【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第二十七話 夜明け前

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 マナミが、淹れ立ての茶が入った四つの湯呑みを盆に載せて戻ってきた。
「熱いから気をつけてね」
「おれ猫舌だから、ぬるい方がいいんだけどなぁ」
「じゃあ、おにいちゃんは飲まなくても結構です」
「ちょっと冷ましてから飲むよ」
 マナミからお茶を受け取ったアストは、湯飲みが熱かったので一度机の上に置いた。ルシェルが寝台から身を起こそうとしていたので、手伝う。
「ルシェルさんは、熱いの平気ですか?」
「はい、平気です」
 ルシェルは、マナミから渡された湯飲みを物珍しそうに眺めていた。
「湯飲みが珍しいの?」
「はい」
 アストが尋ねると、ルシェルはこくりと肯いた。
「東方からの交易品を見たことはあるのですが、こうして実際にお茶を飲ませていただくのは初めてです」
「そうなんだ」
「これは、なんというお茶なのですか?」
「ああ、それは、なんだっけ?」
 アストは、茶を淹れた当人であるマナミへ振り向いた。
「それは、天日(てんぴ)に干した甘茶蔓(あまちゃづる)や枇杷(びわ)の葉を煎じた薬草茶です。鎮静作用によって気分を落ち着かせるのと、疲労回復にも効果があります。少々蜂蜜を加えてあるので、甘党なうちのおにいちゃんでも飲みやすいはずです」
「……そりゃどうも」
 最後の一言は余計だったが、一応説明してくれたのでお礼を述べざるを得なかった。
『それでは、拙者も』
 頭の上で、アヤノがごそごそとなにかをしていることに気付いた。急須からお茶を注ぐような音が聞こえる。
 ――ちょっとアヤノさん? 人の頭の上で、なにをしてるのかな?
『いやなに、少々御呼ばれに預かっただけのことでござるよ』
 ――御呼ばれって、呼ばれてないだろアヤノさんは。……あ! 今、急須置いただろ! 人の頭の上に!
『左様にカリカリしなさるな。短気は損気でござるぞ』
 ――頭の上で勝手にお茶会を開かれた上に説教食らうなんて冗談じゃないぞ! だいたい茶具一式をどっから取り出したんだよ!
『それは、ひ、み、つ、にござるよ』
 その茶目っ気たっぷりな言い方に、なんとなく腹が立った。
 ――これが命の恩人じゃなかったら、頭から払い落としてるんだけどなぁ!
『ふふふ』
 なにを言ったところでアヤノはけろっとした調子で受け流してしまうので、アストは諦めることにした。
「お口に合いますか?」
 ルシェルがお茶を一口飲んだところで、マナミが感想を尋ねた。
「甘くておいしいです。身体も温まります」
「それなら安心しました」
 微笑を返したマナミを見て、
「ルシェルさんは優しいからな。ただの社交辞令かもしれないだろ?」
 少し意地悪なことを言ってみた。すると、
「あ! そんなこと言うならおにいちゃんにはあげません! それ返して!」
 マナミがお茶を取り返そうと手を伸ばしてきた。
「飲むよ! 飲むって――あちちちち!」
 アストは慌てて湯飲みに口を付けたが、やはりまだ熱かった。
「お前たちを見ていると、今が非常時だということを忘れてしまいそうになるな」
 母が嘆息していた。
「それで、私はいつまで待てばお前の話を聞くことができるんだ?」
「あ、そうだった。……なにから話せばいいんだっけ?」
「私がいない間に起こったこと、すべてだ」
「すべてって言われてもなぁ。話すと長いし色々複雑なんだけど」
「じゃあ、おにいちゃんが裏の丘に隠れて、お祭りをすっぽかそうとしたことから話したら?」
 マナミが、先ほどのお返しとばかりに余計な情報を差し込んできた。
「それは重要じゃないだろ」
