『彼女』にとっては寝覚めの悪い朝だった。
突然の息苦しさと胸が締め付けられるような圧迫感に襲われて飛び起きたのは、東の山の端の向こうがほんのりと明るみを帯びてきたくらいの頃である。
ベッドの上で一際に高鳴っている自分の心臓の上に手を当ててみたときなどは、このまま胸が爆発してしまうんじゃないかと思えるほどだった。
呼吸が落ち着くまでそのままじっとしていると、早起きの時鳥が、ピピピピピ、と鳴き始めたのが開け放してある雨戸から飛び込んできて耳たぶを叩く。
その囀りを耳にしてからは不思議と呼吸も気分も鎮まってくれた。
そこで安心すると同時に、ふと、肌寒さを覚える。
うなされて寝汗をかいてしまったのかもしれないが、それよりも、袖なしの薄い肌着一枚で寝ている自分が悪いと言えた。
すっかり冷え切った肩を手のひらで暖めながら、意味もなく、一つだけため息をつく。
それほど長い時間眠れたわけではなかったが、すこぶる不快な寝覚めのおかげもあって、もうしばらく眠りたいなどという欲求は湧き起こってこなかった。
嫌な夢を見たんだろう、ということはわかるのだが、それが一体どんな夢だったのかは思い出すことができない。
意識が覚醒して身体が目覚める直前のことまでの記憶を手繰ろうとすればできそうな気もしたが、やめた。
どうせ分かったところでろくなことはない。
布団の温もりは惜しかったが今朝はもう起きることにして板張りの床に裸足を降ろしたはいいが、すぐに、ひやっ、とした感触が包み込んできて、折角、起きると決意を固めた自分の気持ちを鈍らせる。
「……なんて朝なのよ」
苛立ちまぎれの呟きを舌の上で転がしながらも、やっぱりこの前の市場で見かけたふかふかの絨毯は買っておくべきだった、と内心にこぼした。
ベッドから腰を上げると、机の椅子の背もたれにかけっぱなしにしてあった部屋着を掴んで袖を通す。
早く起きたからといって特にすることがあるわけでもなかったが、とりあえず、お茶を淹れるための湯を沸かそうと思い、寝間を出て台所へ移動すると水がめからケトルで一杯分の水をくみ上げ、竈に火を起こした。
湯が沸くまでは竈の手前にある古びた食卓に着いて、ぼんやりとするだけだ。
昨日から寝かせていたパンの生地があったが、空腹はまだ覚えていなかったから、焼くのはもう少しお腹が空いてからでいいだろう、などと考える。
小麦の買い置きが少なくなってきたので、そろそろ麓の村まで買出しに行かなければならないのが面倒だった。
山菜や果物などは自分で摘んできて自給自足することができたが、塩なども含めた食料品の全てを自分で用意できるわけではなかったし、紙や石鹸のような日用品も山を降りて買いに行かなければならないのだ。
その頻度は月に一、二度で、自家製の野いちごのジャムや、山菜を酢や塩で漬物にしたのを売って現金に替えるか、顔馴染みの店なら直接物品をやり取りすることによって目当ての品物を得ていたのである。
最近はこの近くでしか採れない薬草を煎じたり、干したり、磨り潰したりして調合した粉薬も売っており、それが流行り病に効いたため、なかなか評判が良かった。
多少値を上げても飛ぶように売れるので、これならもっとふんだくれると考えたこともあったが、ぼったくりは意地悪く妄想するだけに留めておいた。
自分が大金を手にしても古書を漁るぐらいにしか使い道はない。
もっと着るものにお金をかけたり、室内にお洒落な家具や小物を置いたりしてもいいのかもしれないが、そういうものにお金を使おうとすると急に財布の紐が硬くなる自分がいた。
こういうところは母親に似たのかもしれない、と思う。
だが、どちらかというとだらしない自分の性格は、母とは似ても似つかないものだった。
一度着たものを放り投げておくと注意されたし、読みさしの本を出しっぱなしにして怒られることもよくあった。
どんなに寒い朝でも自分より先に起き出して部屋を暖めて朝食の用意をしてくれる母に感謝することはあったが、それを自分が真似したことは一度たりともなかったのである。
パンの焼き方からジャムや漬物の作り方、編み物の仕方に至るまですべて母に教わって、一応、それなりにこなせるようにはなったものの、母がやったものと比べるとどうしても自分のは今一つに見えてしまう。
悪いところは父に似てしまったのかと思うこともあったが、自分の短所を血筋のせいにするのは卑怯に思えたのでやめた。
他人のせいにして何も努力をしないのは母が最も嫌うことでもある。
それに、こんな山奥で自堕落に任せて怠けていては生活することもままならない。
