ルシェルが暫くぶりに見た父の顔は苦悩に満ちていた。
城内に住み込みで働くようになってから六年余りが過ぎていたが、その間、彼女が父ダヴィドの部屋を訪れたことは数えるくらいしかなく、椅子に張られている牛皮と煙草の匂いの入り混じった将官室に入るのは、今でも他人の家に上がりこんだような窮屈な心持ちになる。
客人の応接に使っているであろう黒革の椅子はゆったりとしていて座り心地が悪いわけではなかったが、この部屋に満ちている空気にはどこか異質なものを感じてしまい、彼女が落ち着けない原因となっていた。
端的に言えば、男臭いのである。
同じ国の同じ城の中にあるのに、皇女の部屋とはなぜこうも空気の質が違うのだろう、と思ってしまう。
それは不思議に感じるほどのことではなかったのだが、背の低いテーブルを挟んで向かい合うように座っている父が険しい顔をしたまま一向に口を割る気配を見せなければ、ルシェルも余計なことを考えてしまうのであった。
夜半を過ぎてから父に呼び出されてこの将官室へと来たものの、部屋の入り口側の椅子を示して、そこに座れ、と言ったきり、父は何も声を発していない。
皇帝オルデニウスが大軍を率いてヴェルハイムを発ってから半月余りが発とうとしている。
既に小規模な戦闘が始まっているという情報もあるが、その間、ヴェルハイム衛兵団の団長として帝都の守備任務に就いている父に自分が呼び出されたということは、皇女の警備について何か相談することがあるからだろう。
ただ久しぶりに顔を見たくなったから呼んだ、などということは父に限って無いはずである。
そう思うが、それはルシェルから見たダヴィドのイメージであって、父の心の奥底のことまでは分かるわけもない。
テーブルの手前には珍しく父が淹れてくれたコーヒーが置かれていたのだが、一口だけ味わった父のコーヒーは、苦かった。
あの父が砂糖やクリームを入れてくれるわけはないと最初から期待していなかったが、それでも、ルシェルはその苦いコーヒーに少しだけ心があったかくなるのを感じた。
自分が忘れているだけなのかもしれないが、もしかしたら、父が自分に飲み物を淹れてくれたのは生まれて初めてのことかもしれないと思う。
自分たちが一般的な親子関係とは程遠い状態にあるという自覚はある。
だが、顔を合わせたときでもお役目に則った事務的な姿勢で仕事のことばかり話題にされ、親子らしい私的な会話など殆ど持つことが無かったような父と娘の関係では、どこかよそよそしくなるのも仕方なかった。
決して避けていたわけではないが、父を安易に頼って困らせまいと自制していたことが、結果的に父を遠い存在にしてしまっていたのである。
そういう親子だったから、沈黙が長引いたときに、どちらから声をかけるか、どのタイミングで本題を切り出すか、という暗黙のうちに培われるはずの呼吸が全く成り立っていなかったのだ。
ルシェルからは不用意に話しかけることが躊躇われたし、父の顔色を窺おうと、ちら、と視線を上げた彼女と目が合ったダヴィドはすぐに俯いて、とっくに冷め切って苦味が一層に強まったはずのコーヒーを口に運んだりしてしまう。
まだ暫くこの状態が続いてしまうのかとルシェルが憂鬱になったのも束の間、カップを受け皿に多少乱暴な音を立てて戻した父が口を開いた。
「ルシェル」
「はい」
「ここ数日、反戦を訴える民衆が城門近くまで押し寄せてきているのは知っているな?」
「知っています」
「以前から生活が苦しいと陳情にやってきていた市民団体が中心になっているようだが、陛下がロゼウス軍を迎え撃つべく帝都を離れてからは反戦を声高に叫ぶようになった連中だ。数が少ないうちはまだ良かったが、それが日毎に規模を増し、千人を超えるデモ隊が城門付近に座り込みを行うまでになっている」
「…………」
決して雄弁でない父は、段取りがまとまってからでないと話を始められないような不器用な人だったが、何か一言でも口にした後は、それを皮切りに朗々と自分の意見を述べるような人でもあった。
興奮してくれば顔を朱に染め、爛々と眼も血走ってくるのだが、今は銀色の瞳をやや鋭くしている程度だ。
「鎮まる気配は無いのですか?」
「ああ。今は門前でシュプレヒコールを挙げているだけだが、あれらがいつ実力行使に訴え出て城門を突破しようという動きが出てくるかわからん」
ダヴィドは仏頂面を更に険しくすると、冷たくなったコーヒーの残りを構わずに喉奥に流し込んだ。
