【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第三十三話 受け継いだ証

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「これ、お前にやるよ」
 突然、オレスが小さなバッジを投げ渡してきた。
「なんだよ?」
 大楯の中央に、切っ尖を下に向けた剣の意匠が施された、銀製のバッジだ。すぐに、自警団の人たちがいつも身に着けている徽章(きしょう)だと気付いた。
「これ、自警団のやつじゃないのか?」
「兄貴のだよ」
「じゃあ――」
 形見じゃないのか、という言葉を、アストは呑み込んだ。
「こんな大事なものは受け取れないよ」
「いいから、お前が持ってろって」
「どうして?」
「兄貴が認めたのが、お前だからに決まってるだろ。一応、推薦の件は団長さんに話しておいたよ。すぐに入団させられるかどうかは、わかんねえけどさ」
「だからって――」
「だから、お前がそれ着けて、兄貴の分も働くんだよ」
 押し付けるように言ったオレスは、アストの返事を待たずに瓦礫の片付け作業を再開した。倒壊した家の中から、まだ使えそうな柱や梁を引っ張り出し、材木置き場に運んでゆく。そこで本当に使えるものとそうでないものとに分けられるのだが、駄目になった木材だって、適度な長さに割って干しておけば、冬に暖を取るための薪にできるだろう。
「話はわかったからさ、これは返すよ」
「お前にやるって言ったんだ。同じこと、言わせんなよ」
 オレスはこちらを振り向かなかった。その後姿が、これ以上の会話を拒んでいる。
「…………」
 本当に自分が持っていていいものだろうか、と思う。
 友人が、どんな気持ちで兄の形見を寄越してきたのか、わからなかった。
 オレスがこれを持っていると、見るたびに兄のことを思い出して辛いのかもしれないが――
 自分が貰っていいようなものじゃない、とも思う。
「オルグさんが帰ってきたらどうするんだよ」
「それなら、そんときに返してくれりゃいいよ」
 使えそうな木材をあらかた運び出したところで、「今日はこの辺で終わりにしとくか」とオレスが言った。
「オレス」
「なんだ?」
 こちらを向いた瞳に、怯えにも似た警戒の色が浮いている。それでも、櫓に呑まれていった人影のことは、話さなければならないと思った。もし、あれがオレスの兄だったとしたとしたら、このまま黙っているのは友人を裏切ることになる。自分が見たことを正直に打ち明けて、この徽章は彼に返すべきなのだ。
「……おれ、あのとき櫓に呑まれていく人影を見たんだ。もしかしたら――」
「それがうちの兄貴だって、お前ははっきり見たのか?」
 こちらが言わんとすることを察したのか、不意に差し込まれた言葉に話の先を封じられてしまった。
「はっきり見たわけじゃないけど……」
「じゃあ、お前がそう思い込んでるだけかもしれねえな」
 友人がそのように結論付けてきたので、それ以上なにも言えなくなった。
「他のやつなら許せねえが、お前ならまだ許せる。いや、だからこそ、しっかりしてくれねえと腹が立つとも言えるがな。とにかく、兄貴に指名されたのはお前なんだ。後を任されたっていう自覚を持ってくれよ」
 そんなの、おれには無理だ。
 そう答えようとしたのだが、 
「じゃあな」
 オレスはさっさと手を振って行ってしまった。
 追いかけて徽章を返そうとしても、きっと受け取ってくれないだろう。
「こんなの、おれには重すぎるよ……」
 ひとりごちたアストは、手元の徽章を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 ――だから。

 だから、負けるわけにはいかなかった。
 もう逃げようなどとは思わない。
 絶対に、諦めない。
 なにがあろうと、おれは――
「ぐはぁっ!?」
 腹をしたたかに打たれ、身体がくの字に曲がったまま宙を一回転した。背中から地に落ちる。ぐっ、と肺腑から息が漏れた。早く起き上がろうと思うが、すぐには身体が動いてくれない。仰向けに転がっていると、日差しが目に刺さってきて眩しかった。倒れたまま、首だけを横に向ける。
 古びた祠(ほこら)が見えた。
 隠り世で見た祠と桜の木は、なぜか女山の頂上に引っ越してきたようだ。妖怪おばばの身体を切り開いてこっちの世界へ戻ってきたときに、祠と桜も一緒に外へ出てきたらしい。隠り世ではたくさんの花が開いていたのに、今は青々とした葉桜の姿に戻っている。
 ここが、アストたちの稽古場になっていた。本当は出入りを禁じられている山だから、自分がのた打ち回っている姿を誰かに見られる心配もない。
