【第五章】生命の塔
第五十話 螺旋の途上で

BACK / NEXT / TOP




 忘我の境に入っていた。
 光と一体になっていた意識が、自分≠ニいう形を取り戻してゆくのを感じる。
 目を開けたとき、ルシェルの前には大きな聖堂が広がっていた。
 白磁と同じ色に輝く壁や床は、ただの石とは異なる未知の物質で造られているように見える。
 周りに彫像や神具の類が供えられているわけではないが、内部を満たしている清浄な空気は、この場所が神聖な領域であることを明確に物語っていた。
 神剣や腕環から紡ぎ出された光が虚無の海を払い退け、その奥に隠されていた聖域を浮かび上がらせたのだろう。
 理由まではわからないものの、剣の間を本当の姿に戻したときと、同じようなことが起きたのだと想像できた。
 しかし、いま目の前に現れたのは剣の間よりも遥かに大きな聖堂だ。較べるなら、ここには剣の間が十は納まりそうなほどの広さがあり、高さにはそれ以上の差があるように思われた。
 なにしろ、天井が見えないのだ。
 首を上に向けたところで、延々と伸び上がる柱や壁の行く先は雲のような光の膜で霞んでいて、はっきりと見通すことができなかった。
 ここから上層へ向かうには、壁際を沿うように設けられている螺旋階段を昇っていくしかないようだが、それで光の雲を無事に抜けられるかはわからない。
「ルシェルさん!」
 視線を水平に戻しつつ振り返ると、アストたちがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「いったいなにが起きたんだ?」
「ヴェスティールの力が、この聖域を喚(よ)び起こしたのだと思います。どうしてこんなことが起きたのかは、私にもわかりませんが……」
 見ると、神剣や腕環の発光は既に収まっていた。彼女たち――三女神が力を貸してくれるときは、いつも一方的だと思う。ルシェルには、自由に力を扱うことができないのだ。
「この聖域は、太古の昔にヴェスティール様たちがお創りになられたものかもしれません」
「それでルシェルの剣が反応したというのなら、肯けるわね」
 リリィの推測にマリーシアが同調を示す。
「この聖域は、どのような目的で創られたものなの?」
 満足する答えは返ってこないかもしれないが、ルシェルは神遣いの少女に尋ねてみた。
「私も詳しくは知りませんが、皆さんが《昏き時代》と呼んでいる遥かな昔、大いなる災厄が地上を襲ったと聞いております」
「大いなる災厄?」
「はい。原因不明の災厄によって海は枯れ、地は荒れ果て、世界を覆い尽くした界瘴が多くの生き物たちを喰い滅ぼすという、未曾有の大惨事が起こったらしいのです。そこで、地上から生命の灯が消えてしまうことを恐れた神々が力を合わせ、界瘴を浄化して大地に再び命の種を振り撒くための巨大な環境再生施設を建造しました。それが、《生命の樹》と呼ばれるこの塔なのです」
 リリィの口からは、期待した以上に多くのことが語られたが、初めて聞く話だとルシェルは思った。
 かつての七英たちが、こうした遺跡を根城にしてルシエラと戦ったという物語を祖母から聞かされていたものの、それ以前の歴史については全く知らない。
 大いなる災厄とは、なんなのか。
《昏き時代》と呼ばれていた頃の世界に、いったいなにが起きたのだろう。
「恐らく、あそこにあるのが《生命の樹》の基幹部であると思われます」
 リリィの指先が、堂内の中央にある金属製の台座へ向けられた。周囲の床より一段高いところに設けられた台座を取り囲むように、三本の支柱が屹立している。弓なりの弧を描く各支柱の尖端からは、一筋の微弱な光が放出されているのが見て取れた。三筋の光は台座の中央で絡まり合い、中空に一つの巨大な光球を形成している。その輝きは儚げで弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
「こんなので、どうやって界瘴を浄化するんだ?」
 アストが手を伸ばして光球に触れると、指先が触れたところから生まれた波紋が球面全体に拡がっていった。
