【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第二十六話 目醒め

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 すべてが、光の中に溶けていた。
 五体を包む、柔らかで、温かな気配。そして浮遊感。
 ルシェルは、どこか懐かしさすら感じる温かさの中に揺蕩(たゆた)っている自分を知覚した。
 此処(ここ)は、何処(どこ)なのだろう。
 左腕が、熱い。
 そこに填められた白金の腕輪を意識したそのとき、思い出した。
 ルシェルを包む柔らかな光が、紅に染まる。
 身体を叩く強い風とともに眼下に現れたのは――
 ヴェルハイム城。
 天を焦がさんばかりの猛火に包まれた白亜の城郭が、赤光に染まる街並みの中に焙り出されている。
 ルシェルは、自分の身体が帝都の上空に浮遊していることに気付いた。
 ――ああ……!?
 ここから届くわけがない。間に合うわけがない。
 それでも、ルシェルは手を伸ばさずにいられなかった。
 ヴェルハイム城が、灼け落ちる。
 このロンダニア大陸で最強を誇ったヴェルトリア帝国の象徴が今、紅蓮の焔の中に消えようとしているのだ。
 建国来三百年に及ぶ歴史の中で、どの敵対国家も成し得なかった落城が、たった一夜にして……。

家々は壊され、人びとは屠られ、
皆、火と剣に捧ぐ贄(にえ)とされた。
あらゆる富がひと時に奪われ、
父祖の代より積み重ねし繁栄は、血と灰に変わる。
見よ、我らの大いなる都が、劫火の中へと灼け落ちていく。
その偉容、その栄華、もはや跡形もなく、ただ潰えるのみ。

ああ、堪えがたき悲愴なり――


 頭の中に、昔読んだことがある詩の断片が浮かび上がってくる。
 それが、《流亡悲歌》という名の唄であることに気付いたルシェルは、勝手に詩の続きを紡ごうとする自分に、「やめて!」と叫びたくなった。
《流亡悲歌》とは、この地で繁栄したベイル族の王国が滅亡してゆく光景を綴った、長大な詩篇である。詠者はベイルの名もなき吟遊詩人とされているが、彼らが異民族の侵略によって放逐され、流亡(るぼう)の民へとなり果てたのは、ヴェルトリアの建国と無関係なことではない。
 ベイルの民を滅ぼした侵略者というのが、ヴェルトリアの民に他ならないのだから。
 なんと皮肉なことだろう。
 時は経てど、処(ところ)同じくして、今度はヴェルトリア人が彼らと同じ辛苦を味わおうとしている。ルシェルには、そう思えてならなかった。
 ――ヴェルトリアが、亡(ほろ)びを迎えようとしている……?
 ――私に、斎女(いつきめ)としての力が足りなかったから……?
 どこからともなく響いてきた魔女の哄笑が、「そうだ」と告げる。
 その直後、上方から降り注いだ暗黒の飛瀑(ひばく)が《斎女の塔》を呑み込んでゆく光景が見えた。塔と城郭を丸々胃袋に収めても、まだ満腹には足りぬらしい《界瘴》が、さらに大口を広げて城下の家々に踊りかかる。突如としてやってきた災厄から免れようと逃げ惑い、泣き喚く人びとの声がルシェルの耳朶を打ち、心を引き裂く。
 ――やめて! その人たちを呑まないで!
 彼女がいくら叫んでみたところで、界瘴の黒波がその言葉に耳を貸すはずもなく、無慈悲に、無分別に、人びとの命を呑み込んでゆく。
 ……そうだ。
 自分は、なにひとつ、護れなかったのだ。
 城や、街や、そこに暮らす人びとの命を、護れなかった。
 しかも、斎女としての使命を全うできなかっただけではない。
 命に換えてでも護り抜くと誓った、大事な主君でさえも、今は離れ離れになってしまったのだ。
 なにがあっても放さぬように、しっかりと、手をつないでおけばよかった……。
 すべて――
「私の、せいだ……」
 界瘴に蝕まれてゆく帝都が涙の向こうに滲んでいき、城も、斎女の塔も、見えなくなった。目の前が、真っ暗になる。
 自分はなにをしていたのだろう、という烈しい悔悟が胸裡に湧き上がった。
 剣の間で神剣を手にして、それで斎女としての役目を、すべて果たしたつもりになっていたのではないだろうか?
