手の震えは、まだ治まっていなかった。
ルシェルは自分の左胸に手を当てると、早鐘のように高鳴っている心音の拍動に、お願いだから早く鎮まって、と人知れず呟いた。
正面に鏡があれば、色白の顔から一層血の気が引いて死人のように蒼然とした自分の酷い状態の顔が映り込んでいるだろうと思う。
周囲に鏡は無かったが、足元を見つめる自分の向かい側には中庭に面した窓があって、そこに幽鬼のように生気の抜けた自分の顔が見えてしまうのではないかと考えると、あまり頭を上げる気にはならなかった。
窓から差し込む午後の陽光が自分の影を暖かく包むように優しげに照らし出しているのが、どこか皮肉に感じる。
中庭は庭師によってよく手入れされていて、この窓から見下ろすようにして満開を迎えた、あるいは迎えそうな季節の花々を眺めるのが好きなのだが、今の自分ではとてもその麗らかな景色を楽しむことはできそうにない。
あの感触は、まだ、両の手に残っていた。
肉の感触。
人の身体とは、こうも柔らかく、脆いものだったのかと思う。
武門の家柄に生まれ、男の子宝に恵まれなかった父によって幼い頃から厳しい武芸の鍛錬を課せられてきたルシェルであったが、木刀で生身の人間の身体を思い切り打ち据えたのは、今日が初めてだった。
日頃の稽古では、いつも相手が防具をつけているのが常だ。
緊張感を持つために自分が面具や篭手や胴当てを外すことはあっても、対峙する人間が同じ条件で立ち合ったことは無い。
それは周囲の人間より彼女の技倆(ぎりょう)が抜きん出ていた故にできたことでもあるが、手加減をしても終始相手を制御した上で勝つことができるという環境に身を置いていたことが、彼女に本気で一撃を浴びせることの怖さを忘れさせていた。
無論、たとえ防具をつけていても負傷し、死人が出ることさえあるのが本来の武術の稽古なのであるが、城内で行われる武術稽古に参加している若者の顔ぶれを見ると上流階級の子女が多く、必死、の覚悟を持って鍛錬に臨む者は少ない。
そのような気質は貴族や騎士階級などの身分とは関係なく、栄耀栄華を極め、この世の贅沢を全て満喫できると謳われるほどに発展を遂げた帝都ヴェルハイムでの都暮らしが長く続けば、かつて戦功を収めてその名を天下に轟かせた英雄の子孫さえ牙を抜かれるらしく、身だしなみにばかり気を遣い、履物に泥はつかないか、となよなよしげに足を運ぶさまには心の底から溜め息をつきたくなる。
しかし、それも仕方ないのかもしれない。
建国してより五百年、他国との争いには連戦連勝を重ね、多額の賠償金と広大な戦勝地を得て超大国となりつつあったヴェルトリア帝国ではあるが、都に住む彼ら支配者階級の子にあっては、戦争とはどこか遠くの地で起こる出来事に過ぎない。
仮に戦争が起きても、敵陣に突っ込むのは徴用された多くの農民たちであって、自分たちが剣や槍を取って先陣に立つことは無く、汗と血にまみれ、人馬の亡骸が横たわる戦場を駆け抜けるなど、身分の卑しい者たちのやるべき仕事、と、戦争を他人事のように考えているものが多かった。
そして、実際にそのように戦が行われ、彼らが命を落とすことはなかったのである。
普段は、そのような周囲の人間の覚悟の無さに辟易としていたルシェルであったが、今日、刃物を振りかざした暴漢と対峙しただけで、心が激しく乱れ、気持ちの整理もままならない自分だって、彼らと大して変わらないような、弛んだ心構えで日々を過ごしていたのだと自省するのだった。
自分に欠けているのは、死ぬことに対する覚悟だけではない……。
「ルシェル」
不意に呼びかけられ、思考を寸断されたルシェルは足元に落としていた視線を上げると、回廊に敷き詰められた赤い絨毯の先に父の姿があることに気づき、即座に壁に寄りかかっていた姿勢を正した。
幼い頃は行儀悪くしているところを父に見つかるとよく雷を落とされたものである。
今となっては父の怒鳴り声を聞くことは殆ど無くなっていたが、父と面と向かって話すときはいつも背中に一条の鉄芯でも差し込まれたかのように身を硬くしてしまう。
これも習い性のようなものだと諦めることにしているが、本当は肩の力を抜いて、もっと打ち解けた状態で父と対面したいというのが彼女の理想だった。
そういう余分な思考を挟んでいる間にも、制服に身を包んだ父の姿が眼前一杯となっていることに気付く。
頭髪に白髪が目立つようになってきた父ではあるが、その鋭い眼差しからはいまだ眼光衰えず、燃え盛る火柱の如く眉毛を怒らせ、口元に蓄えた髭からは威厳すら感じられる。
