もう帰りたい気持ちで胸が一杯になっていたルシェルだが、まだ帰ってよいという声はかけられず、今度は会議用と思しき広間に連れてこられた。
長机の前に置かれた椅子に着席するよう促されたが室内に足を踏み入れたルシェルはそこに前もって詰め掛けていた人々の顔を見た瞬間に息を呑んだ。
彼女が着席を指示された椅子の前方には、部屋の中央を四角に囲むように長机が設置されていて、その机を更に囲むように設けられている複数の座席には、皇帝陛下を初めとした大臣や将軍といった宮廷の重鎮たちが陣取っていたからである。
ルシェルから見て右奥隅の席には父、ダヴィドの姿も見えた。
父は娘に声をかけて来ようともせず、敢えて自分と目を合わせないよう無視を決め込んでいるように思えた。
そうしている間にも居並ぶ諸臣の視線が細身のルシェルに突き刺さる。
『……これは、とんでもないところに来てしまったのかもしれない』
さすがのルシェルも突然、このような状況に放り込まれたことには面を食らった。
「どうした? 早くその席にかけろ」
「は、はい……。失礼します」
オルデニウスに促される形でルシェルはようやく木製の椅子に腰を下ろしたが、敷かれていたクッションが自分に合わず、どうにも落ち着けそうに無かった。
今度は先ほどとは比べ物にならないくらい、自分が緊張しているのかもしれない。
やはり、同じ空間に父の存在があることが大きいのだろうか。
あまり気にしないように努めても、ルシェルの目は無意識のうちに父の座席を捉えようとしていたが、父の姿を視界に入れる前に意識的に目を伏せた。
長方形を成すように並べられた長机ではあるが、ルシェルの側にはルシェル一人しかいない。
この部屋には自分を庇ってくれる人などいないのだ。
「さて、ルシェルと申したな」
不意に皇帝が口を開いたことに背筋がびくりとしたルシェルだが、心の動揺を表情に表さないように耐えることはできた。
「はい」
「当初は予定に無かったのだが、見込みの有りそうな者を数人呼び出して余が直々に面談をした上でセフィナの傍につかせるかどうかを決めることにした。今のお前はその最終選考に残ったという状況だ」
その言葉はルシェルにとっては予想外だった。
ここで落第を申し渡されるのかと思っていたからである。
「わたくしが、でございますか?」
「うむ」
「何かのお間違いということは無いのでしょうか?」
ルシェルの言葉にオルデニウスは口を大きく開けて笑った。
「お前は本当に面白いな。並のものであれば自分の高い評価を疑いもせずに、ありがとうございます、とニヤケ面を見せるところなのであるが」
「申し訳ございません」
「いや、いい。そこを買っている。……そこでだ。余はお前のことをもっと知りたいと思うておる。これから、幾つかのことをお前に尋ねる。そのことに対して、嘘偽りなくありのままを話すように」
「お誓い申し上げます」
「うむ。では、早速だが――」
オルデニウスの質問は簡素なものから始まった。
趣味は何か、好きな学問は何か、学校ではどのような友達がいて、どのような勉強をしているのか、休みの日には何をしているのか、武術は父親以外からも習っているのか、などである。
それぞれの質問に対して、誓ったとおり嘘偽り無く答えていくルシェルであったが、皇帝陛下だけでなく、居合わせた重臣たちからも日頃の生活態度や思想信条などを問い質されて尋問の集中砲火を浴びる恰好になると、悪いことをしたわけでもないのに自分が弾劾にかけられているような気分になってしまう。
時折、オルデニウスに隣席する白髪の老臣がこちらを横目にしながらひそひそと主君に耳打ちしているのが目に入った。
次にどんな質問をすればよいかなどを助言しているのかもしれない。
重い沈黙の中で行われる内緒話など、次の質問を待たされている身からすれば気分の良いものなわけがないが、必要以上に気にしなかった。
