【第五章】生命の塔
第五十六話 異貌の者たち

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 石橋の左右に屹立した四つの水柱が、アストたちを取り囲んだ。
 上昇し、大きく旋回しながら伸びた水柱の一つが正面に迫ってくる。反射的に刀の柄へ手を伸ばし、握り込む。直後、水柱の先端が瞬時に膨張した。爆散。振り撒かれた幾千もの飛沫が、豪雨のごとき烈しさをもって降り注ぐ。咄嗟に目を庇ったが、腕が作り出す死角の向こうに、何者かの気配を感じた。見えはしない。だが頭上から、殺意の軌道が来る。目を庇うのをやめ、刀を鞘走らせた。太刀合う手応え。やみかけた飛沫の向こうに、中空から降り立つ黒影が見えた。残る三つの水柱からも、同様の殺意をもった黒影が飛び出すのがわかったが、それらの対処は仲間たちに任せるしかない。
 まずは、正面の敵に意識を集中する。
 剣を構えたそれは、人の姿をしていた。しかし、人間には見えない。黒鉛を人型に押し固めたかのような体表は、岩肌を思わせる板状の鱗に覆われている。怪物か、もしくは怪人とでも呼ぶべき存在なのだろうか。乱れた灰白色の頭髪が顔の半分を隠すほどに伸びており、前髪の隙間からは純粋な黒に染まった眼球が覗いていた。その中央にある瞳孔だけが、鉛と同じ色に輝いている。半裸の上半身に剣の鞘を背負い、腰に獣の毛皮を捲きつけた姿は未開の蛮族そのものだ。剣身には文字のような印が刻まれていたが、意味を読み取ることはできなかった。《辞書》には載っていない咒紋なのだろうか。手に提げられた剣は毒々しい暗青色の光を発しており、なんらかの呪的な力を帯びているだろうことは十分に考えられた。
 彼が何者かは不明だが、死者の記憶の中で遭遇した黒影と、同じ気配を持つ者であることのは間違いない。ルシェルはいち早く気づけたというのに、目の前に現れるまでわからなかったのは、自分が未熟なせいなのだろう。だが今は、己の力不足を恥じ入る時ではない。
 敵が、動き出した。獣のごとき鋭い呼気とともに、地摺りからの刃光が跳ねる。刀を合わせたが、加速と加重の乗った剣圧に押されて靴底が滑った。
『足下に根を!』
「根を……? ――こうかっ!?」
 アヤノに囁かれ、足下に神気を放出した。橋板へ浸透し、内部に拡がった神気の根が身体を堅固に固定する。搗(か)ち合う刃の向こうで、敵の剣に刻まれた印に魔力の光が灯った。暗青色の刃が妖しく輝き、刀にかかる剣圧が一層に強まる。だが、足下に張った神気の根が、アストの体勢を護持していた。
 これなら、負けていない。
 命の力は、負けやしない。
 神気の焔をより強く燃やし、怪人の剣を弾き返した。いける。一気に畳みかけようとしたアストの意思を、足が押し留めた。
 ――なんだ……?
 脳裡に呟く傍から、『よく視なされ』というアヤノの声が聞こえた。
 体勢を立て直した怪人の後方に、橋上へ這い上がってくる影の群れがある。
「あんなにいるのか……!」
 口の中に呻いた直後、宙に飛び上がった新手の一体が、こちらへ棒状の獲物を放ってきた。投槍か。刀で払う。橋板へ切っ尖を突き立てて落ちた槍の穂先に、妖しい光を放つ刻印が並んでいた。その意味を読み取ろうとする思考を頭の片隅に追いやり、怪人の群れへ視線を戻す。その瞬間、足下で光が膨らんだ。
「なんだ!?」と叫んだ声が、直後に身体を叩いた衝撃と暴風に掻き消される。足下に張っていた神気の根が、橋板から引き剥がされるのを知覚した。抗えない浮遊感。
「アストさん!?」
 こちらへ手を伸ばすルシェルの姿が見る間に遠くなってゆく。
「しまった!?」
 自分の迂闊さを悔やんだところで、アストには橋上へ戻る術がない。あと数秒で、界瘴に侵された毒河へ叩きつけられるのを待つだけだ。
「お兄さんは私が捕まえます!」
「ぐえっ!?」
 突然襟首が締め付けられ、苦呻が漏れた。つま先のすぐ下に、黒い川面がある。リリィが外套を引っ張り上げて落下を止めてくれたとわかったが、これでは息ができない。
「は、離せって……!」
「だめです! 離したらお兄さんが落ちてしまいます!」
「首が……! 絞まってんだよ!」
「戻るまで我慢です!」
「人を首吊りにするのが……、神遣いのやることかよ!」
 リリィへ文句を叫ぶ間に、石橋の近くまで戻ることができた。
「もう十分だ! こっから降りられる!」
 頭の上に向って叫んだ直後、橋上に群がる怪人のうちの一体が、こちらへ顔を向けるのが見えた。なにかを叫ぶように開かれた口の奥が、不穏な光を発している。
