【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十九話 少女への一念、闇をも拓く

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 まず初めに、今日は黄泉返しの祭りが行われる日だったということ。
 その祭りの最中に、界瘴が上空から降りてきて、多くの村人たちが呑みこまれてしまったであろうということ。
 自分は、置き去りにされていた赤子を助けようとして、一度界瘴の中に引きずり込まれてしまったということ。
 親友の兄や新前の人を助けられずに、見捨ててしまったということ……。
 それから戦士様が復活し、理不尽とも言えそうなほどの圧倒的な力を振るわれ、殺されかけたということ。
 その直後に、界瘴に覆われた空から光に包まれた少女が降りてきて、自分を助けてくれたこと。
 彼女に逃げろと言われて、その場を逃げ出してしまったこと。
 そして、祭りに使った妖婆の櫓が界瘴の力によって再生され、自分を追いかけてきたこと――
 その一つ一つを話していくうちに、アストは、自分がとても情けない生き物のように思えてきて、目頭に涙が滲んできてしまった。
『それで、その妖婆とやらに捕らえられ、気付いたときには、ここに流れ着いていたということでござるな?』
 アストの話を聞き終えたアヤノは、ふうむ、となにごとか考え込むように腕組みをした。
「あ、ああ……」
 アストは、そうとだけ答えるなり、その場に泣き崩れた。
「おれ……、なにも……、なにもできなかったんだ……。死ぬのが怖くて、ただ逃げ回っているばかりで……。自分が、こんなに惨めで情けないやつだったなんて、知らなかったよ……」
『己を責めたところで仕方ござるまい。かほどの妖異に巻き込まれたのでござれば、アストどのが生き残れただけでもよしとすべきでござるよ』
「でも、あの子は……! おれを逃がすために戦ってくれたんだ……!」
 アヤノに慰めの言葉をかけられたことで、かえって惨めな気分が増長した。目じりから零れ落ちた涙が、暗く虚ろな大地を濡らしてゆく。
 まだ名前も知らぬヴェルトリアの少女は、敵国の人間であるというのに、アストを助けてくれたのだ。なのに自分は、ただ逃げ出すことしかできなかった……。
「おれ、これからどうすればいいんだ……? こんなところでまた誰かに助けられて死に損なったなんて……、絶対にみんな許してくれないよ……」
『それは違うでござろう』
「なにが違うんだよ!?」
 否定の言葉をかけられた瞬間、頭に血が昇った。
『少なくとも、その異国の娘子(むすめご)は、アストどのに生き延びて欲しいと考えて、自ら戦うことを決意したのでござろう。ならば、いくら惨めで情けなかろうと、生き延びて娘子の心根に報いることこそが、アストどのに課せられた責任の取り方ではござらぬか?』
「責任って、死んで取るものじゃないのか?」
『それは、死ぬ勇気も持たぬ臆病者が、軽々しく口にしてよい言葉ではござらぬな』
 アストは閉口した。実際、アヤノの言うとおりなのだ。今ここで死ねと言われたところで、死ぬ勇気など自分にはない。
『それにもうひとつ。拙者の心根も無視されては甚(はなは)だ遺憾にござるな。拙者は、アストどのに死なれて欲しいがために、救いの手を差し伸べたわけではござらぬ』
「じゃあ、どうすればいいんだよ……」
 もう、顔も上げられなかった。只々自分が惨めで卑小な生き物だという呵責の念が募ってゆくばかりで、救いを求めるように、アヤノの白い足袋と草鞋を見つめることしかできない。実際には遥かに長生きしている存在なのだろうが、自分よりも幼く見えるこんな少女に救いを求めているというのが、やはり情けなかった。
『アストどのは、どうしたいのでござるか?』
 頭上から降りてくるアヤノの声は、そんなアストに対しても優しく響いていた。