 稽古に付き添ってきたルシェルには、童女に竹刀(しない)で打たれてのた打ち回っているところを、しっかり見られているわけだが。
 竹刀でアストの相手をしなければならないので、アヤノの身体は元の大きさに戻っていた。元に戻ったといっても子供のような体格ではあるが、竹刀を手にした彼女は、信じられないくらいに、強い。
 ――強すぎる。
『いつまで休んでいるのでござるか。早く立ちなされ』
 倒れたのが幸いとばかりに動かずにいると、すぐにアヤノの叱責が飛んでくる。
「い、いま倒れたばかりだよ……」
『かような減らず口が聞けるのなら、余力はまだ十分にござるな。すぐに立ちなされ』
 稽古中のアヤノは、いつもと違って厳しかった。
 容赦なくアストを打ち据え、叩きのめす。
『アストどの』
「わかってるよ」
 こんなことでは、兄の形見を託してくれた友人に対して申し訳が立たない。
 アヤノから寄越された竹刀を拾い、立ち上がる。彼女が取り出した道具は実体を持たないので、アストの《力》を消費して実体を持たせてあった。アストと一緒に稽古を見てもらっているルシェルには、竹刀ではなく木刀が手渡されている。
 実体を解いた状態でも、お化けのような存在や、アヤノと強い縁で結ばれたアストの身体を打つことはできるようだ。
 じゃあ、「疲れるから、竹刀を実体にしなくてもいいんじゃないの」とアヤノに言ったのだが、『それでは、《力》の使い方に慣れる修行にならぬではござらぬか』、と怒られてしまった。
 彼女の本体はサクラメという刀そのものだから、そこから抜け出してアストたちと接触しているアヤノは、お化けよりも存在が虚ろな状態であるらしい。そんな彼女の姿を視たり触れたりするには、《幽(かそ)けし存在(もの)》を捉える眼と心が必要になるのだそうだ。
 それはともかくとして、アストとの稽古には怪我のしにくい竹刀を使って、ルシェルには下手をすれば大怪我をしそうな木刀を使うのだから、この扱いの差は、そのまま半人前と一人前の差なのではないかと思えるのが悔しかった。
『では、きなされ』
 アヤノが言った。いまアストの目の前に立ちはだかっている彼女は、いかにも剣術らしい形や構えを取っていない。竹刀の切っ尖を下げたまま、無防備に立ち尽くしているだけだ。だが、相手がどのように襲いかかってこようとも、あの千変万化の操刀の前に撃ち砕かれてしまう。『取るべき容(かたち)が無きことも、一つの容にござる』と彼女は言う。右手に刀を下げたまま、力みのない自然体で佇むその姿を、《枝垂(しだれ)の相(そう)》というらしい。
 アヤノが教える夢幻心刀流の剣術には位相というものがあり、これが他の流派で伝えるところの構えに相当するものだ。刀の位置をどこに据えるかによって、《太樹(たいじゅ)》《月陰(つきかげ)》《星天(せいてん)》《月華(げっか)》《水鏡(みかがみ)》――そして《枝垂》、という具合に名称が異なるが、型に居着くことをよしとしないのがこの流派の根底に流れる思想であるため、位相は構えであると同時に構えではない。
 アヤノの言によれば、『いかなる体勢からも無限の剣閃を放つのが、当流の要諦とする刀剣の運用法にござる』ということらしいのだ。
 枝垂の相はなんの構えも取っていないように見えるのだが、相手の攻撃に応じてどんな戦い方もできるため、彼女の思想が結実した姿といえるのだろう。
 稽古を始めるに当たって、これらの位相と刀の振り方については一通りの手ほどきを受けたのだが、どうも腑に落ちないことばかりでしっくりこない。
『操刀に力みは不要。力みは四肢の駆動を阻害し、切っ尖の奔りを鈍らせる』
『刀は、筋の力に頼らず芯の力≠ノて振るべし』
『四肢には一つの芯。身奥に柔剛自在の芯を通すことで、身体は限りなく剛健にも柔軟にもなれるのでござる』
 と、アヤノは言っていた。
 これらの言葉を自分なりにまとめると、身体の中にある芯とやらをうまく動かすことが、無限の剣閃を可能とするために必要なものらしい。
 だが、芯とはなんだ。
 骨のことを指しているわけではないようだが、自分の身体の中にそんなものがあるのだろうかと思う。
 今は考えても埒が明かないので、さっきから怖い顔をしているアヤノにどやされないように手足を動かすしかなかった。
 しかし……、攻めて崩そうにも、そもそも崩すべき形や構えが存在しないのだから、どう攻め立てればよいものかわからない。
 だからといって、足を踏み出せずにいると、
『こなければ、こちらから行(ゆ)くまででござるぞ』
 アヤノが凄むような目つきと声で脅してくるので、
「う、うわぁぁぁっ!」
