【第五章】生命の塔
第五十五話 遺された記憶

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 次第に、道が細くなってきた。
 密に並び立っていた木々がまばらになり、代わりに深い藪が行く手に迫(せ)り出すように生い茂っている。背の高い草を刀で払いつつ、もはや獣道とも言えぬようなか細い道を進む。
「珍しく役に立ってるんじゃない?」
「これ、草刈りに使うものじゃないんだけど」
 マリーシアの冷やかしに対して、心外そうな呟きを口にしたエリウスが大鎌を振るう。不意の敵襲へ備えるために彼は魔装を解いていなかったが、今は仮面のような外殻を背部に収納しており、顔が見えるようになっていた。
 一振りで広範囲を掃える大鎌のおかげで藪漕ぎは大いに捗っていたものの、どこに危険な生物が潜んでいるかわからないため、アストたちの足取りは慎重にならざるを得ない。
 今しがた遭遇した狼や大蜘蛛の姿が、この森を侵す異様な瘴気に馴化した形態だというのなら、ここで遭遇するあらゆる生き物が危険な存在であると認識すべきなのだ。
 途切れ途切れにある道を探りながら進んでいくと、前方からせせらぐような水音が聞こえてきた。川が近くを流れているのだろうか。しかし、こんな森を通る川がまともな川であるはずがない。蠢く界瘴の濁流を想像したアストはこのまま進むことに危惧を覚えたが、引き返したところで他に進めそうな道がないことは確認済みだ。
 観念して道なりに下ってゆくと、不意に藪が途切れて砂地に行き当たった。水音から察するに、川は小さな砂地のすぐ後ろを流れているようだ。木々の中から抜け出たおかげで天頂の円環より注がれる光が届くようになり、周囲が明るくなった気がした。だが、地表とその上にあるものは影同士が繋がって一体になっており、川と砂地の境目を見分けることはできない。
 マリーシアが杖先に燈した《篝火》をかざすと、川のほとりに細長い影が横たわっているのが見えた。
「あれはなに?」
「小舟のような形に見えますが……」
 声を潜めたマリーシアの問いかけに、同じく声を潜めたルシェルが応じる。皆で足音を忍ばせながら近づいてみると、二、三人が乗れる程度の小舟の姿が確認できた。外板が腐っており、船腹のところどころが破れていたものの、舟としての形状は辛うじて保たれている。舟中には、全身を外套に包んだ亡骸が、艫(とも)の方へ身を預けるように横臥していた。ぼろぼろに擦り切れた外套の裾からは、風化しかけた手足の骨が覗いている。
「こんなところにも人が住んでたのかしら」
 呟いたマリーシアの視線は船底に向けられていた。そこには、眼前の死者のものらしき頭蓋骨が転がっている。付近に幾つかの歯片が散らばる中に、錆びた短剣が落ちていた。
 誰にも見つけてもらえず孤独に朽ち果てていったのなら哀れなことだが、ここで死ねば自分も同じような姿になってしまうのだろう。
 寒気と同時に奇妙な違和感を覚えて視線を上げると、遺骸が纏っている外套の頭巾が妙に膨らんでいる≠アとに気づいた。内に包むものを守るように覆っている頭巾の下からは、微弱な光が漏れ出している。本来そこに収まるべき頭蓋骨は舟底に置かれているというのに、なに≠ェそこにあるというのか。
 皆の視線が頭巾へと注がれる中、アストは意を決して頭巾の端をつまみ上げた。
 そこに姿を現したのは、青白い燐火を纏わせた球状の発光体だ。
「人魂……みたいに見えるけど」
 これが人の霊魂であるなら、亡骸の主の魂かもしれない。
 弱々しげに揺らめく燐火に手を近づけてみても、特に熱は感じられない。思い切って発光体に触れると、指先が冷たい感触に行き当たった。
「触(さわ)れた……?」
 驚きと感慨の入り混じった声を漏らしつつも、これは危険なものではないと判断することはできた。それは、少しでも力を入れれば潰れてしまいそうなほど脆く儚いものに感じられたが、自分の身体の中にも同じもの≠ェ存在しているはずなのだ。
「そのまま、優しく触れてください」
 すぐ傍で発した声に反応する前に、温かく柔らかな感触が手の甲に重ねられた。
「この人は、凍えているのです」
 振り向いて認識したルシェルの顔と、重ねられた掌の感触が一致する。
「凍えてる……?」
 だから、冷たい感触がするのだろうか?
