【第四章】昏き影、嗤う魔女、集う光
第三十九話 目醒める遺産

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 足下に、塔頂が見えていた。
 かつて――《昏き時代》と呼ばれる昏冥の時世(ときよ)において――は《生命(いのち)の樹》と呼ばれていた古代の遺跡である。
 それは地上に住まう人間たちからすれば、まさに、天を衝く、と形容するのが相応しい巨大な建造物に見えるだろう。設計上の高さは七千メトレ(七千メートル)を超えており、下層に拡がる雲を貫くように聳え立つ姿には、そう思わせるだけの威厳と威圧が具(そな)えられていた。
 この塔が建てられてから三千年近くの歳月が過ぎているというのに、天界の鉱山でしか切り出せぬ真理石は寸毫の風化も許さず、時の流れを感じさせぬほどの鮮やかな光沢を放ち続けている。
 だが今は、大地に屹然(きつぜん)とそそり立つその偉容を眺めているわけにはいかなかった。塔頂の中央に設けられた《天窓》へ向って、慎重、かつ迅速に、降下を続ける。
 外壁上の各所に、《重幽子砲》や《多重咒波障壁》などの防空設備が設置されているはずであったが、それらが作動しているような気配は見られない。塔がひとりでに地上へ姿を現した原因は不明だが、ほとんどの機能はまだ停止したままのようだ。
 もともと先述の砲台などは、ただの浄化施設に過ぎなかったこの遺跡に備えられているものではなかった。
 各地に残された遺跡に手を加え、三界(さんがい)を私(わたくし)のものとする足がかりを得るために要塞化した者がいるのだ。
 あの男は地上界のみならず、天界、冥界を含めた全世界の支配者となることを欲し、自らに生を授けた父親までも、その手にかけようとした。
 恐れを知らぬ謀逆である。
 しかし、先の七英戦争において、聖女の剣を胸に受けた男は絶命した。同時に、彼が抱(いだ)いた僣上(せんじょう)に過ぎる野望も潰えたはずであった、が――
 その、娘だ。
 永らく行方を眩ましていた狡猾な魔女が、七英たちを黄泉返らせる手はずを各地で整えていたのである。
 この三百年の間、追跡の手を緩めたことはなかった。
 ゼヴェスの祇徒(しと)だけではなく、ラルスの神遣いどもも魔女の追討には血道を上げていたのだ。互いに不倶戴天の敵として闘争を続けている両陣営ではあったが、あの女を始末する一事に関しては、利害が一致していたのである。
 だが、各々の陣営が総力を挙げて追跡に当たったにもかかわらず、女を捕らえるどころか、その足取りを掴むことすら敵わなかった。
 それだけではなく、自分たちが手を拱(こまね)いている間に、彼女が事を起こすのに十分な時間を与えてしまったのだ。
 失態である。
 我らが宗主はまだ傷が癒えておらぬというのに、よくも好きに動き回ってくれたものだと思う。
 魔女の放縦(ほうしょう)を許した我々の非は免れないにしても、……実に忌々しい限りだ。
 ゼヴェスの祇徒たちがヴェルハイム城に攻囲を仕掛けてから、およそ半日ほどが過ぎようとしていた。友軍が彼らの動きを封じている間に自分が別働隊を率いて、聖女が潜伏しているというグラード地方東部の村を急襲する。
 主たる目的は聖女から《卵》を奪取することだが、そのために、この村に現れた遺跡と、その中にあるもの≠利用するつもりだった。
 恐らく、あの女も同じことを考えているはずだ。
 攻囲を脱けてこちらへ向う者が現れることは想定していたものの、魔女自らが出向いてきたというのが、誤算だった。
 いや、《卵》を己以外の何者にも触れさせたくないのであれば、それも当然か。
《卵》を、あの女の手に渡すわけにはいかなかった。
《卵》は、我らが宗主にこそ必要なものであり、我らが宗主にこそ相応しいものなのである。
 この混乱に紛れて、ラルスの手の者も動いているはずだ。
 天地双方において大規模な軍事衝突が生まれたあの戦乱――七英戦争――以来、奴らとは永らく互いの動きを牽制しあってきたが、ここにきて状況が変わった。
