沼の中央に浮かんでいた球状の土塊が、真っ二つに切り開かれた。 神気の焔を宿した剣閃が、虚空に広がる瘴土を奔り抜けてゆく。 両の眼に射し込む光が、不浄の異空間より脱したことをアストに告げていた。 それを眩しいと感じたのは、闇に眼が慣れすぎたためだろうか。 しかし、慣れるまでじっとしている時間は無かった。 神気の剣閃に熔断された瘴土が、崩壊を始めているのだ。 アストの身体は、崩れゆく汚泥とともに宙を落下していた。 「結局落ちて死ぬなんて、冗談じゃないぞ!?」 『狼狽(うろた)えなさるな!』 その声は、頭のすぐ上の辺りから響いてきた。 アストを包護していた霞が一点に収束して、アヤノが姿を顕す。 『鎧どの!』 叫んだアヤノが、伸張させた羽衣の端をヴァンに向かって投げつけた。 「呼ぶなら英雄と呼べ! やり直しを要求するぞ!」 不満げに叫び返した英雄の子孫は、しっかりと腕に巻きつけた羽衣を力任せに引いた。あっという間に羽衣が元の長さに縮み、アストたちの身体が彼のすぐ傍まで引き上げられる。 「状況はどうなってるんだ?」 「化け物の数はあまり減ってない。魔女のやつが魔法を使えないせいで何の役にも立たん」 「そういえば、杖が言うことを聞かないとか言ってたな」 「さっきもそのようなことをわめいていたが、よくわからん」 そこまで言葉を交わしたところで、壁際を掠めるように降下してくる祇徒の存在に気づいた。数メトレ(数メートル)の距離まで近づいたところで、黒刃の剣から焔の束が放射される。咄嗟にアヤノが羽衣を拡げ、迫りくる焔の束を遮断した。 焔を放った祇徒は、既に上空へと退避を始めている。 「あいつ、逃げるのかよ!」 『次が来てござるぞ』 続けざまに、三体の祇徒が上空から接近しているのが目に入った。 『今度は逃しなさるな』 「ああ」 次にやってきた祇徒たちも、数メトレ(数メートル)の距離を置いた位置から火焔の束を放ってきた。彼らも、一撃を加えたらすぐに上空へ逃げるつもりなのだろう。 「二度も舐めんな!」 叫ぶと同時に、階段を蹴って跳躍した。《命の力》が燃焼し、サクラメの刀身に再び神気が宿る。 瞬く剣光。 割れる紅焔。 中央の一体を、股下から断ち割った。その勢いは衰えず、さらに加速。天に向かって奔った刃が軌道を変え、宙に真円を結んだ。左右にいた二体の祇徒が、束の間中空に静止する。彼らの身に刻まれた剣軌をなぞるように赤い筋が生まれ、頭蓋や胴が二つに割れ始めた。 その様子を見届けることなく、左脇の骸を蹴りつけてさらに上昇する。 手近にあった階段の上に降り立った。 「身体が軽い……?」 『身の裡に神気が充実しておれば当然でござるよ。身体の底から力が漲ってくる実感がござろう?』 「そんな感じがするけど、これが……、《内なる爆発》ってやつなのか?」 戦士オルグと太刀合ったときに、アヤノが口にした言葉を思い出した。あの魔戦士のように派手な火花を撒き散らしているわけではないが、自分の体内にも、同様の力の爆発が起きているのだろうか。 『左様。拙者が強引に引き出すより、自らの意思によって神気を燃やす方がより多くの力を生み出せるはずでござるよ』 「でもこれは、アヤノさんがやってくれたんだろ?」 確かめるように問いかけると、彼女は首を左右に振った。 『拙者は手を添えただけでござるよ。死へ反発しようとする命の働きが、アストどのの眠れる力を喚び起こしたのでござろう』 「信じられないな……」 『少しは自分の命≠信じてみなされ』 こちらを見上げたアヤノの瞳には、どこか愉しげな色が浮かんでいた。