「ここから、穢れを洗い清める禊(みそぎ)の光が発生するはずなのですが、今は塔の機能が休眠状態になっていて、力を十分に発揮することができないようです」
「じゃあ、この前みたいな界瘴が襲ってきても、役には立たないのか」
「はい……」
 アストが軽い失望感を含めた一言を洩らすと、リリィは申し訳なさそうに身体と翼を縮こめた。
「あ――、でも、この塔を目醒めさせることができれば、禊の光で降魔の法陣を打ち祓うことができるかもしれません!」
「それって、村のみんなが元に戻れるってことか?」
「たぶん……、ですが、きっと元に戻ると思います」
 リリィは思いついたことを口にしただけなのだろうが、それ以外に村人たちを救う方法はなさそうだと思えた。
「でも、ここの機能を目醒めさせるにはどうしたらいいの?」
「恐らく、機能制御を司る施設が塔の上層部にあると思うのですが……」
 ルシェルが尋ねると、リリィは言葉尻を濁した答えを返してきた。
「あの女が占拠してる可能性が高いってことね」
 マリーシアの言葉に、小さな神遣いがこくりと肯く。
「とにかく、そこに行ってみる必要がありそうだな」
 アストの声と表情に、戸惑いや恐れは一切見られなかった。それは、あの恐ろしい魔女と一戦を交えることと同義であるはずなのに、彼は怖くないのだろうか。
 心の底では、怖がっているのかもしれない。彼が、怖いもの知らずで無鉄砲な性格の少年でないことは、よくわかっている。
 それでも、最初は頼りなく見えた彼の瞳に、今は強い光が生まれ始めているようで気になっていた。
 妹や、村の人たちを助けたいという思いの強さが、彼にその光を齎(もたら)しているのだろうか。
 自らの無力を嘆き、川辺で泣き崩れていた彼の姿を見たのは、たった二、三日前のことだった。
 あれから剣術の稽古を一緒にするようにはなったが、それですぐに強くなれるわけでもない。
 自分自身を省みても、弱さは、用意に克服できないという思いがある。アストよりずっと長く武術の稽古を続けていても、自分の心は弱いままだ。
 つまり、心の根の部分では、彼と私は同じなのだ。
 自分にとって大切な人たちを護り切ることができず、己の無力さに絶望している。
 ……いや、護り切れなかったと断ずるにはまだ早い。
 まだ終わりを迎えたわけではないのだ。
 アストは、逃げ出さなかったと思う。
 ルシェルを救うために戦士オルグに立ち向かったときの彼の姿が、今でも心に灼きついていた。
 彼は、確かに臆病で、頼りない少年であるとは思うが、それでも――
 彼は、勇敢な少年だった。
 自分は、どうだろうか?
 斎女として与えられた役目から、逃げ出そうとしていたのではないか。
 今まで力を失っていたのは、この地に張られていた呪場の影響だけではないと思う。
 ルシェル自身が、三女神の加護を拒絶していたのかもしれない。
 そんな私が、再び彼女たちの力を借りて戦えるのだろうか?
 徐々にだが、身体に力が戻ってくる気配は感じていた。剣の間で振るったときの威力には及ばないものの、神剣の切れ味も回復しつつある。
 戦えるはずだ。
 戦わなければならない。
 古の七英が黄泉返りを果たした今、行方知れずとなったセフィナ皇女を捜し出して彼女を護り抜くためには、彼らに立ち向かう覚悟が必要になるのだ。
 皇女の剣となり、楯となり、ヴェルトリアを滅ぼさんとする異境の英傑たちを、討ち果たさなければならない。
 そう考えれば、レニヤと戦うのも避けて通れない道に違いなかった。
 あの冷酷な魔女は、ここで、斃さなければならない――
 そのように思考を区切ったところで、アストの視線がこちらへ向けられていることに気づいた。ルシェルに意見を求めているようだ。 
「では、急ぎましょう。レニヤが塔内の制御を掌握しているのなら、彼女に時間を与えるのは危険です」
「そうだな……。面倒な罠を張られる前に、さっさと上層まで昇った方がいいかもしれないな」
 アストの言葉に、ヴァンを除く全員が首肯を返した。
「意見が一方に偏ることの危険性を認識すべきだな。罠があるなら、慎重に進まなければ足下を掬(すく)われる恐れがあるぞ?」
「さ――、馬鹿なこと言ってる人は放って置いて先に進みましょう」
