太刀を合わせた衝撃が、ルシェルの肩へ突き抜ける。 棒立ちになった――と思ったが、実際には荒地の上を転がっていた。 速い。そして、重い。 オルグの突進に対して、反撃を試みる余裕などなかった。息を継ぐ間もなく繰り出される剛速の斬撃を、凌ぎ続けるだけで手一杯になる。 ……おかしい。 剣の間で戦ったときは、もっと動けたはずなのだ。 だが、この地に降り立ってからは、身体に全く力が入らない。 鍔の中央にある空洞を埋めていた光珠も、今は消えている。どうすれば、あの光珠がもう一度光り輝くようになるのかは、わからなかった。 剣の間では、光珠が輝き始めてから途轍もない力が湧いてきたというのに……。 これは、上空の光の河を通ってきた影響なのだろうか。 まさか、ヴェスティールの三女神たちがルシェルを見放して、加護をやめてしまったなどとは考えたくもないが―― 「こいつぁ大した珠だ!」 ヒュウ、と口笛を鳴らしたオルグが、立ち上がりかけたルシェルの頭上に跳ねていた。 「くっ――」 もう一度、防げるか。 「ちょっとだけ、マジでいくぜ!」 斬光。神剣で迎い撃つ。 飛び散る刃火。 腕を伝った剣圧が、ルシェルの意思と全身を痺れさせた。 今さらながら、この魔戦士が揮(ふる)う圧倒的な力に驚嘆せざるを得ない。 軽口の減らない男だが―― その一閃は、峻烈にして重厚。 「おいおい、本気を止められたら俺の立つ瀬がないだろ? まぁいい、気に入ったぜ。惚れちまいそうなくらいだ」 重なり合い、震える双剣を隔ててオルグが微笑する。 背すじがぞくっとしたルシェルだが、これは恐さとはまた違う性質のものだと思った。 ――この人は、早く私を斬りたくて、うずうずしている……。 それがルシェルの直感だ。そして、その感じ方は、恐らく正しい。 「お、戻ってきやがったか」 瞳だけを滑らせるように後方を流し見たオルグが、そんな言葉を呟いた。仰角へ向けられた視線の先にあるのは、小高い山だ。その頂(いただき)には―― 白髪の妖婆。 勝ち誇るかのように山頂に聳え立ち、こちらを見下ろしている。 彼女がここへ戻ってきたということは……。 「あの小僧は、黄泉送りになったみてぇだな」 オルグの唇が愉しげに歪む。 「そんなの嘘よ……!」 ルシェルは、認められなかった。 「嘘じゃあないぜ。あれとは、界瘴を通じて感覚を共有しているからな。小僧はあっち側の世界へ丸呑みにしてやった。もうこの世にはいねえ」 「そんな……」 「だから、忠告してやったんだぜ? 嬢ちゃんの、無駄な優しさってやつをよぉ」 なにも、反論できなかった。 この男が言うとおり、自分は無駄なことをしただけなのだろうか。 あの少年を先に逃がした判断は、間違っていたということなのか……。 わからない。 だが、判断の正当性はどうであれ、選択した行動が実を結ばなかったという事実は残る。 自分がしたことは、全くの無駄。水泡。徒労。無意味。 私の―― 私の、せいだ……。 あの少年を、死なせてしまった。 もしかしたら、ルシェルを光の河から地上へ呼び戻してくれたのは、彼のおかげだったのかもしれないのに。 光の河から呼びかけた声に応え、自分を受けとめてくれたのは、間違いなくあの少年だった。 彼は、命の恩人だったかもしれないのだ。 その恩人を、死なせてしまった……。 心の底から湧き上がってきた悔悟の念が、ルシェルの胸を締め付ける。 だが―― この男。 人の命を弄び、まだ残されていたであろう多くの時と可能性を奪って尚、薄ら笑いを浮かべるこの男。 この男だけは、許すわけにはいかない。 一目見たときから、不快だった。その軽薄な身振り。声。言動。素肌に直接羽織っただけの、袖のない鞣革(なめしがわ)の上着と、そこから覗く分厚い胸板。二の腕。 己の肉体を見せびらかす、自己陶酔の気(け)。 その身に野性と魔性とを共存させた美丈夫、と言えなくもない程度に整った顔立ちの持ち主ではあるが、ルシェルにとっては、不快感をもたらすものでしかなかった。 