異空間の中にいたときと違って、今は彼女の姿をはっきりと見ることができる。 「じゃあ、信じてみるよ」 『ふむ……。ちと早いかもしれぬが、これはちょうどいい頃合かもしれぬ』 「なにが『いい頃合』なんだ?」 アストが聞き返す間に、アヤノの身体が霞のように透き通り始めた。 『これから先は余計な手出しをせぬよ。拙者は、刀としての役目に専念することと致そう』 「どういうことだよ」 『赤子扱いは嫌なのでござろう?』 「そんなの当然だろ」 『ならば――』 身体を幽(かす)かに宙へ浮かせたアヤノの口元に、心做し艶(あで)やかな微笑が浮かぶ。 『拙者を、遣いこなしてみなされ』 そう言い置いて、渦巻く霊光の粒子と化したアヤノの身体が、サクラメの刀身へ吸い込まれるように消えていった。 「そんなこと、いきなり言われたって……」 なにかしらの反応を期待して呟いてみたが、アヤノからの返事は無かった。 本当に、刀になりきってしまったのだろうか。 「一人で戦え――ってことかよ」 戦闘に関してアヤノの助言が得られないのは心細く感じるが、やるしかない。 自分の心に言い聞かせ、下方に視線を走らせた。 あらゆる包囲から押し寄せる祇徒の群れに対し、懸命に応戦しているルシェルたちの姿が見える。 こちらの手が足りないのは明らかだった。 ――行けるのか。 しくじれば、なにもできぬまま落下して死ぬ。 やはり、一人で戦うのはまだ早いのではないか、という思考が頭をもたげてくる。 しかし、自分を遣いこなしてみろ、とアヤノが言ったのだ。 彼女がアストのことを認めてくれた、とも思えないが、赤子扱いされたままで堪るかという意地はある。 仲間たちが戦う姿を眺めたまま、いつまでもここで立ち竦んでいるわけにはいかない。 それなら、やってみるまでだ。 絶対に、遣いこなしてやる。 よし、と口の中に呟いたアストは、階段を蹴って宙に身を躍らせた。 空中に漂った身体が、重力の糸に引かれて降下し始める。加速に比例するように強さを増す風が頬を叩いてゆく。 アストは、正面に見える敵の群れに狙いを定めていた。五体いる祇徒の、一番左端の一体の頭上に、落下する。甲冑の背を踏みつけた、と同時に刀の切っ尖を首甲の継ぎ目に突き入れた。短い絶鳴。噴き上げる黒血。 すぐにその背を蹴り、跳躍。 翼を持たぬ者による上空からの奇襲に、祇徒たちは一瞬戸惑ったように見えた。 刀を横に払い、上昇しかけていた一体の首を跳ね飛ばす。まだ宙に浮いている骸の肩へ足をかけ、再び跳んだ。 一体の祇徒が、上に回りこんでいた。下からも別の一体がくる。上下からの斬撃。頭を狙った剣を刀で弾き、脚を狙った剣に対しては靴底で剣身を払う。続けざまに、下にいる祇徒の頭部へ蹴りを放った。敵の上体が大きく後方に仰け反る。神気を篭めた打撃がどれほど通じるものかわからないが、僅かな時間を稼げるだけでも十分だった。 上から第二撃がくる。両者が擦れ違った。肩から腰までを割られた甲冑が、下に落ちてゆく。 アストは宙返りのように身体を回転させ、下の一体に刀を打ち下ろした。防ごうとした剣ごと、白鋼の兜を両断する。 その骸を踏みつけるように跳ね、残る一体のもとへ向かった。敵の翼が、大きく羽搏き始める。にわかに巻き起こった強風がアストの身体を打った。跳躍の勢いが殺される。身体が逆方向に押し戻されてゆくのを感じた。 やはり、空中戦を仕掛けたのは無謀であったようだ。 