『自分をありのまま以上によりよく見せようとしないこと』
そのように自分に言い聞かせていたルシェルだから、数多くの質問に答えるのに逐一悩み、見栄を張ろうとして心を惑わせる必要は無かったのである。
そんな気分でいられたのも、最終的にどうせ自分は落ちるだろうという諦めが彼女の中に既にあったことも関係していた。
だが、オルデニウスがある質問をしたときは、流暢に言葉を紡いできたルシェルの口唇が、止まった。
「お前は、余の治世をどう思っている?」
その問いかけと同時に、周囲の空気がにわかに、ピン、と張り詰めたのをルシェルは感じ取った。
空気が凍りついた、というのが正しいのかもしれない。
今までの質問に意味は無く、油断させたところで本当に自分を試すための難問を被せてきたのだろう。
面談を急遽行うことになったというのも、嘘なのかもしれない。
いくら皇帝に絶大な権限があるとはいえ、宮中の諸臣、諸将が一どきに集められるほど、彼らも暇ではないはずだからだ。
疑い出せばきりがないが、それは別としてもルシェルは、いつかはこのような問いが来るだろうということは予感していた。
なぜなら、今回の侍従登用試験を行うことのきっかけになったのが、皇帝の治世に不満のあるものが反逆して、皇女拉致未遂事件を引き起こしたことだったからだ。
ここは父の立場もあることだし、お蔭様で何不自由なく暮らせています、とか、慈悲深い施しに心より感謝しています、とか答えておいたほうがいいのだろうか。
しかし、この皇帝にそんな単純なおべっかが通用するとも思えない。
上辺だけの社交辞令を述べたところで、なぜそう思うのかの理由を次々と尋ね、回答する人間を追い詰める用意をしているのかもしれない。
近衛警護についていた人間が皇女を手にかけようとした事件が直近にあっただけに、生半可な世辞では逃げられないようになっているのではないか、という気がする。
だからと言って、正直に不用意なことを答えて皇帝を立腹させれば、その場で自分が首を刎ねられないとも限らない。
考えすぎかもしれないが、回答には慎重になるべきだと思えた。
だが、どう答えていくかを頭の中で仮想していくような時間は無く、押し黙って考えていたら、どの道、嘘をついていると思われるだろう。
『……それなら、これ以上思い悩んでいても埒は明かない』
意を決したルシェルはのしかかってくるような皇帝の視線に負けじと顔を上げ、はっきりとした声音で答えを述べた。
「申し上げられません」
「…………」
ルシェルの回答に皇帝以外の諸臣たちがどう反応したかはわからなかったが、空気がより一層張り詰めたものになったのは、肌で分かった。
オルデニウスの眉が僅かに引きつるように上がったのをルシェルは見てしまった。
「なぜだ? 余の政治は嫌か?」
「いいえ、そうではありません」
「わかった。ではなぜ答えられぬのか、わけを述べてみよ」
「では、恐れながら申し上げます……」
これは自分と皇帝との真剣勝負なのだと、ルシェルは内心に言い聞かせて、自分を奮い立たせた。
「先ほど陛下に武術をお見せしたとおり、わたくしは世界のことを学び、女子らしい稽古事をする時間を木刀を振ることに費やしてきた無学の徒にございます。そのようなわたくしが陛下の深いお志を汲み取って論評するなどとは、小瓶をもって大海の水を汲み干そうとするような無謀で浅はかなものと言えます」
そこで一度言葉を切って皇帝の反応を窺ったルシェルだが、皇帝の目が、続けろ、と彼女に言っていた。
ルシェルは再び口を開き、言葉を継いだ。
「……また、古来より世の賢君は甘言を退け苦言に学ぶ、と聞きました。わたくしのごとき浅慮なものが耳心地の良いお世辞を並べたところですぐに見破られてしまうでしょう。……だからと言って、わたくしは国政の大事に忠言するほどに足る見識など持ち合わせておりません。それに、これから皇家に仕えんとするものが愚見を弄して主君の治世をあれこれ論ずるのは忠節に反すると考えました。ですから、今のお尋ねにお答え申し上げることができなかったのです」