 ……私は、愚か者だ。
 私は、なにも果たしていない。
 私は、斎女になどなれない、出来損ないの娘だったのだ。
「お母さまや、お婆さまに、なんて謝ればいいの……?」
 こんな自分が、決して許されることはないだろうと思えた。
「私なんか、このまま消えてしまえばいいのに……」
 唇から呪詛にも似た自己嫌悪の念が零れ落ちた、そのとき、
『ルシェル――』
 名前を、呼ばれた。
『顔を、上げなさい』
 その声に、聞き覚えはない。でも、とても懐かしく感じる声だ。
 声に言われたとおり顔を上げると、温かい感触が、頬を伝い落ちる涙を拭ってくれた。……しかし、拭ってくれた何者かの姿は見えない。
『まだ、すべてが終わったわけではないのです。泣くのをやめて、あなたの在るべき時と空のもとへ還りなさい』
 その声は、ルシェルを包み込むような慈愛に満ちていたが、同時に突き放すような厳しさをも併せ持っていた。
『ここで安らぎを求めることは許されません。あなたには、斎女として果たすべき宿命(さだめ)があるのですから』
 ルシェルはその言葉を受け容れることができず、首を左右に振った。また、宿命(さだめ)だ。その言葉を聞いただけで、祖母にお小言をもらっているみたいな気分になってしまう。
「……でも、私には、斎女としての宿命(さだめ)を果たすなんて、とても――」
『できないとは言わせません。あなたが神剣と交わした誓文(せいもん)は、弱音一つで反故にできるほど、軽々しいものではないのです』
「そんな……」
 ルシェルの脳裡に、誓文の一節が想起される。
我、ここに誓う。御心に仇為す者どもを討滅せるその時まで、剣とともに戦い続けんことを
 確かに、自分はそのように誓った。
「それなら、私はどうすれば……」
『あなたを呼ぶ命。その声に、耳を澄ませなさい』
 ルシェルが問い、声が答えた。
「私を呼ぶ、命?」
 呟くと同時に周囲が明るくなった気がした。遥か下方に、高速で流れてゆく荒地が見える。
『あれを御覧なさい』
 声が示した先。地平の彼方に、巨大な塔が見えた。その塔を取り巻くように、清淡な光の柱が立ち昇っている。
 白い、大きな塔だ。斎女の塔に、どことなく似ていると思った。
 塔の頂上に、ひと際烈しい光が瞬いている。
 その光を強く意識すると、塔の頂上が望遠鏡で覗いたように拡大されて、目の前に迫ってきた。
 そこに、何者かが立っている。
 天を見上げる、ひとりの少年。
『剣の娘よ、お往(ゆ)きなさい。惹かれあう二つの命が、あなたを地上へ送り届けてくれるはずです』
「…………」
 ルシェルは無意識のうちに掌を胸に当てていた。心音が、ひどく高鳴っている。
 あの少年の命が、私の命を、呼んでいる?
 でも、この心臓の高鳴りは、ただ呼ばれているだけという感じはしなかった。
 私の命も、彼の命を、呼んでいる……?
 声が語った、惹かれあう二つの命≠ニいう言葉の意味を、ルシェルはそのように解釈した。
 心音が、さらに高鳴る。
 いつの間にか、白い塔の真上に来ていた。
 不安げにこちらを見上げている少年の顔が見える。
 初めて見たはずの顔なのに、ずっと前から知っている顔――
 私は、この人を、知っている――?
 どうして――?
 わからない――
 でも、私は識(し)っている。
 この人が持つ命の温もりを、私は識っている――
「手を伸ばして!」
 自分の声が聞こえるかどうかはわからないが、少年に向って精一杯叫んでみた。
「おれに、話しかけているのか……?」
 声をかけられた少年が、驚いて慌てふためいている様子が見えた。
 お願いだから、逃げないで。
 あなたが、私を呼んでいるというのなら――
「私を、受けとめて……!」
 祈るような気持ちで叫んだ。少年の姿が、ルシェルの視界一杯に広がる。
 それから、なにもかもが、真っ白になって――

 目が、醒めた。
 暗くて、なにも見えない。自分の身体が、寝台の上に寝かされているということは、わかった。
 塔の上ではなく、どこかの家にある一室のようだ。
 いま、部屋には、自分以外の人がいる気配はない。それが、とても不安なことだと感じられた。
 アストという少年と一緒に、生き残った村人たちを捜しに行ったことまでは憶えている。それから、彼の妹や友人たちを見つけたところで、急に烈しい眩暈(めまい)に襲われて――
 気を、失ってしまったのだ。
 だとしたら、自分は、彼らの手でここまで運ばれてきたのかもしれない。
「セフィナ様は……?」
 うわ言のようにその名を呟くと、こんなところで寝ている場合ではないことに気付いた。