飛べないアストを殺すのに、剣で切りかかる必要はない。 「くそ!」 敵は、間合いの遥か外側にいる。こちらからの攻撃が届くわけはない。だが、墜死への恐怖から闇雲に刀を振り回した、その時。 サクラメの刀身が光を発した。 同時に紡ぎ出された一筋の霊刃が、風の中を疾り抜ける。その先にある祇徒の身体が、頭頂から二つに裂けた。 「《刃渡り》……!? アヤノさんがやったのか?」 呟いたアストは、自分の身体が落ち続けていることを思い出して、慌てた。 「助けるなら最後まで面倒看てくれよ!」 叫んだ直後、背後から差し出された腕がアストの身体を抱き留めた。 「えっ――!?」 落下が止まった。宙に、浮いている。 「無茶をしないでください!」 首筋の近くでした声に振り向くと、少し怒っているようなルシェルの顔が見えた。 「飛べないなりに、頑張ってみたんだけどな……」 「それで落ちてしまったら元も子もありません。もっと他の頑張りようはなかったのですか?」 「これ以外に思いつかなかったよ」 アストは足下に視線を移した。絶え間なく拡がってゆく光の波紋が、二人の身体を宙に固定している。 「マリーシアはどうしたんだ?」 「――ここにいるわよ!」 返事とともにマリーシアの姿が前方に回りこんできた。彼女が持つ杖には咒紋の鎖が巻きつけてある。 「魔法はまだ使えないのか?」 「さっきまではそうだったけど、もうだいじょうぶよ。《律戒》の咒鎖で杖を押さえ込んであるから」 晴れた表情で返事を寄越したマリーシアが、杖先を宙に走らせ魔力の円陣を描き始めた。 「手ごろな的もたくさんあることだし、一回試し撃ちでもしてみましょうか」 戯れのように呟いた紫衣の魔女が、両腕に纏った霊絹(たまぎぬ)に咒紋を展開した。先ほどは彼女の使役を拒んだ魔杖が、雷撃を生み出す咒紋の羅列によって覆われてゆく。 幽遠の淵より出ずる雷火の鼓動―― 絶え間なき閃電の息吹が召来したるは、 虚空を引き裂く数多の灼光 其の身を封ずる桎梏(しっこく)を断ち、 無間の囚獄より出でよ雷の君 四地を圧し、 六国を灼き、 九天に君臨せし暴虐の主へ我は命ずる 積年の怒りを以て吼えろ灼滅の雷焔 穿ち――、 貫き――、 滾り――、 燦(さん)ぜよ――! 膨大な魔力を充填されることによって灼熱し始めた咒紋の表層から、渦巻く電子の火花が迸った。 吼雷の咒法――《狂い猛る雷公》 発動の紋によって式を結び、喚起。 演術駆式に充填された魔力を転換。 顕化する雷(いかずち)の放射束。 妖しく輝ける紫黒の杖身。 「塵も残さずに消えなさい!」 叫ぶとともに魔杖を突き出し、解き放った。 刹那に膨れ上がる閃光が塔内を埋め尽くす。 魔杖より放たれた長大な雷の束が、斜線上に滞空していた祇徒の群れに喰らいつき、瞬時に灼熱。二十を超える甲冑とそれらの中身≠消散させた。その余波で発生した超高熱の衝撃波が周囲に展開していた祇徒たちを巻き込み、彼らを黒焦げの炭塊へと変える。 さらに、自在に変化する指向性を持たされた雷は、力を持て余した竜が巨体をくねらせるように自らを波打たせた。 耳を聾(ろう)するばかりの轟音を引き連れた閃雷の奔流が、宙を畝(うね)り、貫き、捻(ねじ)り、荒れ狂う。 暴走する雷光が内壁を掠めるたび、光軸から放射される熱波を浴びた壁面が飴細工のように溶けて引き裂かれ、巨大な亀裂が生まれた。 戦陣の後方に位置していた祇徒たちは、この圧倒的にして理不尽な災厄から逃れようと上昇を始めていた――が、多少の広さがあるとはいえ、筒状の限られた空間の中では彼らに逃げ場などない。