ルシェルがセフィナの傍につくようになったのは、三年ほど前に発生した一つの事件が契機であるのだが、その事件の背景には現在のヴェルトリアが抱えるいくつかの困難な事情がある。
神誓暦三百五十七年の建国以来、五百年余りの歴史を持ち、帝国を自称するほど強大な支配権を確立していたヴェルトリアであったが、ここ数十年、その繁栄の陰である問題が苦悩の種となりつつあった。
辺境地で次々に起こる叛乱である。
広大なロンダニア大陸のうち、北はロゼウス公国の南半分を割譲させ、西はアウデア地方を併合、東の交易国エムダナと南方の未開部族が治める小国タバニを除けば、大陸の大半をその支配下に置かんとするヴェルトリア帝国だが、征服後の統治は必ずしも順調とは言えないのが現状だ。
肌の色や、文化、風習、宗教など、性質を異にする様々な民族を一つに纏め上げることは戦争に勝利を収めること以上に困難を極める。
武力によって土地を奪うことはできても、そこに住んでいる者たちの頭や心の中身を完全に入れ替えてしまうことはできないのだ。
ヴェルトリア人は被征服地の民族が信じる土着の神々を否定し、自分たちが国教と定めるゼノア教への改宗を強要していた。
考え方や価値観の違いを、同一宗教による教化によって克服しようとしたのである。
そのやり方は、ある地域では一定の成果を収めたものの、またある地域ではより一層の反発を招くこととなる。
ゼノア教以外の布教を禁じられ、富や領土だけではなく、父祖の代より受け継ぎ、自分たちが心の拠り所としていた神々への信仰まで奪われることに抵抗したいくつかの民族が相次いで叛乱を起こし、当初は武力による鎮圧を繰り返していた帝国も、度重なる蜂起とその対応に苦慮し始め、各地へ飛び火した内戦の長期化は、皮肉にも、広範な領土が仇となって戦費の増大に拍車がかかった。
出兵の負担は市民への増税へと転化され、ついには同じヴェルトリア人からも不満の声が漏れるようになったのである。
劣勢の地域へ援軍の増派もままならなくなった帝国軍は各個に敗退を余儀なくされ、戦線の維持は困難を極めた。
敗北の悪夢を前に苦汁の決断を迫られた帝国は方針を一転、特に屈強で、完全な制圧は難しいと判断した民族には独立した自治権を認めることでこの混乱の収拾を図ることにしたのであった。
自治を条件とした和解に諸民族が応じ、一時は帝国内に平穏が訪れたかのように見えた。
しかし、である。
絶え間なく続く戦乱によるストレスや強力な軍隊を維持するために課せられた重税に加え、若い働き手や食料などの度重なる挑発が庶民の生活を圧迫し、ヴェルトリア国内に渦巻いていた恒久的なフラストレーションが政治の支配による抑制の限界に近づきつつあったのだ。
戦いを繰り返すことで国力を肥大化させてきたヴェルトリアだが、軍事行動を基盤とした拡大サイクルそのものに、崩壊の予兆が見て取れるようになっていたのである。
そして現在、第三十一代皇帝ジュスト・オルデニウス・ウィンゼルスの統治下においてもその状況に改善の気配はなく、貴族や騎士、豪商のような、戦争によって発生する権益を享受できる一部の富裕層を除けば、支配者階級であるヴェルトリア人の間にも皇帝と帝国議院の圧政に対する不信は広がり、公然と国政への批判を声高に叫ぶ者も日増しにその数を増やしていた。
道行く誰もが日々の生活に疲れきり、各地から収奪された富の山積される都のような例外を除けば、貧困層が多数を占める辺境地域では光無き明日を絶望し自ら生命を断った者たちが路上にその骸を無残に晒す有様である。
このような、国中から活気が失われつつある危機的状況を憂慮した『救民党』を称する一部の若手帝国議員がクーデターを画策するも決行前に発覚、これに激怒した皇帝によってこの企てに参加したものは一族郎党が同罪と見做され極刑に処された。
それが今より十年前のことだ。
逆らう人間は類縁共々皆死をもって断ずる、という皇帝の冷徹な姿勢に人々は恐怖を覚えたが、その一方で、恐怖を怒りに変え、現体制の打倒を強く願う気運も帝国全土に蔓延していった。
ルシェルとセフィナが生まれたのはこのような時代である。
ルシェル・クレスハイトは帝国軍人である父ダヴィド、母ディアネの一人娘としてこの世に生を受けた。
クレスハイト家は譜代の臣下として永きに渡り皇帝家に使えてきた武家の名門である。