「もう、逃げたくないんだ……。でも、あんな化け物たちと戦う勇気も力も、おれには無いよ……」
『では、強くなりたい、と』
「…………」
 なにも、答えなかった。答えたくなかった。
 弱いから、情けないのか。では、強くなりたいのかというと、それもわからなかった。でも、この弱さだけはなんとかしたい。そう思うこと自体が、弱さなのだろうか……。
 でも、この居た堪れない気持ちを言葉にするなら、そういうことだと思う。強くなれば、こんなに惨めで情けない思いをしなくても済むのではないか、という気がした。だが、どうすれば強くなれるというのだろうか……。
「強く――」
 感情を素直に声にしたつもりだったが、喉の奥から這い上がってきた嗚咽に押しのけられ、言葉が途切れた。たった一言を搾り出すことも満足にできない自分が、心底嫌になる。
「強く、なりたいよ……」
 切実な願いだった。
 強くなりたい。
 でも、そんな願いを持つこと自体が、自分の弱さを認めてしまったようで、悔しかった。
 おふくろの、言うとおりだった、と思う。
 日ごろから、強くなれ、と母には言われていた。いつもは、また始まった、と聞き流していたのだが、それがどういう意味なのか、もっと真剣に向き合っておくべきだったと痛感する。
『ふむ』
 相槌とも嘆息ともつかぬ声を絞り出したアヤノは、微かに眉根を寄せて険しげな表情を作った。
『己の内に潜む弱さを克服するというのは、なかなかに厄介な難題にござるな。とはいえ、己の弱さを見つめるのは、決して無意味ではござらぬよ』
「そんなことで、強くなんか、なれるのかよ……」
『なれる。弱さを克服して強さを得(う)るには、第一に、己自身の弱さを知ることから始まるのでござる』
 アヤノは、はっきりと断言した。
 でも、そんなものは気休めだ、と思う。自分の弱さをよくよく思い知ったところで、気が滅入ってますます弱ってしまうに決まってる。強くなるというのは、もっと――
 もっと、なんなのだろうと思う。なにも、想像できなかった。……いや、そもそも、自分には強さについて語る資格などないのだ。
 自分は、ただ惨めで情けないだけの、臆病者なのだから。
『まぁ、小難しい話はここまででござるな。まずはこの陰気臭い場よりおさらばすることが先決でござろう。――さぁ、いつまでもぐずつくのはやめにして、立ちなされ』
 アヤノが手を差し出す。なにと思うこともなく、その手を掴んでしまった。促されれば、自然と従ってしまうような力が、この少女の声にはある。
『アストどのには、拙者の力をお貸し致そう』
「おれを、助けてくれるっていうのか?」
『左様。では、諸手を前に差し出してくだされ』
「手を?」
『ふむ』
 アヤノに言われるまま、アストは両の手を差し出した。
『拙者の力とはいかなるものか、これよりお見せ致す。――両の眼(まなこ)と魂(こころ)を瞠(ひら)いて、しかと己(おの)が命に灼きつけよ!』
 アヤノが叫ぶと、彼女の背後にある祠の扉が、軋むような音を立てながら開放された。  
 淡い霊光に満たされた祠の奥から、無数の花片が躍り出る。常夜の世界に舞い上がった、清らに澄み透る桜の花唇。風もないのに渦を巻きながら二人の周囲を舞ったそれらが、今度はアストの掌の上に集まり始めた。そこで細長い螺旋を描き、眩い光とともに爆ぜ散る。
「な、なんだ――!?」
 花片が消え失せたアストの手の上には、藍色の鞘に納められた一振りの刀が残されていた。
『これなる刀は、《桜女(サクラメ)》――。かつての拙者の佩刀(はいとう)であり、現在(いま)の拙者自身でもある刀でござる』
 少女の声が、厳粛な響きを持って、アストの魂(こころ)に響いた。
「現在(いま)の、拙者自身って……、この刀は、君そのものだっていうのか?」
『左様』
 昔は自分で差していた刀が、今は自分自身になってしまったということなのだろうか。
「どうして、そんなことになったんだ?」