天まで続く高楼を舐め尽すように猛進する雷の暴君はすべての祇徒たちを絡め取り、一人残らず消滅するまで灼き尽くした。 言語を絶する破壊の力である。 まだ四十体余りはいると思われた異形の群れが、ただ一度の魔法によって殲滅されたのだ。 「すげぇ……」 塔内を席捲していた光と音の狂乱が鎮まり、アストはようやく口を開くことができた。強大な電磁束が通過したことにより大気が変質したせいか、妙に生臭い匂いが鼻口に纏わりついてくる。 「まぁ、こんなものでしょうね」 満足げに応じたマリーシアが、咒鎖を解(ほど)いた杖をくるくると躍らせる。 「これだけの力が出せるなら十分でしょう。思ったよりいい杖だったのかしら」 「杖があると、魔法の威力が違うのか?」 「そうね。媒介物がある分、魔力の集束性が段違いなんだけど、杖ならなんでもいいってわけじゃないのよ。ただの木を削った杖でさっきの魔法を遣おうとしたら、咒紋に魔力を篭めている間に杖が燃え尽きちゃうでしょうね」 「杖が魔法に耐えられないんだ?」 「そういうこと。魔法の負荷に耐えられる杖を探してたんだけど、思わぬところでいい拾い物をしたわ。――それより、あの守り神さんはどうしたの?」 マリーシアの視線が、アストの周りをぐるりとなぞった。 『此処でござるよ』 サクラメの内側から声が聞こえてきた直後、刀身から放出された霊気の霞がアストの肩の上に集まって、小さな人の姿を形作った。 「刀の中にいらしたのですか?」 驚いたルシェルが、刀とアヤノの顔へ交互に視線を移す。 『ふむ。今のアストどのがどれほどやれるか、好きに戦わせてみたのでござるよ』 「結果はいかがでした?」 『落第でござるな。あれでは命が幾つあっても足りぬよ』 大袈裟にかぶりを振ったアヤノは、アストの耳元で聞こえよがしな溜め息をついた。 『やはり赤子は赤子のままでござった。一人立ちは当面お預けにござるな』 「その一人で立てない赤ん坊が空を飛んだんだから、もっと褒めてくれたっていいと思うけどな」 『上から落っこちただけではござらぬか』 「細かいことはどうでもいいだろ」 不貞腐れながら不平を零すと、こちらを見ていたルシェルが少し微笑んだようだった。 「とりあえず、邪魔者たちは蹴散らしたんだから先を急ぎましょ」 マリーシアに促され、すぐ傍にある階段の上に降り立った。エリウスやリリィたちとも合流し、互いの無事を確認する。 階上から、鉄靴の音を響かせながらヴァンが駆け下りてくるのが見えた。 「やけにでかい雷だったな。まだ耳の中が騒がしいぞ」 「みんなに迷惑かけた分を挽回しようと思って、ちょっと張り切りすぎちゃったのよ」 咒紋の翼を解いたマリーシアは、宙に寝かせた¥の上に腰を下ろした。紫色の瞳がこちらに向けられる。 「そういえば、あなたを襲ったあれは何者だったの?」 「よくわからない。でかい目玉の化け物だったけど、まだどこかにいると思う」 アヤノは影に過ぎないと言っていたが、あの化け物の正体がなんであるのかは全く想像がつかなかった。 「周りにいた祇徒たちより、かなり強い力を持った存在のように感じました」 ルシェルの言葉に首肯を返してから、アストは上方に視線を向けた。依然として、光の雲が天井を覆い隠すように滞留している。 「あいつらを操ってる親玉がいるのか……?」 底なし沼の生温かい感触と、一切の感情が読み取れぬ巨大な目玉を思い出し、アストは全身の肌があわ立つのを感じた。 |