「……一振りの剣より、一切れのパンを」
それはデモ隊が唱えるスローガンであったが、うっかりとそれを口にしてしまったルシェルをダヴィドは殺気を含めたような視線で睨んだ。
幼かった頃より比べれば父と言葉を交わすことに畏れはなかったが、かつては戦場の鬼であり、今は衛兵を鍛え上げる練兵場の鬼であるダヴィドに睨みつけられるのは、幼い頃の記憶とあいまって背筋がぞっと凍るものだった。
だが、それは別として、民衆がそのような声を上げ始めたのも、ルシェルには分からなくなかった。
大軍を養うためには剣や鎧を与えるだけではなく、大量の糧秣が必要であり、それをどこから調達するかといえば、やはり庶民から納めさせるしかないのである。
戦争をやるために、この冬を乗り切るための蓄えを奪われた民衆から不満が漏れ出すのは必然といえた。
「城を取り巻いたデモ隊の一部には城内に向かって投石を行っている者もいる。万が一にも宮殿まで届くことは無いと思うが、セフィナ様には窓際にあまり近づかぬようにお前から進言しておいてくれ。それから、セフィナ様に付いて窓のある通路を移動する際は、お前が必ず窓際に立つようにしろ。……用件はそれだけだ」
「わかりました。必ずお伝えしておきます」
やはり用件はルシェルの想像したとおりのものであったが、これで話は終わりだと思った彼女が黒革の椅子から腰を上げる前に、ダヴィドは再び口を開いていた。
「だが、困ったものだな」
「…………?」
それは独り言のように呟かれた一言であったが、自分に向けられたものでもあると思ったルシェルは席を立つ気持ちが鈍り、お尻を椅子から離すことができないでいた。
一度伏せていた目を再びルシェルに据えた父は険しい顔つきを崩さぬまま言葉を継いだ。
「暴徒は暴徒を呼ぶ。民衆が我も我もと城内へ殺到してくるような最悪の事態は避けなければならない。そうなる前に城兵を使ってデモ隊を鎮圧するようクライシュ様に進言したのだが、殿下は民に危害を加えて追い払うは愚策として取り合ってはくれん」
「それは……、そうでしょうね。力をもってその場しのぎで暴徒を退けられたとしても、手荒なやり方では更なる怨恨の種を蒔くだけに過ぎませんから」
「お前までそう言うか? だが、現実に群衆の相手をしなければならない我々はそう綺麗ごとばかりも言ってられん。陛下から帝都の守護という重責を負託されている身としてはこのまま手をこまねいて状況の悪化を招くわけにはいかんのだ」
「クライシュ様はどのように対処せよと仰られているのですか?」
「連中の指導者と話し合いを持たれるお心算のようだ。……だが、一度でも交渉の席につけば、奴らが図に乗って増長を始める恐れもある」
その時、テーブルの上に置かれた父の拳がワナワナと震え始めたのをルシェルは見逃さなかった。
「今はこの国が滅ぶか生き残るかという重大な瀬戸際なのだぞ? 国民が一丸となって敵に立ち向かわなければならんこの時に、自分たちがたった一切れのパンを口にできないというだけで無用に騒ぎ立てて良民を惑わし、国内の和を乱すなど敵に利するだけだということがわからんのか、あの連中は!」
ダンッッ、と憤懣やるかたないダヴィドが握り固めた拳骨でテーブルを強く叩くと、ルシェルの手前のカップも激しく震動して、大きく波打ったコーヒーの幾らかが受け皿の上に溢れてきた。
「それはわかります。……ですが、戦争のために冬を越すための蓄えも乏しい人々から食料を取り上げてしまったのですから、このような形で不満が噴き出してくるのも止むを得ないことかもしれません」
父を諌めるつもりで吐いた言葉ではなかったが、ルシェルのこの一言がダヴィドの逆鱗に触れてしまった。
「止むを得ないだと!? そんなものは甘えに過ぎん! 運よく助かったに過ぎない者たちが、自分たちだけぬくぬくとすることを欲するようではこの国はお終いだ。では、ロゼウスの侵略に遭った土地の人間はどうしろというのだ? 直に暴雪が吹き荒れ、厳しい冬が訪れる。家々は壊され、金品に留まらず食料まで掠奪(りょうだつ)された者たちは暖を取ることもできずに飢えと寒さに打ちひしがれながら倒れていくのだぞ!? 我々が直ちに事を起こさずにして誰が彼らを救うというのだ? 誰が死んでいった者たちの無念を晴らすというのだ!?」
興奮を抑えきれずにまくしたてるダヴィドのこめかみにはうっすらと血管が浮き出つつあった。