「聞き捨てならないな。その件は後で聞こう」
「うっ」
 母の鋭い視線が突き刺さる。母が激怒したときに庇ってくれるマナミはありがたいが、悪さを告げ口するときのマナミは、ありがたくない。
「それとね、お母さんのいない間におにいちゃんが道具を悪戯して――」
「お前それ以上喋ったら人が頭をかち割られる瞬間を目撃することになるぞ!」
 早口で捲し立てるようにその先を制したが、遅かった。
「いくら私でも悪戯をしたぐらいで頭をかち割りはしないが……、かち割られるようなことを、お前はしたのか?」
「し、してないよ!」
「わかった。その言葉を信じてかち割りはしないが、後でそれなりの強さで殴ってやる」
「殴るのは決定なのかよ」
 しかも、それなりの強さで。
『アストどのの家では、女子衆(おなごしゅう)が強いのでござるな』
 暢気(のんき)な呟きを漏らしたアヤノが、人の頭の上でこれまた暢気にお茶を啜っていた。
 ――見りゃわかるだろ。男はおれ一人しかいないし、色々辛いんだよ。
 こういうときに、親父が生きていたら、家庭内の雰囲気も今とは違ったものになっていたんだろうか。だが、そうだったとしても、拳骨を落とすのがおふくろから親父に替わるだけで、アストの立場はほとんど変わらないような気もする。
 自分が赤子のときに戦争で死んでしまった父の記憶など無いし、どんな人だったのかは話に聞く程度しか知らなかった。薬草師の仕事はもともと父が営んでいたものらしく、その片手間で、自警団の人たちを相手に剣術師範みたいなこともやっていたようだ。
 ――おれみたいなのが生まれてこなかった方が、おふくろは幸せだったのかなぁ。
『けしてそんなことはござらぬぞ。御母堂は、アストどのがいるおかげでよほど助かっているのでござるよ』
 ――おれとおふくろの、どこをどう見たらそうなるんだよ?
『拙者から見れば一目瞭然でござるが、まぁ、アストどのにもそのうちわかるときがござろう』
 ――そうかなぁ。
 アヤノはそういう意味ありげなことを言って、アストを煙(けむ)に巻こうとしているだけなんじゃないのか、と思ってしまう。
「おい、アスト」
「え、なに?」
「私がお前の頭をかち割りたくなる前に、話を始めてくれると助かるんだがな」
「あ――」
 母の湯飲みは、既に空になっていた。
 こんなに殺気立ってるなんて、気分を落ち着かせるお茶じゃなかったのかよ……。
 母が湯飲みを盆に戻して手が空いてしまう前に、アストは祭りで起きた異変について話し始めた。

「――では、界瘴を吸い込んだ人形櫓から、《戦士様》が出てきたというのか?」
 母は訝しげに眉を顰(ひそ)めたが、アストの話を即座に否定するような言葉は口にしなかった。
「ああ。信じてもらえないかもしれないけどさ、自分が黄泉返るために、界瘴に呑み込まれた人たちの命を使ったみたいなんだ」
「それが本当に《戦士様》なら、なぜこの村に害を為すような真似をするんだ?」
「そんなの知らないよ。……で、そいつに危うく殺されかけたところを、そこのルシェルさんに助けてもらったんだよ」
 御神火台の下から巨大な塔が出現したことと、ルシェルが上空の《環》を通ってここまで飛ばされてきたらしいことについては、あえて言及するのを避けた。その二つをどのように関連付けて説明すればよいのかわからなかったし、昔から否定され続けている《環》の存在を改めて話したところで、母に理解してもらえる気がしなかったからだ。
「そうだったのか。愚息が迷惑をかけたようで、すまなかった」
 母が寝台のルシェルへ向き直って頭を下げると、彼女は恐縮したようにかぶりを振った。
「いえ、私の方こそアスト様に命を救っていただいたようなものです。おば様に頭を下げていただくのは畏れ多すぎます」