ルシェルは口にしながらも、なんて可愛くない十四歳なんだろう、と、どこか自分に呆れていた。
オルデニウスはルシェルの長答弁が終わるまでじっと彼女を見据えたまま待ち、その後、しばらくの間をおいてから口を開いた。
「言い分としては理解しよう。だが、結局それによって余が腹を立ててお前を打ち首にしろと騒ぎ立てるかもしれんぞ?」
「その時は、わたくしの無知と不明を恥じるのみです」
ルシェルに嘘をついたつもりはなかった。
自分は政治のことを語れる立場にない。
彼女が口にしたことの要点をまとめれば、たったそれだけのことなのだ。
だが、そこには嘘も偽りも入ってない。
自分は学者でもなければ批評家でもないし、思想家でもなければ革命家でもない。
「…………」
彼女の弁明に、うむ、と頷いたオルデニウスは目を閉じてしばらく何かを思案するかのような仕種を見せたが、実際に気色ばんで怒鳴りたてるような気配は無かった。
一つの危機は去ったように思えたが、まだ油断はできない。
その間の沈黙が辛かったルシェルは、こんなことなら初めからおべんちゃらに徹していたほうが楽だったかもしれない、とさえ思った。
しかし、今さら口に出したことを引っ込めるわけにもいかない。
大人しく沙汰を待つしかないのだ。
彼女がテーブルの下の膝上で硬くしている拳の中にはじわりと汗が滲み出し、それが熱くなったり冷えたりを繰り返していた。
閉じていたオルデニウスの目、不意に開かれる。
今まで皇帝を怖いと感じなかったルシェルだが、このときだけは背中をびくっと震わせそうになった。
「では、もう一つ聞こう」
「はい」
どうやら質問は次に移るようだとわかって、ルシェルは内心に胸を撫で下ろした。
「お前は嘘をついたことがあるか?」
「…………」
これも嫌な質問だ、とルシェルは思う。
さっきの質問と発言の内容を付き合わせるための質問なんだろうか。
こういうときに、『神に誓って、生まれてこの方嘘をついたことなどありません』と、何の臆面もなく答えられる厚顔無恥な人もいるのだろうが、彼女はそうではなかった。
また、そう答えて『うむ、そうか』などと頷いてもらえるとも思えない。
それならやはり、この場に限っては、嘘をつかずに正直に告白したほうが良いのだろう。
「ございます」
「ほう……。いつ、誰に嘘をついた?」
「父に、です」
父、ダヴィドの眉毛がピクリと動いたような、そんな気配がした。
「よければ、その嘘とやらを打ち明けてみよ」
「はい。……父は平生、物語や詩集のような、なよなよとした女々しいものは一切読んではならないとわたくしに申し付けておりました。それにわたくしも、はい、と答えては従っているふりをしておりました。ですが、実際のわたくしは父の目を盗んではほぼ毎日、何らかの書物を母に借りて読み耽っていたのでございます」
「そのことを父に白状したことはあるか?」
「ございません。今この場で初めて耳にしただろうと思います」
視界の外の方から、ブチッ、と父の血管の青筋が切れた音が聞こえたような気がした。
空耳だと思うことにする。
本当に正直に嘘をついていたことを白状してしまったのだが、なぜかルシェルは心の中に涼風が吹き込んだような清々しい感覚に浸っている自分が不思議だった。
ただ、今日、家に帰ってからの父のお小言は、いつもより大きなものになるかもしれないということは覚悟した。
「では、お前は自分が親の言いつけを守らぬ悪い娘だと申すのだな?」
「はい。仰せの通り、悪い娘にございます」
「そうか。……聞いたかダヴィドよ? ヴェルトリアの鬼将と恐れられた貴公に嘘をつき通すとはなかなか肝の据わった娘子ではないか」
「はっ!? はは……!」