 神遣いどもの軍勢が、魔女の《黄泉反し》によって多大な被害を受け、勢力の均衡が破られたのである。
 先前であれば、我らの探索を阻害するべく天の尖兵たちが送られてくるのが常であったが、現在の奴らにそのような力は残っていないはずだ。
 劣勢に追い込まれた神遣いどもは、《卵》を手中にすると同時に、剣の聖女を自陣に抱き込むことを画策しているだろう。
《三一(みいつ)の剣(つるぎ)》――ヴェスティール。
 あれは、脅威だ。
 聖女がすべての力に目醒める前に、なんとしてでも討ち果たさなければならない。
 聖女と魔女の双方を相手取って戦うなら、やはりあの遺物≠フ収用は不可欠といっていいだろう。
遺物≠ェ経年劣化によって使い物にならなくなっているのではないか、と憂慮する意見もあり、遺跡の探索が一つの賭けであることは承知していた。
 しかし、遺物≠フ状態を確かめる前に諦めるわけにはいかない。
 我々には、力が必要なのだ。
 今回の作戦を決行するに当たって自軍を三分し、そのうちの一つを魔女の足止めに向かわせたが、殲滅(せんめつ)されるのは時間の問題だった。
 残りは村の破壊と遺跡の探索に振り分け、村の破壊を行う部隊には、聖女を誘(おび)き出す役割を担わせているため、ここでも多くの犠牲を強いられることは避けられない。
《十六祇徒》の一席を占める者といえど、自分の好きに動かせるのが、祇徒としては最下級に属するジャミスだけという現実は、歯痒かった。その現実が、《十六祇徒》における自らの席次を如実に象徴しているのだ。
 これを覆(くつがえ)すには、より大きな力が要る。
 遺物の収用に成功すれば、それも叶うだろう。遺物を自軍のものとして編入すれば、投入した戦力の過半を失ったとしても、その損失を補って余りある。
 全身を包む暗灰色の外套をはためかせながら、塔頂に降り立った。周囲には、配下のジャミスたちが続々と降下してくる。
 咒像を展開して認証を求めてきた《天窓》に対して、指先に喚び出した咒弾を撃ち込んだ。
 着弾と同時に《天窓》があえなく吹き飛ばされ、進入口が開く。
 ジャミスたちを従え、塔の内部へ進入する。案の定、咒力制御による昇降機構は作動していない。祇徒たちが翼を広げ、五十メトレ(五十メートル)ほど降下したところで床に足が着いた。《天窓》から降りた先には上層でもっとも巨大な区画があり、二つの広間を一本の通廊が繋げる構造になっている。
 目当てのものが、塔の上層と下層のどちらにあるのかはわかっていない。上層は自分が探索し、下層は一階から進入した副官のザガロに任せていた。
 かつての上官は、魔女追撃戦で犯した失態の責を負わされて降格し、自分が入れ替わるように《十六祇徒》の座へ就くことになったのだ。
 ようやく昇り詰めたこの地位を、つまらぬ錯誤によって失うわけにはいかない。
 敵の待ち伏せや奇襲を警戒しつつ、通廊の奥へ歩を進める。
 塔内は闇に満たされていたが、暗闇を見通す眼を有する祇徒たちには関係のないことだった。人間たちのために取り付けられた照明設備は、まだ眠ったままのようだ。塔の外壁が陽光を蓄積する機能を有しているため、本来であれば、そこで取り込まれた光が伝光管を経由して塔内の各所に運ばれ、灯りがもたらされるはずであった。
 だが、停止している管理機構を復旧させるのは、完全にこの遺跡を掌握してからでいい。
 今は、遺物≠フ探索がすべてにおいて優先される。
《天窓》のある広間から伸びている通廊を直進したところで、もうひとつの広間へ行き当たった。
 その入り口で、足を止める。
 闇の奥に、さらに色濃い闇が蟠(わだかま)っていた。祇徒の眼をもってしても見通せぬ闇など、そうあるものではない。
 どうやら、ここで間違いないようだ。
 塔全体の構造を見たときに、この区画が最も怪しいと睨んでいたが、その通りだった。
 遺物は、この奥に在(あ)る。
 既に確信は揺るぎないものとなっていた。しかし、足は広間の入り口で止めたままだ。
 ……舐められたものだな、と内心に独語した。
 天井に貌(かお)≠向ける。
 直後、その面上が暗く輝いた。
