ルシェルは二十歳になっていた。
三年前、彼女は十七歳で騎士としての叙勲を受け、宮廷侍衛官の肩書きを与えられて宮中での佩剣を許可されてからは、セフィナ皇女の身辺警護を日々の務めとしている。
肩書きは侍衛官であるが彼女の役目を端的に表すと、皇女専属のボディガードだ。
自分が皇女付きの侍女になれたことを昔は不思議に思っていたルシェルだが、特に信頼できる人間をセフィナの傍に付けるとオルデニウスが決めたときから、この流れは必然とも考えられた。
変わった人の使い方であることには違いないが、いざ何かあったときに自分の娘を守りきれるだけの気骨を持った人間を皇帝は探していたのかもしれない、と、今の彼女には想像できたのである。
以前と比べて彼女の生活が激変したというほどのことはなかったが、近衛に就くものを除けば騎士や将軍ですら武具の所持が許されない宮中にあって、皇帝から直に賜った幅広の直剣を腰に帯びるということに大きな責任と緊張は感じていた。
セフィナの身の安全を護るということは、自分が皇女の剣となり、楯とならなければならない、ということだからだ。
不測の事態が発生した時は、自分が生命を賭けて戦わなければならない。
ということは、不審者や反逆者が現れた際に備えて、それがいつであろうと反応できる心身の状態を維持しなければならないのだ。
そういった輩が厳重な警備体制下にあるヴェルトリア城に易々と侵入できるとは思えなかったが、城内の人間が絶対に翻意を起こさないとも限らず、皇女に近づく者は見知った顔であっても手元を注意深く見るようになったし、衛兵や近衛騎士団の黒騎士であっても、佩剣した者が近くにいる時はその挙動を監視する癖がついた。
そのように、悪意はなくとも常に疑いを持って他人と接し、たった一つの物音や足音にも過敏に反応するようになってしまった自分が嫌になることもある。
彼女が元々生真面目な性分であったせいもあるが、与えられた役目に実直であろうとする分、当初は神経をすり減らすような毎日を過ごしたものだ。
万が一、鞘から白刃を放たなければならなくなったときに自分がうまく立ち回れるかどうかは自信が無かった。
漠然としたプレッシャーを前に弱気になったこともあるが、不安は極力、自分の中で解消するように努めてきたのがルシェルという少女だ。
父に相談したところで怒鳴り返されるだけなのが分かっていたので、困ったときでも父を頼ろうと考えたことは一度もなかった。
昔からそうやって育てられてきたのだ。
何事であろうと、倒れるまで自分にやらせるのがダヴィドという父親である。
父の前では、女だから、子供だから、という甘えは一切許されない。
そんな父を厳しいと思うことはあったが、これがこの家に生まれた自分の運命だと思って諦めるしかなかった。
物心つく前から痣だらけになって木刀の使い方を叩き込まれていたことを思えば、大抵の辛いことは耐えられる。
今の彼女が受けているのは身体的な苦痛とは別の次元のものであったが、そうやって自分を誤魔化しながら、ルシェルは剣を帯びた生活に自らを慣れさせていったのだ。
彼女がどれだけ身構えたところで、宮中には事件と呼べるようなものが何も無かったせいもある。
そのような状態で半年なり、一年なりが何事もなく安穏とした空気の中に過ぎてしまうと、剣という存在に付随している戦いや死の恐怖というものは、退屈で変わり映えのしない日常の中に埋没していった。
自分の感覚が麻痺してきているのかもしれなかったが、このまま変事など起きずに月日が流れていくのなら、それは幸いなことだと言える。
退屈と引き換えに穏やかな時が得られるなら望むところだとも思えたが、彼女のそんな甘い考えは一瞬にして砕かれることになった。
「ついに遠征の目途が立った。……ロゼウスを討つ」
セフィナ皇女の部屋を訪れた皇帝オルデニウスの声音は落ち着いていたが、その眼には心の内の昂ぶりを抑えきれずに興奮した色が迸っているのを隠せなかった。
戦いを喜ぶ者の眼だ、とルシェルには見えたが、自分の立場でそんな印象を口にすることが許されるはずもなく、彼女にできることといえば親子水入らずの時の邪魔にならぬよう隅に下がって控え、部屋の中ほどで向かい合って話をする二人の貴人を見守ることだけだ。
「また大きな戦になるのですか?」
一方のセフィナ皇女も声色に余分な感情を込めないように意識して言葉を口にしている様子はあったが、その瞳は憂いを含んで悲しげに揺れていた。
「ロゼウスが素直に自らの非を認めて余にひれ伏せば大して血は流れんだろう。だが、牙を剥き出したまま戦う姿勢を解かぬと言うのであれば、その牙をもいでやるぐらいのことはせねばならんさ」
「あまり多くの人々が悲しみを負わぬように済めば良いのですが……」
「それは余も同じ思いだ。だが、不戦の誓いを破って我が国に押し入り、虐殺や略奪を働いたのは奴らなのだぞ? 余はヴェルトリア皇帝として、愛すべき我が民を守る義務がある。たとえ野良犬一匹と言えど民に害をなすものは駆除しなければならないのが余の務めだ」
「……わかっています」
伏目がちに答えたセフィナにオルデニウスは、うむ、と鷹揚に頷いて見せたが、娘がどのような心持ちで言葉を吐き出しているのかまではわかっていなかった。