 率直な疑問だった。
『それは……』
 とだけ答えたアヤノは、難渋げな顔つきをして黙り込んでしまった。
「憶えてないのか?」
『ふむ。まぁ、そのうちに思い出すこともござろう。ともかく、まずは刀を抜いてみなされ』
「あ、ああ」
 ごくり、と生唾を飲み下したアストは、藍色の革を菱巻にしている柄に手をかけた。微かに震える手で、刀――サクラメを引き抜く。鞘から覗いた刃が光り輝き、アストの眼に灼きついた。
 浅く先反りのついた刀身が、薄闇に閉ざされた界瘴の世界で凛然と瞬く。
 匂(におい)深く、淡い沸足(にえあし)のついた刃文(はもん)は重花丁子(じゅうかちょうじ)に乱れており、艶やかに咲き誇る満開の八重桜を想起させられる。
 刃長は七十サント(七十センチ)より少し長いくらいだろうか。柄を含めた全長は一メトレ(一メートル)近くもあり、小柄な少女が扱うにはやや大振りな気もするが、思わず見惚れてしまいそうになるほど優美な太刀姿だ。
 左手に持った藍塗りの鞘には、暁の空に映える桜のごとき花文(かもん)が装飾されているのが目に入った。
 金製の鐔(つば)や目貫(めぬき)や、柄頭の兜金(かぶとがね)に至るまでの各所に桜花の意匠が施されているところを見ると、まさに八重桜のようなこの少女のために拵(こしら)えられた一刀であることが窺える。
 その委細はともかくとして、見る者を圧するほど絶美にして絶奇なるこの刀が、ただの鉄を鍛えて生み出されたものであるとは思えなかった。
 霊妙なる業が。
 神域たる力が。
 刀の姿となって、具現したのだ。
「すごい……」
 アヤノが使っていたのなら、この刀も千年以上の歳月を経た古董のような一振りであるはずだが、その刀身は錆びもせず、朽ちもせずに完全な状態のまま現存しているように見えた。もしこれで、刀の本質である切れ味も衰えていないのであれば、奇跡と言うほかないだろう。
『抜き身にしただけで満足している場合ではござらぬぞ。まずはそこの闇を斬り払ってみなされ』
 アヤノが、アストの左隣の空間を指し示してそう言った。
「え、あ、うん」
 アストは、刀を上段に構えた。刀を手にするのは初めてだが、想像していた以上に、ずしり、と重いものだ。
「あれ? あのさ、今、なんて言ったの?」
『そこの闇を』
「うん」
『斬り払ってみなされ』
「なんだ、そんなことか――って、ええっ!?」
 一度は肯きかけたアストだが、驚いて構えを解いた。なんの冗談だと思ったが、アヤノはひどく大真面目な顔をしてこちらを見守っている。
「闇って、これ、ただの闇だよ?」
『左様』
「そんな形も何もないもの、斬れるわけないだろ!?」
『かようにむつかしく考えては、斬れるものも斬れぬでござるよ。アストどのは、ただ頭を空(から)にし、目の前の闇を――』
 答えながら、彼女は右手を頭上へかざして、
『払う』
 払い下ろした。
『ただこれだけを為せばよいのでござる』
「そんなので、本当に闇が斬れるのかよ?」
『斬れる』
「そんな自信満々に言い切られてもさぁ……」
 無茶苦茶だと思う。しかし、やってみないことには許してもらえなさそうな威圧感をアヤノが醸し出しているので、一度は試してみるしかなさそうだ。
 身体を左に向け、薄闇以外になにもない空間と相対する。
『斬るというのは、命を奪うだけではござらぬぞ。斬ることで生まれるものもまた、有るのでござる』
「はぁ……」
 余計に、わからなくなったと思う。
 頭を空にしろと言っていたけど……。
 言われた通りに、やってみるしかないか。
 とりあえず、頭の中を空にしよう。空にしよう。空に――
 ああ! 駄目だ!
「空にしよう」と、頭の中で考えてしまっている。じゃあ、どうすれば、空になるというのだろう。だいたい、頭の中が空になってしまったら、刀を振り下ろすことも、忘れてしまうんじゃないだろうか――ああ! だから、そういう余計なことは考えるなって!
