戻ってきた。 急峻な山肌に密生した木々の影が、眼下に拡がっている。 その光景を認めたアストは、たぶん、ここが女山の頂上であるらしいと見当をつけた。 戻ってきたのだ。 しかし、空の上だった。 「あーっ!?」 アストは宙で手足をばたつかせていたが、そんなことをしても人間が空を飛べるわけがない。 斜面に、落ちた。無様に転がる。 『しかと両の足で立ちなされ』 アヤノに襟首を掴まれて、引き起こされた。彼女の身体は重力の影響を全く受けないのか、宙に浮いたままだ。 『アストどの。すまぬがしばしの間、《糸》を張らせて頂けぬか?』 「《糸》?」 尋ね返したときには、アヤノが素早く右手を振っていた。その五指から透明な糸が放たれ、アストの手足と胴に巻きつく。 「なんだよこれ?」 『説明は後回しでござるよ』 そのまま走り出した。大きく半円を描くように、斜面を駆け上がる。 「わわっ!?」 すごい速さだ。 しかし、自分の意思で走っているという感覚が、ない。 「まさかこの糸……、おれを操り人形にしてんの!?」 『左様』 「左様――じゃないよ! これ、取れないのかよ!?」 アストは手足に巻きついた糸を払い除けたかったが、アヤノに身体の支配権を完全に奪われているようで、指一本たりとも満足に動かすことができなかった。 『どうしても外せと申されるのでござれば、外すことも吝(やぶさ)かではござらぬが……。アストどの、剣の心得は?』 「ないよ、そんなのは」 『しからば、拙者が手取り足取りに教えて進(しん)ぜるしかござるまい』 アヤノが、したり、とばかりに微笑する。 「ござるまいって、言われてもさぁ……!」 少年らしい反抗心で口答えはしつつも、ここはアヤノに任せた方がいいのだろうという気はしていた。刀だけを持たされたところで、戦士様や妖婆のような化け物を相手にどうやって戦うべきなのか、全くわからないのだ。 『あれが妖婆とやらでござるか』 「え?」 顔を上げると、山頂に妖婆の巨体があった。切り裂かれた上半身を、界瘴で繋ぎ合わせようとしている。 「なんで、おばばが、あんなことになってるんだ……?」 『なにを寝惚けたことを。アストどのが斬ったのでござろう』 「おれが……!?」 アストにそんなことをした覚えはなかった。 あれがアストによって開かれた傷口なのだとすると、隠り世と妖婆の体内は、繋がっていたということなのだろうか。 二つに断ち割られた頭の両方から、唸り声が響いてきた。聞く者の身の毛を弥立(よだ)たせ、臓腑を震わせるほどの、重く、低い、恐ろしい声。 『この怨念、生半(なまなか)なものではござらぬな』 「ど、どうするんだよ!?」 『心配ご無用にござる。肩慣らしには手ごろな相手でござるよ』 「肩慣らしって!? あれと、戦うのか!?」 『たかが化け物の一つ。だから、手ごろなのでござろう』 怖気づくアストをよそに、アヤノがこともなげに言い放つ。 「あんなにでかいんだぞ!?」 『刀を執るからには覚悟を決めなされ。喚いてばかりの男(おのこ)は、見苦しいものでござるよ』 「見苦しいって、言われても……」 アストは、刀――サクラメに視線を落とした。覚悟なんて大層なものが、自分にあるのだろうかと思う。 『呆けている暇はござらぬぞ!』 アヤノが叫んだ直後、視界が暗くなった。妖婆の手だ。アストをひねり潰そうと、頭上に迫っていた。 「うわぁっ!?」 斜面を転がった。その勢いのまま立ち上がり、また駆け出す。 妖婆の上半身は、既に界瘴による縫合を終えていた。だが、乱雑に繋ぎ合わせただけの身体は、左右の食い違いが顕著になっている。 また、その腕が突き出された。 『ひょい、と』 アヤノの声につられるように、アストの身体が巨大な腕を軽々と跳び越える――が、跳び越えたはずの腕が突然液状になり、四囲に拡がった。 「腕が、界瘴になった……!?」 失念していた。あの腕は、元々が界瘴なのだ。 空中へと伸び上がった界瘴が、虫一匹はおろか、砂の一粒も漏らさぬように隙間を埋めながら二人へ襲いかかる。 「また呑まれるのか!?」 『そうはさせぬよ!』 アヤノが、操り糸を張っていない方の手を振った。その手から、瞬く間に乳白色の薄絹が拡げられる。羽衣だ。羽衣に触れた途端、界瘴は弾かれるように飛び散った。 