 破れかぶれになって打ちかかり、
「ぐわっ!?」
 玉砕する。
 脇腹に、隙があったらしい。さっきも打たれたところだった。
 稽古に使っているのは、革筒を被せた袋竹刀(ふくろしない)というものだが、アヤノに打たれれば呼吸もできないほどに息が詰まるし、吹っ飛ばされて派手に転げ回ることもしょっちゅうだ。知らない間に身体のあちこちに痣(あざ)ができていて、風呂に入るときはそれが沁みた。
 竹刀を清眼の位置に据え、攻守の隙が少ないと思われる《太樹》の相を取ってみても、アヤノの猛攻を受ければいとも簡単に崩されてしまう。
 彼女はどこに隙があるのか一々教えてくれないが、アストを打ち据えることでその在り処を伝えてくれる。
 しかし、打たれたところばかり気にして隙を消そうとしても、今度は肩や腕への意識がおろそかになって、やはり打たれてしまう。それらの隙を全部消したつもりでも、次は足を打たれて転がる羽目になる。
 どうせ自分は隙だらけなのだから、とアヤノの真似をして構えを解いてみると、
『ほう』
 と、意地の悪そうな微笑を浮かべたアヤノが飛びかかってきて、滅多打ちにされるだけだった。
「ちくしょう……、どうして真似してもうまくいかないんだよ……」
『アストどのが弱すぎるからでござろう』
 少しだけ、カチンときた。
 もちろん、自分が弱いことはわかっているつもりだが、自分の努力を丸ごと否定されているようで、腹が立つ。
「少しくらいは、弟子が上達したところを見つけて褒めてやるのが、師匠の仕事なんじゃないのかよ」
『いやいや、上達の陰など毛ほども見当たらなくて話にならぬな。アストどのには、赤子に対するのと同じつもりで教えてやらねばならぬようでござる』
 そう言って、アヤノは竹刀を脇へ放り捨てた。
 そして、右手の人差し指を立てると、
『指、ひとつ』
 と言った。
「それはどういう意味なんだよ?」
『アストどのの相手をするには、これで十分、という意味でござるよ』
「いくらなんでも馬鹿にしすぎなんじゃないのか?」
『赤子でござれば、戯(じゃ)れるのに不足はござるまい?』
「だから、馬鹿にすんなって!」
 アヤノが、自分をからかっているのだと思った。
『拙者は大真面目でござるよ』
「指なんか相手にして、なんの稽古になるって言うんだよ!」
『では、指が相手では足りぬところを、拙者に見せてみなされ』
 アヤノはからかっているのではなく、本気で言っているらしかった。
「すぐに見せてやるよ!」
 アストにだって、意地というものがある。頭に血が上った勢いで、力任せに打ちかかった。
『ほれ』
「あぁ――っ!?」
 視界が、何度も回転した。
 硬い地面の感触が背中を叩く。まともに受身を取ることもできず、咳き込んだ。
 なにが起きたのか、わからなかった。
 竹刀を振り下ろしたと思った瞬間には、宙を舞っていた――ような気がする。
 アヤノの指先が竹刀の切っ尖に触れた瞬間は目にしていた。その指が、竹刀を軽く捻(ひね)るように動いたところも確かに見ている。
 しかし、たったそれだけのことで、あんなにくるくると飛ばされてしまうものなんだろうか?
『まぁ、こんなものでござるな。次はルシェルどのの番にござる。木刀を執りなされ』
「はい。よろしくお願いします」
「あ!? ちょっと待ってよ!」
 慌てて起き上がると、木刀を手にしたアヤノとルシェルが対峙に入ろうとしていた。
 瞬時に、両者の周囲に剣気が満ちていく。こうなってしまうと、もはや余計な口を挟める雰囲気ではなくなる。
 ルシェルの清眼に対し、アヤノは、やはり、無形(むぎょう)。
 アヤノの立ち姿には得体の知れない底深さを感じることもあるが、ルシェルが清眼に構えている姿も格好いいものだと思う。
 しかし、二人の立ち合いはいつも様子が妙だった。
 対峙したまま、両者とも微動だにしないのだ。
 始まってから半刻が過ぎても、それは変わらなかった。
 ただその場に立ち続けていることに、なんの意味があるというのだろう。
 それとも、これこそが立ち合い≠ニいうものなのだろうか。
 昨晩、アヤノと睨み合っているときになにをしているのか、ルシェルに訊いてみた。
 彼女から返ってきた答えは、とにかく、アヤノの前に立ち続けるだけで精一杯になる、というものだ。
 アストには窺い知れぬ高度な読み合いでもしているのかと思ったが、少し違うようだった。どこに動いても打たれることがわかるから、あえて動こうとしないらしい。
 でも、アストがじっと立っている場合は、すぐにアヤノが飛びかかってきてしっちゃかめっちゃかに打たれてしまうのに、いったいなにが違うのだろう?
