謎の爆発がヴェルトリア城を襲ったのは、ちょうど自室にいたセフィナがそろそろ着替えて就寝しようと考えていた頃のことだ。
だが、不意に階下からやってきた衝撃と轟音に欠伸(あくび)をかき消され、身体を大きくよろめかせて床に手と膝をついた時には眠気などどこかに吹き飛んでいた。
「地震? ……違う」
咄嗟に口にした言葉を自分で否定した。
自分をよろけさせた今の揺れを地震によるものだとすると、短すぎる気がしたからだ。
ドン! ズズズン……!
何事かと思い立ち上がったセフィナだが、再度襲ってきた震動によってまたしても足下をふらつかせていた。
一階の方で何かが爆発している。
バランスを保とうとして出した右足を踏ん張って、なんとか姿勢の均衡を保ったセフィナは、今この城に起きている異変について、そうとだけ頭の中で考えることができた。
火災や爆発が発生したとすると真っ先に思い当たるのは炊事場だが、炊事場のある区画は音の聞こえてきた方角とは明らかに違う。
それに二回目の爆発は一回目と比べると、居館の外壁を伝ってやや東へ移動した地点で起きたように思えた。
『じゃあ、この爆発は誰が起こしているというの……?』
そこまで考えたセフィナは初めて、怖い、という感覚を思い起こして身を震わせた。
「誰か……、誰かいないの?」
人を呼ぶ声を上げてみたが、その誰かが即応してくれる気配は無い。
「ルシェルは? ルシェルはいないの?」
彼女がいないことはわかっていた。
先ほどダヴィド将軍に呼び出されたルシェルに、行ってよい、という許可を与えたのは自分自身だったからだ。
だが、それでもルシェルの名を呼んだのは、彼女が城内で最も信頼のおける人間だからだろう。
階下や館外からは、俄かに兵士たちが騒ぎ出し、大声で何事かを怒鳴りあっているのが聞こえてくるのだが、自分の居室には誰一人として近づいてくる気配が無いのがセフィナの不安を一層に煽った。
暗黙裡のうちに、セフィナの面倒の一切はルシェルが見るというような不文律の約束事ができていたことが災いしているのだ。
ざわめきたった城内の中で唯ひとり、自分の存在が忘れ去られてしまったようで、心細かった。
次第に冷静な思考ができなくなっていった彼女だが、せめて外の状況だけでも自分の目で確認しようと窓へ向かって駆け寄った。
セフィナが窓を押し開こうと手をかけたそのときである。
シュンッ!
「きゃっ!?」
風を切り裂くような音を立てた何かが頬を掠めたときには、彼女が開けようとした窓の硝子にはぽっかりと穴が空き、蜘蛛の巣でも張り付いたかのような亀裂が四方に走っていた。
短く悲鳴を上げて尻餅をついたセフィナの瞳に、一本の矢尻が深々と絨毯に突き刺さっているのが映りこむ。
後ほんの少しずれていれば生命は無かった。
「ああ……、あ……」
大声を出して助けを求めようと思ったが、胆を潰してしまった彼女の口からは発語の用を為さない掠れた声が漏れるだけだった。
窓の近くにいてはいけない、ということはわかったが、腰が抜けてしまっては身体に力が入らず、今の彼女には絨毯の上を腕の力だけでじりじりと後ずさるくらいが精一杯だ。
この時、窓際から離れるという行為のみに必死になっていたセフィナは、廊下を駆けてくる人の気配があったことには気付かなかった。
「セフィナは無事か!」
乱暴に扉を開け放って現れた人影は、ルシェルではなかった。
セフィナにとって二番目の兄であるジェイクス皇子であった。
「ジェイクスお兄様……!?」
「大丈夫か!? しっかりしろ!」
ジェイクスは腰を抜かして床の上にへたりこんでいる妹を抱き起こすと、従えていた二人の騎士と共に、足下の定まらない皇女を表の回廊まで引っ張り出した。
通路脇の燭台の暖かな光の下に照らされても、セフィナの顔はひどく青褪めた色をしているのがわかる。
「一体、何が起こっているのですか?」
ようやく人の姿を見て安堵したセフィナは、泣き出しそうになるのを耐えながら兄に尋ねた。
「わからない。デモに参加していた民衆の一部が暴徒と化して城内に侵入してきたようだという報告はあったんだが……」
「そんな……! クライシュお兄様が彼らとの話し合いに応じられるとお決めになったばかりなのに……!」
