【第四章】昏き影、嗤う魔女、集う光
第四十話 魔女の怒り、二人の絆

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 膝が、笑っていた。
 何度も瞼をこすってみたが、一度眼に映ったそれ≠ェ消えて無くなることはない。
 おかしな幻を見ているわけではなさそうだった。
 蜥蜴(とかげ)の頭を持ち、身体に蝙蝠(こうもり)の翼を生やしたようなものが、空を飛んでいるのだ。
「おい……、あれなんだよ?」
 背後のユータへ問いかける。内面の恐れが声へ表れないように気を張るだけで、精一杯だった。
「し、知らないよ!」
 ユータは声だけではなく、全身で恐怖を表現するようにガタガタと震えていた。
「どう見たってバケモンの大群だぞ!? あいつらどっから湧いてきやがったんだよ?」
 オレスたちは、路地裏に並ぶ家々の間に隠れて空を見上げていた。
 暗雲に覆われた空を引き裂くように、一筋の光が奔る。雷に似た烈しさを持った光が化け物の大群へ直撃し、巨大な爆光を開いた。
「あそこに、化け物たちと戦ってる人がいるよ?」
 ユータが指し示す方向に、緑色の光を背負った何者かの姿が見えた。
「人? 人なのか? 空の上だぞ!?」
「わかんないけど、人っぽいよ! 背中に蝶みたいな翅(はね)が生えてるけど」
「んなもん生えてるやつが人なわけねえだろ!」
 だがユータが言うとおり、宙に浮かんでいるその人影は、翅さえなければ若い女性の姿に見える。
「でも、あれは人だよ!」
「俺の知る限り、人間の中に翅生やして空飛んでるようなやつはいねえ! ああいう妖怪おばばの若いやつみたいなのは、ほら、あれだ!」 
「魔女って言うんじゃないの?」
「それだよ! けど、隣にいるもう一匹のやつは、やっぱバケモンに見えるな」
「そうだけど」
 魔女と、その仲間と思しき異形の戦士が、化け物の大群を相手取って戦っているようだ。しかし、彼らが人間のために戦ってくれていると思い込むのは危険じゃないか、という気がした。
「きっと化け物の中には、いい化け物だっているんだよ!」
「そんな都合のいい話があるかよ! どうせ仲間割れに決まってんだろ!」
 オレスは、上空で火の玉や光の矢のようなものを撃ち合っている魔女たちを睨みつけた。
「じゃあ、どっちが勝ち残ってもよくないの?」
「どっちもくたばってくれた方が面倒は無さそうだけどよ、いざというときは、俺たちで戦(や)るしかねえな」
「あんなのと戦ったら命が幾つあっても足りないよ! 早く逃げようって!」
「馬鹿野郎!」
 怒鳴りつけながら、背後へ振り返った。
「兄貴がいねえんだぞ! 自警団もどこでなにやってんのかわかんねえし、自分の身は自分で守るしかねえだろ! そんなんだから、お前はいつもで経っても泣き虫ユータから卒業できねえん――」
「流れ弾がきてるよ!」
「なにぃ!?」
 再び上空へ視線を転じると、赤い火の玉がこちらへ落ちてくるのが見えた。
「逃げろ! 逃げるぞ!」
「どっちに!?」
「いいから逃げろって――馬鹿!? 逆だろ!?」
「ええっ!?」
 オレスは家の裏へ脱けようとしたが、路地へ飛び出そうとしたユータとぶつかって、転がった。
 陽炎のように大気を歪ませながら飛来した火の玉が、真隣の家に命中する。
「わああああっ!?」
 爆発と同時に弾け飛んだ屋根や壁の一部が、二人の頭上へ降りかかった。
「痛い痛い! 真っ暗だよう! 僕死んだんだ! だから早く逃げようって言ったのに……! なにもかも全部オレスが悪いんだ!」
「落ち着け! まだ生きてんだろ! ――くそっ!」
 上に圧(の)しかかってきた木の板をどけると、すぐに瓦礫の中から顔を出すことができた。一枚だけ被さった壁板が、爆発や破砕物から二人を守るような働きをしてくれたのだろう。
「生きてる!? ほんとだ!」
「そうだろうが! もたもたしてっと火が回ってくんぞ!」
 先に路地へ脱け出たオレスは、瓦礫の上をのそのそと這ってくるユータを待つこともなく走り始めた。
「オレス! どこ行くんだよ!?」
「アストの家だよ! マナちゃんを守ってやる男が必要なんだ!」
「アストの家にはアストがいるし、おばさんもいるからだいじょうぶだよ!」
「そこにこの俺が加わったら、よりだいじょうぶってことだろうが!」
「じゃあ僕も行くよ! 置いてかないでよ!」
「だったら走れ!」
 それ以上、ユータのことを構ってやる余裕はなかった。
 自分の家がどうなっているか気がかりだが、アストの家に寄ってもそれほど遠回りになるわけではない。こんなときに兄貴がいたら、我が家の方は安心して任せることができるのだが。
 しかし、泣き言を零したところでなにも始まらない。
 兄貴がいないのなら、兄貴の分まで自分が走り回るだけだ。
 ……兄貴は、もう還ってこないかもしれないが、いつか還ってくるかもしれないのだ。
 その時、俺が情けない顔をしていたら、きっと兄貴に笑われてしまうだろう。
 兄貴に笑われるような男にだけは、決してなるまいと思う。
 ――だから!
 ――みんなのことは、俺が守ってやる!
 ――みんな、俺が守る!
 誓いにも似た決意を胸裡に繰り返しながら、オレスは走り続けた。
 
