【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第三十話 母の涙。空の棺と、秋空に降る雪

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 燭台の灯が、赤々と室内を照らしている。
 食事を終えたあと、母から集会で話し合った内容について教えてもらった。
 アストが眠りこけている間に、退避壕にいた人たちも村に戻ってきて、臨時の集会を開いたらしい。村内に大きな被害が出ていることと、村外の状況が把握できていないということもあって、大人たちが今後の対応を協議したというのだ。
「お前が遭遇したという『戦士様』について村の皆に話したが、姿を見たという者は誰もいなかったようだ」
「だろうな……」
 母の言葉は意外なものではなかったが、これでは《環》のことを皆に話したときと、同じになってしまうのではないかという気がした。
「おれが嘘をついているんじゃないかって、誰か言ってなかった?」
「何名かは、すぐには信じがたいと言っていた。だが、お前がこんなときにまで法螺(ほら)を吹くやつじゃないことは、私が知っている」
 母にそう言ってもらえたので、少しは救われた気持ちになれた。
「それに、ルシェルさんもその男を見たんだったな?」
「はい」
 アストの隣で、ルシェルがしっかりと肯いた。
「何者なのかはわからないが、二人とも見たというからには、昨晩あの場所に男が現れたことは確かなんだろう。それに、夢や幻では片付けられないものが、もう一つある」
 母の眼が、アストを真っ直ぐ見据えた。
「御神火台があったはずのところに、巨大な石塔が出現していた。お前も、あそこに塔が現れたことは知っているだろう」
「ああ……」
 アストは、塔の上で起きたことを話した方がよいのか、迷った。塔の頂上で、空から降りてきたルシェルと出逢ったのだが、それを話して信じてもらえたとしても、今度は彼女に奇異の目が向けられてしまうはずだ。
 ルシェルのことが怪しまれ、集会に引き出されて尋問を受けるような事態は、できるだけ避けたい。
「塔の入り口らしきものは見つかったのだが、扉が封じられていて中には入れないらしい。なにかの拍子で扉が開いたとしても、安全が確認されるまでは迂闊に近寄らないようにしてくれと、自警団から話があった」
「わかった」
 母が口にしたのはアストの心配とは関係のないことだったので、ほっとした。
「それより、界瘴に呑まれた人で、おれ以外に誰か見つかったって話はなかったのか?」
 アストが気になっていた質問をぶつけると、母の表情がにわかに曇った。
「いや、お前だけだ。新前の男連中は、誰一人として戻ってこなかったと聞いている」
「それ、どういうことだよ?」
「今年新前になった男たちは、全員が界瘴に呑まれたそうだ」
「全員……!?」
「界瘴が戦士櫓の真上に降りてきたから、逃げ出す間がなかったんだろう。祭りを見物していた者たちの中にも、犠牲になった人間が多くいる」
 そう語った母の手が、きつく握り締められるのが見えた。
「近くにいたおれとサーシャは逃げられたんだぞ!? どうして誰も助からなかったんだよ!?」
 アストは椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「そんなこと私が知るか!」
 母の拳が食卓に打ち下ろされた。
「……お前が村長(むらおさ)の孫娘を助けたことについては、礼を言われたよ」
「それはあいつが近くにいたから、たまたま助けることができただけだよ」
「赤子を助けてもらったという夫婦も、お前に礼を言っていた」
「あの子、無事だったのか?」
「ああ。クリムという名前らしい。その赤子を助けようとして、お前は界瘴に呑まれたんだったな」
「もうちょっと、うまく逃げ切るつもりだったんだけどな……」
 アストが頭を掻くと、椅子から立ち上がった母が傍まで近づいてきた。
「全く、お前はいつも無茶ばかりしてくれる」
「あ、ああ」
 怒られるのかと思い、微かに身を硬くする。アヤノが肩から、さっ、と移動する気配がした。
「アスト!」
 突然、母が力いっぱいにアストを抱きしめてきたので驚いてしまった。
「おふくろ……?」
「よく、生きて戻ってくれた……!」
 その声は、震えていた。真横にある母の表情は見えないが、その腕や肩に起きている震えが、アストにも伝わってくる。
「おれのこと、心配してくれてたのか?」
「当たり前だろう!」
 耳元で生まれた母の声が、鼓膜を突き抜けて脳の奥まで揺さぶってくるように感じた。
「自分の息子を心配しない母親が、どこにいる……!」
 母の口から、嗚咽の混じったような声が漏れる。今までに聞いたことのない、母の声だ。頬を、生暖かい感触が濡らしてゆくのがわかった。
 まさか――
 まさか、あのおふくろが――
 泣いているのか……?