『虚ろに根ざした力でござれば、現在(いま)の拙者でも掃(はら)える!』 羽衣を左手にしたアヤノが、宙で身を翻すように舞ったのは、只一度。それだけで、二人を呑みこもうとしていた界瘴が、すべて掃われてしまった。 地に、降り立つ。 「た、助かった……!?」 『争闘がすべて終わるその時まで、安心と油断は禁物でござるぞ』 「そんなのわかってるよ!」 アヤノに窘(たしな)められた次の瞬間、半分に欠けた妖婆の口に、暗闇が凝縮されてゆくのが見えた。 『来るか――』 アヤノが呟いた直後、妖婆の口から界瘴の奔流が吐き出された。 『勝機!』 アストの身体が、妖婆に向って真っ直ぐ跳躍する。 「中に突っ込む気かよ!?」 『心配ござらぬ!』 アヤノが左手を振ると、宙に拡がった羽衣が、足下を流れていく界瘴に被せられた。アストの身体がその上に着地する。驚く間もなく、羽衣が生み出した斜面を駆け上がっていた。 「す、すごいけど、どうなってんだよ!?」 『今は口より手足を動かす時でござろう!』 妖婆の頭が、あっという間に近づいてきた。半分に欠けた面が、目の前にある。 アストの腕が、サクラメを上段に振り上げた。 「なんだなんだ!? おれはなにをしようとしているんだ!?」 跳ぶ。 妖婆の頭が、真下にあった。 『今でござるぞ、アストどの!』 「今……!?」 刀を振り上げるアストの手に、アヤノの手が重なった、その瞬間。 サクラメに烈しい霊光が宿り、刀身に浮かぶ刃文が白熱を始めた。隠り世を切り開いたときと同じか、それ以上の凄まじい剣気が刀に集束してゆく。 妖婆の面を睨むアヤノの黒瞳が、峻厳な光を帯びて瞬いた。 『おぬしのその怨念――、この一刀にて、《斬却(ざんきゃく)》致す!』 その刀自身である少女が叫び、そして、白刃が閃いた。 奔り抜ける、一筋の光。 妖婆の、面が。身体が。怨みが。哀しみが。 歪(ゆが)み、撓(たわ)み、渦を巻きながら、断末魔の絶鳴とともに光へ吸い込まれ、消失していった。 山中に残ったのは、静寂のみ。 すべて、消えたのだ。 かつて妖婆であった存在(もの)は、その痕跡を塵一つ残すことなく、サクラメが生み出した刃光の中へと去っていった。 「おばばは、どうなったんだ?」 『《斬却》致した』 宙で一回転したアヤノが、アストの目の前に降り立った。 「《斬却》?」 『左様。斬却致したからには、もはや、この世のものではござらぬ』 「あの世に行ったってことか」 『いや、拙者の言い方が悪かったようでござるな。妖婆とやらは、もはやどこにもござらぬよ』 「どういうことだよ」 アヤノに言い直してもらったところで、アストには意味が捉えにくかった。 『根を、断ったのでござる』 「根?」 『根とは、存在の根にござる。これを断ち切らば、そのものの存在は消える。つまり、なんにも無いのと、同じことでござるな』 「なんにも無くなったから、どこにもいないのか?」 『左様。その存在(もの)がなんであれ、あの世に逝く霊も魂(こん)も残さずに根ごと断ち切るのが、斬却にござる』 その説明を鵜呑みにするなら、なんだかとても恐ろしいことをしてしまったのではないか、という気分になる。 それにしても、こんな童女みたいな形(なり)をしたアヤノが、ここまで強い力を持った存在だったとは想像できなかった。さっきだって、彼女は軽く羽衣を靡(なび)かせただけで、界瘴を全部掃い除けてしまったのである。サクラメという刀は妖婆を丸々消滅させてしまうし、もはや、切れ味が凄い、という次元の話ではない。 「よくわかんないんだけど、それで戦士様をやっつけることはできるのか?」 多分に期待の篭った問いかけをしてみると、アヤノは微かにかぶりを振った。 『先ほどの《斬却》は、あやつが虚ろに根ざした存在であるがゆえに為せたことでござるよ』 「その虚ろ≠チて言うのはなんなんだ? 存在がまやかしみたいなものだってことか?」 『平たく申せば左様にござるな。拙者自身もまやかしのような身でござるがゆえ、虚ろの存在(もの)を相手にする際は、力を存分に出せるのでござる』 「お化けをやっつけることはできても、生きてるものはやっつけられないってことか?」 『その通りにござる』 アヤノが躊躇いなく肯くのを見て、アストは大いに落胆した。 