 寝台から飛び降りる――つもりだったが、まだ手足が鉛のように重く、床に膝を突いてしまう。
 こんなことでは、セフィナ皇女を捜しにいくことなど、できない……。
「なんだ今の音!?」
 どたどたと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。橙色をした、仄明るい蝋燭(ろうそく)の光がこちらに近づいてくる。扉は開け放されたままになっていたようで、アストが駆け込んでくる姿がよく見えた。
「ルシェルさん!? 起きてたのか?」
 持ってきた角灯を小さな机の上に置き、逆の手に提げていた刀の鞘を床に投げ出したアストは、うずくまったまま身体を起こせずにいたルシェルに手を貸してくれた。
「え、ええ……」
 頭が重く感じるが、なんとか肯くことはできた。
 彼の顔を見て、なぜか安堵している自分に気付く。
 でも、どこで見た顔なのかは、やはり思い出すことができなかった。
「また変なのが襲ってきたんじゃないかと心配しちゃったよ」
「お騒がせしてしまって、申し訳ございません……」
「いや、別に謝る必要はないんだけどさ。まだ具合悪いなら、無理に動かないほうがいいよ」
「お気遣いはありがたいのですが――」
「おにいちゃん! 女の人が寝てるとこにいきなり飛び込んじゃダメだよ!」
 彼の妹らしき少女も部屋に入ってきた。
「うるさいな。マナミはあっち行ってろよ」
「おにいちゃんの方が役に立たないんだから出てってよ!」
 一瞬だけ兄を睨みつけたマナミの瞳が、こちらに向けられた。
「あ! まだ無理しちゃダメですよ! 具合がよくなるまで、もう少し横になっててください!」
 グラードの言葉は片言程度にしかわからないが、アストもマナミも、ヴェルトリア語をある程度以上に使いこなせるようだったので、少し安心した。
「私は、もう平気です」
 ルシェルは立ち上がろうとしたが、浮かしかけた腰が沈み、また床に膝を突いてしまう。
「ああ!? 無理をなさらないでください!」
 結局マナミに押し切られて、またベッドの上に寝かされてしまった。
 しかし、動こうにも動けないのだから、少しの間だけ、彼らの好意に甘えてここで休ませてもらうしかなさそうだ。
「申し訳ございません……。少しだけ休んで動けるようになったら、すぐに出て行きますから」
「そんなこと言わずにゆっくり休んでください。私の部屋、ちょっと散らかってて、落ち着かないかもしれないですけど」
 マナミが恥ずかしそうに室内を見回す。
 角灯から漏れる蝋燭の光だけでは部屋全体を照らすことはできないが、脱ぎ捨てられた服が床に置きっぱなしになっているわけでもないし、あまり物が散らかっているようには見えない。角灯が置かれた机の他には、壁際に小さな木製のチェストと鏡台があるくらいだ。
「ここは、あなたの部屋なのですか?」
「はい。あ……、えっと、ルシェルさん、ですよね?」
「はい」
「おにいちゃんから大体の話は聞きました。危ないところを助けていただいたそうで、ありがとうございました」
 律儀に頭を下げるマナミを見て、しっかりした妹さんだと思った。
「私こそ、アスト様に助けていただいて、感謝の言葉もございません」
「いえいえ、とんでもないです。うちのおにいちゃんはいつも悪いことばかりしているので、たまには人様のお役に立たないと罰が当たってしまいます」
 マナミのしれっとした物言いに対して、アストが不満ありげに眉をしかめた。
「……お前は、兄を立てるってことを知らないのか」
「ほんとのことでしょ」
「本当だけどさぁ」
 アストは嘆息していたが、この兄妹は仲がいいのだろうと思えたので、ルシェルには好ましく感じられた。
「まだ、夜は明けていないのですか?」
 だいぶ長い時間眠っていたはずなのに、家の中が真夜中のように暗いのが気になった。
「うん。もうそろそろ明るくなってきてもおかしくない頃なんだけど、界瘴がまだ空に残ってるみたいなんだ。このままだったら、日が昇ってもあんまり明るくならないんじゃないかなぁ」
「そうですか……」
『るせるどの』
「?」
『あいや、これは失礼。るしえるどの――でもなく、るしぇるどの、でござろうか?』
 どこからか、聞き覚えのある声が耳に流れ込んできた。アヤノという、不思議な少女の声だと思い出す。しかし、視線を周囲に廻(めぐ)らせても彼女の姿は見えない。
『んしょ――っと。ここでござるよ』
 アヤノの姿が見えてきた。
 アストの、頭の上に。
 頭頂までよじ登った彼女は、そこに端坐(たんざ)して落ち着いてしまった。
「?」 