「ああ。デモ隊の中に血の気の多い過激派連中が紛れ込んでいたのかもしれないが、とにかく、何者かにこの城が襲撃を受けていることは事実だ」
「過激派……?」
平時なら兄の話す言葉の意味は解るのだが、動揺して恐慌状態に陥りかけていたセフィナはその内の半分を理解することも困難であった。
「私たちはこれからどうすればいいのです?」
「お前の部屋に弓矢が届くくらい奴らが近づいているとなると、ここは危険だな。一度、離宮まで退避した方がいい」
「離宮は安全なのですか?」
「ここよりはな。今は古びた蔵のようになっているが、この館が建てられる以前はヴェルトリアの本城として幾度もの戦に耐え抜いた堅牢な城砦だったらしい」
ジェイクスが、古びた蔵、と表現したのは、離宮が建造されたのははるか五百年も昔にまで遡ることと、現在は宮廷が置かれることもなく、国内からかき集められた数々の財宝が納められるだけの、半ば宝物殿と化していた様態があったからだ。
「クライシュお兄様は?」
「兄貴の姿は俺もまだ見ていない。だが、城内が危険になれば逃げる場所はひとつしかないだろう」
離宮にいれば会えるだろう、ということだ。
「わかりました。では一時、離宮へ避難しましょう」
「まだ走る元気はあるか? 無理ならそこの二人に支えてもらえ」
「自分の足で走れます」
セフィナは強がって答えたが、本当はまだ膝が笑っているような状態だった。
だが、周囲の人間に甘えて足手まといになるような真似はしたくなかったのだ。
「それなら、ついてこれるな」
「はい……」
セフィナは返事をしたものの、しきりに背後を気にするような素振りを見せた。
「どうした?」
「いえ、ルシェルの姿がまだ見えないので……」
「彼女なら大丈夫だろう。お前よりは余程しっかりしているしな?」
「そうですね……。私もそう思います」
ジェイクスは冗談を口にしたつもりだったが、思ったよりセフィナが真に受けてしまったのが可笑しくて、かすかに口元を緩ませる。
青い瞳を鋭く光らせ、険が強そうな、輪郭のはっきりとした顔立ちをしたジェイクスだが、セフィナに向ける眼差しはいつも優しかった。
二人の兄の内、どちらかといえば次兄の方が親しみやすいというのセフィナである。
父の後を継ぐべく、幼い頃より次代の皇帝としての教育を受けてきたクライシュは、利発的で物腰も落ち着いていて尊敬できる兄なのだが、彼と話すときは父の前に立つときと同様、どこか緊張を強いられるのだ。
発言のちょっとした矛盾も逃さないようなクライシュは、隙が無さ過ぎるのである。
一方のジェイクスはというと後継ぎのことはとうに諦めているらしく、勉学よりは武芸に打ち込んだり、堅苦しい言葉遣いを嫌ってくだけた話し方を好んだり、時には父の大事にしている骨董の壷に悪戯書きをしたりと、皇位継承権第二位にある貴人らしからぬ振る舞いをするところが多々あった。
だが、そんな次兄と会話をすると、妹を笑わせようと冗談を沢山織り交ぜながら話してくれるので、セフィナにとっては楽しい兄だったのだ。
それに加えて、父や長兄の赤髪と違い、母譲りの同じ髪と瞳の色をしているのも親近感を覚える一因かもしれない。
「さぁ、行くぞ」
「はい」
踵を返して駆け始めた兄の背中をセフィナも追った。
彼女たちの目指す離宮は城の東に位置していたが、西にあるセフィナの居室からは回廊を廻りこむように移動しなければならず、その分だけ移動に余計な時間が取られる。
ジェイクスを先頭にして比較的短い北側の進路を選んだが、そうなると爆発のあった箇所の真上を通らなければならなかった。
だが、怖いから嫌だなどというふざけた言葉を口にすることはできない。
城兵は既に出払ってしまったのか、彼女たちの進行方向に擦れ違う者の姿はなかったが、外庭で彼らの怒声が飛び交っているのはよく聞こえてくる。
「駄目だ! 火の廻りが早い!」
「消火を急げ! 煙に巻かれて燻製になってもいいのか!」
「侵入者を抑える方が先だ! また発破を仕掛けられるぞ!」
「探してるよ! だが、野良猫一匹見つかりゃしねえ!」
外の様子の仔細を窺うことはできないが、兵士たちの混乱だけは痛いほど伝わってくる。
彼らだって、怖いのだ。
突如として変事に放り込まれ、得体の知れない敵と向かい合い、生命を賭けて闘わなければならない。