 涙などとは無縁の、強い母だと思っていた。
 その強い母が、自分のような出来の悪い馬鹿息子のために、泣いているのだ。
「あの人に先立たれて、私のもとに残されたのが、お前とマナミだ……。子供のくせに、一丁前に私を心配させて……! 私より先に逝くことなんて、絶対に許さないからな……!」
「わかったよ」
 そう答えることしか、できなかった。母にどれくらいの心配をかけていたのか、アストには窺い知ることもできない。でも、その母に、こうまで言わせて泣かれているという事実が、胸に痛かった。
 こうして母に抱きしめられたのは、いつ以来だっただろうか。
 この、温もりと力強さが身体を包み込んでくる感触を、アストはとても懐かしいものののように思い出していた。
「あまり、らしくないことをしてしまったな。すまない」
 そう言って母はアストから身体を離したが、その顔には涙の痕がはっきりと残っていた。
 やはり、母は母なのだ。
 悪さを働けば怒って擂り鉢で殴られたりもするが、怒るときの母だけが、母のすべてではない。たまにはアストのくだらない冗談で笑ってくれることもあるし、……こうして、泣くことだってある。
 自分は、母のことをなにもわかっていなかったのではないか、という痛悔の念がアストの胸中を埋めていた。
「そうだ。お前に一つ、伝えておかなければならないことがあったのを忘れていた」
 指で涙を拭った母が、それをごまかすように口を開いた。
「なに?」
 涙を拭う母の姿なんて想像したことすらなかったが、決して眼を逸らしてはいけないような気がした。
「界瘴が降りてくる際に起きた落雷や地震で、村内の各所に被害が出ている。だが、新前の男連中がいなくなって、復旧しようにも人手が足りなくなっているのが現状だ」
「じゃあ、その分はおれたちで穴埋めをしなきゃいけないんだな」
「そういうことだ。見習いの仕事は当分休みにするから、自警団の指示に従って村の修復を手伝ってくれ」
「わかった」
「それと、行方が知れなくなった者たちの捜索も並行して行うことに決まったが、あまり期待はできないだろうな。界瘴に呑まれたら、亡骸ひとつ上がってこないというのが常だ。……お前は、本当に運がよかった」
「ああ」
 確かに、自分は運がよかっただけだと思う。それだけじゃなく、ルシェルにも、アヤノにも、助けてもらった。
「もう泣くんじゃない」
 母が、食卓の隅で泣いていたマナミの頭を優しく撫でた。
「だって……、おにいちゃんが助かって、本当によかった――って……」
 妹の涙が、母の涙を見てもらい泣きしてしまったものなのか、改めて安心したことで零れてきたものなのかは、わからなかった。

 中は、空っぽだと聞かされていた。
 空の、柩(ひつぎ)だ。
 そうした葬式のやり方があることを、知らないわけではなかった。
 界瘴に呑まれた人間は、死亡したものとして扱われるのが通例だ。過去に界瘴に呑まれて生還した者はいなかったし、遺体が見つかることすらなかったために、そう受け留められてきたのだろう。
 それはわかっている。
 でも、まだ死んでいない可能性だってあるはずなのだ。
 アストだって界瘴に呑まれたのは同じだが、こうしてまだ生きている。
 なのにオレスの両親は、長男の密葬を行うと、決めてしまった。もし遺体が見つかるようなことがあれば、改めて本葬を行うらしい。
 あれから、五日目の朝を迎えていた。
 雷で焼けたり、地震で倒れたりして瓦礫となった家屋の片付けは、まだ終わっていない。
 不幸中の幸いというべきか、ほとんどの村民が黄泉返しの祭りを観るために家を出ていたため、火事や家屋の倒壊による犠牲者はいなかったようだ。しかしその祭りは、人びとの命を贄(にえ)として、恐ろしい魔戦士をこの世に呼び戻すために行われていたものだったのだから、少しも喜べる話ではない。
 その犠牲者を身内に持つ人たちの心中は計り知れなかった。
 もちろん、界瘴に呑まれた者たちの生存を諦めきれずに、捜索を訴える家族はいる。
 しかし、想像されていた以上に界瘴の降下範囲は広く、村を囲む山々の外や、海にも流れ込んだ形跡が見つかったものの、それらを隈なく捜すほどの人手を確保するのは困難だった。