父は、勝利によってもたらされる自国の繁栄だけを頑なに信じて、東奔西走、敵対国との戦いに明け暮れた。
一たび戦争が始まれば数ヶ月、時には数年と家に戻れず、子が生まれたのも父母が既に三十を過ぎてからのことだった。
跡継ぎのために男子を望んでいた父は女子の誕生に一時は落胆を見せたものの、ルシェルと名付けた子を武家の名門の名に恥じない人間へと育てるべく、幼少より厳しい武芸の鍛錬を課すことに決める。
父のスパルタぶりに母は困惑を隠せなかったが、天性の素質と父譲りの負けん気があったのか、ルシェルは音を上げずに武術の習得に励み、剣、槍、薙刀、弓、と武具の扱いは大人顔負けの才を見せるようになっていった。
しかし、それはあくまで父から見た娘ルシェルの姿であって、彼女は父に対して見せる鉄の仮面の一方で、読書を好み、詩歌をそらんじるような情緒的な一面も持っていたのである。
詩や物語など、叙情的で感傷的なものを嫌う父の目を盗んでは読書に耽る娘に母がこっそりと協力し、彼女に様々な書物を与えてくれたのだ。
これはささやかな反抗だが、ルシェルは父のことを嫌っているわけではなかった。
帝国の鬼将とまで評されるような、軍人としての父を尊敬しているし、十七を迎える現在まで生活にも何不自由なく育ててくれているということに感謝している。
彼女は物心が付くようになってからも、それなら父が望むような立派な将軍の娘を演じてみせるまでだ、と心に決め、辛い武術の稽古にも耐え抜いてきたのだ。
一方、セフィナ皇女は皇帝オルデニウスが正室との間に儲けた三人の子供たちの末っ子で、二人の皇子たちを兄に持つが、女の子は自分一人であった。
跡継ぎの心配をする必要のなかった父帝にとっては年が行ってからの子、それも初めての女児の誕生ということもあり、生まれたばかりのこの姫君に傾ける愛情もひとしおだったという。
その溺愛を示す例として、スープが熱いと料理長の首が飛ぶ、と揶揄される事柄以外にも、セフィナがある童話の結末が怖いといって泣けば、作家に命じて明るい話になるよう書き直させたり、あるいは生まれて初めて描いたという造形も碌にままならない絵を皇立美術館に展示させようとしたり、更には、雨降りが嫌いな皇女のために、月に二日以上雨が降ることを禁止する、という、現実に執行することが到底不可能な法案まで議会に通そうとしたりすることがあったなど、過剰な親馬鹿ぶりである。
そのような過保護の甲斐があったとは言えないが、セフィナは緩らかで大人しい少女に育ったものの、反面、父が行動の一切を管理していたことから自主性に乏しく、対人面においては引っ込み思案な性格が災いして、他人に対して自分の意見をはっきりと主張することを恐れるようになってしまった。
こうして甘やかされて育った皇女であったが、十一歳の夏のある日、宮中を震撼させる事件が発生した。
当時、皇女の護衛を務めていた一人の兵士が造反し、こともあろうかその皇女を人質に取り、城外へ連れ去ろうとしたのである。
皇宮の護衛兵たちは造反した兵士を城内の一角で包囲したものの皇女を楯にされ、迂闊に手出しができない状況にあった。
再三に渡り皇帝家の追放と帝国議院の解体を要求した造反者であったが、護衛兵たちと半日睨み合った後、皇女に手をかけることなく自らの首筋に短刀を突き立てた。
後の調べで、自害した男はヴェルトリア人であったものの、かつてクーデターを企てた救民党の残党であることが判明する。
愛娘がよもやという事態を前にして、怒り心頭に発した父帝オルデニウスは救民党員たちの徹底的な洗い出しを、新たに帝都の警備担当に任命したダヴィド将軍に下命した。
救民党員であると疑われたもの、並びに、密かに救民党を物的、金銭的に支援したもの、または救民党の主張に賛同したと噂されたものなどが、役職や人種、老若男女の別無く悉く捕らえられ、その殆どが実際に救民党であるかどうかの公正な取調べがなされることなく投獄され、一方的な刑事裁判を経て処刑されたのだ。
こうして捕らえられた者たちの数は帝国全土で千を下らないだろうと言われている。
皇帝の怒りの矛先は逆賊に付け入る隙を与えた護衛兵らにも向けられ、その多くが辺境の叛乱多発地域の守備へと飛ばされることとなった。
