 ここは――、空の上だ。
 少女に腕を引かれて、二人一緒に塔の上から身投げをする恰好になっていた。
「飛び降りじゃないかよ!?」
 初めは遥か足下に見えた地面が、落下が加速するにしたがって巨大な壁のように迫ってくる。周囲の景色も下から上へと高速で遠ざかっていた。眩しすぎるほどに美しい少女と一緒であっても、地面に叩きつけられてぺしゃんこになって死ぬという最期は、受け容れられない。
 烈しい風圧に顔を叩かれながら、首だけを回して少女の方を見た。大地を睨むように、しかと目を開いている彼女は、二人一緒に心中する覚悟を決めたという様子には見えない。
 いきなり、少女がアストの身体を抱き寄せた。
「落ちるだけで、どうなるっていうんだよ!?」
 叫んだ直後、アストは光の波紋が拡がるのを見た。
「なんだ、この光は?」
 全身を叩いていた風が、急に弱まってゆくのを感じた。下から上へ高速で遠ざかっていた景色も、今はゆっくりと流れている。落下速度が緩和されているようだ。頭を下に向け、重力で引っ張られるのに任せて落下し続けていた身体も、今は体勢を立て直して足を下に向けている。
「君が、やったのか?」
 アストが問いかけても、少女はなにも答えない。ただ、彼女の左腕に填められている白金の腕環が清淡な光を放っていることには気がついた。この腕環には、こんな奇跡的な現象を引き起こす不思議な力でも秘められているのだろうか?
 少女が一度だけ空を蹴り、再び宙に波紋が拡がった。それだけの動作で、二人の身体が空中を滑るように移動する。光の粒子で構成された波紋は少女の足下から発生しており、この波紋が揚力を生み出す力場のようなものになっているのかもしれないと想像した。
 二人の身体が、古塔からはやや離れた地点にふわりと着地する。
「うわ!?」
 それでもアストが数歩分よろめいてしまったのは、少女にすっかり身を任せきっていたせいだ。
 幾分の気恥ずかしさとともに振り返ると、いまだ沈黙を保っている少女と目が合った。
 その凛々しい清美な立ち姿はまさに――
 月下に佇む、芍薬の花。
 アストを見つめる空色の瞳は、揺るぎない意思の力強さを宿しつつも、どこか可憐で、儚げで――
 少女が醸し出す抗し難い魅力に何度も目が奪われそうになるのを、彼は懸命に耐えねばならなかった。
「君はいったい、何者なんだ?」
「…………」
 少女は、答えない。
「今の、光の波紋みたいなやつだって、どうやって?」
「……ごめんなさい。私にも、よくわからないの……」
 少女は、ようやくそれとだけ口にしたが、すぐに目を伏せてしまった。
「本当に、わからないの?」
「ええ……。今だって、あなたと一緒に塔を飛び降りたところまでは憶えているけど、その後のことは、自分でも……」
「そうなのか……」
 この少女が敵になるような人ではないと信じたアストだったが、その確証は欲しかった。
 でも、出逢ったばかりの者にすべてを語ってくれるわけがないのは当然だし、アストを殺すつもりがあるのなら、オルグに斬りかかられた時点で見捨てて助けなければよかったはずなのだ。
 今は、彼女の言葉を信じるしかないと思う。
「――! 私の後ろに下がって!」
 少女が叫ぶのと、上空から急降下してきた人影がアストたちの前に降り立つのは同時だった。
「嬢ちゃんよぉ、やっぱりルシエラの血を引いてやがんな。間違いねえ」
 そう呟いたオルグの黒い瞳が、血と同じ色に染まっていく。餓えた豺狼のごとき魔戦士が、ついにその本性を剥き出しにして狩りを始めようとしているのだ。
 少女はその言葉には応えず、微かに後ろを振り向いてアストに目配せした。
「この男の相手は私が引き受けます。あなたは早く逃げてください」
「引き受けるって……、戦士様と――、あいつと戦うつもりなのか?」
「ええ。ルシエラとの因縁を持つ戦士が相手なら、私は、戦わなければならない宿命(さだめ)ですから」
「そんなの無茶だ! あいつ、指を弾くだけで御神火台を吹っ飛ばせるくらいに強いんだぞ!?」
「そのくらいであれば、なんとかしてみます」
「なんとかなるって次元じゃないんだよ!」
 アストが言ったのは嘘でも誇張でもないのに、少女には理解してもらえなかったのだろうか。
「おい少年、男ならごちゃごちゃ言ってねえで聞き分けてやれよ。嬢ちゃんに闘(ヤ)る気があるんなら、素直に闘(ヤ)らせてやりゃいいじゃねえか」
 そこで舌舐めずりをしたオルグに嫌悪感を覚えつつも、彼に一睨みされただけでアストは肝が冷えて何も言えなくなった。
 こんなのを相手に戦ったら、この子は殺されてしまうかもしれない……。
 だが、彼女の代わりに自分が戦う、と言えるだけの勇気と強さが、アストにはなかった。
 自分は、無力なのだ。
「まぁ、いいや。そんな小僧は放っておいて、さっさと俺と闘(ヤ)ろうぜ? 嬢ちゃんよ」
 その言葉が終わると同時に、前方にいた男の姿が消えていた。
 少女の剣が、鞘走る。
 闇を切り裂いたのは、白金の刃。
 闇に潜んでいたのは、漆黒の牙。
 暗中に火花が散った。
「早く逃げて!」
 少女の叫び声がアストの耳を打つ。
 闇の中からは、太刀が撃ち交わされる刃鳴りの音が途切れることなく響いてくる。
 だが、瞬きをするごとに少女と魔戦士の位置が目まぐるしく入れ替わり、両者が戦う姿は、とてもではないがアストの目で追いきれるものではない。
「逃げて! 早く!」
 切迫した少女の声が、その場に立ち尽くしたままのアストを急き立てる。
 アストは……。
 アストは――
 逃げ出していた。



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