【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第二十九話 団欒のひと時

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 鼻柱に、妙にわずらわしい感触があった。そのあたりから、ぴしぴし、と音がする。
「うーん」
 虫でも止まっているのかと思い、手で払う仕種をした。……どうやら静かになったようだ。
 しかしまたすぐに、ぴしぴし、と音が鳴り始めた。
『アストどの、起きなされ』
「うるさいなぁ……」
 瞼を上げたら、まさに目と鼻の先に小人――いや、アヤノが立っていた。
「うはっ!? いっつ――!?」
 驚いたアストは上体を起こそうとしたが、身体の節々が急に痛みを訴えたので、寝台の上に逆戻りする羽目になった。
『やっとお目醒めのようでござるな』
「なんなんだよ! さっきから人の鼻っぱしらをぺちぺちぺちぺち叩いてさぁ!」
『アストどのがなかなか目を開けぬので、もちっと強めに叩こうとしていたところでござったよ』
「もう起きるからやめてくれないかな! そういうの!」
 苛立ちを込めて怒鳴ったアストは、妙なぺちぺち感≠ェ残っている鼻柱を指でさすった。どうせ起こすなら、もっと気分のよい起こし方をしてほしいものだと思う。
『左様でござるか』
「左様だよ!」
『呼びかけても、てんで目を醒ます気配がござらぬので、やむを得なかったのでござるよ。昨夜からの疲れもあったのでござろうが、アストどのはかなりの寝坊助(ねぼすけ)でござるな』
「疲れてたに決まってるだろ……。昨日は界瘴に呑まれて生死の境をさ迷ったり、妖怪おばばや戦士様と戦わされたりで、色々大変な目に遭ったんだぞ」
 言葉にしてみると、よくそれで生きていられたものだと実感する。目が醒めてもアヤノがいるところを見れば、やはり昨夜の出来事はすべて現実だったと受けとめなければならないようだ。
『確かにアストどのの言うとおりでござるな。今のは拙者の口が悪うござった』
「まぁ、よく寝坊するからそう言われるのも間違いじゃないけど。……で、なんでおれを起こそうとしてたの?」
『もう夕餉時(ゆうげどき)でござるぞ。さきほどルシェルどのが呼びに来たのでござるが、アストどのがなかなか夢の中から還らぬので、拙者が起こす役目を引き継いだのでござる』
「なんだよ……。それならルシェルさんが来たときに起きとけばよかったな……」
 髪を掻き毟りながら、今度はゆっくりと身体を起こす。
「いてて」
 背中や腕や足の、筋という筋が痛い。筋肉が凝り固まったり、ところどころ突っ張ったりしているような感覚がある。
「あれ? ルシェルさんは、もう起きてるの?」
『ふむ、具合はだいぶよくなったようでござるな。少し前から起き出して、今はマナミどのと一緒に食事の仕度をしているところでござる』
「そうなんだ。じゃあ、そろそろ起きないとまずいかな」
 アヤノが夕餉時と言ったとおり、部屋に射し込む日の光がうっすらと赤みを帯びていた。昨夜は肌寒くなるほど冷え込んだのに、今日は夏がぶり返したのか、夕刻になっても多少の蒸し暑さが残っている。
 朝方はルシェルが泊まれるように空き部屋の掃除をしていたのだが、すぐに眠くなってきたので、後をすべてマナミに託して、自室の寝台へ倒れこんだのだった。それからアヤノに起こされるまで、ずっと眠り続けていたようだ。
 安心した途端に、疲れがどっと噴き出てきたのかもしれない。
『アストどの。そのままじっとしてなされ』
「え、なに?」
『ほれ』
 突然背後に回りこんだアヤノへ尋ねたときには、首や背中のあちこちにちくりとした感触があった。
「いたっ――てほどでもないけど、なにしたの?」
 くくっ、となにかで押さえられているような感覚が首や背中にのしかかっているが、それが心地よく感じる。