「こんなやつに『様』なんてつけなくていい。それと、私の名はリオナだ。『おば様』などと呼ばれるのは、こそばゆくてかなわない」
 アストは、いかにもうちの母親らしい反応だと思ったが、母の気性など知る由もないルシェルは困惑げな表情に変わった。
「ご不快になられたのでしたら、申し訳ございません」
「気にすることないよ。うるさいおばさんだなって、おれも思うし――あいてっ!?」
 ルシェルが気の毒になって助け舟を出したつもりだったが、母に拳骨を落とされた。殴られる直前に、アヤノが、すすっ、とよける気配がしたのが憎らしい。よける必要があるのは、実体を持たない彼女じゃなくて、アストの方なのに。
「お上品な家に来たのならそれでいいだろうが、我が家はそうじゃない。もっと普通に話すことはできないのか?」
「そのように仰(おっしゃ)られましても、あまり馴れ馴れしくお呼びするのは躊躇(ためら)われてしまいます」
「じゃあ、好きに呼んでも構わないが、こいつに『様』を付けるのだけはやめてくれ」
「わかりました。では、アスト様は、アスト『さん』とお呼びしても、よろしいですか?」
 ルシェルが申し訳なさそうにこちらの顔色を窺ってきたので、アストはすぐに肯いてみせた。呼び方を変えるのにわざわざ伺いを立ててくるなんて、ルシェルはよっぽど律儀で生真面目な人なんだろう。
「おれは別にいいんだけど、おふくろはそれ、二回も念を押すようなことかな」
『ふふふ。おもしろい御母堂ではござらぬか』
 アストが髪を掻きながらぼやくと、頭の上でアヤノが楽しそうに笑っていた。
「こいつには『さん』付けでももったいないくらいだがな。まあいい。――それで」
 母がこちらに振り返った。
「《戦士様》を自称するやつは、そのあとどうなったんだ?」
「さぁ。どっかに逃げてったみたいだけど、よくわかんない」
「そうか。それなら、村の皆にも注意を促しておく必要があるな。そいつの人相は憶えているか?」
「戦士様の像が人間になっただけだから、見ればすぐわかるよ」
「そんなに似ているのか?」
「似ているというか、それそのものだし」
 母は、今夜現れた戦士オルグが、偽者だと考えているのかもしれない。本当の戦士オルグなら、自分たちの味方をしてくれるはずだと信じているのだろう。それほど信心深くないアストだって、あの男が村の守り神である戦士様の名を名乗ったときは、耳を疑ったものだ。
「それは厄介だな」
 母は呟くと、アストの傍らに置かれていた藍色の鞘に目を留めた。
「お前、その刀はどこから持ち出してきたんだ?」
「あ、これは……、なんか、その辺に落ちてたのを拾っただけだよ」
「その辺というのは、どこのことだ」
「その辺は、その辺だよ」
 うまい言い訳が出てこなくて、そのようにしか答えられなかった。
 家に帰ってきた時点で、刀はどこかにしまっておくべきだったのかもしれない。
 また戦士オルグが現れて襲いかかってきたら不安だったので、サクラメを手近なところに置かないと安心できなかったのだ。
「それで、戦士様を名乗る男と太刀(たち)合ったのか?」
「ああ、まぁ、少しだけ……。必死だったから、よく憶えてないけど」
 アヤノに操られていたので実感はなかったが、刀を手に持って振り回していたのはアスト自身で間違いない。
「お前、なにか私に隠してるんじゃないだろうな?」
「隠してるって、なにを?」
 どきっとした。やはり、うちの母親は一筋縄ではいかない。
「いや、とりあえず今日は、お前が死ななかっただけでもよしとしてやる」
 母の眼が、アストの心を見透かしているような気がしたが、刀の件についてはそれ以上訊かれなかった。
『アストどの。正直に拙者のことを話した方がよいのではござらぬか?』
 ――それですんなり納得してもらえるならいいんだけど、おふくろやマナミに視えないものを、どう説明すればいいんだよ?