皇宮護衛兵に反皇帝的な思想を持った人間が潜り込んでいたという前代未聞の不祥事に、オルデニウスは警備体制の刷新を決意し、皇帝家に縁のあるものや、臣下の一族を重点的に配置したり、宮廷内をほぼ身内で固めるなどした上で、民間の出のものはその出自や思想信条を執拗に調べ上げ、決して重く用いることはなくなったのである。
特に、皇女の世話や護衛に付くものは品行方正な良家の婦女子に限定して選抜し、この仕事に男が付くことを実質的に禁じた。
庶民の出の男が反逆したので、ならば名門の出の女を、というのは如何にも安直な発想だが、この国では彼が絶対の法なのだ。異論を差し挟むことなど何者にも許されない。
その決定から間も無く、皇女の侍従を内内に募るというお触れが宮中に出され、ダヴィド将軍が自分の娘、ルシェルを皇帝陛下に推薦するという運びになったのだ。
当のルシェルが父から話を聞かされたのは、その日の夕食後のことである。
「セフィナ様に付く侍従の登用試験、ですか?」
「そうだ。お前に受けてもらう」
父が何かを口にするときは、それは既に決定事項であってルシェルには、『はい』か『いいえ』かを答える選択肢など用意されていない。
「私に?」
「他に誰がいる」
娘をじろりと睨むようにきっぱりと言い切った父は食後のハーブ・ティーを口にすると、それきり口を閉ざして異論は受け付けないといった風をかもし出した。
ルシェルは敢えて文句を言ってやろうと思ったが、やめた。
父がそのようになると何を言っても聞いてくれないのだ。
ルシェルからしてみれば、これは半ば強制的に決められたことで、話を聞かされた当初は、勝手の分からぬ宮中で皇女様のお世話をするなど窮屈で億劫なことだというイメージしかなかった。
それでも、挑戦もせずに嫌がって投げ出すというのが父の最も怒ることなので、彼女は渋々ながらもヴェルトリア城で行われるという登用試験に挑まざるを得なかったのである。
当日、城兵に案内されたルシェルが城内の大広間に辿り着くと、そこは既に都中から寄り集まってきた上流階級の子女で埋め尽くされていて、方々から漏れ聞こえてくる歓談や哄笑の只中に身を置いていると、自分は間違って別の会場で催されている何かのパーティに紛れ込んでしまったのかと余計な不安に襲われてしまいそうになるほどだ。
人ごみに少し慣れてから周囲を見回してみると、皆、思い思いのドレスに着飾り、素肌の色が全く分からないほどの厚化粧を施し、お気に入りの高級そうな香水を目一杯に振りかけてお洒落をしているようなのだが、様々な香水の匂いが大量に入り混じっているせいか、その匂いを嗅いでいると、申し訳ないけれども、ルシェルはなんだか胸の辺りが気持ち悪くなってきて不快だった。
衣服は略装でよいとされていたが、その言葉を額面通りに受け取ったものなどどこにもいない。
本当は自分だってあんなドレスを着られていたはずなのに、と周りの令嬢たちをちらと見るルシェルの目に、ほんの少しだけ恨めしさがこもる。
母は、娘が恥をかかずに済むようにドレスを新調してくれようとしていたのだ。
だが、父はルシェルが華美に着飾ろうとするのを良しとしなかった。
また、父は彼女に、お前が贅沢を覚えるなど十年早い、とも言い放ったのである。
自分が贅沢をするに値する人間だと言い返す気にはならなかったルシェルだが、今日の自分が置かれているあまりに場違いな環境を前にすれば、少しくらい我侭を言ってでも高そうなドレスを作ってもらうべきだった、と悔やむのだった。
贅沢を目の敵にする我が家の感覚が、上流階級のものとはかけ離れているのかもしれない。
こんなところに地味な黒いスカートを穿き、フリル付きの白いブラウスを着て、首元に申し訳程度に女の子らしく見えるように赤いリボンをつけただけの恰好をした自分がいてもいいものだろうかと思う。
その服も高級な生地を使ったもので決して安っぽい物ではないのだが、周りの豪奢な衣装の数々とは比べる気にもならず、ルシェルは誰とも目を合わせないように唯々、足元の赤い絨毯の上に描かれた幾何学模様を見つめるだけだった。
『早く帰りたい……』
大広間に入ってから五分としないうちに、彼女はそんな弱音ばかりを頭の中で転がすようになっていたのである。
宮中に入ることは確かに名誉なことかもしれないけど、それでも、どうしてこんなに沢山の人たちが集まってくるのだろう、とルシェルは思う。
