《犬小屋》に跳ね飛ばされた男は、路地に倒れ臥したままぴくりとも動かなかった。 「まさか、死んではいないわよね」 「ジェドは悪くないよ。向こうがいきなり飛び出してきたんだから」 マリーシアの呟きに反応したエリウスは、責任を問われる前に愛犬の弁護を始めたらしかった。 「あんたねぇ、言い訳する前にやることがあるでしょ?」 「そうだけど――あ、待って。まだ息があるってジェドが言ってる。……ちょっとつついてみて」 主(あるじ)の命令通りにジェドが鼻先で男をつつくと、うつ伏せになっていた身体がごろっとひっくり返って仰向けに変わった。 アストが知っている顔ではないということは、この村の人間ではない。 銀色の頭髪が土埃に塗(まみ)れてやや汚れているものの、彫りの深い整った顔立ちをした若い男だ。その見た目から想像されるより遥かに分厚い筋肉の束を纏った強靭な肉体を、冴え冴えとした光に照り輝く白銀の鎧が押し包んでいる。男の身辺に散らばっている剣や盾も、鎧と同じ白銀を用いて造られたものらしく、いずれも派手な彫金細工などは施されていないが、実戦的に洗練された印象を受ける上等な代物だ。 流れ者の傭兵にしては身に着けている武具が立派過ぎるようだし、ひょっとしたら、仕官先を探して各地を放浪している遍歴騎士というやつなのかもしれない。 「見た目は帝国の人っぽいけど、この村で雇ってる衛兵さんかしら?」 「いや、知らない顔だ」 こちらに振り返ったマリーシアへ母が答えた。 〔ぐ、お……〕 ややくぐもっているが、倒れている男のものらしい呻き声が小屋の中へ響いてきた。《覗き窓》の上端に毛で覆われた伝声管らしきものが突き出ていて、黒犬の耳に拾われた音がそこから聞こえてくる仕組みになっているようだ。 〔胃に穴が開くほどの飢えという、圧倒的かつ絶望的に不利な条件を抱えているとはいえ、この俺が、こんなところで黒犬の化け物に喰われて力尽きるとは、無念の極みだ……。英雄は往々にして非業の死を遂げるものだが、世界を救う前に散った英雄として歴史に名を遺すのは耐え難い屈辱といっても過言ではない……。世の心無い人びとは、俺を口だけの与太者として笑うだろう。だが、笑いたくば笑うがいい。俺は、敗北者だ。神が与えた試練に敗北したのだ。敗北した英雄には、惨めな最期と惜しみない侮辱の言葉が送られるものと相場が決まっている……。しかしながら、真に許しがたいのは宿屋の親父だ。あの親父が適当な道を教えるから俺が道に迷ったのだ。こんな結末を迎える羽目になった原因の九割は、あの親父にあるといっても差し支えはないだろう……。くそ、あの禿げ親父め……! 今まで人に対して一度も暴力など振るったことのない温厚な俺だが、生まれて初めて殺意というものを覚えたぞ……〕 ヴェルトリア語による呟きはこの後もさらに続いていたが、大半はどこかの町か村で泊まった宿屋に対しての恨み言だった。 「この人、さっきからぶつぶつとなにを言ってるの?」 「かわいそうに。きっと、打ち所が悪くて頭がおかしくなってしまったんでしょうね」 「じゃあ、どうする?」 「あたしたちが跳ね飛ばした手前、このままにしておくわけにはいかないでしょう。とりあえず助けてあげて」 「わかったよ。ジェド、その人を中に入れて」 手短に相談を終えた結果、エリウスとマリーシアは男を助けることに決めたようだ。主の命を受けた黒犬が男の身体をぱくりと咥え、一息に?み込む。 その次の瞬間には《犬小屋》内の天井に大きな空洞が開き、 「うおっ!?」 男が落ちてきた。それから一拍遅れてやってきた剣や盾が、鎧にぶつかって派手な音を立てる。 「なんだここは? あの世か? かなり犬くさいが」 呻くように呟いた男が身体を起こした。頭髪と同じ銀色の瞳が、注意深げにアストたちの顔を見回す。 「何者だ?」 「それ、こっちが聞きたいことでもあるんだけどね」 マリーシアが素気無い返事をすると、男は険しげに眉をしかめた。 「お前は、どう見ても魔女だな」 「どう見ても魔女よ。それがどうかしたの」 「お前が、あの犬をけしかけて俺を襲わせたのか?」 「犬を操ってるのはあたしじゃないけど、別にあなたを襲ったわけじゃないの。さっきのは不運な事故ってやつよ」 「事故だと?」 男の語気と目つきが鋭さを増しても、マリーシアはけろりとした表情を少しも崩さぬまま「ええ」と肯いた。 