一昔前のルシェルなら父の怒声を浴びたところで震え上がって黙り込んでいただろう。
だが、今の彼女は違った。
「そのためなら戦場の外で数万の餓死者や凍死者を出し、国中が困窮に喘ぐようになっても全く構わないということですか?」
「そうは言っておらん! だが、ヴェルトリア人としての誇りを忘れたような連中がいることが嘆かわしいと言っておるのだ!」
「誇りだけで人は生きていけません。ロゼウスの進駐軍に踏みにじられている人々は一日も早く助け出さなければなりませんが、エウデビオ山脈以北の豪雪地帯となると行軍もままならないでしょう。……結果として被占領地も解放できず、兵も民も餓えと寒さで死んでいく者が増えるだけです」
「では春を待てとでもいうのか? その間にもロゼウスによって幾多の同胞が虫けらのように殺されていくのだぞ?」
「いえ、そうとも限りません」
「なぜそう思う?」
「ロゼウスが長年にわたってヴェルトリア北部を支配する気でいるのなら、その土地に住む人々は彼らにとっても自軍を養うための貴重な労働力です。都市の生産性を奪い、秋の収穫のための働き口を無闇に減らしては、今年は凌げても来年の冬を越せずに自ずから自国へと引き返していくことになるでしょう」
「そんなことはわかっておる! だが、現実は一人の人間が頭の中で考えるようには都合よく進まん! お前が口にしているのは耳心地がいいだけの空論に過ぎん」
「そうかもしれません。ですが、精強を誇る帝国軍といえど万能の神兵ではないのです。一時の激しい感情に絆(ほだ)されて性急に事を運ぶだけではかえって私たちが支払う犠牲も大きくなると思います」
「それがお前の考えか! もういい! ……全く、青臭い学生のような口を聞く」
「…………」
ルシェルは苛立たしげに自分を睨みつけているダヴィドの視線にぐっと耐えて押し黙った。
どうして、こんなことになってしまったのだろうと思う。
本当は父と喧嘩をしたいわけではなかったのだが、自分の意見を正直に述べた結果、こうなってしまったとしか言いようがない。
だが、ただ黙って聞いてはいられないほど、父の考え方と自分のそれとの間には大きな隔たりがあった。
彼女が父に面と向かって異を唱えたのも、実はこれが始めてのことである。
今まで父の姿を前にするだけで萎縮して固まっていた自分がこれほど堂々と口論を続けられたこと自体、彼女にとっても驚くべきことだった。
いつの間にか自分に度胸がついていたとも思えなかったが、大声で怒鳴る父を間近にしても、昔ほどには恐いと感じられなかったのだ。
やはり、腰に剣を佩くようになってから、自分はどこかが以前と比べて大きく変わってしまったのかもしれない。
父はまだ興奮が冷めやらないような赤ら顔を見せていたが、ルシェルには父ほどの感情の昂ぶりはなかった。
ただ、悲しい。
親子にしてこれほどまで解り合うのに遠ざかってしまったという現実は、その一語に尽きた。
だが、自分が生意気過ぎであったこともわかる。
自分のような若輩に知った風な口を聞かれれば、実際に国家のために生命を賭けて戦ってきた父のような軍人が激怒するのも当然のことだと思えた。
苦虫を噛み潰したような表情で腕組みをしている父はルシェルとは眼も合わせてくれず、また、再び声をかけてくれるような気配も無い。
下手に話しかければ手が飛んでこないとも限らなかったが、それでも、何も言わずに二人で黙りこくってるよりは良かった。
父上、と話しかけたルシェルだったが、彼女がほんの少しの勇気と共に絞り出したその声は、続いて起きた、ドン、という音にかき消され、父の耳に入ることは無かった。
強い震動と共にテーブルや自分の身体が揺さぶられたのが分かったが、この揺れは先ほど父がテーブルを殴りつけたときに発生したものとは全く異質のものだ。
「何の音だ……!?」
ダヴィドは咄嗟に立ち上がって音のした方角へ首を向けた。
音はヴェルトリア城を囲む城壁の西側の一角から聞こえてきたようだった。
周辺の部屋からも異変に気づいた兵たちのどよめきが聞こえ始めたが、その中を再び、鈍い爆発音のような音が弾け、将官室が揺さぶられる。
今度のは先ほどより近い。
ただの地響きとも違う。
「光……?」
正面の窓を視界に収めていたルシェルは、向かって左の方から赤い光が迸ってきたのを眼にしていた。
「光だと?」
ダヴィドが窓を開けるべく近づいた刹那――。
ドウッ! ズシャァッ!