殴られる、わけではないのだが、ここでより身を硬くしてしまう自分が悲しいとルシェルは思う。
父上、と口にしたつもりの彼女であったが、その言葉は緊張で乾いていた喉の奥に張り付いてしまったらしく、実際の声として彼女の口唇から出てくることは無かった。
「怪我は、無いようだな」
「……はい」
答えた瞬間、ルシェルはまた他人行儀な言葉遣いをしようとしている自分を恨んだ。
ここは家では無いのだから私と公をわきまえるのは当然のことでもあったが、彼女は、父に叱られる覚悟で、お父さん、と呼んでみたい衝動に駆られていた。
父のことをそう呼んだこと自体、彼女の記憶の中ではずいぶん遠い昔のことだ。
「うむ」
そんな娘の葛藤など知る由もない父は、ようやくのことで返事ができたルシェルに頷くと、彼女の全身を軽く一瞥して、傷はおろか、白いブラウスと紺地のスカートには汚れ一つ付いていないことを確認した。
だが、その顔は娘の無事に安堵する、といった色を見せることは無い。
そういう父の反応は想像できていたが、何か一言くらい労わりの言葉をかけてくれてもいいのに、というやりきれない気持ちを消すことはできなかった。
「セフィナ様は?」
「今は御自室でお休みになられているところです」
ルシェルは締め切った扉の奥を見遣るような仕種で父の問いに答えた。
「ご無事なのだな?」
「はい。念のため医師に診てもらいましたが、お身体に問題はないとのことです。ただ、精神的な動揺が大きいので、しばらくはご静養なされるように、と」
「そうか……。オルデニウス陛下はセフィナ様を特にお可愛がりになられていた。陛下の留守中に皇女の身に何かあれば、城中の人間全ての首が飛ぶものと思え。決して、間違いの無いようにな?」
父の口にしたことは誇張した表現ではない。
以前、食事に出されたスープが熱くて皇女が口の中を火傷した時などは、担当した料理人が鞭打ちの刑に罰せられたほどだ。
皇帝オルデニウスは国内北東部のグラード人自治区で発生した反乱鎮圧のために十万の兵を率いて遠征中のため不在であるが、激情を持って知られる皇帝陛下が、猫可愛がりにしている皇女が不届き者の手にかかって生命を落としたなどということを知れば、一人二人の近衛武官の首を跳ね飛ばしたところで怒りが治まってくれるとは期待できない。
その留守を預かっているルシェルの父、ダヴィドも唯では済まされないだろう。
下手をすれば、一族郎党皆同罪に問われないとも限らない。
「心得ております」
伏目がちに答えるルシェルに、父は、それでいい、という言葉に代えて鷹揚に頷いて見せた。
「お前が打ち伏せたという男のことだが……」
「はい」
お前が打ち伏せた、という言葉を聞いたルシェルは背筋が一瞬で凍りついたような嫌な冷たさを感じた。
「左の肋骨が数本折れ、喉の内側からの出血があるものの、死ぬほどの怪我ではないそうだ」
「そうですか……」
男が自分の負わせた傷で死ぬことは無いという報せに、ルシェルは、ほっとしたような、ほっとしてはいけないような、複雑な気分にさせられた。
同時に、薙ぎ払った木刀が人の腹を抉った瞬間の、硬質な防具を打ったときとはまた違う、妙に有機的で柔らかい感触を思い出した彼女は、湧き上がるおぞましさに身を震わせる前に拳をぎゅっと握り締めてその感覚を打ち消す。
喉からの出血というのは、彼女が左の胴を払った後、とどめを狙って突きを入れようとしたためだが、木刀の切っ先が男の喉笛を突き破ることはなかった。
それ以上、身体が動かなかったからだ。
ルシェル自身が本能的に、必殺、を恐れていた。
他人の生命を自らの手で断つなど、まだ自分にできることではない。
「畏れ多くも神聖なる皇家の姫君に刃を向けるなど、今すぐにでも首を刎ねてやるべき不遜の輩だが、あれ一人でこうも大それたことを仕出かしたわけでもあるまい。話す口があるならば今は生かしておいてもよいだろう」
父の言葉から、これからあの男は拷問にかけられて知っていることを洗いざらい吐き出させられるのだろうとルシェルは想像した。
もっとも、下手人の口を割らせたところで、今回の皇女襲撃の黒幕が誰なのかは突き止められないだろうとも思う。
これがもし、何者かの企みによる暗殺であるなら、事が成せずに下手人が捕縛される可能性も高いことから、使われる人間に自分を雇った組織の内容や、首謀者が誰であるのか、などの核心部分が知らされていないことが殆どだからだ。
追求が無駄に終わるかもしれないが、父の顔つきや眼の輝きを見ると、日頃の書類仕事や平穏そのものといった城下を見回るだけの巡検のときとは様子が違っていた。