 傷(いた)んだ水路の修復を早急に行わなければ秋の収穫に影響が出るし、仮住まいとしての天幕を多数設置して、家を失った人びとへの炊き出しなども行わなければならないので、あまり多くの人手を割くことができない事情があるのだ。
 いなくなった人間より、今生きている人間の方が優先されてしまうのは、仕方のないことかもしれない。
 だから、界瘴に持っていかれた$lたちの死を受け容れる。
 友人の家も、そうした判断を下した家のひとつだった。
 生き残った人たちが再び元の生活へ戻るために、このような区切りが必要な場合もある。
 ……だが、友人は納得していなかった。
「ふざけんな! なんで死んでもいねえのに葬式なんかやるんだよ!」
 空の柩が墓穴へ下ろされようとしたそのとき、オレスは柩に縋りついて式の進行を阻もうとした。
「オレス! そんな邪魔をしたところで、オルグは戻ってこないんだぞ!」
「いやだ! こんなウソっぱちの葬式なんて……! 俺は絶対に認めねえぞ!」
 オレスの父――バイラムが柩から離れるように諭しても、オレスは聞き分けのない駄々っ子のように烈しく首を振って、抵抗を続けている。
「兄貴、ウソだよな? 兄貴が死ぬわけねえよな? アストだって還ってきたんだぞ……!? 俺の兄貴が、界瘴に呑まれたくらいで、死んじまうわけがねえよな!?」
 柩にしがみついたまま、どこへともなく語りかけている友人の姿を見るのが、辛かった。
「約束は破るんじゃねえぞ! 俺が次に悪さをしたら、祭りの不始末の分も合わせてぶん殴ってやるって、言ってたじゃねえか! だったら、こんな柩なんかぶっ壊してやるよ! 墓もめちゃくちゃに荒らしてやるから、早く出てきて俺をぶん殴ってみろってんだ! できねえわけねえよな! 村の英雄様が、俺ごときにびびって姿を現さねえなんて、飛んだお笑いぐさだぜ! アハハハハハッ!」
 アストは左右の耳を塞ぎたくなったが、堪(こら)え続けていた。
 友人は、狂ってなどいない。
 わかっているのだ。
 でも、認めたくないから……、認めるわけにはいかないから、いつもの彼を装って、強がってみせているだけなのだ。
 親族と思われる数人の大人たちが、力ずくでオレスを引き剥がしにかかっていた。
「放せよ! まだこんなウソっぱちの葬式を続けようってのかよ!」
「いつまでも子供みたいなことを言うのはやめろ!」
 小父(おじ)さんの拳骨が、オレスの頬を打ち据えた。
「なんだよ!? 親父まで、なんだよ!? どうしてみんなは、そんなに兄貴が死んだってことにしたいんだよ!?」
「柩を下ろしてくれ」
 息子の訴えなどには聞く耳も持たぬ様子で、小父さんが式の進行を指示する。
 墓穴へ下ろされた柩に、小父さんが最初の土をかけた。
 その顔には、光る筋のようなものが見える。小父さんが、泣いているのだ。
 オレスの方へ振り向いた小父さんは、柩へ土をかけるように彼へ促した。
「俺はやらねえぞ! だってその柩は、兄貴とはこれっぽっちも関係がねえんだからな!」
「……なら、好きにしろ」
 小父さんは、もうオレスを殴ろうとはしなかった。大柄で、武張った四角い顔に無精ひげを生やした恐い小父さんだったのに、今は背中がとても小さく見える。
 オレスを除いた家族や親族たちの手によって、墓穴が土で満たされてゆく。
「みんなひでえよ! 兄貴が死んだことにして、墓へ埋めちまうなんて……! そんなのひどすぎるだろ……!? やめろよ……! もうやめてくれよぉぉぉっ!」
 墓穴が、ついに土で満たされてしまった。
 小母さんが泣いている。
 オレスが叫んでいる。
「なんで埋めたんだよ……? 柩を埋めるなっつってんのが、聞こえなかったのかよぉぉぉ!」
 この場にいるみんなに、その声は聞こえている。
 でも、応えてやれる者はいない。
親父が、兄貴の葬式なんてふざけたことをやる気でいるからよ。止めんのをちょっと手伝ってくれねえか
 友人からそのように乞われて、ここへ来てしまった。