ここで生きていくためにはそれなりのことをしなければならなかった。
面倒だけど今日は外に出て薬にできそうな野草を探してこよう、とまで考えたところで火にかけていたケトルがカタカタと吹き零れていたことに気付く。
ケトルを火から離そうと慌てて取っ手を掴んだものの、蓋からあふれ出る蒸気に当てられていたせいか、取っ手自体もかなりの高熱を持ってしまっていた。
「あっつい!?」
取っ手に触って軽く火傷をした『彼女』は、思わず自分の耳たぶを触っていた。
散々だった朝のティータイムを終えた『彼女』は着替え直してから小屋の外へ出てくると、一度大きく深呼吸をしてみた。
柔らかな黒髪を撫でていく風は少し冷たかったが、山林を潜り抜けてくるそよ風は様々な生命の息吹を含んでいて、胸一杯に吸い込むと元気になれそうな気がしてくる。
最近は紺や紫の長袖シャツとズボンに、膝をすっぽり隠すほどある半袖のチュニックを同色で合わせて着ることが多かった。
その色が好きなのかどうかは自分でもはっきりしないが、いつの間にかそれが落ち着く恰好になっていたのである。
火傷した左の人差し指はまだ少し痛かったが、腫れてひどい水ぶくれになるほどではないようだ。
時刻は午前六時にさしかかろうとしていたところだが、時間に追われない生活をしていると、少し明るくなってきた頃だな、と認識する程度で事足りた。
明るくなってきた頃に起き始め、暗くなる前に家に戻ればいいのである。
山の生き物たちもそろそろと起き出して活動を始めているはずだが、遠くに聞こえるトンビの鳴き声以外は特に耳に入るものもなく、山中は平穏そのものといった静かな朝を迎えていた。
小屋の近くには古井戸があり、それは自分がここに住む前からあったものなのだが、未だに枯れることなく澄んだ水が湧き続けているのでかなり重宝している。
そこで手持ちの桶に半分ほどの水を汲むと、小屋から北側の、少し離れたところにある小さな高台に向かって歩き始めた。
それほど苦しくない緩やかな勾配を登った先には四角い台石のようなものがあり、そこに着くころには小屋を囲むようにずっと続いてきた針葉樹の林も途切れ、急に視界が開けてくる。
山林を抜けると、穏やかな日差しと抜けるような青空が優しく迎えてくれた。
高台から先はやや急な斜面が山裾まで続き、背の高い草木が生え揃う草原に繋がっていく。
所々に杉の木が散在する草原の中ほどに人の住む集落が見え、そこがよく足を運ぶテスタという名前の村だった。
テスタ村の向こうには東西に細長い川が走り、その更に先にはロゼウス公国の国境があるはずだったが、そこまで視線を走らせていくと地平線の辺りで景色が霞み始めてしまい、具体的な様子を目で確認することはできない。
冬が近づいてくると、地平線の辺りがうっすらと雪化粧を纏ってくるのがわかり、それが見えることによって厳しい冬の訪れを知ることができた。
広大なヴェルトリアの中でもここは北の外れにあり、冬は深雪に閉ざされることから外界との行き来はほぼ不可能になる。
もうしばらくしたら冬の備えについても考えなければならないと思うと少しだけ気が重くなったが、今はそのことは考えないようにして、水の入った桶を足下の台石の傍に置いてしゃがみこむと、台石の表面に彫られている文字の羅列が目に入った。
――幾多の思い出と共に、永遠に安らぎの中に眠らんことを――
――ソニア・フォンセーヌへ愛をこめて――
この石の下に眠る者、母、に娘が最後に手向けた言葉であった。
表面に汚れはあまり見られなかったが、娘は桶の中の水を小さな柄杓で掬って母の墓石にかけた。
ふと、手が止まった。
母の墓石の隣に寄り添うように置いてある、小さな石の墓標が目に入ったからだ。
石は自分で置いたものだが、その小さな石がなぜか視界に引っかかるようで気になった。
――メアリス・フォンセーヌ、母と共に眠る――
母のものに比べれば特に言葉を考えた様子も無い平易な碑文である。
なぜそれが気になったかは自分でもわからなかった『彼女』だが、桶に残っていた僅かな水を、その『自分』の名前の彫られた墓標にもかけてやった。
それは、前もって作った自分の墓なのだ。
いや、彼女にとってはメアリス・フォンセーヌという少女は確かに死んでいて、今も母と一緒にこの高台の下で永遠の安らかな眠りについているはずだった。
メアリスは死に、今、ここにいる自分は誰でもない。
それが彼女の心の中での既成事実であった。
どうして、母親の墓の隣に自分の墓を作る気になったのかは自分でもうまく言い表せない。