『アストどのが身体を辛そうにしていたので、鍼(はり)を施したのでござるよ』
「鍼って、治療に使うやつ?」
『うむ。刃紋を細長く引き伸ばした鍼でござるが、これで多少は楽になるはずでござる』
「なんだかよくわからないけど、とりあえずありがとう」
『いやいや。アストどのの身体を酷使したのは、拙者の責任でござるからな』
 アヤノがそのように言うのだから、昨晩、彼女に《糸》を通して操られている間は、アストの身体に相当な負荷がかけられていたのだろう。
 あんなに飛んだり跳ねたり駆けずり回ったりしたのだから、翌日に全身の筋肉が痛くなるのも当然と思えた。
『そのままうつ伏せになって、しばし安静にしなされ』
「そうさせてもらうよ」
 言われたとおり、寝台に伏せてじっとする。鍼を施されたあたりの血行がよくなったのか、だんだん身体が温まってきた。これではまた眠ってしまいそうだ……。
 その状態でしばらくうとうとしていると、
「おにぃーちゃーん! ごはんできたよー!」
 階下からやってきたマナミの声に起こされた。
「え? もうできたのか?」
『あれから四半刻(しはんとき)ほど経ってござるぞ。ささ、鍼は抜いたので起きなされ』
「あ、そう」
 瞼(まぶた)をこすりながら身を起こす。先ほどよりは、だいぶ楽に身体が動かせるようになった。
「ふわぁ……」
 欠伸(あくび)をすると同時にお腹も鳴った。そういえば、丸一日なにも食べていないのだ。
「おにぃーちゃーん! まだ寝てるのー?」
「アストさんを起こしてきましょうか?」
「その必要はない。一度呼んでもこないやつは飯抜きだ」
 一階の方から、おいしそうな匂いとそんな話し声が昇ってきた。
『アストどの。ぼやぼやしていると飯抜きにされてしまうようでござるぞ』
「くそう、おふくろめ」
 アストは寝台から飛び降りた。
「せっかくルシェルさんが手料理を作ってくれたってのに、そんな悪意に満ちた邪魔立てがあってたまるかよ!」
 部屋を飛び出した勢いのまま、階段を駆け下りる。
『ルシェルどののこととなると、身体の疲れなどどこへやらでござるな』
 アストの肩の上に飛び乗ったアヤノが、呆れたように呟いていた。

 一階に降りると、白緑(びゃくろく)色のワンピースに身を包んだルシェルの姿があった。ちょうど、食卓の上に料理の盛られた皿を配膳しているところだったようだ。
「その服、着替えたの?」
 声をかけると、皿を配り終えたルシェルがこちらへ振り返った。
「はい。おば様から、あまり着ていないという服をお借りしました。……似合いますでしょうか?」
 その服装だけを見れば純朴な村娘といった風情だが、そんな身なりをしていても気品のある佇まいに見えてしまうのだから、不思議なものだ。
 袖なしのワンピースから露出した白い肩や腕が、目に眩しい。
「いいんじゃない。似合ってるよ」
「お世辞でも、そう言っていただけると嬉しいです」
 彼女は微笑を返してくれたが、お世辞と受けとめられてしまうのはアストの本意ではない。自分の言い方が軽かったのだろうか。
「お世辞じゃないんだけどな。……それにしても、うちのおふくろってあんな服持ってたのか? 長いこと一緒に暮らしてるけど、あれを着てるところ一回も見た記憶がないぞ」
「お母さん自身も、着た記憶がないんだって」
 エプロンを外したマナミが、食卓の向こう側へ回っていくのが見えた。
「だろうな。いつも猟師とか山賊みたいな恰好して薬種採りに行ってるもんな」
「山賊は、ちょっと言い過ぎだと思うけど」
 既に着座している母の様子を気にしながらマナミが答えると、母は「馬鹿の相手をするんじゃない」と彼女に言った。
「私の服をルシェルさんに貸してあげてもよかったんだけど、色々と小さくて無理だったみたい」
「あぁ、確かに色々小さいな」