 アストの隣では、マナミが声を押し殺して泣いている。妹がついてこようとしたとき、家にいるように言いつけておくべきだったのだ。
 ……もう、耐えられない。
 アストは、駆け出していた。
 また、逃げるのか。
 心の奥底で自責の念が呟いていたが、足は止められなかった。
 自分は、逃げたのだ。
 息が切れるまで走り続けて、川の近くへ出た。土手の上へ駆け登り、川岸に一本だけ生えている大きな楓(かえで)の木が見えたところで、力尽きたように膝を突く。
「アストさん……!」
 少し離れたところで葬式を見ていたルシェルが、すぐ傍へ駆け寄ってきた。
『アストどの、どうしたのでござるか』
 地に手を突きながら嗚咽を堪(こら)えていると、視界の脇から現れたアヤノが顔を見上げてきた。
「おれ……」
 口を開けると、言葉にならない声が溢れ出しそうになる。
「おれは、嘘つきだ……!」
『アストどのが、なんの嘘をついたのでござるか?』
「オレスから……、オルグさんのことを訊かれたときに、おれはわからないって言ったんだよ……。でも、本当は見たんだ! 戦士像に取り込まれそうになってもがいてる人影を! あれは絶対に、オルグさんだった……」
 今でも目に灼きついている。
 助けを求めるように、こちらへ向って突き出された、あの黒い腕を――
 忘れたくても、忘れられるはずがない。
「おれがあいつの兄貴を見殺しにしたのも同然なのに、そのことを打ち明けるのが怖くて、あれからずっと言えなかったんだ……。おれはあいつに――、友達に嘘をついたんだよ!」
『然(さ)れど、その時のアストどのには、界瘴に取り込まれた人を救い出すことなど敵(かな)わなかったのではござらぬか?』
「おれがあのとき一緒に飛び込んでいれば、アヤノさんに助けてもらえたかもしれないだろ!?」
 アストが叫ぶと、アヤノは静かに首を振った。
『そうとは限らぬよ。アストどのが拙者のもとへ流れ着いたのは、拙者との間に強い縁があったからゆえのこと。人と人を繋ぐ縁とは、そう単純に考えられるものではござらぬ』
「じゃあ、オルグさんには縁がなかったって言うのか!? そんなふざけたもので、人の生き死にが決まってたまるかよ!」
『無論、人の生死が縁のみで決定付けられるわけではござらぬ。しかしながら、縁があるゆえに助かる命というものもござる。アストどのは、あのとき拾った命を大事にすることでござるな』
「そんな役に立たない説教を聞かされて、なんになるっていうんだよ!」
 行き場のない怒りを拳に乗せて、アヤノの隣に打ち下ろした。拳が巻き起こした風圧が、彼女の前髪を微かに揺らす。
『アストどのは、そのことをずっと悔やんでいたのでござるな?』
「そうだよ」と口にしたつもりなのに、掠れた声しか出てこなかった。
『しかしながら、アストどのもできることはやったはずでござるよ。村長(むらおさ)の孫娘と、生まれたばかりの赤子の命は救えたのでござろう?』
「おれが臆病風に吹かれなければ、もっと助けられたかもしれないだろ……。新前の人だって、界瘴が一緒に巻きついてくるのが怖くなって、手を放してしまったんだ……」
『一人の手で救える命もござれば、救いきれぬ命もござる。あまり己を責めすぎぬことでござるな』
「他人事(ひとごと)だよ……。アヤノさんは、他人事だから、そんな気楽なことが言えるんだ……」
 地面の砂に食い込ませた指が、震えていた。
『かように申されれば、拙者も返す言葉がござらぬが……』
「だったら、黙っててくれよ。人の気も知らないで、偉そうにごちゃごちゃと物を言わないでくれ」
『ふむ……、拙者が出すぎた真似をしたのでござるな。これは面目なかった』
 こうして、アヤノに八つ当たりをしているだけなのは気付いていた。しかし、自分の感情をどのように処理すればよいのかわからないから、傍にいてくれる人に強く当たってしまう。
 ――おれは、なにをやっているんだろう……。
 アヤノに謝らせたからといって、それでオレスの兄や新前の人を救えなかった事実が、消えるわけではない。
 自分を励ましてくれようとしている人に牙を剥いて憂さを晴らそうとするなんて、どうしてこんなに恩知らずな真似ができるんだろう……?