       †

 数が、多すぎる。
 マリーシアは、あらゆる方向から放たれる火線を躱しながら、敵との間合いを確保しようとしていた。
 一体ずつが持っている力は、大したものではない。所詮は、最下級に属する祇徒だ。
 しかし、大軍である。
 一度の魔法で十から二十の祇徒たちを葬っているものの、空を埋め尽くす黒翼の群れは、少しも数を減らしているように見えなかった。
 正確な数は把握しかねるが、一万近い軍勢が村を攻撃しているのではないかと思う。
 でも、なんのために?
 やっぱり、村はずれの遺跡になにか関係が――
「――ひゃっ!?」
 死角から飛んできた光弾が顔のすぐ傍を逸れていったので、ぞっとした。
「エリウス! もっと敵を押し返して!」
「やってるよ!」
 エリウスは、マリーシアの周囲に敵を近寄らせないように戦うことで精一杯のようだった。彼が大鎌を振るうたびに、両断された祇徒たちの遺骸が地上に向って落ちてゆく。
「じゃあ、さっきから火の玉がひゅんひゅん飛んでくるのはどうしてなの!」
「こんなにたくさんいるんだから、何個かそっちに行くのは仕方ないでしょ!」
「その何個かがあたしに当たって死んじゃったらどうしてくれるの!? さっきの約束を守れなかったら呪い殺してやるんだから!」
「憎まれ口はいいから、早く魔法を使いなよ!」
「やってるでしょ!」
 マリーシアは、両腕に纏った絹織りのような霊気の被膜に、咒紋を次々と呼び出していった。
《日輪(にちりん)の羅紋(らもん)》
 それが、彼女の命に宿る力≠フ名だった。
 そこに刻まれてゆく紋は、言葉≠ナある。
 魔法として組み上げられていない、純粋な魔力を敵に叩き付けることもできるが、それだけでは火や風を起こすことはできない。
 魔法使いと呼ばれる者たちが呪文を唱え、魔方陣などの秘蹟図を描き出すのは、放出した魔力の作用に法則性を授けるためであり、術者によっては身の仕種(しぐさ)や、杖を用いた所作でそれを行うこともあった。
 神遣いや祇徒、あるいはどちらの勢力にも属さぬ精霊たちの力を借りて魔法を行使する場合も同様で、彼らの力が術者の思惑を外れて暴走せぬよう規程する必要がある。
 つまり、魔法を唱える≠ニいう行為は、こうした一連の法儀式を執行し、放たれた魔力に果たすべき機序を与えて、術者の意図に適(かな)った現象を引き起こすことを指すのである。
 当然、強力な魔法を行使するには膨大な魔力の導出が要求され、それだけの魔力を織り込むためには、長大な呪文の詠唱が不可欠となるのだ。
 魔法の威力は凄まじいが、発動に要される魔力を体内で煉り上げるためには、入神状態に達するほど精神を集中しなければならず、術を執行する者にとっては、これがもっとも危険な瞬間であるといえた。詠唱に取りかかっている間は、ほぼ無防備な姿を敵の眼前に曝してしまうことが避けられないのだ。
 術者の身辺に防護障壁を展開していても、呪文の詠唱にすべての集中力が傾けられると、障壁が不安定になって弱化しやすいという難点があった。
 そうした問題があるゆえに、咒紋を用いて法儀式に費やされる時間を短縮するのは、命取りになりかねない詠唱時の隙を解消するためには有効なのである。
 呪文詠唱や秘蹟図の形成を、咒紋の演術駆式――発動式ともいう――による瞬時の描出へ置き換えることによって、魔法が実行されるまでの時間的空白が大幅に縮減されるのだ。
 そのようにして、周囲の空間や自らが持つ《宿紋》の内部に咒紋を呼び出して魔法を行使する者たちは、《咒紋使い》と呼ばれていた。
 だが、法儀式の劇的な高速化を果たした咒紋使いであっても、詠唱時の隙が完全に克服できるわけではない。
 そこで大抵の術者は、前衛に剣士などを配置して自分を護らせる方法を取るものだが、マリーシアの前衛となれるのはエリウスだけだ。彼ひとりでは手が回りきらないという状況であれば、あまり当てにするわけにはいかないだろう。
 結局、自分の身は自分で護るしかないのだ。
 いま、マリーシアが両腕に纏った《日輪の羅紋》には、焔熱を操る咒紋の刻印が浮かんでいた。