知り合い同士かもしれないが、笑顔で歓談に花を咲かせている集団を見ると、これから試験を受けるのだという決意や深刻さといったものは、あまり見受けられない。
もちろん、暗い気分を出さないように敢えてそう振舞っていることも考えられるのだが。
ここに、自分の意思で来たという人はどれくらいいるんだろう。
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
志願者と思われる娘たちのうちの殆どが自分よりは年上のようだし、皇女のお世話などという最大限の繊細な心遣いが求められる仕事がどういうものなのか、よく考えた上で決断した人はいるかもしれない。
でも、自分のように、『親が決めたから』という理由で来た人も少なからずいるだろう。
そういう親は、一体、どうしてわざわざ自分の娘を窮屈な思いをしそうな宮中で働かせようと考えるのだろうか。
もしかしたら、自分の娘を宮中に差し出し、皇女の傍につかせることで皇帝家とお近づきになれるのではないかという、そういう打算もあるのかもしれない。
父も……、そうなんだろうか。
嫌なことを考えてしまったルシェルは頭を振って、自分の余計な雑念を消そうとしたが、消えなかった。
父にそんな下心があると考えたくは無いのだが、そのことを考えないように意識すればするほど、父の本音を疑ろうとしてしまう自分が、嫌だった。
そうしてしばらくの間、浮かない顔をしたルシェルがじっと耐えていると、広間の奥からぎこちなく燕尾服を着こなした係官のような男が現れて、未だとめどないお喋りの冷めやらぬ場に静粛を促した。
男が参加者名簿の中から数人ずつの名前を読み上げて試験の行われる会場へ通されるという形で試験が開始された。
受験者に課された科目は礼儀作法や一般教養の試験、それに国教であるゼノア教についての小論文などで、皇女につく侍従を決めるのに何故こんな試験をやらなければならないんだろう、とルシェルは思ったが、周りを見ると、先ほどまであれほど無駄話に興じていたはずの貴族のお嬢様方が、急にきりっと真面目な顔をして課題に取り組んでいるのがわかったので、ここは場の空気に逆らわないことにしようと決めた。
やがて、皇帝の目の前で参加者それぞれの特技をアピールするという時間が与えられた。
あるものが流麗な舞を披露して会場の人間の目を釘付けにすれば、またあるものは透き通るような美声で宮中に歌を響かせ聴衆を魅了する。
この頃になるとルシェルは試験の結果などあまり気にしないようになっていた。
自分が受かるわけはないのだ。
自分はあのように踊りも踊れないし、歌も歌えない。
ピアノや笛のような楽器を使ってお上品な音色を奏でるなんてもってのほか。
本来は、ああいった良家の子女らしいお稽古事を学ぶべき時間を、自分は木刀を振り回すことに使ってきたのだ。
最初から勝負になるわけがなかった。
もういい、あと少しの辛抱で家に帰れるのだから気楽にやろう。
そう考えると、なんだか身体中に入っていた無駄な力がすうっと抜けて、先ほどまで緊張して固まっていたのが馬鹿らしくも思えるようになった。
父は怒るかもしれないが、自分は都合よく自分以上の存在にはなれないんだし、無理に恰好だけ取り繕おうとするのはやめよう。
後は父のお小言の時間だけを凌げれば、何も辛いことはない。
そこまで考えたとき、不意にルシェルは怒って真っ赤になった父の顔を思い起こし、人知れず声を殺して笑っていた。
「防具は着けぬのか?」
空気の壁を押し分けるように圧して頭上から響いてきた声に、金縷(きんる)のように煌く後ろ髪を首筋の辺りに結わえた少女が動きを止めた。
柔らかな後れ毛だけが揺れ、うっすらと彼女の頬にかかる。
「要りません」
凛とした声と共に振り返った少女は、一段高いテラスの上から自分を見下ろしている大柄で肩幅の広く、朱色の法衣を身に纏った男を真っ直ぐに見上げた。
頭上に輝く太陽の光を背負うようにした男の表情は窺えなかったが、天を焦がすような赤髪と蓄えた髭と髯が獅子のたてがみのように繋がっているのが、その男の持つ豪放さや雄雄しさ、絶対的な父性といったものを感じさせる。
齢五十に近かったが、その覇気、未だ衰えずというような、他者を圧するような空気を、その男は纏っていた。
それが、少女――ルシェル――と皇帝オルデニウスとの初めての対面であった。
「なぜ着けぬのか」
