少女の身体は、まだ結界としての力を維持している旋風(つむじかぜ)に護られていた。 『これはもう、お役御免でござるな』 アヤノが結界に手を触れると、風が嘘のように静まり返った。どこから現れたのか、目の前を桜の花片が舞い落ちてゆく。 『アストどの、なにを縮こまっておるのでござるか。娘子と言葉一つ交わすのにも気後れしているようでは、この先が思いやられるでござるよ』 くるりと振り返ったアヤノが、アストに会話を促してきた。 ――うるさいなぁ! さっきはちゃんと喋(しゃべ)ったんだよ! アヤノに直接怒鳴り返してしまうと、一人で怒っている変な人に見られてしまう心配があったので、心の中で怒鳴ることにした。 まぁ、それはいいとして、あまりよく知らない女の子に改めて声をかけるというのも、なかなか勇気がいることだ。 ――マナミとか、サーシャに声をかけるのとは、ずいぶん勝手が違うもんな。 そういう余計なことばかり考えている間に、 「あの……」 少女の方から声をかけられてしまった。 「あ――!? なに?」 「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」 謝辞を口にした少女が、たおやかな物腰で一礼する。 そのさりげない仕種ひとつにも漂う品の良さを感じて、アストはまた気後れしそうになってしまった。 お行儀の良い振る舞いができるということは、子供にしっかりした教育を施すような、立派な家で育てられたということなのだろう。 アストの家では、悪さを働いたときには擂り鉢で殴られるというのが、唯一の教育だった。……いや、マナミは殴られなくてもまともに育ったのだから、自分だけがどこかでなにかを間違ってしまったんだろうか。 「お礼なんていいよ。最初に助けてもらったのはおれの方なのに、あの時は、なにも言わずに逃げ出しちゃって、すまなかったよ」 「でも、あなたは戻ってきて、私を助けてくださいました」 「ああ……、でも、それができたのは、ほとんどおれの力じゃないんだ」 『それは口にせずともよいことでござるよ』 アストの受け答えが歯がゆくて見ていられなくなったのか、アヤノが肘でつついてきた。 「そちらの方は?」 少女がアストの隣に瞳を向けたので、 「え?」 『お?』 アストとアヤノは顔を見合わせた。 「君には、アヤノさんが視えるのか?」 「アヤノさん……?」 「おれの隣にいるちっこい人が、視えるんだろ?」 「はい」 アストの問いに、少女はしっかりと肯いた。 『ふむ。神宿りの武具を扱う女子(おなご)でござれば、《眼》が開かれていたとしても、不思議はござらぬか』 「今、小難しい顔してなんか言ってるんだけど、聞こえる?」 「聞こえます。《眼》が、どうとか……」 確かに、聞こえているようだ。 「じゃあ、本当に視えたり聞こえたりしてるんだ! 空にある《環》が視える子だから、アヤノさんのことが視えても不思議じゃないのかな?」 『アストどのと同じく、幽(かそけ)し存在(もの)を捉える眼が、既に開かれているのでござろう』 「おれも、そうなのか?」 『視えている、ということは、開いている、ということでござるよ』 「それなら、どうしておれの眼は開かれてるんだ?」 村の皆は視えないというのに、どうして自分にだけ上空の《環》が視えてしまうのか、昔から不思議に思っていたことだった。 『さぁ。こればかりは天性に因(よ)るところが大きいものでござるからな。なぜアストどのの眼が開かれているのかは、拙者にもわかり申さぬ』 「そっか……」 アヤノにわからないと言われたら、そこで話が終わってしまう。しかし、ここでわからないことに拘り続けていても仕方ないので、アストは少女に向き直って話を続けた。 「でも、視えてるなら話が早いかな。このアヤノさんに力を貸してもらったおかげで、おれはここに戻ってこれたんだ。そうじゃなかったら、妖怪おばばに取り込まれたところで死んでたよ」 『いや、拙者だけではなにもできぬよ。今は一振りの刀に過ぎぬ拙者が現世(うつしよ)で事を為すには、アストどのの力が必要なのでござる』 「いや、でもアヤノさんが――」 『いやしかし――』 「いや、でも――!」 『いやいや――!』 しばらくそんなやり取りを繰り返していたら、様子を見守っていた少女がくすりと笑った。 「わかりました。アスト様とアヤノ様が力を合わせて助けてくださったのですね。では、改めてお二人に感謝いたします」 「あ、いや」 彼女が深く頭を下げたところで、アヤノとの言い合いはやめることにした。 