 そんなことを考えながら二人を観察しているのだが、やはりよくわからない。
 不動の対峙が始まってから、そろそろ一刻が過ぎようとしていた。
「――っ!」 
 そのとき、ルシェルの構えが崩れた。耐えかねたように地に膝を突いて、大きく息を吐(つ)いている。
『一刻は保(も)つようになったのでござるな』
「でも、まだまだです……。ご教授、ありがとうございました」  
 呼吸を整えて立ち上がったルシェルが一礼すると、頬から一筋の汗が滴り落ちた。
「どう見ても、ただ立ってるだけにしか思えないんだけどなぁ」
『赤子の眼には、そう映るのでござろう』
「いつになったら赤子扱いを卒業させてもらえるんだよ? おれも早くそういう、立ってるだけで凄そう≠ネ感じになりたいんだけど」
『いまは種を蒔いたばかりでござるからな。芽を出し、根を生やし、枝を張り、やがて大樹となって花果(かか)を実らせるのは、まだまだ先のことでござる』
「そんなの、どれくらいかかるんだよ」
 樹を喩(たと)えに出してきた時点で、嫌な予感がする。
『すべてはアストどの次第でござるよ。ただ漫然と月日を過ごすだけでは、十年を費やそうとも芽を出すことさえかなわぬ』
「それって、土の中で腐ってるんじゃないの?」
『左様。然(さ)ればこそ、腐らぬように水と滋養を与えねばならぬのでござる』
「そんなこと言うけどさ、水も与えずにやたらと踏みつけられたら、雑草だって生えてこれなくなるよ」
『ほう。その言い分には一理ござるな』
 にやり、と笑みを受かべたアヤノは『では、立ちなされ』と言葉を続けた。
「なんか教えてくれるのか?」
 うむ、と肯いたアヤノは、二、三歩ほど離れた地面の一点を指し示し、『アストどのは、そこに立っているだけで構わぬ』と言った。
「わかった」
 期待に胸を躍らせながら、アヤノが指し示した辺りの地面に立つ。
「で、なにを見せてくれるんだ?」
『アストどのが見たがっているものでござるよ』
「へー? なんのことかわかんないけど、とりあえずやってくれよ」
 いまいちピンとこなかったが、見せてもらえばわかるだろうと思い、アヤノの挙動を見守ることにした。
「…………」
 なにも、起きない。
 アヤノは、なんの感情も読み取れない顔つきをしたまま、黙って立ち続けているだけだ。
 この意地悪な師匠は、また弟子をからかっているんじゃないか、という疑問が脳裡に浮かんだ直後。
 視界が、ぐにゃり――、と歪んだ。
 脳天から足下にかけて、耐え難い凄絶な寒気が奔り抜けていた。
「うはぁ……!?」
 いつの間にか、尻餅をついていた。全身を貫いた寒気がなかなか退かず、膝が笑い、足腰が立たない。こんなの頼んだ覚えはないぞ、と文句を言おうとしたが、背筋を這い上がってきた怖気が発語を封じている。
 アヤノは、依然としてなにも読み取れない表情をしたまま、そこに立ち続けていた。
『その感覚を、しかと骨身に刻みつけておくことでござるな』
「今の、なんだったんだよ?」
 わけがわからない。
 アヤノはただそこに立っていただけなのに、なにか凄まじい気配を浴びせられて、堪らずへたり込んでしまった。
 ひょっとして、今のが剣気と呼ばれるものなんだろうか?