皇帝は、十四になったばかりと聞いた少女が男の騎士と武術試合を行うのに防具も着けぬと言い出したわけを尋ねた。
その声は強かったが、問い詰めるような色はない。
「父に、日頃から防具に頼るなと申し付けられております」
一度目の返事が品の無いように響いてしまったかもしれないと思ったルシェルは、今度は声音を少し抑えるつもりで二度目の返事を口にしていた。
心のもう一方では、今さらそんな細かいことを気にしたところでどうにもならない、という思いもある。
「ほう」
皇帝はルシェルの返事に一応の納得と感心が入り混じったかのように鷹揚に頷くと、それ以上は何も聞いてこなかった。
以前にも、式典のときなどに遠くから皇帝陛下と皇室一族の姿を見たことのあるルシェルだったが、これほど間近でその声をじかに聞く機会は無かったのだ。
無かったのだが、その初めての機会であまり緊張することなく皇帝陛下と言葉を交わすことができたのが、自分にとって驚きだった。
厳密に言うなら彼女が全く緊張していないわけではないが、多少の身体の震えなら木刀を手にとって二、三度強く握ると、不思議にぴたりと治まってくるのである。
ただ、それは震えを止めただけであって、心の底から湧きあがってくる緊張を完全に消すことはできない。
ここがもし、下手を打てば即、死に陥るような戦場の真っ只中でも、大きな緊張と見えない圧力を感じながら戦うしかないのだ。
だが、生き残るために必死で剣を振るうのであれば、緊張や恐怖などに心を煩わせている余裕は、むしろ、無い。
突き詰めれば、それが覚悟というものに繋がるのかもしれないが、ルシェルに自分がそのような境地に達しているという自信はまだ無かった。
城の外庭の一角に城兵を鍛えるための訓練場があり、特技として武芸を披露するというルシェルのためにそこまで移動して来たのだ。
何度か足先で地面を軽く踏みつけてみると、外庭の土は思っていたよりも硬く、走ったり跳んだりする分の足の踏ん張りは効きそうだが、足捌きを間違えると乾いた砂の上を靴が滑ってしまう恐れがありそうだとルシェルは判断した。
それはほぼ癖になっているものだが、足元を気にして戦い方を考える女子などここにはいないだろう、とルシェルは内心で自分を自嘲する。
「お待たせしました」
ふと背中に声をかけられ振り向くと、自分の相手をすると思しき一人の騎士の姿が目に入った。
「自分は本日、貴女様のお相手を勤めさせていただくノイマンというものです。お手柔らかに」
生真面目そうな青年といった風の騎士はノイマンと名乗り、ルシェルに握手を求めると、彼女に向かって微笑みかけた。
口元から微かに白い歯が覗く。
彼に悪気は無いのかもしれないが、ルシェルには彼の笑顔が受け付けられなかった。
なめられているのではないか、と思えたのである。
「ルシェルです。よろしくお願いします」
ルシェルは、自分より頭一つ以上高い騎士の顔を見上げるように握手に応じたものの、少しもにこりとせずに、ただ冷めた目を彼に合わせただけだった。
「ノイマン、庭先にレディを待たせるなど、貴公は騎士の風上にも置けんヤツだな」
テラスの中央に設えられた豪奢なクライニングチェアにゆったりと腰掛けたオルデニウスがこの若い騎士を冷やかすと、口唇をひどく歪め、肩を大きく震わせるようにして庭一杯に笑い声を響かせた。
「お恥ずかしい限りです」
皇帝陛下に頭を下げたノイマンだが、その口の端が笑っているのをルシェルは見逃さなかった。
やはり、陛下もこの騎士も、自分を、所詮女子供、と思って馬鹿にしているのだ。
それはそうかもしれない。
女の細腕でありながら男の騎士を相手にこれから立合いを挑むなど、どう見ても余興としか捉えられないだろう。
城内の人間や他の貴族の娘たちも、ルシェルのいる外庭を囲むようにして覗き込み、彼女に好奇の眼差しを向けている。
その目の色は、男女の別なく、皆、同じだった。
自分は今、見世物なのだ。
自らの立場を理解したルシェルだが、この状況はどうにも腹に据えかねた。
線の細い、華奢な少女が弱々しげに木刀を振り回し、甲高い奇声を上げて打ちかかる。
皆が想像している、これから見たい光景とは、それであろうか。
人が自分を見てそんな絵を想像したとしても、それはその人の勝手だということはわかる。
わかるが、納得はできなかった。
女の武術など無用の長物だということなのだろうか?