先陣を好み、槍を取っては天下に並ぶもの無しと讃えられ、かつては『ヴェルトリアに悪鬼に勝る鬼将あり』と敵国に恐れられた父も、数年前からは帝都の守護を主な任務とするヴェルハイム衛兵団の団長に転任を命じられ、都にいることが多くなった。
本人はまだまだ前線に立つことを望んでいるが、戦の無い都では軍功も立てられないことからフラストレーションを募らせ、家で酔いつぶれて眠ることもある、と以前に母から聞かされたことがある。
自分で直接見たわけではないにしろ、そのような父の姿を聞かされるのは少なからず、ショックでもあった。
酒に呑まれる父の姿など今まで見たことはないし、想像したこともなかったからだ。
勿論、職務に忠実な父は嫌々この役目を務めていたわけではなく、体制転覆を目論む政治結社や武装勢力の壊滅に奔走し、略奪や暴行などの不法行為の取締りを強化した結果、大都市の宿命ともいえる慢性的な犯罪の多発に喘いでいた帝都ヴェルハイムは、瞬く間にその治安を回復していった。
グラード人のような、武力で従わせた辺境の民族の叛乱や武装蜂起などの問題はあったが、この都に限れば、概ね平和な時が流れていたと言える。
よって、犯罪や反抗の芽を摘むことが現在の父の主な仕事なのであるが、治安の劇的な回復によって皮肉なことに時間と暇を持て余すことが多くなっていたのだ。
そんな倦怠した日々の中で起きた皇女襲撃事件である。
逮捕拘束した実行犯の取調べのみならず、この企てが組織的なものであれば、当然、この男を使った者たちの正体を突き止めねばならず、久しぶりに全力で叩き潰しても良い敵の出現を予感して、父は燃えているのだ。
帝都の守護を任されるということは、それ自体を誉れとすべき務めのはずだが、父に流れる根っからの豪傑の血は、軍馬に跨り、戦場を疾駆することでしか鎮められないのかもしれない。――そして、その血は確実に自分にも流れている。
悪漢を叩きのめしただけで蒼白になってしまった自分が父と同じような猛々しい軍人になれるとも思えなかったが、父が、今回のことをなんとしても自分の手柄に結び付けようと考えているのはルシェルにも分かることだった。
しかし、その父の心中を推し量った上で、ルシェルは父に、頑張って、の声をかける気にはならない。
父が頑張るということは、人が死ぬということだ。
いや、いずれにしろ、皇族の人間を手にかけようとした時点で、あの下手人は極刑を免れないだろう。
皇女を襲った男が重罪人として裁かれるのは分かっているし、それは当然のことなのだが、その前の段階で、自分の父親が取り調べに積極的に関わり、男に耐え難いほどの苦痛を与えてのた打ち回らせている情景などは考えたくも無かった。
「では、後のことは俺に任せろ。お前はセフィナ様の傍から離れるな」
「あ……、はい」
様々なことに思いを巡らせていたルシェルは咄嗟に返事をしたものの、自分が気付くまでに二つか三つ、あるいはそれ以上の、父が口にしただろう言葉の数々を聞き取ることができなかった。
「頼んだぞ」
父が彼女に背を向けて歩き出そうとしたその時、二人の立つ扉の奥からか細く頼りなげな声が響いてきた。
「誰か……、そこに居るの?」
精神的に疲れて眠っていた皇女が起きたらしい、と察したルシェルは、扉と父の顔を交互に見比べる。
娘と視線を合わせた父は、黙って頷いただけだった。
その頷きの意味を理解できたわけではなかったが、皇女からの呼びかけに沈黙を続けるわけにもいかず、ルシェルは扉を挟んで部屋の奥にいるだろうセフィナに向かって応答する。
「ルシェルがここに居ります」
「ルシェル? ルシェルがそこに居るの?」
ルシェルの耳に皇女の声が翳り気味で聞こえたのは、扉を挟んで会話をしているせいだけではないかもしれない。
「はい。お休みのところ騒ぎ立てして申し訳御座いません」
「ルシェルなら、そんなところにいないでこっちにきて? ……まだ一人にされるのは心細いの」
他ならぬ皇女様の申しつけだ。ルシェルに答えの選択肢は無い。
「かしこまりました。では、入室のご無礼をお許しくださいませ」
そこまでへりくだった言い方をしたのは、父の手前もあったからだ。
皇女セフィナの侍従を務めるというお役目で宮中に入ることを許されたルシェルであったが、皇女と二人で居るときは、もっと楽な話し方をしてもいいように、皇女自身から許されていたのである。
無論、許可されたところでルシェルが雑な言葉を使うことはなかったが、彼女が普段よりも堅い言葉遣いをするときは他にも誰か人がいると分かるのである。
「頼む」