『では、アストどの。山を下りるので、拙者とルシェルどのを背負いなされ』
 肝心なことを語ってくれない師匠は、弟子の問いに答えようとせず下山の指示を出してきた。稽古場から麓までを上り下りするときは、ルシェルとアヤノを負ぶって歩かされることになっているのだ。
「あのさぁ、今日はちょっと疲れてるから、背負うのは一人だけでもいい?」
『む、楽をする気でござるな』
「しょうがないだろ。滅多打ちにされて気分も凹んでるし、疲れてんだから」
『ふむ。ならば仕方ござらぬな』
 そう言って、アヤノが背中に飛び乗ってきた。
『では、しかと立って歩きなされ』
「ああ」
 適当に生返事をして立ち上がると同時に、
「あ、あれ?」
 なんだか、重く感じる。
 いや、これは重い。
 ちょっと重いどころか、どんどん――
 重くなる。
「重っ!? なんかこれ、やばいって!?」
 靴先が、見る間に土の中にめり込んでゆく。
『なにもやばくござらぬ。喚(わめ)くほどの暇がござるなら、一歩一歩足を踏み出すのでござるよ』
「いや、ちょっと、無理!?」
 そのまま潰れた。
「重い重い!? 息できないって!」
『楽をしようとした罰でござるよ』
 アヤノが背中から離れ、ようやく楽になった。
「いったいなにがどうなってるんだよ?」
 やっとのことで身体を起こすと、
『アストどのはいま、天を背負おうとしたのでござる』
 アヤノがそんなことを言った。
「天? 空のこと?」
『うむ。ちと空を見上げてみなされ』
 言われたとおり、空を見上げてみる。アストの今の心持ちからすると、憎たらしくなるような秋晴れだ。
『アストどの。空を見て、なにか感じることはござらぬか』
「なにかって……、青いとか」
 そんな抽象的な質問をされても困ると思いながら、答えた。
『他には』
「すっごく広い」
『ふむ』
「すっごくでかい」
『左様』
 なにか、馬鹿にされてるような気がする。
『では、アストどのが広くてでっかい空を背負って歩けばどうなるか、想像してみなされ』
「潰……れるね」
『先ほどは、それを試したのでござるよ』
「なにその、天を支える巨人みたいな話」
 それと、背負った途端にアヤノがとんでもなく重くなったことと、なんの関係があるのだろうと思う。
『アストどの』
「なんだよ」
『拙者が種蒔きの喩えでなんと言ったか、憶えてござるか』
「ああ。芽を出すとかなんとかってやつか」
『うむ。アストどのはまだ枝葉のことを気にかける段階ではござらぬ。まずは芽を出し、大地にしかと根を張りなされ』
「つまり、身体作りをしっかりやれってことだろ?」
 立ち上がり、脚や腹についた土を払う。
『左様。いかに枝葉のみが立派に生い茂っていたとしても、それを支える根や幹が貧弱でござれば樹は倒れる』
「そりゃ、そうだろうけどさ」
 説教を聞かされるのは好きではなかったが、自分から剣の教えを請うて弟子入りした手前、聞かぬわけにはいかなかった。
『種が芽吹いてのち、まず肝要になるのは、根』 
 呟きながら、アヤノはアストの脚に手を触れた。
『次に、幹』
 その手が胴に向かい、
『枝葉や花は、最後でござるぞ』
 最後に、腕や顔に触れた。
「そっか」
 ルシェルのような細身の少女からも大きく後れを取っているのは悔しいし、自分が恥ずかしくもなるが、彼女だって、幼いころからの地道な鍛錬の積み重ねがあって、今があるはずなのだ。自分が一日やそこらの稽古をしたところで、彼女と同じ域に追いつけるわけがなかった。
 ふと、背後を振り返る。
 視界に収めた葉桜の姿に、満開の花々の幻影が重なって見えた。
 この桜の木だって、立派な花を咲かせるまで長い歳月を過ごしてきたはずなのだ。
「なんとなくだけど、わかったよ」
『ならば結構にござる』
 アヤノが微笑んだ。稽古中は厳しい表情ばかりしているから、久しぶりに彼女が笑ったところを見たような気分になる。
 怠けそうになった自分を反省したアストは、二人を背負って山を下りることにした。最初にルシェルを背負い、ルシェルの肩にアヤノが手をかけて掴まっているような具合だ。二人を背負うといっても、大柄な男一人を運ぶよりは楽かもしれない。
 そんなことより、ルシェルを背負うときは、背中にとてもやわらかい感触が当たって、なんだか無性に――
 やる気になる。
「よぉぉぉし! やってやる!」
 一声叫んだアストは、俄然勢い込んで山を駆け下り始めた。
『はなから張り切りすぎると、また途中でへばって動けなくなってしまうでござるよ』
 アヤノに言われなくてもわかっていることだが、アストは速度を緩める気にならなかった。



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