こんな男に斬られて、朽ち果てるわけにはいかない。 この男を斃(たお)さなければ、セフィナ皇女と再会することも叶わないのだ。 皇女がどこへ飛ばされてしまったのか見当も付かないが、ルシェルと同じように、帝都から遠く離れた異境の地に落ちた可能性は十分に考えられる。 一刻でも早く、皇女を見つけ出さなくてはならない。 そのためにも。 この男は―― この男だけは、斬る。 「おいおい、そんなこええ顔すんなよ。邪魔者はいなくなったんだ。もっと愉しく闘(ヤ)り合おうぜ?」 オルグは両手を広げながら、ルシェルの怒気を透かすように肩を竦めてみせた。その軽口を、縫い付けてやりたいと思う。 「それともなにか? 俺にもっと本気を出せって意思表示なのかよ。参ったなぁ……、俺もこいつも、黄泉返ったばっかで本調子じゃねえんだが――」 漆黒の大剣が、切っ尖を下にして大地に突き立てられた。 オルグの右手が、剣身に触れる。こちらを向いている手の甲に、一頭の獣と思しき刻印が浮かんでいるのをルシェルは見た。 「《荒ぶる焔狼》の力、見せてやるぜ」 魔戦士が挑発めいた笑みを浮かべた直後、刻印に燠火に似た光が奔り始めた。そこから瞬く間に噴き出した焔が、渦を巻きながら彼の手を覆い包む。 ルシェルの目には、焔の手甲が姿を現したように見えた。 その形状は、牙を剥いて獲物に喰らいつかんとする、狼の頭のようにも見える。 「ちっ……、まだ紋が安定しねえか」 オルグの舌打ちが示すように、手甲を編む焔は不安定な状態だった。時折焔が解(ほつ)れて、表面に綻びが生まれている。 「まぁ、今はこんなもんだろ。――そっちは、出さなくていいのか?」 オルグからかけられた言葉の意味が、ルシェルにはわからなかった。 「なんだ? まさか知らねえのか? 御証(みあかし)だよ、御証。剣の聖女っつったら、聖女の御証があるだろうが!」 「御証……?」 「くあーっ! 御証も知らねえでその剣を振り回してんのかよ、嬢ちゃんは! てことは、剣を手にしたばっかで、ろくに使い方もわかってねえってことだな!」 ルシェルは、なにも答えなかった。既に勘付かれてはいるが、自分から力の使い方を知らないと打ち明けたところで、無益なだけだ。 「生憎だが、なんにも知らねえからって、こっちは手加減してやるわけにはいかねえんだ。犬死にしたくねえなら、斬られる前に宿紋の顕(あらわ)し方くらいは自力で見つけて欲しいもんだな」 オルグの身体がゆらりと傾ぎ、褐色の革靴が荒地を食(は)むように進み出てきた。 「できることなら、完全な形で聖女を殺(ヤ)りたかったもんだぜ。じゃねえと、三百年溜めに溜め込んだ――」 やけにゆったりとした足取りだ。だがルシェルは、魔戦士の身体から凄絶な鬼気が立ち昇ってゆくのを感じた。 次の一歩で、来る。 「――俺の屈辱が雪(すす)げねえだろうがぁ!」 加速。 オルグが地を蹴った。その挙動を、ルシェルの眼は確かに視覚していたはずだ。だが、魔戦士の姿は消えていた。その声と、微かな火花の痕跡だけを残して。 次の瞬間には、水平に奔った白金の剣光が漆黒の大剣を捉えていた。網膜に灼きついた火花の跡に気を取られていたら、身体が真っ二つにされていただろう。このまま払い除けたかったルシェルだが、互いの得物は刃を絡み合わせたまま固着していた。……いや、耐え切れない。徐々に支えられなくなる。単純な力比べなら、こちらが圧倒的に不利だ。 「こんなもんじゃねえはずだ! ルシエラって女は、もっと強かったぜ!」 オルグの叫びには、幾分の落胆が込められているように聞こえた。ルシェルの身体が宙を舞ったのは、その一瞬後。神剣は構えたままだったが、一段と強まった敵からの圧力によって跳ね上げられていた。弄ばれる独楽のように身体を回転させるルシェルへ、 「――!?」 漆黒の剣軌。 餓えを満たすため跳躍した黒狼が、狙いを過(あやま)たずに獲物の腸(はらわた)を喰い破るかに見えた、が―― 神剣が、その牙を防いでいた。