「あれ? どうしておれの名前を知ってるの?」 「あの戦士が現れる直前に、アスト様に名乗って頂いたのを憶えていました」 「そうだっけ?」 「はい」 「言われてみると、そうだったような気もするな」 少女に言われてから、話の途中でオルグに横槍を入れられたことを思い出した。 「確か、君に名前を訊こうとしてたと思うんだけど、今、訊いてもいいかな?」 「はい……、私は、ルシェルと申します」 少女は、アストの言葉を拒絶せずに自らの名を明かしてくれた。 「ルシェルさん――って、言うの?」 「はい」 肯き返した少女の姿を眺めながら、確かに、この子の雰囲気に合った、好い響きの名前かもしれないと思う。 ――ルシェルさん、かぁ。 ようやく彼女の名前を知ることができて、アストはつい嬉しくなってしまった。 『アストどの、鼻の下がだらしなく伸びているでござるよ』 「え!? まずいな……!」 アヤノに指摘され、慌ててマジメな顔を作り直す。 しかし、これはうっかりしていたと思う。 ――可愛い子が目の前にいるからって、にやにやばかりしてたら、あっという間に嫌われちゃうぞ……。 美人は顔をじろじろと見られるのを嫌がる、と聞いた憶えがあるし、あまり変なことは意識しないようにしよう。 じっくりと自分の心に言い聞かせてから、ルシェルと顔を向き合わせた。 処女雪のごとき、白いかんばせ。空色の瞳。珠のような肌。仄かに紅く染まった頬。薄桃色の唇。夜空の流れ星をすべて集めたかのような、金縷(きんる)の美髪―― 見て、しまう。 これはいけないと思って視線を下げると、豊かな胸元に行き着いてしまい、慌てて視線を上げ直す羽目になる。そうするとまた目と目が合ってしまい、同じことの繰り返しになってしまうのだ。 ――目のやり場に困るって、こういうのを言うのかな……。 『アストどのは、さっきからなにを遊んでいるのでござるか』 アヤノが呆れたようにため息をつく。 「遊んでないって!」 不思議そうにこちらを見ているルシェルの視線が、辛かった。 『まぁ、他(あだ)し事はさておき――』 「なんだよ?」 『村人たちは、どこへ行ったのでござるか?』 「え?」 アヤノに言われてから、いつまでものぼせている場合ではなかったことに気付いた。 妹や、友人たちの安否が気になる。 「そうだった! みんな、どこに行ったんだ!?」 村の方に目を向けてみたが、手前の林が邪魔になってよく見えなかった。男山には、界瘴に備えて退避壕が掘ってあるので、皆そこへ避難しているのかもしれない。 「あれは?」 ふと、ルシェルが声を上げたので、彼女の方へ向き直った。 「どうしたの?」 「あちらの山の頂上に、焚き火の灯りのようなものが見えるのですが……」 ルシェルが指し示したのは、男山の裏にある、名もない禿山の方角だ。アストやオレスたちが、畑から失敬した焼き芋を焼こうとして丸焼きになってしまった、あの山である。 その山頂に、一つの火影がちらついているように見えた。 『確かに、あすこで火を焚いているようでござるな。急に冷えてきたので、火の周りに集まって暖を取っているのでござろう』 「本当か? あんな遠くにいる人たちが見えるのかよ?」 どれだけ目を凝らしてみても、アストには山頂の焚き火がぽつんと見えるだけだった。アヤノには、千里眼の力でもあるのだろうかと思う。 『うむ。今、火の近くにいるのは、アストどののような野郎(やろ)っこが二人に、女子(おなご)が二人でござるな。片方の女子は、赤子をあやしているようでござる』 「それ、たぶんおれの妹と友達だ!」 ピンときた。 『おお? 左様でござったか。皆、悄気(しょげ)込んで下を向いているのでござるが、無事であることには相違ござらぬ』 「じゃあ、早く行こう!」 居ても立ってもいられず、走り出していた。 「私も、ご一緒してよろしいですか?」 「あ――!?」 背中から呼びかけられた声に振り返った。慌てて駆け戻る。 「気が利かなくてごめん! ルシェルさんも一緒に来る?」 「はい」 彼女が心做(な)しかの笑顔とともに肯いてくれたのが、アストには嬉しかった。 『アストどのは、一つのことに夢中になると、他はなにも見えなくなってしまうのでござるな』 「アヤノさんはいちいちうるさいなぁ! それはおれが若いからだよ!」 『ふふ。確かに、それが若さでござるな』 アヤノに冷やかされてむっとしたものの、ルシェルが優しげに微笑しながらそのやりとりを見守っていたので、頭を掻いてごまかすことにした。 |