そう言って背中を軽く叩いて歩き去っていった父親の背中を、ルシェルは見送らなかった。
これから父が何をしにいくのか考えたくなかったこともあるし、今の彼女は皇女に入室を請われ、注意の殆どがそちらに向いていたということもあった。
これは自分なりの現実逃避なのかもしれない。
荒々しくならないように気を遣いながら扉を開き、淡い撫子色の絨毯が広がる皇女の居室に静かに足を踏み入れると、摘み取ったばかりの野花のようなふんわりと甘い香りがルシェルを優しく包んだ。
豪奢な置物や飾り付けはなかったが、机や棚などの調度品には東方との交易によって運び込まれたチーク材が使われており、シンプルなデザインの家具が並べられた中にも品の良さが窺える。
広々とした部屋だが、侍女たちのルームキーピングだけでなく皇女自身も整理整頓には気を遣っており、いつ見に来ても散らかっているということがなかった。
窓際の大きなベッドは小柄な皇女一人が寝るにはやや持て余した感があるものの、その中で寝具を乱さずにお行儀良く眠ることができるセフィナを見ると、気品の高さはベッドの大きさに負けてはいない、とルシェルは思う。
今、セフィナ皇女はそのベッドの上に半身だけを起こしていた。
あまり顔色の優れない様子のセフィナであったが、ルシェルの姿を認めるとその顔が心なしか安堵したような表情に変わる。
ルシェルは日頃の習慣で、周囲に人の気配が無いことを目の隅で確認しながら扉を閉めると軽くお辞儀をし、寝間着姿のセフィナがカーディガンを羽織り、ベッドの端に腰掛けるように座り直すのを見届けてから口を開いた。
「ご気分はもうよろしいのですか?」
「うん。少しは落ち着いたみたい」
セフィナは微笑んで見せたが、それが作ったものであることは直ぐに分かった。
「セフィナ様を襲撃したものはこれから父が厳重に取調べを行うそうです。処罰はその後、オルデニウス陛下のお帰りを待ってなされるものと思いますが」
ルシェルはセフィナから数歩手前のところに直立したまま簡単な報告をした。
仰々しく跪(ひざまず)いたりするのは皇女が嫌がるからだ。
「そう……」
セフィナは折角作った微笑を消すと、物憂げに瞳を伏せ、ため息をつくように呟く。
絹糸のように繊細で美しい金色の髪がさらと揺れ、瞳と同様にセフィナの暗く沈んだ心持ちを代弁しているかのようだった。
その容貌は亡き皇后エミステアの面影を色濃く残しているらしいのだが、皇女の幼い頃に薨去したという皇后陛下の姿は、今や宮廷画家に描かせたという肖像画でしか見ることができない。
ルシェルもセフィナと同じ色の髪をしていたが、この優美さ秀麗さにはとても及ばないと思う。
だが、今はそれに目を奪われているときではなかった。
「私もまだ若輩の身にて、武芸においても未熟にございますが、セフィナ様のお命は私命に代えてもお守りします故、どうかご安心ください」
「ありがとう。でも、ごめんね? ルシェルまで危険な目に遭わせてしまって……」
「私のことはお気になさらなくて良いのです。宮中に入ったときから、この生命、いつでも姫様のために捨ててよいという覚悟はできておりますから」
「その気持ちだけで十分よ。警護なら本職のものがいるんだから、騎士でも兵士でもないあなたが危ない目に遭う必要は無いのよ? 今日だって……」
帝都に有名な劇団が来て公演を開くというので、その演劇を見るために城下にある皇立の演劇場まで外出した際に襲われたセフィナであったが、用心のためにルシェルが携帯していた木刀で撃退できたものの、暴漢が突き出してきたナイフには毒が塗ってあったと聞くし、仮にかすり傷を負っただけでも致命傷になっていた恐れがあった。
「私が死んでも代わりとなるものはいくらでもおりますが、皇女はこの国にセフィナ様お一人しか御座いません。その大切な御方を護れるなら、不逞の輩と刺し違えて朽ちようとも悔いはありません」
ルシェルの言葉にセフィナは首を左右に振った。
「そんなこと言わないで。私にとってはルシェルだって大切な人だし、今、こうして話しているルシェルは世界に一人しかいないわ。代わりなんていないもの……」
「……もったいないお言葉です」
恐縮して微かに頭を下げたルシェルにセフィナは微笑みかけた。
「ううん。あなたにだから言ってるのよ。ルシェルは身の回りのこともよくしてくれるし、私が分からないことを聞いたらすぐに答えてくれるし、本当に感謝してるの」
「それが、私の務めですから」
そう口にしたルシェルが再び視線を上げると、自分とは三つ下の十四歳の少女の屈託の無い笑顔がそこにあった。