 ルシェルとうちの妹を交互に見比べれば、妹の方が背は低いし――
「おにいちゃん――、いま余計なところまで見比べたでしょ」
「ちょっと、なにを言っているのかわからないな。お前の方が背が小さいから服も小さいってことだろ?」
「あ、なにそれ」
「そんなことより飯にしようぜ。メシメシ!」
 会話を強制的に打ち切ったアストは、自分の席へ着座した。
「ほんとにずるいんだから」
 妹が恨めしげにこちらを睨んでいるような気がするが、無視した。
「ルシェルさんも空いた席に座ってくれ」
「はい。ではアストさんのお隣に失礼致します」
 母が着席を促すと、ルシェルはアストの左の椅子に座った。
 椅子は食卓を挟んで向かい合うように二つずつ置いてあり、アストから見て反対側にマナミと母が座っている。
「おれの隣でいいの?」
「お嫌ですか?」
「危険だな。私が席を替わろうか」
「おふくろは余計なこと言うなよ! ささ、ルシェルさん座って!」
「はい」
 母と妹はいつも並んで座っているので、空席になっていたアストの隣にルシェルが座っただけのことなのだが、嬉しさと幾分の恥ずかしさで気持ちが舞い上がってしまいそうになった。
 平常心を失うとみっともない失態をやらかすに違いないので、目の前に置かれた料理に集中することで気分をごまかすしかなさそうだ。
 食卓の上には、鶏肉の漬け焼きに、じゃがいもと豚の燻製肉のバター醤油炒め、にんじんのポタージュスープ、それにトマトやキャベツやきゅうりを盛り合わせた野菜サラダが並んでいた。
「この――、鶏の漬け焼きなんだけどね、ヨーグルトを混ぜたソースに漬けて焼くと、お肉が柔らかくなるんだって」
「それを教えてもらったのか?」
「うん」
 笑顔で肯いたマナミから、ほかほかのご飯がよそわれたお椀を受け取った。
「こっちのスープだって、おにいちゃんが野菜嫌いで、あんまり食べなくて困るって言ったら作ってもらったんだよ」
「へー、ルシェルさんって料理得意だったの?」
 アストが尋ねると、ルシェルは照れを隠すような微笑を見せた。
「得意というほどではありませんが、小さい頃から祖母の手伝いをしていましたし、今でも厨房を借りてお料理を作ったり、ケーキを焼いたりする機会がありますので」
「謙遜しなくてもいいと思うけどなぁ。うちのおふくろが作る料理なんか、やたらでっかいじゃがいもがごろごろ入ってたりするし」
「つまり、私の料理は『下手だ』と言いたいのか?」
 対面に着座した母と、目が合ってしまった。
「い、いや、そうじゃないけど、マナミが食べるのに、いつも苦労してるだろ」
「私は具が大きい方が食いごたえがあると思っていたのだが、わかった。お前たちが嫌だというのなら、今後は小さくなるように善処してやる」
「私はお母さんの料理好きだよ。――もう、おにいちゃんのせいで、お母さん拗(す)ねちゃったじゃない」
「拗ねるような歳かよ――あ、いいやなんでもないです!」
 こちらを睨む母の目が剣呑な光を帯びていたので、慌てて自分の発言を打ち消した。
「スープのおかわりはたくさんありますからね」
 食卓の上に不穏な空気が広がりかけたところで、ルシェルが会話の流れを変えてくれた。
「じゃあ、このスープおかわりして飲むから、そっちのサラダは食べなくても――」
「ダメです」
 マナミとルシェルに、声を揃えて言われてしまった。
「やっぱり、野菜は食べないとダメなのか……」
「当たり前です」
 マナミの言葉に、ルシェルも無言で肯くのが見えた。
「わかったよ。食べればいいんだろ、食べれば」
 別に、アストは野菜が食べられないわけではない。ただ、あまりおいしいと思ったことがないので、なんとなく食べる量が少なくなってしまうだけなのだ。
 その点をマナミに説明しても、それを野菜嫌いっていうんだよ、と怒られてしまうわけだが。