 マリーシアが会話を締め切ったところで、一行は上層へと続いている螺旋階段に足を向けた。
「おい! 落ち着いて熟考を促すことの、どこが馬鹿だというのだ!」
「埒が明かないことに時間は使えないでしょ」
「急いては事を仕損じるというのが、なぜわからん!」
 不平を口にしたヴァンは、鎧が擦れる音を撒き散らしながら皆の後を追いかけてきた。

       †

 天井は、まだ遠くに見えていた。
 気が遠くなるほど続く螺旋階段に文句を零しているうちは、まだ元気があったと思う。
 今は、仲間たちの荒い息遣いだけが耳に届いている。
 もう、半分近くは昇っただろうか。
 時折下を覗いてみるのだが、最初ははっきりと見えていた禊の台座が、今は米粒ほどの大きさになっている。ずっと見ていると下へ吸い込まれそうな気分になってくるので、慌てて首を引っ込めた。倒れるときは、壁のある方へ凭(もた)れかかっていかないと真っ逆さまに落ちてしまうだろう。
 額から垂れてきた汗の筋が、鼻の脇を通り過ぎてゆく。
 あといくつ昇れば、終わりが見えてくるのだろうか。
 皆、重い足を引き摺るように階段を昇り続けていたが、アヤノだけは涼しげな顔をして隊列の先頭を進んでいた。《夢幻体》である彼女に体力という概念はないのだろうか。でもアヤノなら、生身の身体であっても平然とこの階段を昇りきってしまいそうな気がする。
 それともう一人、余裕たっぷりにこの階段を昇っている者がいた。
「もういい加減にして欲しいのよねぇ、この階段」
 宙に浮かせた杖へ腰掛けた<}リーシアが、アストたちを見下ろすような位置を取りながら移動してゆく。
「マリーシアは楽してるんだから、そんなに辛くないだろ」
「全然楽じゃないわ! 魔法を使うのだって、魔力と精神力をすり減らさなきゃいけないのよ!」
「じゃあ、それ≠降りて僕たちと一緒に歩いたら?」
 エリウスは、マリーシアが乗っている杖を指で示しながら言った。
「ふざけないで! あなたたちとあたしでは、基礎体力が違うじゃない!」
「そんなに違わないよ」
「いいえ! 全然違うわ! あなたたちの体力を百とするなら、あたしの体力は十くらいしかないの。百の体力がある人たちは、十くらい使ってもなんともないでしょうけれど、あたしが同じ体力を使ったらなんにもなくなっちゃうでしょ! 子供でもわかる計算だわ!」
「だから、魔法を使ってズルしてるの?」
「ズルと呼びたきゃ呼びなさい! 体力を使うと疲れるんだから、体力は使わなきゃいいのよ!」
 最初の頃は彼女も真面目に階段を歩いて昇っていたのだが、五分もしないうちに怒りが爆発したようで、それからは杖に乗って移動を続けている。
 階段を昇るのに、体力と魔力のどちらを使うのが楽なのかはわからないが、マリーシアが先ほど出した理論によれば、魔力が百ある彼女は十くらいの魔力を使っても平気だということなんだろう。
『少し先に、踊り場のようなものがござるぞ』
 上方を仰ぎ見たアヤノがそんなことを言ってきたが、首を上げて確認する気力すら湧いてこない。
「こんな階段に、踊り場なんてあるのか?」
 懸命に足を動かし続けると、確かに、踊り場と呼べそうな平らな場所へ辿り着いた。ただし足場になるのは、壁際を沿うように続いている幅三メトレ(三メートル)ほどの通路だけで、中央には円形の大きな穴がぽっかりと口を開けている。
 通路の先には上へ向かう階段が待ち構えていたが……、うんざりするほど先は長い。
 構造的に、ちょうどこの辺りが全体の中間に位置する場所なのかもしれないと思えた。
「ここで少し休息した方がよいかもしれませんね」
「そうしよう……」
 ルシェルの提案に反対する者はいなかった。
「今度は敢えて反対しなかったんだな」
「意見が一方に偏るのは確かに危険な状態だが、偏ってもやむをえない場合というものがある。いかに屈強な戦士といえど、休息は必要だ」
 足下をふらつかせながら踊り場に上がってきたヴァンは、少し進んだところで、どんがらがしゃん、と大仰な音を立てながら倒れこんでしまった。かなりやせ我慢をしていたらしい。重武装をしたままこの階段を昇ってくるのは、相当に身体が堪(こた)えたはずだ。