 我は唱える――
 
 天地に遍(あまね)し霊陽の子らよ
 我が掌中に集い、
 異同の双焔となりて姿を顕せ

 唸れ紅焔――
 叫べ蒼焔――

 我が導きに従え、螺旋の双蛇


 両の掌に、咒紋によって喚起された灼熱の光玉が現れる。その直後には二つの光玉から異なる色の焔が噴き上げ、左右の手から肘までを螺旋状に取り巻き始めた。
 右手には紅焔。
 左手には蒼焔。
 両手を合わせ、相異なる二つの性質を持った焔を同軸上に束ねた。

 操焔の咒法――《糾(あざな)える火蛟(ひずち)》

 発動の紋を結び、両の掌を突き出した瞬間、左右の腕を取り巻く二つの火焔が放たれた。その尖端に大蛇のような頭部を顕した二条の焔流が絡み合い、螺旋を描きながら前方の祇徒たちへ向って殺到する。

 交わり、喰らい、爆ぜよ!

 追記された咒紋に従うように、二体の火蛟が祇徒たちの身体へ喰らいつく。
 そして、爆発した。
 急激に膨張した爆轟(ばくごう)が黒翼の軍団を包み込む。瞬間的に一万度へ達した熱波に曝されれば、いかに魔力耐性の強い彼らといえども一堪りもない。魔法の爆発は黒鋼(くろがね)の身体を瞬時に蒸発させ、爆心付近に展開していた十一体の祇徒たちを灼熱の大渦(たいか)の中へ消し去った。
 その周縁にいて直撃を免れた者たちも、拡散した衝撃波を浴びて手足や翼を引き裂かれながら落下してゆく。
 だがその数は、マリーシアが期待していたほど多いものではなかった。拡がった衝撃波で倒せたのは、七、八体というところだ。
 その倍以上の数の敵が、魔力の障壁を張って熱と衝撃の渦から身を護ることに成功しているのだから、ため息が出そうになる。
 人類に魔法の業(わざ)を与えたのが彼ら――神遣いや祇徒たち――というだけあって、さすがに一筋縄ではいかない。
 敵の戦陣に空隙が生まれたのも数秒のことで、翼を広げた祇徒たちが後から後から押し寄せてきてすぐに埋められてしまう。
「もういい加減にしなさいよ! 人がこんなに頑張って大きな魔法を連発してるんだから、素直に驚くなり感心するなりして、さっさとおうちに帰りなさい!」
 既に大規模な破壊魔法を十数回連唱して、マリーシアの心身に疲労が重く圧しかかり始めていた。
「こんなところで力尽きて死ぬなんて冗談じゃないわ! 今日はご飯の用意もお風呂を焚くのも全部エリウスにやらせて、ふかふかのお布団でぐっすり寝てやるんだから!」
 愚痴を零した直後、一体の祇徒が、地上に向って急降下してゆくのが目に入った。
「ちょっと――!?」
 その方向に、人がいた。
 二人の少年が、こちら――戦場に向ってひたすら走り続けている。
「どうしてこっちにくるの!?」
 マリーシアは叫んだが、
「魔女がなにか言ってるよ!」
「構うな! 魂を吸い取られるぞ!」
「わかった!」
 二人の少年は聞く耳を持ってくれなかった。
 逃げ遅れた家族や友人を助けにきたのかもしれないが、今は彼らの抱える事情を斟酌している余裕などない。
 祇徒が、彼らの目前まで迫っているのだ。
「げえっ!?」
 先頭を走っていた少年が、泡を食ったような身振りで仰け反った。
「間に合わなくても恨まないでよ!」
 マリーシアは雷撃の咒紋を呼び出して、指先に篭めた魔力を解き放った。最も簡単な発動式で放てる《略式咒法》だ。瞬時に発現した雷光が宙を引き裂く。その直撃を受けた祇徒は体内の血液を沸騰させながら痙攣し、数秒後には全身が炭化した焼死体へとなり果てた。
 簡易咒法といってもこれだけの威力を持たせることができるし、地上へ落ちた雷が二人の少年を側撃しないように放電路の制御はしている。
「オレス!? だいじょうぶ!?」
「お、俺生きてんのか!? 生きてんのか!?」
 マリーシアが助けた二人の少年は、なにごとかを喚き合いながら手近にあった家屋の陰へ隠れていった。
「死にたくなかったら早く遠くへ逃げなさい! 次は助けないわよ!」
 首だけを出してこちらの様子を窺っている二人へ怒鳴りつけ、視線を空へ戻した。
「えっ――」
 火。
 火の玉だ。
 烈しく燃え盛る火の玉が、すぐ目の前にある。
「危ない!」
 エリウスの声が聞こえた直後、目の前が、真っ暗になった。