 気のせいか、アヤノの姿がスズメくらいの大きさに縮んでいるように見えた。……いや、これは確実に気のせいではないだろう。
 彼女は、身体の大きさを自由に変えることができるのだろうか。
『万が一、あれが再び降りてきたときは拙者が掃(はら)うゆえ、ルシェルどの、は安心して養生しなされ』
 彼女にはルシェルの名前が呼びにくいらしく、その部分だけやや慎重に発音しているようだった。
『マナミどのには拙者が視えぬようなので、拙者のことは、居ない者として振舞って結構にござる』
 そのように告げたアヤノへ直接返事をすることはできなかったので、ルシェルは微かに肯いてみせた。彼女に頭の上へ乗られているのに、何事もないかのように平然としているアストの様子が、少し可笑しくもある。
「お二人は、今までずっと起きていらしたのですか?」
 その珍妙な光景を眺めていると思わず笑みが零れてしまいそうになるので、ルシェルは会話に専念することにした。
「ああ。薬種(くすだね)採りに行ったおふくろのこともあるし、一応、『おれが起きて待ってるから、お前はおふくろの部屋で寝てろ』って、マナミには言ったんだけどさ」
「ごめんなさい……。私がベッドを使ってしまったから……」
「いえ、いいんです。私もおにいちゃんと一緒にお母さんを待つことにしましたから」
「まぁ、それはこいつの勝手だから、ルシェルさんは気にしなくていいんだけど――」
「アスト!」
 突然、階下から張りのある大きな声が響いてきた。
「マナミ! どこに行った! いるなら返事くらいしろ!」
 力強い足音が、階段を上ってくる。
「あ! お母さん帰ってきた!」
 マナミが出迎えに行こうとしたときには、褐色の鞣革(なめしがわ)の上下に身を包んだ女性の姿が、扉の向こうに現れていた。後ろ髪を髪留めで束ね上げたその女性の顔立ちは若く、尖らせた眉の下に光る黒い瞳が、アストへと向けられている。固く引き結ばれた口元が、なにやら穏やかならぬ剣呑とした気配を醸(かも)し出していた。
「帰ってきたのはいいけど、なんか嫌な雰囲気……」
 アストが徐々に部屋の奥へ後ずさろうとしていたが、 
「お前たち! どうして退避壕に入っていなかったんだ!」
 女性の動きが速かった。
 部屋に入ってくるなり腕を伸ばし、アストの襟首を掴んで、力一杯に引き寄せる。
「うわっ!? ちょっとおふくろさぁ!」
「お前のようなバカ息子が界瘴に呑まれるならまだ諦めもつく! だが! マナミまで巻き添えにしたらただでは済まさないぞ!」
 女性が話しているのはグラードの言葉だったが、その身振りから、彼女がかなり激昂しているのは窺い知れた。
「く、苦しいって!」
「苦しくしているのだから、当たり前だ!」
「お母さん! おにいちゃんは本当に界瘴に呑まれて大変な目に遭ったんだから、そこまでにしてあげて!」
「なんだと? お前、本当か!」
 マナミの制止を受けた女性が、さらにアストの首を締め上げる。
「ああ本当だよ! とりあえずおれが死ぬ前に手を放せって!」
「いいだろう。私のいない間になにがあったのか、すべて話せ」
「たくよぉ……。せっかく助かった息子を自らの手で絞め殺す親がいていいのかよ」
 服の襟元を緩めながら、アストがうんざりした表情を見せる。
『御母堂(ごぼどう)が怒っているのは、アストどのことを心配しているからこそでござるよ』
 アヤノが使う言葉は全く知らない言語だったが、意味がはっきりと頭に入ってくるのが不思議だった。
「とてもそうは思えないけどな」
 アストが呟くように口答えするのが聞こえた。アストはひどく引っ張られたり締め上げられたりしたはずなのに、彼の頭の上に座るアヤノには、少しも姿勢を乱した形跡がない。
「ルシェルさん、びっくりさせてごめんなさい。こういうの、うちではよくあることなんです」
「そうなのですか……?」
 マナミの説明を聞いて尚も呆気に取られていると、この家の母親らしき女性と、目が合ってしまった。
「大声を出してすまなかった。喉は渇いていないか?」
 急に、彼女の話す言葉が流暢なヴェルトリア語に切り替わった。まるで男のように硬い言葉遣いではあるが、彼女が自分の子供たちにヴェルトリアの言葉を教えていたのだろうか。
「いえ、あまりお気遣いなく……」
「遠慮はするな。マナミ、全員分のお茶を用意してくれ」
 強引に話を進める母親の姿を見たルシェルは、この人が、本当に二人のお母さんなのだろうか、と思ってしまった。



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