セフィナは、こんなときに何の役にも立たずに逃げ回るだけの自分の身が憎らしかった。
視界の端に捉えられる窓外の景色には赤々と照らし出された城壁が宵闇の中に浮き立ち、そこに長く伸びた兵士たちの影が右往左往する様子が映し出されている。
その大きさから、思っていたより火災の規模が広範なものなのだということが知れた。
城壁を染める朱い濃淡が夜風に煽られる度に揺らめく。
あれが炎の色なのかと思う。
立ち昇る炎を直に見ることはできなかったが、時折、外壁を競りあがってきた火の粉が窓を叩き、その度にセフィナは細身を更に縮こませた。
このまま延焼を食い止められなければ、本当にこのヴェルトリア城が灰燼に帰してしまうのではないか。
そのような不安が彼女の胸中を埋めていた。
離宮にうまく逃げ込めたとして、そこからどうすればこの状況を立て直せるのかは想像もつかなかったが、今は何があろうとそこへ向かって走り続けるしかないのだ。
とはいえ、もともと運動の素養がないセフィナであったから、次第に先行する男三人に遅れがちになってくるのは止むを得なかった。
こんなときに踵の高い靴など履くのではなかったと思う。
大変なことが起こるとわかっていれば無駄に高いばかりで動きづらい靴やドレスなど身に着けていなかったし、ルシェルを傍から離すこともなかった。
いっそのこと靴を投げ捨てて裸足で走った方が良いのかもしれない。
そんな言葉を頭の中で転がしたところまでは思考する余裕があったのだが、それによって彼女の意識は内側に向きすぎていた。
ゴォォォオッ!
「あっ……!?」
真下から衝撃に打たれたセフィナの身体は中空に数瞬舞い上がった後、したたかに回廊に叩きつけられた。
前回の爆発から間隔が長く開いていたことに油断していたのだ。
「うぅ……」
前のめりに倒れたセフィナは右の肩と腰を強く打って苦鳴を漏らした。
痛みのあまり、数秒間は呼吸をすることも儘ならなかった。
「セフィナ!」
「平気です!」
振り向いたジェイクスに、なんとか声を絞り出すように応じたセフィナだが、気を張ったところで激痛が消えるわけもなく、我慢していても目頭がじわじわと潤み出し、視界がぼやけた。
この程度で泣いている場合じゃない、と内心に自分を叱咤する。
細腕になけなしの力を込めて、床に伏せていた身体を起こした。
兄に手を差し伸べてもらうまで這いつくばっているわけにはいかないのだ。
「…………?」
顔を上げてすぐに立ち上がろうとしたが、その前に、視界の奥で光った何かが彼女の注意と身体の動きを奪っていた。
ジェイクスと、彼の両脇に控える二人の騎士の足下が光って見える。
それは気のせいではなく、三人を中心とした直径一メートルほどの円内の床が、真下から強烈な光源を当てられたかのように眩く輝き、その強さは回廊に敷き詰められた深紅の絨毯が透けて見えるほどだ。
室内灯の明かりなどでないことは考えるまでもなかった。
「お兄様!? 床が……!」
「なに? ウッ……!?」
セフィナの叫ぶ声と同時に足下の異変に気づいたジェイクスであったが、僅か一秒とない間に起こった次の変化に、不意を突かれた人間が体よく反応できるわけはなかった。
「なっ?」
「うわっ!?」
セフィナの目の前で、ジェイクスと二人の騎士の身体が、ググッと宙に向かって持ち上げられていく。
同時に、石床が軋むような音を立て始め、所々に発生した亀裂からはより強い白光が回廊に射し込んでくるようになった。
小さいころから臆病で暗闇を怖がっていたセフィナであったが、いつも恐怖を払ってくれたはずの明るい光を怖いと感じたのは、これが初めてのことだ。
「お兄様!」
なぜこのような現象が起きているのか、などということにまで考えが及ぶわけもなく、彼女は膝を折った体勢のままジェイクスに向かって懸命に手を伸ばした。
「セフィナ……!」
差し出されたジェイクスの右手をしっかりと握り締めたセフィナは、このまま宙に浮いた兄の身体を自分の方へ引っ張り寄せられるのではないかと思い、繋いだ手に一層の力を入れた。
兄を襲っている現象の正体はわからなかったが、この光を放つ円の外側にまで兄を引っ張り出さなければならないという直感が、彼女にそのような行動を取らせているのだ。
ビカァァッ!