ルシェルはそうではないと思いたかった。
力の弱いものが、小さなものが、力の強く大きなものを打ち倒すために武術はあるのではないのか?
それは決して、力の強く大きなものが、弱いもの、小さなものを理不尽な暴力によって虐げるためにあるのではなく。
自分のような女子が男の騎士を相手に互角以上に渡り合って勝つことができたら、その時こそ、自分が武を修めてきた本当の意味があるのではないのか。
そう、思いたかった。
「さて、両者共に準備はいいか?」
威厳を取り戻した顔つきに戻った皇帝が二人に声をかける。
急に決まったこの立合いに検分役は置かれない。
判定については、どちらかが降参するか、皇帝自らが勝敗の別を下すのだ。
ルシェルは、敢えて棘のある感の冷たい声で答えた。
「いつ始められても結構です」
彼女はもう猫をかぶることなど微塵も考えていない。
「自分もです」
続いてノイマンも応じると、稽古用の木刀をゆったりと手に取った。
それは相手に余裕を見せるための所作などというものではなく、心底、ルシェルという小娘に対して警戒などしていないという慢心の表れだった。
「防具を着けてないようですが?」
「要りません。構わずに打ち込んでください」
ルシェルは同じ事を二度も説明したくなかったので、以降は口を固く結んだ。
庭の中ほどで両者が向き合うと、先ほどまで耳に届いていた見物人たちのお喋りも、いつの間にか、しん、と静まり返っていた。
秋が近づき、日ごとにうだるような暑さは引いていったものの、今日の日差しは強く、じっとしているだけでも汗が額に浮いてきてしまう。
ひゅう、と渦巻いたそよ風がルシェルの身体を撫でていき、それがやけに涼しく感じたルシェルは、いつの間にか自分の身体が熱で火照ってしまっていたのだと気づく。
しかし、表面的にはそんな状態でも、頭の中だけは急に怜悧に冴えていくような感覚がある。
ルシェルは一度だけ、身体一杯に深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出すように深呼吸をした。
心身は調っている。力みや気負いは一切無い。
たとえ自分が腕力で男に劣っていようと関係はなかった。
力によらず相手を倒すにはどうすればよいか。
彼女は父の教えを心の中に何度も反芻した。
――身体の内に目一杯溜め込んだ気を爆縮し、解き放つ。
――それを『内なる爆発』という。
――身体が小さいことを嘆くな。
――身体の大きな相手に弾き飛ばされるのはお前が小さいからではない。
――『地の呼吸』を覚えろ。足から大地に根を下ろせ。
――それができれば如何に強大な敵に当たろうとお前が飛ばされることは無い。
東洋から伝わったという『氣』の真髄の全てを会得できたわけではない。
だが、最近はそれらがどういうことを意味しているものなのか、少しずつわかってきた。
「よし」
皇帝の、威圧感のある声が対峙した両者に浴びせられた。
「では始めろ」
それが立合い開始の合図だった。
ルシェルは木刀を中段に据えると、その切っ先をノイマンの胸元の中心線を捕らえるようにまっすぐと向ける。
手首をくねらせるように使ったり、斜に構えたりして間合いを誤魔化すような小細工を弄する気にはならなかった。
この立合いは、真っ向から勝負を挑まなければならない立合いだ。
ルシェルはそう考えていた。
一方のノイマンは始めの声がかかってからルシェルと同様の構えを取ったものの、四肢の動きは緩慢で、得物を手にとって対峙していてもこの男から威圧というものを感じ取ることはできなかった。
先ほどの握手のときもそうだ。
ノイマンは自分よりも二周りも大きい肉厚の手をしていたが、それはルシェルにとっては唯、物質的に大きな手に過ぎないのであって、父の手のような、この人にとっては自分を捻り潰すなどいとも容易いことなのだろうという、『凄み』を感じることはなかったのだ。
それとも、敢えて、そう見せているのか。