「では、なぜ俺をここに連れてきた? まさかとは思うが、殺されたくなければ家来になれとでも言うつもりではないだろうな」 「そんなわけないでしょ。家来なら一人で間に合ってるから必要ないわ」 「……それって、僕のこと?」 エリウスが抗議の眼差しを送ったが、それは無視された。 「あなたを跳ねちゃったのはこっちに非があるんだから、少しは手当てをしてあげようと思ったんじゃない」 男をここへ招き入れた意図を説明したマリーシアは、「どうやら、その必要はなさそうだけどね」と付け加えた。 「ほう。では、俺の命を助けるつもりがあった、と言いたいわけだな」 「ええ、そうよ」 「信じがたいな。魔女は悪事を働くものと昔から決まっているのに、人助けをするわけがない」 「あらそう。じゃあ、こっちには無理に引き留める理由がないんだし、すぐにここから出て行ってもらって結構よ。エリウス、出口を出してあげて」 にべもなく言い放ったマリーシアが相棒へ振り返ろうとしたところへ、 「――だが、せっかくの好意を無駄にするわけにはいかないな。ここは一つ、魔女に助けられてみるのも一興か」 男が無遠慮な物言いを被せた。 「無駄にしてくれたっていいのよ? こっちは面倒が減って助かるんだから」 「残念だがそうはいかんな。悪事を働く魔女に人並みの善行を積ませるのも、英雄としての大事な役目だ」 「英雄?」 怪しむように眉をひそめたマリーシアに対して、男は「そうだ」と誇らしげに肯いた。 「あなたが、有名な戦士かなにかだっていうの?」 「ただ有名なだけではない。その名を耳にすれば誰もが驚く英雄だ」 「へー、そうなの。いったい誰かしら」 「ならば聞いて驚け。俺の名はヴァン・グレン。人びとに忘れ去られた悲運の英雄、ウィル・グレンの子孫とは――、俺のことだ」 全員から注目の視線を浴びた男が、親指で顔を示しながら自らの名を告げた。 「ふうん?」 いまいちピンとこない顔つきで応じたマリーシアは、「知ってる?」とアストたちの方を振り向いてきた。 どこかの地方では名の通った人物なのかもしれないが、全く聞き覚えのない名前だと思う。 「この人なんて言ってるの?」 「有名な英雄なんだってさ。でも、ヴァン・グレンなんて知らないよなぁ?」 ヴェルトリア語がわからないユータに説明すると、やはり「知らないねぇ……」という答えが返ってきた。 「知らんな」 「私も知りません」 母やルシェルからも同様の返事が相次いだ。アヤノに至ってはそもそもの興味がないのか、テーブルの上に端座してお茶を飲み始めている。 「なんだと」 男――ヴァンの眉間に刻まれた皺が、より深くなったように見えた。 「本当に知らないのか? ならば、ウィル・グレンの名くらいは聞いたことがあるだろう?」 全員が首を左右に振る。「信じられんな」と低く呟いたヴァンは、気を取り直すように顔を上げて言葉を続けた。 「俺を知らんのはともかく、あの七英戦争において勇名を馳せた偉大なる英雄、ウィル・グレンの名前すらも知らんとは聞いて呆れる。お前たちは自分の無知が恥ずかしくはないのか?」 「誰も知らないものを知らなくたって恥にはならないわよ。だいたい、『忘れ去られた英雄』って自分で言ったじゃない」 「俺の一族では、人びとに忘れ去られた現在でも名高い英雄として伝わっているが?」 「みんなに忘れられてるのに有名だなんて矛盾してるでしょ。本当にそんな英雄いたの?」 「その末裔たるこの俺と、当時使われていた英雄の武具一式が存在することが、なによりの証拠だ」 拳を固めたヴァンが白銀の胸甲を叩いてみせたが、マリーシアは小さくかぶりを振った。 「あの頃の文献をある程度読み漁ったことはあるけど、そんな名前は一度も目にした記憶がないわ。世の中には、自分の家系を偉く見せるために平気でウソをつく人もいるし、こう言っちゃなんだけど、捏造くさい話ね」 「――おい貴様。いま、捏造と言ったな?」 「言ったわよ」 怒気の篭った声で凄まれたマリーシアが「それがどうかしたの」とでも言いたげに肩を竦める。 「昔は確かに実在した英雄を、捏造という一言で存在しなかったことにするのは人を一人殺したのと同じだぞ。俺個人への侮辱ならいくらでも笑って受け流せるが、偉大な先祖への侮辱だけは許すわけにはいかない」 「だったら、なんだって言うの」 「この怒りは、お前を殴ることでしか鎮められそうにない。