「おれ、もう嫌だよ……」
 声に出すと、アヤノの姿が滲んでぼやけてきた。
「もう後悔はしたくないんだ……。どうすれば、こんなことにならずに済むんだよ……」
『覚悟は、ござるのか』
 声が、頭の上から聞こえてきたような気がした。
「?」
 顔を上げると、いつの間にか、アヤノが元の大きさに戻っていることに気付いた。
『隠り世で出逢(でお)うたとき、アストどのは、強くなりたい、と拙者に申した。その覚悟は、今もござるのか』
 そのように問いかけてきたアヤノの顔は、涙で滲んでよく見えない。でも、強さを宿した瞳が、涙の向こうにあるだろうことはすぐに信じられた。
 その強さは、どうしたら手に入れることができるのだろう?
 こんな自分でも、強くなることが、できるのだろうか?
「強くなれば、もうこんな思いをしなくて済むようになるのか?」
『必ずやとは申せぬ。拙者にできるのは、アストどのに力をつけてやることだけでござるよ』
「もう後悔しないように、力をうまく使えってこと?」
『左様。それから先のことは、アストどの次第でござるな』
「…………」
 もし自分が強くなったところで、それですべてが解決するわけじゃないことはわかっている。
 でも。
 これから先も、救えたはずの命に手が届かなくて己の非力を悔やむくらいなら、やはり強くなるしかないんじゃないのか?
 そうしたところで、目の前で消えてゆく命を救いきれなかったことが、許されるとは思えないけれど……。
 同じ後悔は、二度と味わいたくない。
 目の前が、晴れてきた。涙は、もう止まっている。
「アヤノさん……」
 決意と、
「おれ、やるよ」
 覚悟を、
「絶対に、強くなってやる」
 言葉に込めた。
『では、決まりでござるな。拙者の教えは、厳しゅうござるぞ』
 アヤノの手が、すっ、と目の前に差し出された。
「おれのことだから、すぐに逃げ出すと思ってるんだろ?」
『かも知れぬ』
「信じてくれって言うしかないけど、逃げるのはもうこりごりなんだよ」
 アヤノの手をしっかり掴み、立ち上がった。
『ならば、その言葉が嘘でござらぬところを、拙者に見せてくだされ』
「ああ……!」
 力を込めて肯いた直後、頬に冷たい感触が当たった。
「雪……?」
 隣でずっと様子を見守っていたルシェルが呟き、空を見上げた。アストもそれに倣(なら)う。
 雲ひとつない青空――それとあの《環》――を背景に、白い粉雪が舞っていた。
 秋が近いとはいえ、雪が降るにはまだ早すぎる時季だ。
「なんで雪が降ってるんだ?」
『哀(かな)しい雪でござるな』
 同じように空を見上げたアヤノが、そんな言葉を口にしたのが聞こえた。

       †

「あら、雪かしら?」
 思わず差し出した掌に、白い結晶が一粒降りてきた。
「妙な雪だね。こんなに晴れてて、暑いくらいなのに――うわ、冷たい!」
 隣で歩いていたエリウスが、突然身を縮めるような素振りを見せた。どうやら首筋に雪が当たったらしい。
 男のくせに、そのくらいで大袈裟に反応する彼を見ていると、少しイライラしてくる。
「大気中の水分が凍ってできた雪じゃなさそうね。なのに冷たいのは、どうしてかしら?」
 呟きながら歩いていると、前方の道端で、小さな女の子が泣いているのが目に入った。
「あの子、どうしたんだろう? 一人でずっと泣いてるみたいだから気になるんだけど」
 灰白(かいはく)色の瞳が、なにか物言いたげな様子でこちらに向けられた。
「あら、そう」
「ちょっと訊いてみてよ」