他を圧倒するような気配を纏うだけで、太刀を合わせることなく敵を退けるような達人がこの世にはいるが、それとは逆に、自分の力や殺気を自然に溶け込ませてしまうように消してしまい、相手に気付かせぬものもいる。
この男がそれだというのであろうか。
「お先にどうぞ」
ノイマンから発せられた声に、ルシェルは考えるのを止めた。
目が、笑っていたのだ。
「では」
ルシェルは氷のように冷たい表情のまま短く答えると、土を掴むように落ち着けていた右足で、くっ、と地面を蹴る。
ノイマンが見ていたのはそこまでであった。
からん、という音が足元からしたのを耳にして、木刀が自分の脇に転がっていることに気付く。
「うっ?」
彼は、いつ自分が木刀を手放したのか認識できていなかった。
正面に目を戻す。
ルシェルは、動いていない。
先ほどと同じ位置で先ほどと同じように自分に向かって木刀を中段に構えているだけだ。
いや、彼女は先ほど懐に飛び込んでくるような挙動を見せていたはずだ。
では、いつの間にか元の位置に戻ったとでもいうのだろうか。
何が起きたのかはわからなかったが、どうやら、脇に転がっている木刀は、確かに自分のものであるらしいということだけは理解する。
小娘だと思って木刀の握りが甘くなっていたのは自分の油断だが、それにしても不可解だ。
呆気に取られ、驚きの表情を隠せないノイマンに、今度はルシェルが声をかけた。
「立合いにおいて得物を取り落とすことは、即、敗北を意味しますが、落とした木刀を拾い直して、そのままお続けになられても構いません」
その言葉に、ノイマンの目の色が変わった。
ルシェルが口にしたのは自分に対する侮辱であった。
女に情けをかけられ、騎士の名誉が汚されたのだ。
「……くそっ」
人知れず口中で罵ったノイマンは土に汚れた木刀の柄を握り締めると、一転して、猛然とルシェルに襲いかかった。
上段から振り下ろされた木刀は、ブゥン、と大味な鈍い音を立てるものの、その時既にルシェルの身体はそこに無く、抑えの利かないノイマンの身体が空を泳ぐように大きくよろめく。
速い。
先ほどは自分がまばたきをした瞬間にたまたま一撃が入ったか、何かのトリックを使われたのかと思ったが、どうやらこの少女は本当に、本物の武術の稽古を積んできているようだ。
ノイマンは、ルシェルという娘に対する自分の認識の甘さを反省した。
右手に、痺れが残っている。
この娘は相手に気付かせないほどの早業を用いて、この俺の木刀を叩き落した。
理解はできないが、そう考えるしかなかった。
ノイマンが冷静に考えられたのはそこまでで、それよりは、なんとしてでも自分に恥をかかせてくれた小娘に一撃を浴びせてやらんということにばかり気が回っていたのだ。
だが、当たらない。
彼の木刀は上、中、下段いずこへ繰り出そうとも軽く避けられ、ルシェルは相手の攻撃をいなすために手にした自分の木刀を使うことすら無かった。
肩口に打ち下ろしても、胴を薙いでも、喉元に突きを入れても、ルシェルの身体は捉えられず、それどころかノイマンは、文字通りの意味で、彼女の影を踏むことすらかなわない状態だったのだ。
初心者が相手なら足元を狙った攻撃も有効だったが、無駄だった。
自分の呼吸が読まれているのかと思い、再三、打ち込みに緩急をつけたのだが、どのようなリズムに変えようともルシェルがそれに惑わされることはない。
自分の間合いにルシェルの姿を捉えたと思っても、そこへ打ち下ろしが入る頃には彼女の身体は霞のようにかき消えていた。
だが、ルシェルがそれほどに大きな回避をしているのかというと、そうではない。
彼女は全ての攻撃に対して半歩ほどずつしか、身体を動かしていないのだ。
正対した姿勢から、相手の攻撃に対して脚を斜め後方に半歩ずらし、くくっ、と斜に身体を開く。
言葉にすればただそれだけのことなのだが、対峙しているノイマンには身体の半分ほどが消えたように錯覚してしまうのだ。