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「どうしてかはわかりませんが、この人が今際(いまわ)に見た光景が頭の中に浮かんでくるのです」
 そういって瞳を伏せた彼女の掌から、微かな震えが伝わってきた。彼女は、怖がっているのかもしれない。
「おれには、なにも見えないよ」
「アストさんにも、きっと観(み)えるはずです」
「どうやって?」
「魂(こころ)を重ねて、死者の声を受け容れるのです」
「死者の、声――?」
 呟きかけた瞬間、目の前に白い光が拡がった。

東の空が、燃えている。
 赤々と燃え盛る火は、瞬く間に家々を灼き尽くした。
 我々の施設≠焉Aもう終わりだ。
 空の朱を映した川面が不可解なうねりを起こすたびに、舟が悲鳴のような軋みを上げる。
 いったい、なにが起きているというのだ。
 突如として円環の光が翳り、界瘴が天を覆った。
 冥界のごとき闇空を引き裂くように、雷鳴が轟いている。
 上層の管制区画から《禊の台座》を起動すれば、かの台座が生み出す光≠ノよって界瘴を浄化することは可能だ。……だが、上層に到達するための経路が界瘴によって塞がれていてはそれも敵わない。
 ならば、川向こうの丘にある連絡塔から下層へ向かうしかない。
 そう決意して、私とともに脱出を試みた同志たちは皆、やつら≠フ餌食となった。
 生きているのは、私だけだ。
 彼らの無念を霽(は)らすためにも、一刻も早く、この異変を陛下にお報せしなくては。
 しかし、徐々に汚染されてゆく川の水が重さを増しており、櫂(かい)を漕ぐ腕に疲労が蓄積しつつある。川面に降りた界瘴が暴れ出す前に、川を渡りきらなければならない。
 上流へ視線を転じると、遠方に橋梁の影が見えた。
 遠回りになろうとあれを渡るべきだったと悔やんだところで、もう遅い。川のうねりが激しさを増し、舟の制御が利かなくなりつつある。
 焦りに駆られて両腕が力んだ瞬間、櫂を漕ぐ手ごたえが軽くなった。
 櫂先(かいさき)が、無くなっている。
 折れたのではない。鋭い刃物で瞬時に切断したとしか思えない、鮮やかな切り口だ。
 戦慄した。
 船縁(ふなべり)から身を乗り出し、もはや黒一色に染まりきった水面を凝視する。
 ……まさか、やつら≠フ仕業だというのか?
 界瘴への耐性を獲得したやつら≠ナあれば、汚毒に侵された水中で活動できたとしても不思議はない。あのおぞましき連中を生み出した当事者の一人として、彼らの並外れた生命力と戦闘能力の高さはよく知っている。
 しかし、その恐ろしさを身をもって味わうことになるとは、なんという因果だ。
 彼らの手にかかった同志たちも、私と同じ恐怖を抱えながら死んでいったに違いない。
 ――そこに、いるのか……?
 この水面の下。それ自体が意思を持つ生物のように蠢く川の中に――
やつら≠ェ、いるのか――?
 首筋を嫌な寒気に撫でられて振り返ると、水面に黒ずんだ鉛色の影が浮かび上がる瞬間を眼に捉えた。
 あれは――
 水上に現れたものの正体を悟るのと同時に、逃れえぬ死が目前に迫っていることも理解した。
 ――嫌だ……! 私はまだ死にたくない……!