「……っ!?」
宵闇の中、窓からすぐ外に広がっている前庭の中央で眩い閃光が膨らむ。
その光に押し退けられるようにして大きなうねりとなった大気の波と渦が殺到して将官室の窓硝子を破砕し、室内のものを悉(ことごと)く薙ぎ倒した。
ズズッズゥゥン……!
大気の波濤と同時に発生した爆発音と衝撃が将官室を足元から揺さぶった。
爆発音は内臓を共振させる波長を持っているらしく、身体の内側にも、ずしり、と響いてくる。
ルシェルは、彼女の身体を打つ自然のものとは思えない暴力的な突風に耐えようとしたが、光と音の狂騒に耐え切れずに眼をつぶってしまった。
纏(まと)わりつくような熱気を帯びたそれは突風というより爆圧と表現した方が適切なものだろう。
「なに? 今の……?」
「くそっ!」
室内の気圧の変化が治まって眼を開けたルシェルの視界に、幾百にも砕けて細かい塵となった硝子の破片を被った父の姿が映った。
「父上?」
「大丈夫だ!」
ダヴィドは咄嗟に顔を庇うように腕で覆っていたらしく、光や硝子の破片に眼をやられた様子は無かった。
父が正面にいたおかげでルシェルが飛散した硝子に襲われることはなかったが、テーブルの上にあった飲み残しのコーヒーカップが転がって、彼女のスカートの裾を汚していたことには気付かなかった。
「デモ隊の奴らが爆薬でも投げ込んできたようだな」
窓の外を覗き込んだダヴィドは、まだ煙で燻っている前庭に空いた大きな穴を見て呟く。
「そんな……!」
ルシェルは、違う、と思った。
室内の空気に庭の草木が焼け焦げたような匂いはあったが、そこに爆薬が持っているような、鼻をつくほどの刺激は含まれていなかったからだ
それに、今の爆発からは、人工のものとは次元の違う、もっと凶悪な意思を持った別の力によって引き起こされたもののような異質な感触を受けた。
だが、二の句が継げなかったのは、その思考もルシェルの直感から生み出されたものに過ぎず、自分一人の感じ方でしかないことを父に告げる気にはなれなかったからである。
「だから早々に蹴散らしておくべきだと言ったのだ! こんな連中を相手に何が話し合いだ!」
ダヴィドは壁にかけられていた一振りの豪壮な大剣に手をかけるとそれを軽々と外し、振り返った。
「俺はこれから城兵の指揮を執り、反逆者どもを一人残らず叩っ斬ってくる! お前は今すぐにセフィナ様の下へ向かえ!」
「デモ隊の人たちを斬るのですか?」
「お前はこれを見てまだ話し合いなどと抜かすつもりかッ!」
ダヴィドはまだ何か言いたげなルシェルに一睨みをくれると、爆風で吹き飛んだ扉が倒れているのを踏むことも構わずに通路へと身を躍らせた。
眦(まなじり)を裂かんばかりに見開いた父の双眸は、もはや唯の鬼を通り越して鬼神を彷彿とさせるほどの殺意と怒気を孕んでおり、さすがのルシェルもその場に射すくめられてしまうような威圧を感じて身体の動かし方を一瞬忘れてしまうほどだった。
「父上……」
ルシェルは自分たちが襲撃を受けているという事態を呑みこめずに暫く呆然としたが、やがて自分のしなければならないことを思い出すと自らの佩剣が腰にあることを確認し、念のために壁に備え付けてあった弓と矢を数本手に取ると、将官室を飛び出して無心で駆け始めた。
彼女が走っている間にも数回の爆発音があり、その度に、城全体が軋みをあげて激しく震える。
まるでそれは自分の身体に穴を穿たれたヴェルトリア城が苦痛に悶えて放つ悲鳴のようにも聞こえ、それを耳にする度にルシェルの身体には総毛立つような悪寒が背筋を走って不快だった。
だが、このような時でも世間の婦女のように身を震わせて蹲るわけにはいかないのが、ルシェルという女性が置かれた立場だったのである。