「休むのはいいけど、下に落っこちていかないでよ」
 杖から降りたマリーシアが、袖口から取り出した小瓶を各自に手渡した。帽子から色んな物を取り出したときと同様に、任意の場所に異空間をつなげることができるのだろう。
「よく冷えているな。あと二本くれ」
 寝そべったまま小瓶の中身を飲み干したヴァンは、早速お代わりを要求している。
 アストは、壁際にちょうど椅子代わりにできそうな段差を見つけたので、刀を帯から外して腰掛けることにした。全身に、重い疲労感が圧(の)しかかっている。
 アヤノが傍にいなかったが、彼女は通路の縁(ふち)に立ってなにか考え事をしているようだった。袖へ手を入れるように腕組みしたまま少々難しそうな顔をしているので、あまり邪魔をしない方がいいのだろう。
 とりあえず、水分を補給しようと小瓶に口をつけると、仄かな柑橘類の風味が舌の上に拡がった。甘みも抑えてあって飲みやすい。喉が乾いていたせいもあるだろうが、疲労した身体が欲している成分が、すべて入っていそうな気がする。
「ご一緒に座ってもよろしいでしょうか?」
 落ち着く場所を探していたらしいルシェルが、傍に寄ってきた。
「おれは構わないけど」
 もちろん、断る理由などない。
「では、失礼致します」
 ルシェルは、アストの左隣に腰を下ろした。アストは疾うに汗だくになっているのに、彼女はあまり汗をかいていないようだ。
「私もお隣に失礼します!」
 その後をひょこひょことついてきたリリィが、アストの右隣へちょこんと座った。その背中にあったはずの翼が、見えなくなっている。
「羽根はどうしたんだ?」
「邪魔になるので、しまっちゃいました。もともと、霊的な力の流れを実体化しただけのものなんです」
「ふうん……」
 よくわからないが、納得しておくことにした。翼を持っているのなら空を飛べるはずなのに、彼女は階段を一歩一歩歩いて昇ってきたのだ。子供の姿をしていても、神遣いの身体というのはよほど頑丈にできているのだろう。
「ここで、ちょうど半分くらいなのか?」
「たぶん、そうだと思います」
「まだまだあの階段を昇んなきゃいけないのか……」
 ため息しか出てこない。
「あの光の先は、どうなっているの?」
 ルシェルが、天井に広がる光の雲を見上げながら言った。
「上の階層に繋がっているはずなのですが、実際に通ってみるまで詳しいことはわかりません」
「この塔は、外からの見た目よりもずいぶん大きな構造をしているように感じます」
「それは、塔内が隠り世を繋ぎ合わせた多次元構造になっているからです」
 リリィの説明をそのまま飲み下すのは、アストにとって難し過ぎた。 
「マリーシアが言ってた、異空間ってやつとたくさん繋がってるから広く感じるのか?」
「そういうことです。異空間といっても構造や規模や強度はさまざまで、皆さんが普段暮らしている下界より高次にある世界のことを、私たちは隠り世と呼んでいます」
「じゃあ、今おれたちがいるところも隠り世なのか?」
「はい。虚無の海に隠されていた聖域が、御証(みあかし)を持った聖女の力によって顕現したのだと思います」
「その、御証ってのはなんなんだ?」
 まだ《辞書》の引き方がわからないので、言葉の意味を追いかけるだけで精一杯になってしまうのがもどかしかった。
「先ほど、ルシェルお姉ちゃんが虚無を拓くときに見せてくれたのが、《聖女の御証》です」
 リリィがルシェルの顔へ視線を移したので、アストもそちらへ振り返った。
「そういえば、戦士オルグと戦ったときに、『御証を見せろ』と言われたような気がします。その時は、彼がなにを話しているのか全く理解できなかったのですが……」
「御証というのは、ルシエラの血を受け継ぐ者に顕れる聖女の宿紋のことです。それで、宿紋というのは、生命に宿る――」
「敵だよ!」
 リリィの言葉を遮るように、エリウスの叫び声が飛んできた。外していた刀を引っつかむように手繰り寄せ、席を立つ。
 天井を振り仰ぐと、翼を広げた無数の影が、光雲の奥から飛び出してくるのが眼に映った。



BACK / NEXT / TOP

inserted by FC2 system