 恐怖に裏返った声で叫び、それへ向かって力の限りに櫂を投げつけた、が――
 その時既に。
 伸び上がる影が。
 絶叫を溯り――、私の――喉奥へ――


 頭の中が、他人の夢を覗いているような感覚に浸されていた。右手に重ねられた掌の温かみだけがアストを現実と繋ぎとめ、意識を覚醒へと導いてゆく。
 眩しさに包まれていた視界に黒い影が沁み込み、自分が常闇(とこやみ)の世界にいるのを思い出した瞬間、眼が開かれた。
 手の内にあった魂の灯が、散り散りとなって闇へ融け込むように消えてゆく。
 正面には、恐ろしげにこちらを睨む鬼女の相貌。
 いや、マリーシアの顔だ。
「うっ……!?」
 せっつかれたように喉元へ手を当て、自分の首が無事であることを確認した。意識が覚醒する直前まで見たり感じたりしていたものが、ただの夢や幻覚とは思えないほどに、生々しい質感を含んでいたせいだ。喉奥に異物が挿し込まれ、生ぬるい血流が溢れてくる感触まで、自分が体験したことかのようにはっきりと蘇らせることができる。
 今のはなんだ?
 人の、死?
 この人の、死?
 それを、おれは観たのか……?
 今のが、死――?
 まだ喉奥に居座っている異物感と血流の生温かさを意識すると、これは本当に我が身に起きていることなのではないかと疑いたくなる。恐怖と混乱で赤熱しかけた体内を冷まそうとして乱れた息を繰り返したが、瘴気に侵された空気を大量に摂り込んだところで死に近づくだけだ。その愚かさを主に気づかせようと、心臓が破裂しそうなほどに跳ね狂っている。
 そうだ――!
 だから! 恐いんだ……!
 死ぬのは……! 恐い――!
「落ち着いてください」
 顔のすぐ傍で発せられたその声が、焼けつきかけた心と身体に一滴(ひとしずく)の清涼をもたらした。
 こちらを覗くルシェルの瞳に、生命が持つべき瑞々しい潤いが満ちているのを認めて、気持ちが安らぐ。頭の中が少し落ち着くと、さっきまでの自分は死んだような眼をしていたのではないかと思えてきた。
「いったいなにが見えたの?」
 目の前で小首を傾げているマリーシアに、うまく伝えられそうな回答が思いつかなかった。
「この方は、隠り世が界瘴に侵されるその時に、ここで亡くなったようです」
 呼吸を落ち着かせながら、ルシェルの言葉に肯くのがやっとだった。
「ここが地獄に変わった時の犠牲者ってわけね。亡骸に霊魂が固着してたんでしょうけど、消えたってことは誰かに伝えられて満足できたのかしら」
「おれたちにあれを観せて、どうしろって言うんだ?」
「そんなのあたしにわかるわけないでしょ。観たのはあなたたちだけなんだし」
 それを考えるのは見た人の責任でしょ、と言いたげなマリーシアはルシェルに視線を流した。
「まぁ、それにしても驚いたわ。死者の魂を覗けるなんて、巫女の血筋を引いているだけのことはあるのね」
「どうして観えたかは、よくわからないの」
「観えるという事実が大事なのよ。あたしも初めて魔法が使えた時はそうだったわ。どうしてできるかなんて理屈は、その内わかればいいことじゃない」
 マリーシアの言葉は、それはそれで一つの考え方かもしれないと思えるものだった。でも、所詮は力を扱う才能に恵まれた人の言うことだとも思う。うまく力を引き出すための理屈があるのなら、今すぐにでも知りたいというのがアストの本音だ。
「そうだな。観える理屈より、川を渡る方法を考えるのが先だ」
 川岸を見回していたヴァンが、微かに首を振りつつこちらを向いた。
「空を飛べる人が、飛べない人を運んであげればいいんじゃないの」
「運んでるところを敵に襲われたら危険でしょ。そんなこと言うんなら、重そうな鉄の塊はあんたが運びなさいよ」
 エリウスの提案は、即座にマリーシアが却下した。「重そうな鉄の塊」と呼ばれた人物は、不愉快げな眼差しで魔女を睨んでいる。仮にエリウスが彼を運んだとしても、その間は二人とも満足に戦うことができないのは確かだろう。ルシェルが宙で足場にしている光の波紋も、複数人が自由に動き回れるほど広いものではない。
 となれば、なるべく危険を冒さずに渡河できる場所を見つける方が益しというものだろう。
「そういえば……、あっちの方に橋があったような気がする」
 記憶を手繰りながら上流を指差すと、川を横切るように伸びる長い影が見えた。
「確かにそれらしいのが見えるわね。他に手がかりがないことだし、あそこまで行ってみましょうか」
 マリーシアの言葉に首肯した直後、ルシェルとリリィが亡骸に祈りを捧げている姿が目に入った。舟底に横たわる者が異教の信徒であろうと、人の死を悼む気持ちにはいささかの違いもないはずだ。瞑目したアヤノが合掌しているのを目に留めたアストは、自分もそれに倣うことにした。
 ふと、村外れの墓場にこの人を埋葬してあげようと思いついたが、まずは自分たちが生きて戻らなければ叶わぬことだ。
 岸沿いに砂地が続いているので、橋の近くまでは藪へ入らずに進むことができそうだった。水際が藪に隠れていると川へ落ちる危険が高まる上に、落ちた先が界瘴に汚染された毒河というのでは堪ったものじゃない。
 黄泉返しの祭りの日に、幾つもの黒い手に掴まれて界瘴の中へ引きずり込まれた。
 あの瞬間を思い出すたびに、首筋がぞくりと粟立ちそうになる。
 ……界瘴とは、なんなのだろうか?