「自分で訊きなさいよ。どうしてあたしが、そんなことしなきゃいけないのよ」
「僕が声をかけてもいいけど、なんとなく見た目が怪しいだろ? マリーシアの方が、いくらかマシなんじゃないの?」
「あたしが声をかけたって、魔女が子供を攫(さら)おうとしているように見えちゃうと思うけど?」
「じゃあ、帽子を取りなよ」
 エリウスが手を伸ばしてきて、マリーシアの三角帽子を取り上げてしまった。
「あ!? なにすんのよ!」
「帽子を取っただけでしょ」
「今すぐ大声を出して、あんたを変質者として捕まらせてあげてもいいのよ?」
「村の人たち大変そうなのに、そんなことで迷惑をかけてもいいのかな」
「あんたって本当に、ああ言えばこう言うわね。……たく」
 子供は苦手だ。
 あまり気が進まなかったが、マリーシアは泣いている女の子に声をかけてみることにした。
 見た目は六、七歳といったところだろうか。赤い髪を二つ結びにした、小さな女の子だった。
「ねえ、どうして泣いてるの? よかったらお姉さんに話して――」
 マリーシアが声をかけると、
「うわああああん!」
 女の子はより大きな泣き声を上げて、彼女の前から走り去ってしまった。
「ちょっと!? なんなのよ!?」
 マリーシアは憤りを露にしたが、女の子を追いかけるような真似はしなかった。
「あーあ、もっと泣かせちゃった」
 呆れたような声を上げながら、エリウスが近づいてくる。
「あたしがなにしたっていうのよ! ちょっと声をかけただけじゃない!」
「声が恐かったんじゃないの」
「なによそれ!? ……だいたいね! あんたが訊いてみろって言うから、あたしが声をかけたんでしょ!」
 本当に腹が立つ。エリウスの横っ面を、思いっきり引っ叩(ぱた)いてやろうかと思う。
「あー、気分悪い! 余計なことして損したわ! 今のを村の人に見られたら、あたしが泣かしたって誤解されちゃうじゃないの!」
 苛立ちながら周囲に視線を走らせると、目撃していた村人はいないようだったので、安心――
 できなかった。
 土手の上に、人がいる。
 一人は、この村の住人と思われる黒髪の少年だったが、もう一人は、金色の髪を束ねた美しい少女であった。グラード人にあんな色の髪を持つ者はいないはずだから、あの少女は恐らくヴェルトリア人なのだろう。
 土手の上から、二人分の視線が自分に集まっていることを感じたマリーシアは、一秒でも早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
「エリウス! 《家》に戻るわよ!」
「あの子、綺麗だね」
「よそ見しないで、さっさと歩きなさい!」
 エリウスが少女の姿に見惚(みと)れているようなので、彼の耳たぶを、むんず、と引っ掴む。
「いてててて!? 耳引っ張らないでよ!」
 エリウスが悲鳴を上げていたが、耳たぶを掴んだ指はまだ離さなかった。少しくらい痛くしてやらないと、マリーシアの気が済まないのだ。
 状況が落ち着くまでこの村に留まるつもりだったので、住民にちょっかいを出して村に居辛くなるような雰囲気になってしまうことは避けたかった。
 ――女の子を泣かせたからといって、即刻村を追放になるような事態にはならないと思うけど……。
 エリウスには、あとできつくお灸を据えてやらなければならないと考えながら、マリーシアは《家》まで急いで戻ることにした。



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