「んじゃ、料理が冷めないうちにいただくことにしますか」
「そうだな」
「いただきます」
 一家で声を揃えて食卓に一礼すると、ルシェルもそれに倣(なら)ってくれたようだった。
 そういえば、今まであまり気が回らなかったが、彼女は箸を使う食事には慣れていないんじゃないだろうか。
「ルシェルさんは、箸でだいじょうぶなの?」
「はい。先ほどマナミさんに持ち方を教えていただきました」
 彼女の手元を見ると、ちゃんと正しい箸の持ち方をしていたし、うまく使いこなせるようだったので驚いた。
「左利きなの?」
「はい。お箸は、右手で使うものなのですか?」
 テーブルの上を見回したルシェルは、アストの家族が皆、箸を右手で持っていることに気づいたようだ。
「持ちやすいほうで持てばいいんだよ」
 わざわざ利き手と反対の手を使って食事しても、イライラして楽しくないだろうと思う。
「どちらの手も使えるように訓練しているので、持ち替えても問題ありません」
「そうなの?」
 ルシェルが箸を右手に持ち替えたので様子を見守ったが、本当に問題はないようだった。
「ヴェルトリアの人でも、意外と箸を使えるもんなんだ」
『ルシェルどのが特別に器用なのでござろう』
 アヤノは食事の必要がないみたいだが、その代わりにアストの肩に腰掛けたままお茶を飲んでいた。
「むしろ、お前の方こそ箸の持ち方を直せ」
 ルシェルの箸使いに感心していると、母に言われてしまった。
「飯どきに説教なんか聞けるかよ。無視だ、無視」
 アストは鶏肉の漬け焼きへと箸をのばした。
「おにいちゃんって、いっつもお肉から食べようとするよね」
「母娘(おやこ)してうるさいな。飯ぐらい好きなように食わせてくれよ」
 鶏肉にかぶりつく。肉にかかっているのはヨーグルトとケチャップを合わせたようなソースだが、摩(す)り下ろしたにんにくやレモンの果汁を利かせつつも、まろやかな味わいになっている。隠し味として醤油も加えてあるかもしれない。
 話に聞いていたとおり、肉が簡単に噛み切れるくらい柔らかかった。
「ほんとに柔らかいな、これ」
 感想を漏らすと、マナミが得意げに「そうでしょ」と反応した。ルシェルに教わりながら一緒に作ったんだろうに、なぜ自分の手柄みたいにするのだろうか。
「お味はいかがですか?」
「うまいよ。これはご飯が進む」
 ルシェルが様子を窺うように尋ねてきたので、白飯を頬張りながら肯いてみせた。
「それより、醤油の味付けは平気なの?」
「お醤油はあまり使ったことがなかったのですが、自分で味見をしましたし、とてもおいしいと思いました」
「ほんとに?」
「はい」
「それならいいんだけど」
 彼女の食事が進んでいるところを見ると、本当に大丈夫なのだろうと思う。安心して、じゃがいもとベーコンの炒めものに取りかかる。これもうまい。バターと醤油の組み合わせは、誰が考えたのか知らないが結構合うものだ。にんじんのポタージュスープはほんのり甘くて優しい味がするので、いくらでも飲めてしまう。
「うん、うまい! やっぱり、スープおかわりしようかな?」
「おにいちゃん、サラダは残しちゃダメですからね。サラダを食べ終わるまでは、なにもおかわりしてはいけません」
「……わかってるよ」
 マナミがじっとこちらの様子を監視しているので、アストは渋々ながらもサラダをやっつけることにした。自分が唯一平気な胡麻のドレッシングを、大盛りの野菜へ大量にかける。
「あーっ! そんなにドレッシングかけたらダメだよ!」
「これくらいしなかったら、野菜なんて食えないだろ!」
 妹に怒鳴り返しながら野菜をばりばりと噛み砕いたが、やはりドレッシングはかけ過ぎだったかもしれないと思った。



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