『気落ちさせてすまぬが、実体を持つものに触れるためには、拙者も実体を持たねばならぬのでござるよ』 「でも、おれには触れるじゃないか?」 『それは、拙者とアストどのを繋ぐ縁が、実(まこと)のものゆえでござるよ』 「……? さっぱりわかんないんだけど」 『今は理解せずとも問題ござらぬ。――さて、ここでのんびりと休んでいる暇はござらぬぞ』 「うわっ!?」 アヤノに言葉をかけられたときには、麓へ向って走り出していた。手足はまだ動いていたが、疲労は確実に溜まっているし、息も上がってきている。アヤノに操られることで強制的に能力の限界を超えた運動が可能になっているだけで、無尽蔵の体力を得たわけではないのだ。 斜面を駆け下りる一歩ごとに、身体が軋む。 これ以上無理を強いられたら、身体がばらばらになってしまうのではないかと思った。 「あ、アヤノさん……! ちょっと待ってよ! 息が――」 『待たぬ!』 「い、息が続かなくなったら、人間は死んじゃうだろう!?」 アストに主導権などなかった。いくら疲れてきても、鞭を打たれた馬のように走り続けるしかないのだ。しかし、鞭を打ち続ければ、馬だっていつかは潰れてしまう。 休ませろとは言わないが、せめて少しの間は歩きに切り替えてくれたっていいのに……。 『男(おのこ)たるものが、これしきのことで音を上げるとは情けなや! 異国の娘子に受けた恩を、このまま返せずとも構わぬのでござるか!』 「返すよ! 絶対に、返す!」 アヤノに発破をかけられたおかげで、さっきまで歩かせて欲しいと思っていた自分が、急に恥ずかしくなった。 「うおおおおおっ!」 アストは叫んだ。その叫び声に意味はないが、意思はある。 今は、一秒でも早く、あの子のもとへ。 魔戦士の相手をすることでアストを逃がしてくれた、異国の少女のもとへ―― 身体中の血液が沸騰して、心臓が爆発するようなことになったとしても、構わない。 今度は、自分が彼女を助ける番なのだ―― 既に頭の中は真っ白になりつつあったが、アストは歯を食いしばって走り続けた。 † 「なんだ、ありゃぁ?」 魔戦士は、茫然としていた。その視線は、西の小高い山の頂(いただき)付近に、釘付けとなっている。 今なら、隙だらけだ。だが、ルシェルの身体はいまだ烈しい痛苦に蝕まれており、すぐに動き出して斬りかかることはできなかった。 息も、乱れたままだ。 西の小高い山で展開された、妖婆と何者かによる戦いを肉眼で見ることはできなかったものの、そこから放たれる争闘の気配は感じていた。 始まってから決着まで、それほど時はかからなかったように思う。どのような攻防が繰り広げられたのかはわからないが、結果として、妖婆が消滅したようだ。 とても大きな力が……、それも、ルシェルが持つ神剣に匹敵するような巨大な力が現れて、妖婆を葬り去ったのだと思えた。 その巨大な力を持った気配は今、こちらへ一直線に向っている。 何者かは知らないが、自分の敵とならないことを願うばかりだ。 でも、この力の感じは、知っているような気がした。 今も、ルシェルを護るように渦巻いている旋風(つむじかぜ)。 西の山頂から吹き付けてきた一陣の風が魔戦士を吹き飛ばし、ルシェルを包護してくれたのだ。防壁としての力は引き続き保たれているようで、オルグは迂闊に手を出してこない。 その風から、アストという少年の気配が感じられるのが、不思議だった。 もしかすると、彼はまだ生きているのかもしれない。 そう考えると、この風を起こしたのも、妖婆を葬り去ったのも、あの少年なのではないかという気がしてきた。 でも、それは都合がよすぎる想像だとも思う。 あの少年に生きていて欲しい、と願うことで、あの少年を死なせてしまった、という心の痛みを、ごまかそうとしているだけなのかもしれない。 第一、あの少年が生きていたとして、これほどの大きな力を、彼はどうやって―― 「どうやら、嬢ちゃんを助けにきたみたいだぜ」 オルグは振り向かずに、声だけをルシェルに投げかけてきた。彼には、山から駆け下りてくる何者かの姿が見えているのだろう。 「あのガキ……」 苦々しげに呟かれたその言葉を耳にした瞬間、心臓の鼓動が高鳴った。 やはり、この気配は―― そのとき、彼女は見た。 闇の彼方から疾走してくる、一人の少年の姿を。 |