金色(こんじき)の後ろ髪を靡かせながら、美しき女剣士が宙に舞う。あえて独楽のように回ることで、斬撃の威力をいなしているのだ。獲物にありつき損ねた漆黒の狼牙が追撃を見舞い、刃火を散らすこと三度(みたび)。そのいずれもが疾風のごとき速さで繰り出された斬撃であるにも拘らず、ルシェルを捉えることは叶わなかった。 「かかったな、嬢ちゃん」 天高く舞い上がったルシェルを見上げ、オルグが破顔した。 なぜ、嗤(わら)う? 脳裡に疑問を転がしたそのとき、ルシェルは、剣の撃ち合いで生じた火花が自分を取り囲んでいることに気付いた。 これは……? 「――弾(ハジ)けろッ!」 号令のような一声とともに、焔狼の手甲が緋く輝いた。 急激に膨張した無数の火花が、爆発する。 「あぁっ!?」 ルシェルの身体は爆圧に揉まれ、弾き飛ばされていた。直撃こそ免れたものの、手足を隈(くま)なく襲う烈しい痺れが、彼女の動きを奪っている。 なにが起きたのかわからない。 オルグの命令によって、宙にあったすべての火花が爆発を始めたとしか、思えなかった。 「わりぃけど、終わりにするぜ! 《ナッシュ・ヴァイエ》が、どうしても昔の恨みを晴らしたがってるもんでな!」 漆黒の大剣――ナッシュ・ヴァイエが振り上げられた。焔狼の手甲から伸び上がった焔が、螺旋を描きながら剣身へ纏わり付く。 「おおおおおっ!」 まさに黒狼さながらの咆哮を上げた魔戦士が、突進を始める。ルシェルは、ようやく宙で身を翻し、体勢を立て直そうとしていた。 「遅ぇよ!」 魔戦士が指を弾く。その指先から、極小の光弾が射出された。尾を引きながら真っ直ぐに伸びてきた光の弾丸を、神剣で払った瞬間―― 爆発した。 「くぅっ!?」 身体が、その衝撃に翻弄されるまま再び虚空を舞う。 ……そうだ。あの少年が言っていた。 この魔戦士には、指を弾いただけで御神火台を吹き飛ばす力がある、と。 今の光弾が、それだったのか。 そのくらいならなんとかしてみる、と言い切った自分の浅はかさが悔やまれる。 「この程度が嬢ちゃんの限界か!」 魔戦士の剣が、迫っていた。横薙ぎの一閃。咄嗟に剣を合わせていたが、踏ん張るべき足は地についていない。そのまま、殴り飛ばされていた。地表すれすれを滑空した彼女の背を、大地が蹴り上げる。 「く――あっ!?」 再び背中から落下したところで制止したルシェルだが、すぐに起き上がることはできなかった。背中を突き上げた衝撃が、まだ全身を支配している。苦鳴を噛み殺しながら上体を起こしたところで、再び眼前に迫る魔戦士の姿が見えた。 「クソ忌々しい聖女の血脈も、これで終(しま)いにしてやらぁ!」 その叫び声に含まれた、勝者の傲り。ルシェルは――、まだ膝を立てることすらできない体勢のままだ。 ……身体が、もう、動かない―― 本当に、途絶えてしまう。 命が。未来が。斎女の血脈が―― やはり三女神たちは、私のことを見放してしまった……? ルシェルの思惟が絶望を紡いだ直後。 風を、感じた。 温かく、しなやかな風。 それでいて――力強い。 「うおぉっ!?」 風に巻き込まれた魔戦士の身体が吹き飛ばされる。その風はルシェルにも吹きつけていたが、温かく、柔らかいそよ風が、頬を優しく撫でていっただけだ。 救われた、と思う。 でも、この風は、いったいどこから? 驚くルシェルの眼前に、淡い紅紫色の花片(はなびら)が舞い落ちる。 花片? これは、桜の花片ではないかと思う。 桜は、東方からの交易によってやってきた樹木に咲く花だ。ヴェルハイム城の中庭にも数本の桜が植樹され、毎年春になると艶(あで)やかに咲き誇る姿を見せてくれる。満開を迎えてからすぐに散ってしまう儚さも併せもった花だが、セフィナ皇女が、大好きな花だ。もちろん、ルシェル自身も―― 「あれは……!?」 そのとき彼女の瞳は、西の小高い山の上に静止していた妖婆の身体が、烈しい光によって左右に切り開かれていくのを目撃していた。 |