一発殴らせろ」 よほど憤慨したらしい英雄の子孫はマリーシアへ向かって歩み寄ろうとしたが、 「――うっ!?」 と、すぐに腹を押さえながら蹲(うずくま)った。 「ぐ、ぬおぉ……!」 それだけではこらえ切れないのか、苦しげな呻き声を上げて床上をのた打ち回っている。 「怒ったり悶絶したり忙しい人ね。いったいどうしたのよ?」 「く――」 「く?」 「食い物をくれ……! 腹が空きすぎて死にそうだ……!」 ヴァンの口から懇願の言葉が出るとともに、盛大な腹の音が鳴った。 「お腹が空いてるの?」 「言っておくが、これはただの空腹ではない……! 貧弱な常人であればすでに飢え死にしているだろうほどの烈しい飢えが俺を襲っている……! だが、誇り高い英雄の血統に連なる者としては、腹が減った程度で死ぬわけにはいかない……! 俺の先祖を侮辱した罰として、お前は俺に食い物を寄越せ……!」 「あたしを殴るって言ってる人に、どうして食べ物を恵んでやらなきゃいけないのよ」 「なるほど、お前の言うことにも一理はあるな……。では、お前に二つの選択肢を与えてやろう……。素直に己の犯した過ちを認めて俺に食い物を寄越すか、俺に殺されてから食い物を奪われるか、好きな方を選べ……!」 「まるで盗賊のような言い草ね。本当に誇り高い英雄の子孫なのかしら」 困惑げにため息を吐(つ)いたマリーシアであったが、すぐに帽子の中に手を入れて、食べ物を幾つか取り出し始めていた。 やや大きめの木皿の上には、朝に焼いたという丸パンが二つと、山羊乳のチーズが二切れ、串に刺した雉の燻製肉が三本に、丸ごとの青林檎一つが置かれた。 「食ってもいいのか?」 鎧を脱いで毛皮の椅子に座ったヴァンは、木皿に盛られた食料を覗き込んでから、マリーシアの表情を窺うように視線を上げた。 「あなたが食べ物を出せといったんでしょう」 「確かに出せといったが、本当に出されてしまったからには食わぬわけにもいかないな。ありがたく頂くことにしよう」 ヴァンはパンを引っ手繰るように掴むと、親の仇でも見つけたかのような形相で噛み千切り、一心不乱に喰らい始めた。 「よほど腹ペコだったんだな」 『うむ、凄まじい食欲でござるな』 彼の先祖についての話がどこまで本当なのかはわからないが、死ぬほど腹が空いていたことは本当らしい、とアストは思った。 「いかなる英雄であろうと空腹には勝てん。腹が減っては軍(いくさ)はできない、という古来よりの格言を知らないのか」 「だからって、軍(いくさ)みたいな勢いで食べてると喉が詰まるわよ」 呆れ顔で呟いたマリーシアは、先ほどアストたちにも出した飲み物をカップに注いで木皿の隣に置いた。 「これはなんだ?」 「それはね――」 「割と甘いな。もう一杯くれ」 ひと息で飲み干されたカップが、マリーシアの手元に差し出される。 「自分から訊いたんだから、少しくらい話を聞きなさいよ! そんなに強い成分は入ってないけど、一応お薬なんだからね!」 ヴァンは「そうか」と応じたものの、魔女の水薬にそれ以上の関心は示さなかった。今は会話よりも食事にすべての神経が集中してしまっているようだ。 「それで足りる? 残り物でよければ、鹿肉のシチューがあるんだけど――」 「貰おうか」 「そう言うと思ったわ」 帽子の中から小ぶりの鉄鍋を取り出したマリーシアは、それをテーブルの上に置くと、 「あっためてあげるから、ちょっと待ってね」 と言って、蓋に手を重ねた。鍋の表面に魔法の紋様が浮かび上がる。それから間もなくして、蓋の隙間から白い蒸気が漏れ出した。 「そろそろいいかしら?」 マリーシアが鍋の蓋を開けると、閉じ込められていた湯気が一斉に拡がり、まるで作りたてのような香りを漂わせるシチューが姿を現した。一口大に切った鹿肉を、玉葱や人参、じゃがいも、茸などと一緒に煮込んだもののようだ。 「どういう魔法だ?」 「こういう魔法よ。停滞の咒紋を張って保存していたのを、温熱の咒紋であっためたの」 「よくわからんが、便利なのだな?」 「せっかくの魔法なんだから、自分の生活を便利にできないと意味がないでしょ」 「その考え方には同意しておこう」 器に移されたシチューを受け取ったヴァンは、早速スプーンで鹿肉を掬って口の中に放り込んだ。 