 幽かな光とともに、貌≠ゥら束≠ェ放出される。
 それは、闇と同じ色をした、夥(おびただ)しい数の――
 手だ。
 夥しい数の手が――、黒い手が――、手が手が手が――
 手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が手が――
 蠢き、うねり、押し寄せ、広間の天井を浚(さら)ってゆく。
 天井に在った者たちを、掴み、潰し、引き剥がした魔手の群れは、事を為し終えてから貌≠フ中へと帰還した。
 この貌≠フ内部は、この世と異なる無数の物理法則――及び、霊理法則が不規則かつ不合理に混在する異空間で構成されている。よって、この矛盾に満ちた異空間に呑み込まれた者は、撞着と衝突を繰り返す無数の法則群による理不尽な暴力に曝された結果、姿形を保つことすら叶わずに擂り潰され、崩壊するのみだった。
 さらに、貌≠ノつながる喉は体内器官としての気管や食道の他に特異な次元的構造を有しており、冥界の深層にある獄界へと連結すれば、死者を冥府へと誘う門廊と化すことができる。無数の黒手は門廊の一部であり、普段は異次元体である貌≠フ内部に格納されていた。
 ――魔女の咒隷たちか。
貌≠フ奥で咀嚼(そしゃく)を繰り返すと、錆びた血の味がした。
 実に不味い血だ。
 吸血の趣味は無いが、血を味わうのであれば、やはり処女に限る……。
「《無明(むみょう)の黒貌(こくぼう)》か」
 その声は、闇の奥から響いてきた。
「よく見せてもらった。無貌(むぼう)のスクニクスとは、貴様のことだな」
 声の主は、広間の奥に蟠る闇の上にいる。
 足止めに向った部隊は、既に殲滅されたか。
 許せ。お前たちの死を無駄にはしない。
「最下級の出でありながら、《十六祇徒》の座に昇り詰めた者がいると聞いてはいたが……。蜥蜴(とかげ)の割には面白い芸当ができるじゃないか」
 魔女の挑発には乗らなかった。
 後続のジャミスたちには待機を命じ、広間の奥へ向って悠然と歩を進める。
「一切の光を通さぬ闇洋(やみわだ)の面であれば、蜥蜴の突き出た鼻面(はなづら)を隠すにも、さぞかし都合がよいのであろうな」
 フフフフ、という耳障りな嘲笑が広間に木魂した。
 無駄口の減らない魔女め。
 だが、恥じることなどない。
 この貌≠ニ、この姿で、自分は《十六祇徒》の座に昇り詰めたのだ。
 わかるまい。
 祇徒の最高位に至るまで、自分がどれほどの蔑みを受け、嘲り笑われる日々に耐えてきたことか、この女にはわかるまい。
顔が無い≠アとを理由に、実の母の手によって棄てられた子の気持ちなど、わかるまい。
 それでも自分には、力≠ェある。
 この貌≠ノ宿った力のみを信じて、嘲る者どもを捩(ね)じ伏せてきたのだ。
 同情は要らぬ。
 力≠セけがあればよい。
 蟠った闇の前で足を止め、その上≠ノ腰掛けた魔女へ黒貌を向けた。面上には咒紋によって生成された黒瞳が浮き上がっているのだが、貌の色と一体になった眼を外から見分けることはできないだろう。
 遺物は、沈黙している。
 まだ魔女の支配下にはない、と判断した。
「僭王(せんおう)の情婦よ、そこから穢れた尻を退(の)けて、地に這い蹲れ」
 ややくぐもった低声が、黒貌の奥から発せられた。
「ほう、人に指図をするとは珍妙な蜥蜴だ。檻へ入れて飼うのも一興だが、その生皮を剥いで、情婦の穢れた尻とやらの下へ敷いてやるのも悪くない」
 毒言には毒言を以って応じた魔女の相貌には、刃のごとき鋭さを持った笑みが刻まれたままだ。
「《卵》を用いてあの叛逆者を蘇生させるつもりなのであろうが、そうはいかぬ。あれは、我らが宗主の御手(みて)によって管理されるべく存在するものだ」
「ずいぶんと持って回った言い方をするものだな。貴様らこそ、あの死に損ないの身体に刻まれた不治の傷を癒すために、《卵》を欲しているのであろうが」
「言葉遣いには気をつけろ。我らが主上を冒涜するような真似は寸毫(すんごう)たりとも許さぬぞ」