 爆発が――、焔が――、轟音が――、マリーシアの身体を包み込んだ。
 全身を揺さぶる衝撃と爆発音が連続し、それに雷鳴のような響(どよめ)きが入り混じったところで、マリーシアは、自分が集中砲火を浴びていることに気づいた。
 落ちてゆく。
 真っ逆さまに、落ちてゆく。
 自分は、このまま死んでしまうのだろうかと考えた。
 それは、嫌だ。
 人助けなんて柄にもないことをやったのに、誰からもお礼を言われることなく死んでいくのは、嫌過ぎる。
「うっ――、ううっ……」
 呻き声が漏れていた。
 自分の声、にしては少し低い。
 そんなことを考えた瞬間、周りが明るくなった。
 目の前に、苦しげに歪むエリウスの顔が見える。
「エリウス!?」
 彼の変身は、すっかり解けてしまったようだ。
 どうして?
 そんなことを考える前に、やるべきことがあった。
 自分は、無傷なのだ。
 エリウスの身体を抱きかかえ、落下速度を減殺しながら地上へ降りる。
 黒い手袋になっていたジェドは、変化を解くと同時に地面へぐったりと倒れ込んだ。焼け焦げた体毛からは、白い煙が燻り続けている。
 エリウス自身には目立った外傷が見当たらなかったが、ジェドと融合していた身体がどの程度の損傷を負っているのかは、すぐに判断しにくいものがあった。
「しっかりしなさい! こんなところへあたしを置き去りにして死んだりしたら、絶対に許さないわよ!」
「うう……」
「あんたって本当に馬鹿ね! 焔も雷も苦手なくせに、どうしてあたしを庇うような真似をしたのよ!」
「だって……」
 微かに目を開けたエリウスが、マリーシアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「や――、うう……」
 その唇から、掠れた小さな声が漏れる。
「なに……? 遺言なら聞かないわよ!」
「約束は、守ったでしょ?」
 そう呟いたエリウスの口元が、微かに笑ったように見えた。
「さっきの言葉を真に受けて、あたしの盾になったの?」
「違うよ……」
 マリーシアが問いを返すと、彼は少しだけ首を振った。
「あの時≠フ、約束があるでしょ……?」
「あの時≠フ?」
 彼の言葉が指し示すものは、すぐにわかった。
 決して忘れはしない。
 自分たちが、流亡(るぼう)の旅を続けている理由。
あの日≠フ記憶――
 灼け落ちる家。
 現れた魔女。
 冷たい手。
 母の亡骸。
 血の海。
 闇の中に蠢く者ども。
 還らぬ人たち。
 流れ落ちる涙。
 温かい手。
 誓いの言葉――
「だから、こんなことをしたの?」
「うん……」
「ばか……、あんたは、ばかよ……。こんなことしてくれたって、あたしはちっとも嬉しくないわよ……!」
「褒めてもらおうと思って、やったんじゃないよ……」
 そう答えたエリウスの顔は、ぼやけてよく見えなかった。
「死んだら、許さないから……!」
 涙を拭い、顔を上げた。
 黒い影が、五つ。二人を取り囲むように地上へ降りてきた。
 弱った獲物を仕留めるつもりできたのだろうが――
 これ以上は、なにもさせない。
「あたしを本気で怒らせたわね! この下っ端ども!」
 右腕に咒紋を呼び出し、地に叩きつけた。

 大地よ、怒れ!

 行使したのは略式咒法だが、術者の燃え滾るような赫怒(かくど)が咒紋に乗った。
 マリーシアが右手を叩き付けた一点から、凄まじい魔力が迸る。次の瞬間、地面を割って現れた火柱が、五体の祇徒を丸呑みにした。
「――散りなさい!
 黒焦げになった祇徒たちを追記の咒紋で爆散させたあと、マリーシアは後続を警戒して空を見上げた。
 少し、様子がおかしい。
 先ほどまでは意気盛んに攻め寄せてきた祇徒たちが、突然隊伍を乱して戦場から逃げ出そうとしている。
「なにか、来るみたいだよ……」
 腕の中で、エリウスが身体を起こそうとしていた。
「そのようね」
 マリーシアも、その気配は感じていた。
 それから、数秒間の沈黙を挟んだ後(のち)。
 異変は、唐突に姿を顕した。



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