 村では、冥土を流れる川の一部が地上に現れたものだと考えられていたが、そうであるなら、あの夥しい数の黒い手はなんだというのだ。
 死霊の手?
 かつて界瘴に呑まれて亡くなった人びとの怨念が、生者を道連れにせんとしてあのような形を取って顕れるのか?
 オレスの兄や新前の人たちも、みんな、あの手に――?
「おわっ!?」
 窪みに足を取られ、体勢を崩した。すぐ近くにいたルシェルが身体を支えてくれたので、みっともない恰好で転ばずに済んだ。
「お気をつけください」
「ごめん……」
 気恥ずかしくなって彼女から離れると、肩に乗っているアヤノに耳たぶを引っ張られた。
『物思いに現(うつつ)を抜かしているから、そうなるのでござるよ』
 ――そうやって人の頭ん中を覗くのはやめてくれよな。
『たまに覗いて戒めねばならぬから、覗いているのでござるよ』
 ――どういう意味だよ。
『アストどのは隙さえあらば、ルシェルどののけしからん想像をしてばかり』
 ――今は違っただろ!
 胸中でアヤノへ怒鳴り返しているうちに、橋の袂(たもと)へ着いていた。
 大小が不揃いの石を積み上げて造られた石橋のようだ。弓なりに弧を描く橋梁が延々と連なって、数百メトレ(数百メートル)先の向こう岸まで続いている。ところどころに細かなひびが入った敷石の上には、どこからか伸びてきた蔓草が這い回って橋梁を取り巻いている。
「多少傷んだ橋のようだが、ここから向こう岸へ渡れそうだな。俺が先頭に立ってやろうか」
「いや、後ろで敵の不意打ちに備えてくれ」
「無論、背後からの敵襲に備えるのは重要だが……、俺にしかできんというのなら引き受けよう」
「任せるよ」
 先行しようとしたヴァンを押し留め、隊列の後方へ向かわせた。彼を先頭で歩かせるとろくなことが起きない。
 指二つ分の太さがありそうな蔓草を踏み越えながら、今は黒影にしか見えぬ対岸に向かって足を進めた。橋を渡りきったところから樹林の影が競り上がっており、奥には円環を頂く孤高の太樹が聳えている。その傍までだいぶ近づいてきたのか、首を反らせなければ円環を視界に入れることができない。
 太樹までは残り三キール(三キロ)か、四キール(四キロ)にも満たない距離だろうと見当をつけた。
「アストさん……」
 不意にルシェルが立ち止まったので、アストは足を止めて振り返った。こちらを見る彼女の表情が、微かに強張っている。
「どうしたの?」 
「先ほど死者の魂を覗いたとき、最後に現れたものの姿が見えましたか?」
「ああ……、変な影が出てきたのは見たんだけど、あれがなんなのかはわからなかったな」
 水面から黒影が伸び上がる映像が脳裡に浮かんだが、それがどんな姿形をしていたのかまでは思い出すことができなかった。
「あれと同じ気配を持つ存在(もの)が、ここに近づいているのです」
「あれと同じ? どこから?」
 彼女の言うことが嚥み下せぬまま問いかけたそのとき、川面から水柱が立ち昇った。



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