 幽かな怒気を波打たせた黒貌が警告の声を発したが、泰然と構える魔女に動じる素振りは見られない。魔的に歪められた紅い唇からは、淫靡な滑(ぬめ)りを伴った笑声が漏れ聞こえた。
「これはよく飼い馴らされた蜥蜴のようだ。機嫌を伺うときは、その舌で死に損ないの垢を舐め取ってやるのか?」
「破廉恥な! 投降の意思があるなら御前に引き立てるつもりでいたが、所詮は、父殺し≠企てた大罪人の娘ということか!」
 至尊の御血筋から、かくも愚劣な父娘が生まれるとは悲嘆の極み。
 今にして思えば、宗主の一時の戯れによって地上人(ちじょうびと)との間に子が生まれた瞬間から、すべての歯車が狂い始めたのだ。
 輝かしき栄光の座に染み付いた、たった一つの汚点。
 この汚点は、速やかに取り除く必要がある。
「――それで、この私をどうするつもりだ?」
 無貌の面から放たれる威圧と殺意を受け流した汚点≠ェ、冷ややかな口ぶりで問いを発した。
「咎人(とがびと)は裁くまでだ。宗主の御名において、貴様を処刑する」
「ならばやってみせよ。蜥蜴がいくら足掻いたところで、私のもとへは辿り着けぬと思うが」
「貴様のような痴れ者に安らぎは与えん。奈落の潭(ふち)で永劫に悔い続けるがよい」
 もはや済度の余地はない。
 その余裕に満ちた冷笑を、腐肉の塊に変えてやらねばこの怒りは鎮まらぬ。
 スクニクスの黒貌に咒紋が喚起された。

 非業に斃れし朋輩の魂よ
 いま再び、我が求めに応じて馳せ集え
 悲憤に滾る無念、憎念、怨念を抱く者どもよ
 我が紋(ことば)に宿り、腐蝕の咒詛となりて仇為す者を滅せよ

 
 それが、黒貌に浮かび上がった咒紋の連なりが持つ意味だった。だが、これを声に出して唱える必要はない。魔法の発動に要する呪文の詠唱を、呪的な意味を表象する記号や紋様の発動式に置き換えたものが、咒紋なのだ。
 いま、自分の周囲には、咒紋によって呼び起こされた妖気の力場が現出し、魔女に討たれた祇徒たちの怨霊の群れが蝟集(いしゅう)しつつあった。三百の霊魂が一つの集塊を形成するとともに、およそ五十ほどの集塊が、無貌の軍団長を中心とした円形の戦陣を描くように乱れ飛んでいる。
 怨嗟の声を上げながら宙を彷徨う彼らへ向けて、右手を差し出す。
 その掌中に怨霊たちが寄せ集まり、見る間に呪念の弾体と化した。
 ――穢れ多き不浄の淫婦め。我らが魂の痛みを、思い知るがいい。
 貴様が最下級と侮った、万軍の怨みと、嘆きと、怒りが――
 お前を喰い滅ぼす。
 黒貌の奥に燻る殺意を篭めて、解き放った。

 腐詛の咒法――《死霊の咒弾》

 怨霊の凝集塊が、冷ややかな笑みを湛えている魔女へ襲いかかった。
 彼らは標的を捕えるまで追尾を続け、魔女が身辺に展開しているであろう防護障壁を侵蝕し、喰い破る。怨霊たちの咒詛を浴びた魔女の身体は圧倒的な負の力によって蝕まれ、生気を根こそぎ奪い取られて腐り落ちるしかないのだ――
 だが、渾身の魔力を篭めて放った呪念の弾体は、魔女のもとへ達する遥か手前で掻き消されるように散逸した。
「却咒(きゃくじゅ)されたのか!?」
 無貌の面上に驚懼(きょうく)が滲む。
 魔女の防護障壁ではない。
 となれば、遺物か?
 障壁を張った気配は愚か、起動した形跡も見られないというのに、侵蝕すら許さぬとは。
「アハハハハッ!」
 およそ恥じらいとは無縁な大笑が頭上に浴びせられた。
 ……そうだ。
 俺を見下す連中は、いつもこのような下卑た笑い声を上げて己の優越を誇っていた。
 俺は、この卑劣な笑い声を上げる者を、許さない。
「そんなに大きな咒紋を使ってよかったのか?」
 魔女の声には、既に勝者の傲りが含まれているように聞こえた。
「なんだと?」
「貴様が張り切りすぎるから、寝た子を起こしてしまったではないか……」
 その言葉とともに、遺物の頭部があると思しき辺りに、二つの青白い光点が燈った。
 遺物の近辺で巨大な魔力を発したことで、覚醒を促してしまったのか?
 不覚である。
 しかしそうであるなら、咒法を放った時点で遺物はまだ目醒めていなかったはず。
 それが、如何にして我が《万軍の咒弾》を消し飛ばしたというのか?
