双閃の軌跡

BACK / NEXT / TOP


序章 平穏の綻び (4)



 今回の皇女襲撃が三年前の皇女拉致未遂と関連しているものなのかは分からなかったが、ルシェルの脳裏にはその当時のことが思い起こされていた。
 二つの事件を比較して特に状況が似ているということもないのだが、皇女の精神面への影響については一抹の不安が懸念される。
 三年前の事件当時は、セフィナがショックからしばらく口を聞くことができない状態であったと聞いたからだ。
 それから今日まで三年分は皇女も成長しているはずだが、十四歳の少女に生命を狙われた恐怖を克服しろというのは無理な注文だろう。
 暴漢を鎮圧した自分ですら、正体不明の怖気に身を震わせかけていたのだから。
 この緊張はなんだろう、と思う。
 武術稽古のときに感じるプレッシャーとは、全く別のもののように感じた。
 人が、本気で人を殺しにくる。
 その気をまともに浴びたせいだろうか。
 自分が初めて感じた恐怖の正体をもっと突き止めたいところだったが、セフィナの声が内側に向かっていたルシェルの思考を断ち切った。
「ルシェル?」
「なんでしょう」
「こわーい顔になってるよ?」
 セフィナが眉間に皺を寄せるようにして難しい顔をしている侍女の顔を覗き込む。
「申し訳御座いません……」
「ううん。ルシェルも怖い目に遭ったんだもんね。仕方ないよ」
 そんなことを口にして笑みを見せるセフィナだったが、彼女もまだ気を張っていないと精神の平衡を保つのが辛いはずだった。
 今はこうして明るく振舞ってくれるが、セフィナが一日のうちのほとんどを自分の感情を押し殺すようにして過ごしている少女だということをルシェルは知っている。
 皇女を溺愛する父帝オルデニウスの前ですら、彼が望む皇女の理想像を演じることに神経をすり減らし、一時の安らぎもままならないのだ。
 そんな皇女と同等のプレッシャーに晒されて育ったとまでは言えないものの、それは将軍の父によって鋳型に押し込められるような教育を受けてきたルシェルにとってはある種の共感ができることだった。
 それに加えて、セフィナが時折見せる、彼女本来の茶目っ気や人なつっこさに触れていると心が温かくなってしまうルシェルであったが、貴人に仕える身に過ぎない自分が勝手な親近感などを抱いてはいけないと自制するのだ。
 最初は窮屈で億劫に思えた宮中での勤めであったが、セフィナが高慢で傍若無人の限りを尽くすようなお姫様で無かったことには安堵していたルシェルだった。
 もし、セフィナが父帝の性質を忠実に引き継いでいたら、手の空いたときに二人でこっそりティータイムを楽しむなどとてもかなわないことだろう。
 それらを踏まえると、ルシェルが皇女に対して抱いている感情は決して悪いものではない。
 一方のセフィナも、物覚えが良く、手抜きをせずまめに働き、自分の知らないことを尋ねると噛み砕いて丁寧に教えてくれるこの侍従には良い印象を持っている。
 何か問題事が発生してもルシェルに相談すればほぼ間違いが無いと確信するようになってからは彼女を常に自分の傍へ置きたがるようになった。
 周囲に侍っている他の者たちと比べて年も近く、あまり気を置かずに物を頼めるルシェルの存在は、セフィナにとってもありがたかったのである。
 城の外のことを殆ど知らずに育ったセフィナは、ルシェルに城下の様子についてを尋ねることが多かった。
 多くの国民がどのような日々を送り、どのようなことに関心を持っていて、どのような流行に熱中しているのか、または、何に対して不満を持っているのか、を知りたかったのだ。
 特に最後の質問は今まで誰に聞いても、『国民は皆、富貴豊かで安寧な日々を営み、オルデニウス陛下の治世に心服すると共に、皇家への畏敬と御礼の念を口にして止みません』と、判で捺したような答えが返ってくるだけで、否定的な回答は一度たりとも聞いたことがない。
 小さいころはそれを疑うことを知らなかったセフィナだが、いつからか、家臣たちは自分に本当のことを教えてくれていないのではないか、と思うようになっていた。
 自分の生命を直接狙われたから、だろう。
 そんなにうまくいっていると言うのなら、なぜ自分は死にそうな目に遭ったのか。
 いくらお人好しのセフィナでもそれを疑問に思わないはずがなかった。
『どのような世の中にも、自らの勤怠を棚に上げては社会を逆恨みし、暴力に訴え出て待遇の改善や特別な恩賞を要求する愚か者はいます』
 そんな家臣の答えでは納得できなくなっていたのだ。
 しかし、彼らを責める気にはならなかった。
 皆、不用意なことを答えて父に密告され、自分の首が飛ばされるような事態になることを恐れているのだ。
 ルシェルが他の人間と同じ事を口にしても、それは無理からぬことと言える。
 だが、彼女は良い意味でセフィナの予想を裏切ってくれた。
『私は都の、それも、ほんの一部のことのみしか存じませんが……』
 そう前置きしたルシェルが、部屋の外を気にしながらも声を小さくして語ってくれた都の実態は、自分が今まで聞かされていた庶民の暮らしぶりとは大きくかけ離れていた。
『多くの民が止むことのない戦乱と出兵に嫌気を差しており、それを支えるために重い税を課せられて生計が逼迫しています。また、一部の富裕層を除けば蓄えも乏しく、極度の倹約を強いられる生活に疲れ切っていると聞いております』
『ヴェルトリア人の中流層ですらその有様ですから、中小の都市や辺境の村落、ヴェルトリア人以外の被支配民族の暮らしぶりに至っては更に困窮したものになっている恐れがあります』
 そのようにルシェルは言うのだ。
 勘付いていたこととはいえ、彼女の答えはセフィナに少なからずショックを与えた。
 心のどこかでは、そうであって欲しくないと思っていた部分があったからだろう。
 父が暴政を敷き、多くの国民を苦しめているなど、喜んで受け容れられる事実ではない。
 自分にとっても怖い存在ではあるけれども、父は父なのだ。
 では、ルシェルが自分に嘘をついて、いい加減なでたらめを吹き込んでいるのだろうか。
 そうは考えられなかった。
 自分の生命が狙われたことといい、各地で次々に上がる叛乱の火の手や、頻繁に訪れては城兵に追い返されている陳情者らしき人たちの集団などのことを考えると、ルシェルの述べたことが真実であるなら全て納得できることだ。
 そうなると、どうやらこの国の政治は行き詰っているようだ、という漠然とした不安が現実味を帯びてくるのである。
 セフィナは自分の要求に忠実に応えてくれたルシェルに感謝した。
 初めて、耳の痛いことでも正直に打ち明けてくれる人間が現れたのだ。
 本当のことを知ったからといって、今の自分には父の政治に口出しすることなどできないが、勉強を重ねて知識や智恵を養い、見聞を広めて物事の真贋を見極める目を持つことができれば、いずれは父を諫め、説き伏せて、民に慈悲深い善政を敷くこともできるのではないかと淡い期待を抱くようになったのである。
 皇女が目指したものは謀反とまでは言わないまでも、内側からの、血や痛みの伴わない穏やかな改革であった。
 セフィナがルシェルを心から信頼するようになるまでにはそのような経緯があるのだが、皇女の心の内奥では、父への畏敬と自分の信じる良識との間で激しい葛藤があったことなど、ルシェルにも知る由はなかった。
 ルシェルと接するときのセフィナは概して明るく振舞うように努めていたせいもあるし、深刻な暗い話題よりは、あまり意味がなくくだらない雑談を口にすることの方が多かったせいもある。
 父への不満をこぼすと大抵の人間が真っ青になり、聞かなかったふりをして逃げ出してしまうのだが、困ったような笑みを見せながらも最後まで話を聞いてくれる侍女の出現は、孤独を感じていた皇女にとっては新鮮だった。
 もし、ルシェルが本当の友達であったなら、もっと打ち解けて話すこともできるのに、と思うと自分の生まれが恨めしくなるときもある。
 勿論、皇帝の娘として生まれたおかげで、十二分の恩恵を受け、甘やかされて育って来たという自覚はあった。
 だが、父の言いつけに大人しく従っているだけのお人形にはなりたくなかったのだ。
 セフィナという皇女は、彼女が決して従順で大人しいだけではないことを知っているルシェルが思っているより、もう少しだけ、父に反抗的な娘だったのである。