「――!」
 重く、低い咆哮が大気を震わせた。目の前の景色が不可解に歪み、混ぜ合わさり、撹拌される。頭に割れるような痛みが奔り、鋭い耳鳴りが響き始めた。とても、耐えられない。
「ああぁっ!?」
 頭上より響いてきた悲鳴が、不快な感触に押し拉げられた意識を突き刺した。身体が、重力に引かれ始める。真っ直ぐ落ちても、橋には届かない位置だった。懸命に腕を伸ばしたが、爪の先が欄干を掠めただけだ。
「ちくしょう!」
 縋る思いで、橋梁を取り巻く蔓を掴んだ。落下の勢いを殺した反動で腕と肩が軋んだものの、耐えられないほどではない。
「リリィはどこ行った!?」
 下方に視線を巡らせたが、それらしき姿は見当たらない。既に毒河へ落ちてしまったのか。
『背に掴まってござるよ』
「うっ……、く――はぁ……っ!」
 背中から、苦しげに喘ぐ声と外套にしがみつく確かな感触が伝わってくる。
「落ちるなよ! アヤノさんはそっちの様子を見といてくれ!」
 刀を片手で鞘に納めながら、蔓を伝って橋上へ昇るのに適当な経路を探した。視線を上に滑らせる。そこへ、黒い影。
「くそっ!」
 身を捻り、頭上からの一刀を躱した。下方へ流れてゆく相手の首元へ蹴りを突き刺す。直後、蔓をつかむ右手に違和感が生じた。
「蔓を切ったのか!?」
 片側からの支えがなくなり、振り子となった身体が後方の橋脚に向って振られる。身体を反転させると、橋脚を這い登る怪人の群れが見えた。それらのうちの一体が、こちらに向って跳んでくる。
「――どけろよ!」
 下から奔ってきた剣を蹴り払う。余勢を利して胴を回し、怪人のこめかみに踵を叩き込む。相手の眼球が裏返るのと同時に、蔓を引く手応えが無くなった。もう片方も切られたか。重力に引かれて撓垂れるがままの蔓を投げ捨て、落下してゆく怪人の肩に足をかけた。
「届くか……!」
 念を込めるように呟き、神気を込めた靴先で怪人の肩を蹴る。反作用で浮き上がった身体は橋上へ躍り出るに至らなかったものの、欄干に取り付くことはできた。
「これでなんとか――」
『まだでござるよ!』
 アヤノが叫んだその時、欄干の上から剣光が降りかかった。
「こいつら……!?」
 素早く蔓を伝うことで躱したが、あと数瞬遅ければ頭をかち割られていたところだ。
 今度は、頭上に三つの光が見えた。
「やられる!?」
 焦りに駆られるまま蔓を手繰ろうとした右手が空をつかむ。
 戦慄した。
 しかし、直後に差し込まれたしなやかな感触が掌を包んだ。
「こちらへ!」
 その声と、しなやかさの中に芯の強さを秘めた掌の感触を信じ、身体を引き上げた。アストを狙っていた三体の怪人が、剣を振り上げた恰好のまま橋上に倒れこむ。
 ――また、助けられたのか。
 ありがたさと情けなさの入り混じった感情を奥歯で噛み殺した。
「彼らはなにをやったのです?」
 ルシェルは問いを口にしつつも、隙を作らぬように周囲の敵を牽制していた。
「わからない。よく聞き取れない言葉を浴びせられた」
 あの咆哮を言葉と認めてよいものかはわからないが、ただの叫び声とするには違和感がある。
「彼らの叫び声には、魔法に似た力が篭められているように感じました」
「あれも、魔法か……」
 ルシェルの感じ方は、正しいのだろうと思う。
 とすれば、あの咆哮には人の神経や精神に干渉して障害をもたらす力があるのかもしれない。そしてその作用は、神遣いに対しても有効であるということだ。
 このような力を持つ彼らは何者なんだろうか。
 祇徒や、異霊と呼ばれる者たちと、同じ存在であるとしか思えない。
「すみません……、私のせいで迷惑を……」
 背中から降りたリリィは、まだ回復しきっていないのか額を押さえていた。
「無理はしなくていい。後ろに隠れてろ」
 治癒の咒紋を呼び出した神遣いを背後に庇いながら、刀を抜いた。怪人の群れが押し寄せてくる。刻印を光らせた槍が突き出された。穂先を断ち落とし、懐に飛び込む。刀を払い、間合いから退いた。割れた怪人の腹から黒い血と臓物が溢れ出る。前のめりに倒れた骸を乗り越え、後続の敵が迫ってきた。その手に持たれた剣には、やはり光る刻印が彫りこまれている。初撃を刀で受けた瞬間、敵刃の表面に電光の束が生まれた。『感電』という言葉が無意識裡に《辞書》から読み出され、うっ、と胸中に呻いた直後、
『無縁にござる』
 アヤノの声を認識し、身体に痺れや痛みが全くないことに気づいた。凶々しく輝く敵刃から烈しい電光が噴き上がっているが、サクラメの刀身がそれらを寄せつけない。
 ――弾いてる……?