「ああっ!?」
一瞬だった。
視界が全て真っ白に染まった直後、セフィナの身体は強圧的な力に弾き飛ばされ、鞠のように転がっていた。
全身のあちこちを打ちながら、上下の感覚が何周かしたところでようやく身体の回転は止まってくれた。
暗転。
瞬間的に真っ暗闇の中に放り込まれたセフィナは、死んだ、と思ったが、そう考えられたということは、自分はまだ生きている、ということだ。
意識が波を打つように遠くなったり、明瞭になったりを繰り返していたが、幾度か頭を打った影響かもしれない。
「あ、う……ぅ」
痛い、とも、苦しい、とも叫べなかった。
打撲に耐えようと全身が力んで緊張しているせいで悲鳴すら上げられない。
どこが痛い、というより、痛くない箇所は無いという方が相応しい状態だった。
「はぁ……、はぁ……」
荒くなった呼吸の下で自分の身に何が起きたのか把握しようと努めたが、凶悪な光の渦に呑み込まれたこと以外、何もわからなかった。
「おにい、さま……?」
無意識に口が動いて出た言葉が、彼女の意識をはっきりと現実に呼び戻させる。
眼を開けたセフィナだが、彼女が認識している世界は、依然、真っ暗なままだった。
もしかすると、眼は最初から開いていたのかもしれない。
一瞬とはいえ膨大な光量を瞳に浴びたことにより、一時的に視界が殺されていたのだ。
黒い靄(もや)のようなものが晴れて視力が回復するのには、少し時間がかかった。
「お兄様は!?」
まだ視界の隅は暗くふち取られていたが、セフィナはジェイクスを探して回廊の手前から奥までを舐めるように視線を走らせた。
……いない。
彼の姿は回廊上のどこにも見当たらなかった。
今まで傍にいたはずの二人の騎士の姿も跡形も無く消えている。
その代わりに、回廊の中ほどには床を何かが貫通したかのような大きな穴が穿たれていた。
天井にも同様の穴が空いていたのだが、それは視界の下半分にばかり注意が向いていたセフィナの認識の外のことだ。
脳裏を嫌な想像がよぎろうとしていたが、彼女は小刻みに首を左右に振ってその想像を打ち消した。
そんなはずはないのだ。
「ジェイクスお兄様! 返事をしてください!」
彼女を残してがらんどうとなった回廊に、その悲痛な叫び声は空しく響いた。
「お兄様!」
何度か、出せるだけの大きな声で兄を呼び続けたセフィナだが、呼びかけに応じるものは無かった。
「…………?」
叫ぶ気力も尽き、半ば茫然としかけたセフィナの眼にあるものが止まった。
手のような形をした……。
いや、それは紛れも無く人の手だった。
肘から先が無くなった、人の手、だ。
その人の手の、手首の部分にはめてある見覚えのある銀の腕輪を目にした時、セフィナは、ひくっ、と息を呑んだまま窒息してしまいそうになった。
「お兄様……?」
銀の腕輪はジェイクスが好んで身につけていたものだ。
「うそ……」
さっきの光を浴びた時に自分の目がおかしくなったのだ。
そう思いたかった。
「いやよ、そんなの……」
セフィナに向かって差し出した時の形そのままに、回廊の上にジェイクスの手が投げ出されている。
自分に助けを求めて差し出した時の形そのままに……。
「いやぁぁぁ!!」
直視に耐えられなくなったセフィナは両の掌で顔を覆い、絶叫していた。
ジェイクスが死んだということを彼女の意識が認めた瞬間、気が触れそうになったのだ。
普段のおっとりとした彼女からは想像もできないほどの悲痛な叫び声が回廊内に反響した。
あの兄が……?
信じられなかった。
武芸の鍛錬をこなすようになってからは見違えるように体格も逞しくなり、家臣の誰もが恐れる父、皇帝オルデニウスにも物怖じすることなく自分の主張を語ってみせるほど豪気な、あの兄が――。
人を笑わせることが大好きで、武勇伝と称した悪戯の数々を自慢げに話してセフィナを楽しませてくれた陽気な、あの兄が――。
死んだのだ。
それも、このような無残な形で。
たとえ事実であろうと、そんなことが受け容れられるはずもなかった。
「ウソよ、こんなの……、みんな、ウソよ……」
頭を抱えるようにしたセフィナは、全身を震わせながら、うわ言のようにその言葉を繰り返していた。
それが時を戻すためのおまじないの言葉であったとしたら、彼女にとってどんなに幸せなことだっただろう。
「本当よ。私が殺したの」
「!?」
不意に、自分ではない若い女の声がセフィナのうわ言に割って入ってきた。
つい先ほどまでは人の気配など微塵も消え失せていたこの回廊に、何者かが現れたのだ。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
ヒールが床を踏み鳴らす音がやけに不快に響く。
「誰……?」
顔を上げたセフィナの瞳に、漆黒のドレスが靡いて見えた。