「ほう、肉が柔らかくてなかなかうまいな。田舎風の味付けだが、気取ったところがなく庶民的でよい」 「……褒めてるんだろうけど、偉そうな言い方が気に障るわね」 「俺は正直に褒めているだけだぞ。このシチューに免じて、俺の先祖を、否定しようとした愚かな振る舞いについては、水に、流してやろう」 そう答える間にも、ヴァンはせわしなく食事を続けていた。 「どうしてこの村に来たんだ?」 食事があらかた片付いた頃合を見計らって、アストは彼に話しかけてみた。 「宿屋の親父のせいだ」 「どういうことだよ?」 「俺が放浪騎士のような旅をしている理由についてすべてを話せば長くなるが、手短に説明してやろう。俺の本来の職分が英雄であることに疑いの余地がないとはいえ、英雄というだけで飯は食えないからな。仕官の口を求めてアウデアを目指していたところ、歩き続けるうちに辺鄙(へんぴ)な村に出くわしてしまったという次第だ」 辺鄙な村で悪かったな、と口答えしたくなるのを我慢していると、マリーシアが小首を傾げながら口を挟んできた。 「アウデアって西のほうよ? 逆方向じゃない」 「そんなはずはない。俺は確実に西へ向って旅を続けていたはずなんだが」 「確実に東へ向ってるわ。まぁ、放って置いても、そのうち世界を一周してアウデアに着くこともあるかもしれないけど」 「人をからかうにしても、もっと気の利いた冗談にするんだな。宿屋の親父に、西へ三日ほど歩けばアウデアの城が見えてくると聞いて、俺は宿屋を出てからずっと左に向かって歩いてきたんだぞ。だが、宿屋の親父が適当だったのだろうな。ひと月近く歩いてもアウデアには着かなかったが」 村の外の地理についてはあまり詳しくないアストであったが、ヴァンの話がおかしいことには気づいた。 「はぁ? ひだりぃ?」 マリーシアが露骨に呆れ返るような声を上げた。 「もしかして、あんた馬鹿なの?」 「なんだ? なにがおかしいんだ? 人が真面目に答えているのに馬鹿にするとは不愉快な女だな」 「あんた、右左なんて言ってるから道に迷うのよ」 「お前が何を言っているのかわからない。説明しろ」 「あんたの左手はどっち?」 「こっちに決まっているだろう」 マリーシアに問われたヴァンは、齧(かじ)りかけの青林檎を持ったまま左手を上げてみせた。どうやら彼は左利きのようだ。 「そうね。でも、身体の向きを反対にしたら、左手がある方向も反対になるでしょ」 「なんだと……?」 椅子から立ち上がったヴァンは左手を上げながら背後を振り返り、「なるほど」と呟いた。 「さっき左手があった方向を西だとすれば、いま左手がある方向も西ということになって、非常に奇妙なことになる」 「そうでしょ」 「西へ向かうというのは左に向かうことだと思って今まで生きてきたが、違ったのだな」 「それなら、やっと間違いに気づけてよかったじゃない。まぁ、子供でも知ってることだけどね」 マリーシアがからかうような一言を継ぎ足すと、ヴァンは、ふん、と鼻を鳴らした。 「ならば俺は、いつの間にか東へ向かって旅を続けていたということになるのか。行く先々でグラードの言葉が使われているので、薄々おかしいとは感じていたところだ」 「あなたって、こっちの言葉は話せるの?」 「超一流の放浪者であるこの俺を見くびるなよ。十年近く前になるが、武者修行がてらにこの地に滞在したことがあるので、言葉はある程度話せる」 「だったら、周りの景色に見覚えがあるとか思うでしょ」 「人の揚げ足を取って得意になっていると恥をかくぞ。景色に見覚えがあったとしても、こことアウデア地方の地形が似ている可能性は排除できないだろう」 「仮にこことアウデアの景色が似ていたとしても、おかしいと思った時点で、誰かに道を尋ねればよかったんじゃないの」 至極もっとも、というより、ごく当たり前のことをマリーシアが言った。 「あまりふざけるなよ。そんな恥知らずな真似ができるか」 「どうしてよ」 「英雄たる者が、道に迷って困惑しているなどという情けない姿を晒せばどうなる。『こんなに情けない英雄では世界を救えるはずがない』と思った人びとは、希望の光を奪われて絶望に明け暮れるしかない」 「それがあなたなりの英雄哲学ってことかしら。でも、あなたが本当に英雄だったとしたら、あたしはその時点で絶望しちゃうけどね」 哲学というよりは、この男が意固地で見栄っ張りなだけだと思うが、マリーシアの言い様には大筋で同意できる。 