『左様。サクラメより出ずる力は刃紋の力。故に、無縁』
「そういうことか!」
 敵が剣を引く呼吸に合わせ、橋板を蹴った。爪先から神気の火花が散り、身体が加速する。剣を払いのけると、胴ががら空きになった。一刀を叩き込む。血煙とともに骸が倒れ、輝きを失った魔剣が橋上に転がった。
『あちらの旗色が悪うござるな』
「どこだよ?」
 左右に視線を走らせたそのとき、こちらに飛ばされてくる白銀の甲冑があるのに気づいた。
「ヴァン・グレン!?」
「ぐおおっ!?」
 針路上にいた怪人たちを弾き飛ばしながら橋上に落ちた重戦士が、アストの近くまで勢いよく転がってくる。
「なんて怪力だ……! 無類のタフネスを誇るこの俺を、こうも容易く吹き飛ばすとは……!」
「早く起きろ!」
 即座に手を差し伸べ、ヴァンを助け起こす。彼を簡単に蹴散らすほどの強敵がいるのなら、エリウスやマリーシアも無事ではすまないだろう。やや離れたところで、激しい衝突を繰り返している神気があるのを知覚し、視線を向けた。
 仮面の双眸を光らせたエリウスが、巨躯の怪人と刃を交えている。その隙に、敵の後方を突いて挟撃できると思えた。
「今なら――!」
『不用意にござるぞ!』
「なにが!」
 橋上を駆け、ひと息に間合いを詰めた、そのとき。
 怪人が、咆哮を上げた。
 黒ずんだ鉛色の巨躯より、瞬発的に力≠ェ膨張する。
「なんだ!?」
 突如発生した瘴気の爆発に全身を叩かれ、手足の動きが阻害される。怪人の正面で咆哮を浴びたエリウスも、同じだ。全身を戦慄(わなな)かせ、懸命に抵抗する仮面の戦士へ魔の大剣が振り下ろされる。辛うじて動いた大鎌の柄が防いだが、剣圧に弾かれたエリウスの身体は地に叩きつけられた。
『もやしどの!』
「ん――の野郎……!」
 激発した怒気が神気の焔へと転化された。湧き起こる力に震える手足が、瘴気の呪縛を打ち破る。敵の注意は、地に倒れているエリウスに惹きつけられているようだった。その後姿は、まるでこちらを警戒していないと見える。アストはサクラメを振り下ろした――しかし、下からの剣軌。刀を合わせるのが精一杯だ。敵が振り向く瞬間を認識できなかったが、反対に自分が切られていたかもしれない、という想像に冷や汗が吹き出た。
 瞬時に体(たい)を入れ替えた怪人の胸元には、刺青のような刻印が光っている。これも、なんらかの魔法を生み出す印なのだろうか。
 その思考に気を取られた瞬間、刀を跳ね上げられそうになった。敵の剣圧が、強まっている。身体中の神気を刀身に集束させ、抵抗した。
 やれるはずだ。
 命の力がある限り、負けはしない。
「――うわっ!?」
 身体が、弾き飛ばされていた。
 渾身の力を込めた抵抗が、蚊でも振り払うかのように払い除けられたのだ。
『根を張りなされ!』
「っ!? わかってるよ!」
 アヤノの指示に従い、足下に神気の根を展張した。橋板に食い込んだ神気が、火花を爆ぜ散らしながらアストの身体を減速する。しかし、止まらない。
「ぐっ、あ!?」
 抵抗しがたい圧力に流されるまま橋上を滑り続けたアストは、欄干に背中をしたたかに打ちつけたところで、ようやく静止することができた。
「くそ、耐え切れなかった……!」
 咳き込むと同時に、背中がずきりと痛んだ。自分の力がまるで通じなかったことに、束の間呆然とする。
 命の力を使ったところで、より大きな力の前では無力なのだと思い知った。
『呆けている暇はござらぬぞ! 早くあやつを止めなされ!』
「力負けしてるんだぞ! どうやって戦えって言うんだよ!」
『魔女どのが狙われているのでござる!』
「なに……!?」
 視界の向こうで、あの刺青をした怪人がマリーシアに襲いかかるのが見えた。



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