決してルシェルが手足を素早く動かしているようには見えないのだが、相手の振り上げた木刀が振り降ろされるまでの時間にそれは確実に行われ、一度たりとも彼女が危ういと見える局面はなかった。
まるで自分が立ち昇る陽炎を相手に踊らされているような感覚にノイマンは苛立ち、いつの間にか全身の毛穴をから汗を噴出して、身体中をぐっしょりと濡らしていた。
焦燥の色を顔に滲ませ、すっかり上がった息によって彼の口が常時開きっぱなしになったところで、ルシェルはそろそろ頃合いだろうと思った。
破れかぶれに突き出された木刀の切っ先を左にいなす。
「失礼します」
それは前がかりになってルシェルの身体と交錯するようにつんのめっていたノイマンにしか聞き取れなかった彼女の呟きだった。
「?」
ルシェルの言葉の意味が判らなかったノイマンだったが、直後に、左の太ももに走った電流のような痛みにそれ以上の思考を続けることができなかった。
「あッ!」
脛当てはつけていたが、太ももは無防備だったのだ。
本来、木刀というものは平気で人の骨をへし折り、脳天にまともに喰えば頭蓋を砕くことすらできるほど、人間にとっては危険な武器だ。
木刀を用いての激しい打ち込み稽古を行えば、骨を折るどころか生命を落とす者だっている。
ルシェルはその痛みを、殺されない程度に手加減されていたとはいえ、父によって嫌というほど身体に教えられていたのだ。
彼女がノイマンの太ももに入れたその一撃は、彼の脚部の骨を粉砕するようなものではなかったが、一瞬の動きを奪うには十分なものだった。
この時、彼は体勢を崩しながらも、なぜか視界の正面に見えたルシェルの顔を不思議な心持ちで凝視していた。
先ほどまではとても冷たく見えた彼女の瞳が、なぜか今はとても哀れみを含んだような色で自分を見つめているのが分かったからだ。
なぜそんな顔をするのか。
ノイマンの意識がそんな思考をした時――。
「ぐはっ!?」
直後、どうっ、という衝撃と共に胴体を払われたノイマンの身体が土ぼこりを上げながら地面の上を転がっていた。
その一撃を見て取れた者は、打ち込んだ本人以外にはその場にいなかっただろう。
「…………」
静寂。
それはほんの数瞬か、それとももっと長い時間だったかもしれない。
「ま……、参った」
仰向けになった身体のうち、頭だけを起こすようにしたノイマンはルシェルに自分の敗北を認めた。
その言葉を皮切りにするように見物人たちがざわめき出し、あっという間に静寂は破られたのである。
「ありがとうございました」
ルシェルは一礼をしてから、未だ起き上がれずにいるノイマンに手を差し伸べて、彼の身体を起こしてあげた。
ノイマンは完全に打ち負かされたことをどうやっても誤魔化せないと悟り、困惑と気恥ずかしさを織り交ぜたような苦笑を浮かべていた。
「……?」
不意に、質感の濃い肉厚の拍手がルシェルの背中を叩く。
「見事だったぞ、ルシェル」
その声の主が誰かはすぐに分かった。
「ノイマン様に花を持たせていただきました」
皇帝陛下に振り返ったルシェルは謙遜を口にした。
「うむ。しかし、面白かったぞ。おなごでもかように剣を使うことはできるのだな。ご苦労であった。もう下がってよいぞ」
「では、これにて失礼致します」
静かに頭を下げたルシェルに皇帝オルデニウスはもう一度、うむ、と唸るように頷いた。
一礼後、踵を返して御前を辞したルシェルであったが、外庭から城内へ戻るときも貴族の娘たちに後ろ指を差され、変わった生き物でも見るかのような奇異の眼差しを向けられ、ひそひそと何事かを囁き合われているのを後ろ耳にしなければならなかった。
やはり、自分が見世物であるという周りの人間の見方は変えられなかった。
下手をすれば、最初より心象を落としているのかもしれない。
もしかしたら自分はひどくまずいことをやってしまったのかもしれないと考えると、ルシェルはついさっきまで忘れていた羞恥心を思い出し、どこかの柱の後ろにでも隠れて、陰と一体になってしまいたいような衝動に駆られた。