それでも、こうして先にお墓を作っておくことで、一人きりになってしまった自分がどこかで野垂れ死んだとしても母と同じところに行って、同じところで眠られるような気がしたし、こうしておけば母が一人で眠ることに寂しさを覚えないだろうという期待が、彼女にはあった。
母のお墓は自分で何とか用意することができたが、自分の墓は誰も用意などしてくれないのだ。
だから、今はこれでいいんだと思えた。
母が亡くなったのは五年前のことだ。
母が父と別れ、人目を避けるように自分を連れて北の山奥に移り住んだのは、メアリスが八歳の誕生日を迎えたばかりのころであった。
当時のメアリスは、なぜ、両親が別れて暮らさなければならなくなったのか理解できず、自分の手を引っ張って家を出ようとする母に泣きじゃくりながら抵抗したものだ。
『お父さんは大変なことをなさろうとしているのよ。だから、私たちはここにいてはいけないの』
まだ幼さの抜けきれないメアリスに、そんな抽象的な説明が通じるわけがなかった。
家族が一緒に暮らしていけなくなるほどの大変な何かを父がやろうとしている。
そこまでは理解できても、家族が引き離されて生活することなど、八歳の彼女に納得できるわけはなかったのだ。
母によって皇都ヴェルハイムから北へ遠く離れた山中の朽ちかけていた山小屋まで連れてこられたメアリスだが、なぜ生活に何不自由のない都を捨てて、冬には凍えるような寒さと頭まで埋まるほどの豪雪に襲われるような山奥に越してこなければならないのだと、当初は母を恨みに思ったものだった。
母は自分とここで心中するつもりなのではないかと幼いながらにおびえたものだったが、母が締めた長い縄が自分の首にかかることはなく、林の中に寝そべっている倒木に結わえられ、それを二人で引っ張りながら小屋の近くで運んできたりすることなどに使われるのを見てから、ほっとしたことを覚えている。
運んできた数本の倒木を何に使うのか見ていると、鉈で払った枝は冬に暖炉にくべるための薪とし、幹は板状に切り出して、腐っていた屋根や床や壁を張り替えるための木材とされた。
その様子を見たメアリスはようやく、どうやら母はここで自分と長く暮らすつもりらしい、ということを悟ったのである。
元が田舎育ちだった母はこういう作業に慣れているらしく、一人手で時間はかかったものの、暖かい季節のうちに小屋の修繕を終え、最初の冬を迎えることができたのであった。
食べるものも果実や山菜を採集してきてはジャムや漬物にして保存し、罠を仕掛けて捕らえることができた獣や鳥を干したり、燻製にしたりして長い冬に備えた。
山の中の植物のうち、どれが食べられるもので、どれが食べてはいけないものなのかは、その時、母に教わったのである。
他に必要なものは山を降りたところにあるテスタ村に行き、そこで母が編んだ手織物などを売って調達することにした。
野山の獣ですら冬を越すことが難しいこの苛酷な環境で今まで自分が生きてこられたのは、母が骨身を惜しまずに働いて養ってくれたからだ、と心から思う。
生活が落ち着いてきた頃には、都に残った父のことが気になって仕方なくなったが、母に尋ねても、わからない、という答えが返ってくるだけで、普段の母は父のことを話題に出すことすら避けていたように見える。
『お父さんは、お仕事がうまく行ったら、必ず、迎えに来てくれるから』
母はいつもそう言って娘の追及をかわそうとするのだった。
その言葉を素直に信じて待っていた時期もあるが、二年、三年、と時が経っても一向に帰ってくる気配がなく、何の連絡もよこさない父親に、やはり父にはもう逢えないのだ、とメアリスはひとりでに納得するようになっていたのである。
父と母の間に何があったのかはわからないが、父が母を捨てたにしろ、母が父を見限ったにしろ、自分はここで母と一緒にずっと暮らしていくのだと彼女は考えるようになった。
だが、その生活も彼女が考えていたほどには長く続かない。
母が倒れたのは彼女が十五の時だった。
最初は風邪をこじらせただけのように見えたが、積年の無理が祟って身体が弱っていたのだろう。
娘が丈夫だと信じた母の最期は呆気ないものだった。
その時初めて、メアリスは母が生命を削るような思いをしてまで自分を守ってくれていたのだと知り、泣いた。
自分は母にとって厄介な重荷でしかなかったのだ。
母の亡骸が無言のうちに、彼女にとっての残酷な事実を伝えていた。
メアリスは母の身体を北方の草原が一望できる高台に墓を作って弔った。
病床の母が、もし、自分に万が一のことがあったらそこに埋めて欲しい、と言い残していたからである。
母は自分のことをどう思っていたんだろう。