ふと、オルデニウスの視線がルシェルに向けられる。
「ルシェル」
「はい」
一瞬、身を硬くしたルシェルだが、内面の緊張が返事の声音に影響することはなかった。
「またしばらく城を空けることになるが、留守中のことは頼んだぞ」
「心得ております」
慎ましやかに頭を下げたルシェルに頷いてから、オルデニウスは自分の視界を愛娘へ戻した。
「この城にいる限りはルシェルがお前を守ってくれる。だが、外出は控えた方がいいだろう。……三年前のこともある」
三年前の皇女襲撃事件は、結局、グラード人の反政府組織によって仕組まれたものだとされた。
された、というのは、意識を取り戻した襲撃犯の男を取り調べる前に、彼が自分の舌を噛み切って生命を断ち、自らの口を封じたせいである。
事件の背景や解明の手がかりは、取り押さえられた男の他に全く現れなかったため、彼の髪や肌の色から、反政府的思潮に染まった生粋のグラード人、もしくはグラード系の帰化民による犯行だろうという推測以上のものは出てこなかった。
戸籍の整備が不完全であったという事情もあるが、ヴェルトリアに住まう全国民の顔と名前を識別することは実質不可能だったのだ。
となると、実行犯に命令を下した組織があるなら、そちらはまだ取調べが全く手付かずな状態であり、今回も政治的な混乱を狙って同様の事件を起こしてくる可能性は否定できない。
そういった経緯があるから、セフィナは、自分が外出の禁止を言い渡されても我侭を言えないことは理解しているつもりだ。
そこで大人しく、わかりました、とだけ答えればよかったのだが、彼女の口は全く別の言葉を父に返していた。
「また、お父様自らが軍を率いて戦いに出てしまわれるのですか?」
「ああ。……今度ばかりは国家の命運を分ける重要な戦になるからな。余が先陣に立って兵どもを奮い立たせてやらねばならんのだ」
「……三年前の出征の際もそうおっしゃいました」
「そうだったかな」
ふっ、と息を漏らすように笑みを作る余裕を見せたオルデニウスだったが、実情は違った。
自分が城に残ってぬくぬくとしているだけでは兵が動かなくなってきているのだ。
何より皇帝自身が、自分以外の誰かに大軍を預けることを良しとしていなかった。
異人種のみならず、ヴェルトリア人からの反感も大きくなりつつある今、忠誠心が高いと思われる軍人たちからもいつ謀反を起こす者が現れるか分からず、特定の家臣に全幅の信頼を置いて寝首をかかれるような真似は避けたかったのである。
端的に言えば、彼は自分のみしか信じていなかったということだ。
「まぁ、案ずるな。ロゼウスさえ倒せばこの大陸にヴェルトリアの敵はいない。そうなれば暫くは戦いを起こしたくとも戦えんさ。今まではこの世界の覇者たらんとして少々急ぎ過ぎた。次は宰相の言うとおり、国を富ませ、民を安んじるための政治を行うつもりだ」
「それは本当ですか?」
「いくら血の気が多い余でもそれくらいのことは考える。父祖から受け継いだこのヴェルトリアという国をお前たちの代に繋げるためにも、最後くらいは善き政治をやってみせなければな」
そこでオルデニウスは口元に笑みを作ったが、今度の笑みは余裕を見せようとするためのものではなく、娘を前に喋りすぎた自分を自嘲して自然に出てきたものだった。
それ故に、父の照れ笑いを見たセフィナは安心した。
「わたくしも全ての民が安らかに日々を暮らしていける平和な世が一日も早く訪れて欲しいと願っておりました」
「そうだ。だが、その前にやっておかねばならぬことがある。わかってくれるな?」
オルデニウスは肉厚の大きな手でセフィナの鞠のように小さな頭を優しく撫でていた。
「父上の深いお志は理解しました」
「うむ。……この城にはクライシュとジェイクスを残していく。二人の兄の言うことを我が言葉だと思ってよく聞くのだぞ?」
「はい」
物分りの良いセフィナの返事にオルデニウスは満足気に頷いた。
「さて、余はこれから騎士団の長たちとの軍略会議に出なければならない。問題がなければ明日にも出立するが、お前は余のいない間、しっかりと留守を守ることを心がけてくれ」
「必ずや言いつけを守ります」
「うむ」
オルデニウスは最後にもう一度セフィナの頭を撫でてから彼女の傍を離れると、踵を返して退出の歩を進めたが、その足が一度、扉の前で立ち止まった。
「ルシェル」
「……!? はい」
皇帝を見送るつもりで深くお辞儀をしたまま静止していたルシェルだが、不意を打って自分にかけられた声に驚いて顔を上げた。
「頼んだぞ」
オルデニウスから発せられたのは、その一言だけであった。
「かしこまりました」
皇帝陛下が何を言わんとしているか、その真意を図りかねたが問い返す勇気も起きず、咄嗟に理解した風を装って答えてしまった。
軽はずみなことをしてしまったと悔やむ。
頭を下げたルシェルにオルデニウスの顔を見ることはできなかったが、彼はルシェルの答えに再度何か声を発するということはなく、扉を開くとそのまま部屋の外へと出て行ってしまった。
足下の革靴と、足首の辺りまでをすっぽりと隠す紺色のロングスカートの裾の辺りを見つめながらルシェルは、果たして、自分がかけられた言葉に対して今の返事で良かったのだろうかと僅かばかりの不安に襲われていた。