 でも、考えるなって言ったって……。
 なにも考えないようにしようとしても、頭が勝手になにかを考えようとしてしまう。
「あのさぁ」
 アストは再び構えを解いて、アヤノへ振り返った。
『まだ腑に落ちぬことでもござるのか?』
「あぁ……」
 というより、腑に落ちないことだらけだと思う。
「頭を空にするってのが、できないんだけど」
『まぁ、できぬでござろうな。アストどのがいきなり無我へ通じてしまったら、拙者も驚きでござるよ』
「からかってんの?」
『いやいや。では、頭に浮かぶことを、一つに絞るのはいかがでござろうか?』
「一つに?」
『左様』
 それなら、空にするよりはなんとかなりそうだと思えた。
「でも、なにを考えればいいんだよ?」
『異国の娘子』
 アヤノがその言葉を口にした瞬間、心臓の拍動がにわかに高まった。
「あ……、あの子のことを考えれば、いいのか?」
 努めて平静を装いながら、アヤノに尋ねる。
『ふむ。話に聞いただけでござるが、どうもアストどのとその娘子にも、ただならぬ縁が通じてござるように感じられたのでな』
「ただならぬ縁って、どういう……」
『それを確かめるためにも、まずは目の前の闇を切り開いて、ここを出なければならぬのでござる』
「え? これって、あの世から出るためにやってるの?」
『左様にござるよ』
「じゃあ、それを先に言ってよ」
 アストは闇へ向き直った。
 あの少女――
 上空の《環》を通って、アストの前に現れた、異国の美しい少女――
 月光を写し取ったように輝く金色の髪。雪のように白い肌と、瑞々しくて柔らかそうな薄桃色の唇……。
 アストを見つめた空色の瞳は、どこか物憂げに揺らいでいた。
 胸の谷間でいっぱい吸い込んでしまった、花のような甘い香りが思い出される。
 あれは、至福の瞬間だった。
 微かに身じろぎしただけで、弾むように揺れてしまうほど実った豊かな乳房。
 もう一度、埋まってみたいと思う。
 今度は服の上からじゃなくて、直に顔を、むぎゅっ、と埋め――
「あ――! あの、アヤノさんさぁ!」
『まだなにかござるのか?』
 さすがに三度目となると、アヤノの声にも苛立ちの色が篭(こも)ってきた。
「おれ、なんていうか……、年頃だから、女の子のことで頭を一杯にしようとすると、けしからんことになってしまうんだけど……」
 助平根性が強すぎるのだと思う。
 我ながら度し難い。
 アヤノにもあの子にも怒られるかもしれないが、こればかりはどうしようもないと思った。
『ふむう』
 アヤノは怒りこそしなかったが、少し呆れたようにため息をつきながら肩を落とした。
『致し方ござらぬな。この際は、アストどのの頭の中がいくら邪念で埋め尽くされようと眼を瞑(つむ)るので、とにかくその娘子のことだけを、強く心に思い描きなされ』
「わ、わかったよ……。でも、こういうのって、邪念でもいいわけ?」
『構わぬ、今この一時(いっとき)に限るのでござれば』
「そうなのか?」
 アヤノは構わないと言ってくれたが、やはり頭の中が邪念に支配されるのはまずいと思う。
 ……なにやってんだ、おれ。
 しっかりしろ。
 意思をしっかり持たなければ、駄目だ。
 こうしている今も、あの子は戦っているのに……。
 異国の少女。
 アストを逃がすために、あの恐ろしい戦士オルグと戦って時間を稼いでくれた、白衣(びゃくえ)の少女。
 今度は自分が、あの子を助けたいと思う。
 彼女の心根に応えるためにも生き延びろと、アヤノは言った。
 でも、それだけじゃ不十分だと思う。
 もうこれ以上、自分がなにもできないうちに誰かが消えてゆくなんて、耐えられない。
 あの子が消えてゆくなんて、許せるわけがない。
 誰にも、消させない。
 あの子を、助けたい。
 そのためには、どうすればいい?
 ……そうだ。
 だから、おれは――
 思惟がその言葉を結んだとき、頭の中に浮かぶことが一つに絞られた。
 今なら、それだけを考えて刀を振れる。
 いつの間にか、サクラメの刀身が蒼い霊光を纏って輝き始めていた。
 これなら、斬れる。
 闇を、斬れる。
 斬るのだ。
 斬るさ。
 斬ってやる。
 斬る――
 刀を、振った。
 闇が、払われる。
『お見事』
 アヤノの声が聞こえ、光が、生まれた。



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