本当に自分は、鬱陶しくて邪魔なだけの存在だったのだろうか。
一しきり自分自身の存在を否定するようなことを考えたメアリスだったが、そんなことをしても母が浮かばれるわけはなく、また、自分を捨てずに大切に育ててくれた母の愛情を疑っては罰が当たると思い直し、不毛な考えは捨てることにした。
それからは母の墓を守ってここでひっそりと生きていくことを誓ったメアリスだったが、心の奥底では父を待ち続けていただろう母が一人で冷たい土の下で眠ることは不憫に思えたので、母の隣に自分の墓を作り、十五年を共に生きたメアリスという少女の存在を捧げたのである。
それが、自分の墓がここにある本当の理由だった。
もし、墓を作ったことによって自分があの世にいる母親に引っ張られたとしても、別に構わなかった。
この世にそれほどの未練はないと思っていたからだ。
『マリーシア! 火の付いた暖炉の近くに人形置きっぱなしにしたら火事になるって教えたでしょ!』
よく悪さをして自分を叱ってくれたあの頃の母はもういない。
マリーシア、というのは母が自分のことを叱るときだけに使う名前だ。
この辺りでは使われていないが、悪意、や、ちょっとした悪戯、という意味の言葉らしい。
それがメアリスという自分の名前に近いことから、いたずらっ子の娘を母がそう呼ぶようになったのだ。
言葉の意味はともかくだが、今となってはその名前の方が自分に相応しいような気さえする。
母の声を思い出した彼女は、ふと、目の前が滲んできたので指で拭った。
父は、母の死を知らない。
知るはずがなかった。
なぜなら、父は――。
「…………?」
その直前まで物思いに耽っていた彼女だが、突然、麓の方から響いてきた轟音に思考を妨げられ、顔を上げた。
音は、斜面を下ったずっと先のほうから聞こえてきたように思える。
彼女が視線を走らせて行った先にはテスタ村があったが、特に異常があるようには見られない。
いや、あった。
村に、一つ、二つ、と炊事のときとは違う、やけに黒い煙が立ち昇っているのが視界に捉えられる。
「煙……?」
火事でも起きたのだろうか、と考える傍から巻き起こった次の轟音によって、彼女の想像は打ち消された。
ズドッ、という鈍い音と共に家屋の一つが砕けたのを目にしたからだ。
それが砲弾を撃ち込まれたことによるものだと気付いたのは、直後に、わぁっと沸き起こった鬨の声を耳にしてからだった。
村に何が起ころうとしているのかを俄かに把握しがたかったが、村の北方から砂煙を濛々と舞い上げて押し寄せてくるものの正体を認めたとき、彼女は理解した。
「ロゼウスの騎馬隊が攻めてきたの……?」
自分で口にしておきながら、まさか、と思う。
ロゼウス公国はヴェルトリアに対して従属する姿勢を取っており、その領土も軍事力も帝国と比べれば遥かに小さく、戦いを挑むのは自殺行為に等しい力関係にあったからだ。
だが、属領内に吹き荒れる不満の嵐を鎮めきれず、叛乱の火消しに躍起になり、兵馬も民も疲れ果てている今の帝国ならどうであろうか。
いずれにせよ、ロゼウスが軍を動かしたということは何かしらの勝機を見出したということであり、現実に国境を侵し、ヴェルトリア領内に攻め入ってきているのだ。
無数の軍馬の蹄鉄が大地を揺るがさんばかりに蹴りたてる音が波濤と化してテスタ村を呑み込み、それが遠く離れた山上にいるメアリスの耳朶をも打った。
穏やかだったはずの早朝の不意に出現したロゼウスの騎馬隊を前に、村内は恐慌状態に陥っている。
家屋は次々と火を放たれ、打ち壊され、騎馬に蹴散らされた人々が逃げ惑い、村の外へ脱出を試みたものには容赦なく弓矢が射掛けられた。
村内があっという間に血の海と化したであろうことは、離れたところから見ているメアリスにも想像できる。
怒声や軍馬の蹄の音に混じり、女性や子供の泣き叫ぶ声、助けを求める声が響き、テスタ村はこの世の地獄と化していた。
元々、この村には常駐しているヴェルトリアの兵などいない。
一方的な、虐殺であった。
「…………」
麓の惨事を眺めていたメアリスは、しばらくたってから母親の墓に背を向け、高台を下るためのゆっくりと一歩を踏み出していた。
一刻も早くここから逃げる、という様子ではない。
彼女の足取りは妙にゆったりとしていて、まるで、興味を失った演劇の鑑賞をやめて中座していくような、そんな風情すらある。
その表情からは何の色も見て取ることができなかったが、たった一つだけ、口唇から零れ出た言葉があった。
「この国も、もうおしまいね」
そう呟いたメアリスの瞳は、冷たい輝きを放っていた。