視界の端にダヴィド将軍の姿を入れる程度に首を回したオルデニウスは恐縮するダヴィドに語りかけると、大きな肩を揺らしながら愉快そうに笑った。
もしかしたら、自分の発言が怒りを通して失笑を買うほど酷いものなのかもしれない。
だが、いつもと違って小さくなっている父の珍しい姿を見られたことがおかしくて、ルシェルはこんな状況でもなぜか愉快な心持ちになってしまうのであった。
その夜、父に呼び出されたルシェルは、今日は拳骨の一、二発は覚悟しなければならないと奥歯をかみ締めるようにして、居間へと出向いていった。
「お呼びですか?」
「うむ、そこに座れ」
父の口調は穏やかであったが、こういうときでもいつ鉄の拳が飛んでくるか分からない。
ルシェルは用心を欠かさぬようにしながら、テーブルを挟んで父と向かい合った。
気を遣った母が二人の前に淹れたての熱い紅茶を置いてくれたが、父はそれに一切手をつけようとせず、ルシェルもまた、手を伸ばすことができないでいた。
眼の落ち着く先の無かったルシェルが、紅茶の注がれたカップの淵から立ち上り、様々に変わる湯気の形をなんと思うでもなく見つめていると、しばらく経ってからついに父が口を開いた。
「何の用事で呼び出したか、分かるか」
「今日の侍従登用試験のことでしょうか?」
……分かりきっていることなのに、どうしていつも、こう回りくどいところから父は始めるのだろう、と思う。
「そうだ。そのことだが……」
気難しい顔をした父はそうとだけ口にしたきり、またしばらく黙り込んでしまった。
「…………」
「…………」
ルシェルは沈黙に耐えかねて、ついにティーカップに手を出した。
一口だけ飲んだ紅茶は既に温くなっていたが、何もしないでこの空気に耐えていることが辛かったので、なんでもいいから身体を動かしたかったのである。
その時だった。
「陛下はお前をセフィナ様の侍従とすることに決めた」
「え……?」
不意を打たれたルシェルは慌ててティーカップを小皿の上に戻したが、がちゃんと大きな音を立ててしまった上に、中身も多少こぼれてしまった。
「どうして……」
「詳しいことは明日、お前に直に伝えるそうだ。明日は学校に行かず俺と一緒に城へ来るんだ」
「どうして、私が選ばれたんですか?」
「それは俺が聞きたいくらいだ。とにかく、明日は大事な日だから、……今日はもう、早く寝なさい」
訳が分からずに頭の中が混乱していたルシェルだが、父に追い立てられるように居間を出ると、二階にある自室へとぼとぼと階段を昇り、部屋に入るなりベッドに転がり込んだ。
「どうして、私なの……?」
どう考えても分からなかった。
父が嘘を言って、自分を驚かせようとした、……ようには見えなかった。
むしろ、嘘であればどんなに気が楽なことだろうと思う。
自分が今日やったことといえば、皆と同じ試験を受けた以外は、木刀で騎士を殴り倒し、皇帝陛下に分かったような口を聞くという無礼を冒したことだけである。
歌や踊りもできなければ、良家の子女らしく上品に振舞えたわけでもない。
登用に預かる要素など何一つなかった。
なぜ、自分なのだろうか。
いくら考えてもその答えは出なかった。
父に言われたとおり、夏掛けを頭から被って早く寝ることにしたが、寝ようと意識すればするほど頭が冴えていくようで、とても眠れるような気配ではなく、今日はこのまま徹夜になることを覚悟した。
寝不足のまま目の縁に隈など作って行ったら、また後ろ指を差されてしまいそうだ。
一しきり自分の悪いところを考え、品位に欠ける、常識に欠けるなど、父にも皇帝にも怒られずにうまく断る口実は無いものかと考えたルシェルであったが、そうこうしている内に深い眠りに落ちてしまっていた。
明けて翌日、ヴェルトリア城にて、若干十四歳の侍従ルシェルが誕生したのである。
それが、神誓暦八百六十八年、晩夏の出来事であった。