「いちいち一言多い女だな。お前のような小生意気な女に蒙(もう)を啓(ひら)かれたことは癪に障るが、俺は器が大きい男なのでな、素直に感謝してやろう」 「素直という割には恩着せがましいわね」 「恩を着せているつもりはない。一飯(いっぱん)の恩を受けたのは、俺の方だしな」 ヴァンは、実を齧り尽くした林檎の芯を木皿の上に放り出した。 「じゃあ、その恩をどうやって返してくれるの?」 立派な武具以外は何も持っていなさそうな重戦士に対して、マリーシアは意地悪な質問を口にした。 「俺の身体で返そう」 ヴァンは返事に詰まる様子も見せずに平然と言い放った。その答えを耳にするや、マリーシアの表情がぎょっとしたものに変わる。 「……あんたまさか、身体を売って返すとか言うつもりじゃないでしょうね?」 「働いて返すという意味だ。勝手に下世話な意味に受け取って人を軽蔑するということは、それはお前が下世話なことばかり考えている卑猥な女だというのを、自ら証明しているだけだぞ」 「なんかむかつくわね、この人。道端で変なの拾っちゃったみたいだから、もう一回棄てていこうかしら?」 「稀に釣り上げた魚をすぐに放して自己満足しているやつがいるが、たいてい長生きできないらしいぞ。お前たちはもっと魚の身になって考えろ」 「魚のことなんて知らないけど、またすぐに行き倒れるのは自分でもわかってるみたいね」 「事実を誤って認識しているようだから訂正してやるが、あれはお前たちの犬が体当たりをしてきたから倒れたのであって、俺が自ら行き倒れていたわけではない」 話の矛先が黒犬に及んだ途端、「ジェドは悪くないよ」とエリウスが小声で呟いた。 「まぁ、それはともかくとして、働いて返すといっても具体的になにをしてくれるのよ?」 「この村で起きている異変を片付けてやろう」 きっぱりと言い切ったヴァンは、視線をアストの方に向けてきた。 「見たところ、お前はこの村の住人のようだが」 「そうだけど」 「大方、異変に困り果てた村人が魔女に助力を求めて泣きついているのだろうが、あまりこの女を当てにしないほうがいい。異変は魔女ではなく英雄が解決するものと、昔から決められている」 「本気で言ってるのか?」 「無論だ。英雄に二言はない」 その答えは自信に満ち溢れたものだったが、彼に協力を頼んでよいものか即断しかねた。 「これから戦う敵が、どういう連中かはわかってるんだよな?」 「人外の化け物を相手にするのだろう。だが、安心しろ。俺は先祖伝来の英雄の剣で、これまで数多(あまた)の化け物どもを殺してきた男だ」 一応、人智を超えた敵を相手にすることは理解しているようだ。 ――どうする? アヤノに相談するつもりで、胸中に呟いてみた。 『少々奇天烈な男でござるが、折角の申し出を断ることもござるまい』 アヤノが茶を啜りながら答える。 ――本当にだいじょうぶなのか? 『この男も縁持つ者≠ナござるよ』 ――アヤノさんはなんでも縁≠セからなぁ。 とはいえ、これまでの経験から鑑みて、アヤノの言葉を信じた方がうまくいくことが多いような気がする。 「じゃあ、この人に協力を頼んでも構わないか?」 「まぁ、いいでしょう。あんまり役に立たないかもしれないけど、いざとなったら壁にして使い捨てちゃえばいいのよ」 マリーシアに尋ねると、そんな答えが返ってきた。 「恐ろしいことを平気で吐き棄てる女だな。だが、英雄の武具に身を固めたこの俺にとって、化け物どもの爪や牙など恐るるに足らんものだがな」 豪語したヴァンは「それで、これからどうするつもりだ?」と言葉を継いだ。 「とりあえず、村外れにあるお医者さんのところに向かってるんだけど」 マリーシアがその続きを口にしかけたところで、 「――いや、針路を変えて広場へ向かってくれ」 今まで沈黙を守っていた母が口を開いた。 「聖堂の方に人が集まっているようだ」 母の視線を追うように《覗き窓》へ目を向けると、聖堂があると思しき辺りが清冽な光に包まれているのが見えた。確かに、その周囲には人だかりのようなものも見えるが―― 「なんだ、あの光……?」 これは神の来臨か。 そう思えるほどの厳かで霊妙な光が立ち昇っているのを目の当たりにして、アストは思わず息を呑んだ。 |