「あの程度の粗末な食事では、巨神(きょじん)の腹は満たされぬようだ。万軍が寄せ集まったところで、雑魚は雑魚ということか」
「貴様!」
 遺物が、喰らったというのか。
 我らの、力を、怒りを、魂を――
 粗末な食事だと吐(ぬ)かすのか。
 ……許せぬ。
「まぁ、苟(いやしく)も《十六祇徒》の端くれであれば、《アルジュ・アヴ》の炉にくべる薪(たきぎ)として不足はあるまい」 
 魔女の紅い瞳が、こちらを見つめている。
 この俺も、こいつの餌に供するつもりなのか。
「さあ、ご飯の時間よ……」
 魔女の声が、我が子に囁きかける母親のような響きに変わった。
「千年も眠っている間に、たくさんお腹が空いたでしょう……?」
 この女は、戯(ざ)れているのか。
 だが、魔力を孕んだこの声は、遺物を自らの支配下へ置くための符牒として機能しているのだろう。そして遺物は、既に我々を敵≠ニして認識しているはずだ。
 撃たねば、喰われる。
 それはわかっていた。
 しかし、万軍の魂によって生み出された咒弾を瞬時に喰らい尽くすような超兵器を相手に、なんの咒法なら通ずるというのだ。
 ――届かぬというのか。
 我らの、力が、怒りが、魂が――
「蜥蜴は尻尾にいっぱい栄養を蓄えているのよ。だから、好き嫌いせずに、たんとお上がりなさい……」
 まるで、母の言葉に従う幼子(おさなご)のごとき素直さで――
 遺物が、口を開けた。
 生物的な滑(ぬめ)りと艶のある口腔内には、装甲板にも用いられている神霊合金の牙が密生しており、蠱惑的な紅い光に包まれている。
 風が、流れていった。
 遺物が、塔内の大気を吸引しているのだ。
 一秒と経たぬ内に広間は真空と化していたが、空気を吸い尽くしても破壊的な吸引は終わらない。
 ――この力は!?
 遺物の喉奥に、強大な重力穴が発生したとしか思えなかった。
 抵抗し切れなくなった祇徒たちが、次々と巨大な口の中へ吸い込まれてゆく。
 黒貌から無数の黒手を伸ばして広間に張らせたが、底無しに強まる吸引の前には無力だった。
 壁や床ごと黒手を引き剥がされ、昏い洞穴のごとき口腔に向って、為す術もなく吸い寄せられてゆく。
「食べ物を粗末にしては駄目よ。蜥蜴の尾も、頭も……。その黒い貌も、そこに生えるたくさんの手や腕も、残さず頂きなさい……」
 周囲は真空であったが、魔力に乗せられた声が聞こえてきた。
 魔女の声。
 母の声だ。
 母のごとき慈愛に満ちた声。
 ……慈愛だと?
 子を産み育てた経験もない淫らなだけの女に、慈愛など――
 視界が、紅く染まった。
 あとは、無――

       †

 警報が鳴り、真空状態となっていた広間に外部から取り込んだ空気が流入していた。
 空気がないのは人間にとって一大事であろうが、魔女にとっては大した問題ではない。
 考えるべきことは、他に山ほどあるのだ。
 レニヤの視線は、起動したばかりの古代兵器に向けられていた。
 あまり質は良くなかったものの、大量の魂を取り込んだことで《アルジュ・アヴ》を動かすのに必要なだけの魔力は蓄えられたようだ。
 だが、父が長い年月をかけて復元を試みていた《封神装甲》に、どれほどの力が秘められているのかは不明である。
「父上も酔狂だ。男という生き物は、このような玩具を弄り回すのに、よほど興奮を覚えるものと見える」
 口ではそう呟いていたが、これらの復元が三百年前の戦争に間に合っていれば、勝敗の帰趨(きすう)は異なるものになっていたかもしれない。
 この《アルジュ・アヴ》にしても、できあがったのは上半身だけで、脚はついていなかった。ヴェルハイム城へ運び、アドラフに復元を命じるべきか。
 各地の遺跡にも、同格の《封神装甲》が幾つか眠っているはずだった。
 それらの発掘は、急がなければならない。
 祇徒どもが総力を挙げての殲滅作戦が失敗に終わった今、彼らは死に物狂いになって古代の超遺産を押さえようとするだろう。 
 ヴェルハイム城周縁での戦闘については、オルグたちに一任してきた。自分だけ包囲戦から脱けてくる恰好になったとはいえ、異霊の攻勢を押し返すのは彼らの力だけで十分なはずだ。
 神遣いどもの動きが不明だが、これはベンティスからの報告を待つ必要がある。あれだけの被害をこうむったばかりで、彼らが積極的に仕掛けてくるとは考えにくいが――
 まずは、剣の娘だ。
 宿敵の血を受け継いだ娘の顔を想い起こしたレニヤは、体内の血液が戦いの喜びに沸き立ってゆくのを感じていた。



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