『ふむ。アストどのの力を借りれば、拙者の姿を実体と化すこともできるのでござるが、今はアストどのも疲れているようでござるし、あまり無理はせぬ方がよいかもしれぬな』
 ――アヤノさんのことは、頃合いを見て話すよ。いきなり出てきても、びっくりされるだけだろうし。
『特に必要がないのでござれば、拙者はこのままでも構わぬよ。そのあたりの判断は、アストどのにお任せ致す』
 ――わかった。
 アヤノが現状でも構わないというなら、急いで話さなければならない理由はなさそうだ。彼女が頭の上に正座してお茶を飲んでいるのさえ我慢できるなら、アストは普段どおりに振舞っていればよいのである。
 別に、お茶を飲まれるのが迷惑というほどでもないが、なんとなく落ち着かないのだ。
「さて」
 母が、寝台のルシェルへと視線を移す。
「ルシェルさん、だったな」
「はい。ルシェル・フラウベルと申します」
「見たところ良家の子女のようだが、我がラディス家というのは、ご覧のとおり大した家ではない」
「そのようなことはございません」
「まあ、それはともかくとして、うちの倅(せがれ)を救ってくれた恩人なら、大事な客人だ。豪勢なもてなしはできないが、体調が回復するまで休んでいくといい。空き部屋が一つあるから、好きに使ってくれて構わない」
 母がそのように申し出てくれたので、アストは余計な口を挟まなくて済んだと思った。後で、ルシェルを何日か家に置いてあげられないか、母へ頼み込むつもりだったのだ。
 これで一安心できると思った矢先、首を左右に振るルシェルの姿が目に入った。
「いえ、あまりご迷惑をおかけするわけには参りません。すぐに発つつもりですので、お心遣いだけで十分です」
「なにか急ぐ理由でもあるのか?」
「主君と、はぐれてしまったのです。早く見つけて差し上げなければ……」
 ルシェルの表情が物憂げに翳ったのを見たアストは、彼女が主と思(おぼ)しき人の名を口走っていたことを思い出した。確か、セフィナ、という名前だったような気がする。その名前は以前にも聞いたような憶えはあるのだが、いつどこで耳にしたのかは忘れてしまった。
 名前の響きからすると、彼女の主君は女の人なのだろう。
 やっぱり、ルシェルさんと同じような美人さんなんだろうか。ヴェルトリアの都には、美人が多いって聞いたことあるけど。
「ヴェルトリアからここまで旅をしてきたのか。わけまでは訊かないが、当てはあるのか?」
 アストが期待混じりの妄想を膨らませている間にも、母とルシェルの話は進んでいた。
「ご無事であれば、どこかの領主に保護をお求めになられているはずなのですが……」
「それなら、各地を探し回るにしても体力が必要だろう。それに、この状況では界瘴の被害がどれだけ拡がっているのかもわからない。やはり、近隣の様子がはっきりするまでは、ここで休んでいった方がいいだろう」
 ルシェルにしばらく泊まっていってほしいというアストの願望は除くとしても、母の言うことはもっともに思えた。今のルシェルの状態を見る限りだと、長旅どころか村を出る前に倒れてしまいそうだ。
「ですが――」
「ここを出てすぐ行き倒れになられても困る。この家に来たのが運の尽きだと思って、諦めてくれ」
「……わかりました。ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします」
 ルシェルは聞き容れてくれたようだった。こういうとき、母の押しの強さはとても頼もしいと思う。
「気にしなくていい。――アスト、マナミと一緒に奥の部屋の片付けを始めてくれ。大して物は置いていないと思うが、お客を泊めても恥ずかしくないように掃除するんだぞ」
「おふくろは、手伝わないのかよ」
「私がなんのために、海辺の断崖まで長命草(ちょうめいそう)を採りに行ったと思っているんだ?」
「薬の仕込みをするんだな。わかった。でも、まだ暗いし、一休みしてからでいいだろ?」
「怠ける口実を探しているのなら、残念だったな」
 母が雨戸を開け放つと、眩しいくらいの陽光が部屋に差し込んできた。
「夜明けは来たぞ」
 雨戸の向こうには、澄み渡るような青空が広がっていた。



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