 ベッドから離れたセフィナはそろそろ寝覚めの肌寒さを感じてきたので、羽織っていただけのカーディガンにきちんと袖を通すと室内の中ほどにある小さなラウンドテーブルの席につき、卓上にルシェルが用意してくれたばかりの熱い紅茶を手にとって、少しだけ口に含んだ。
 ローズヒップの上品な香りと僅かに溶かし込んである蜂蜜の心地よい甘さが口の中に広がった。
 いつもなら、そこで機嫌が良くなってお喋りにも一層の熱が入るセフィナなのだが、さすがに今日はそこまでの気分にはなれず、物憂げなため息を一つだけつくのが関の山だった。
「やはり、お加減が優れませんか?」
 ルシェルが口にした言葉に、セフィナは首を左右に振った。
「ううん。病人じゃないんだから大丈夫よ」
 えへへ、と笑ってみせるセフィナだが、それはルシェルを心配させまいとやっていることだ。
 だが、その笑顔もすぐに消え、彼女は手にしたティーカップを卓に戻すと、置いた拍子にカップ内に拡がった二重の波紋を覗き込むように視線を落とした。
「……でも、少し、ね」
 弱々しげに呟かれた声に、ルシェルは、無理も無い、と思う。
 もともと、生命を狙われても平然としているような豪胆さをセフィナに求めてなどいないのだ。
「起きて無理をなさらずに、もうしばらくお休みになられてはいかがですか?」
「いいの。何もしないでじっとしてるのも、結構、辛いものだから……」
 セフィナが零すように漏らした言葉から彼女の現在の気分を察したルシェルは、皇女を強引にベッドへ戻すようなことはしなかった。
 しばらくの沈黙を挟んでからセフィナが紅茶を口にし、小さな息をつく。
 そんな光景が二、三度繰り返された。
「……お父様は……」
 ふと、考えていたことの断片を口にしてしまったことに気付き、セフィナは口を噤んだ。
「グラード地方へ出兵なされたオルデニウス陛下には早馬が向かったそうです。もうしばらくすれば、お戻りになられると思います」
 セフィナの漏らした一言から心中を推し量ってそう述べたルシェルだったが、セフィナは静かに首を振って、そうじゃない、という返事に代えた。
「たぶん、お父様は私が危ない目に遭ったからって戻ってこないと思うの」
「なぜ、そう思われるのです?」
「だって、それが狙いで反乱軍の誰かが私を襲ったかもしれないでしょう?」
 セフィナは、先ほどから考えていた推論が形になりそうだったので、それをはっきりと声にしていた。
「もし、安全なはずの皇都で私が襲われて死んだりしたら、今の統治に反抗している人たちが勢いづいて国内はもっと混乱するかもしれないし、失敗しても、お父様に兵を引き上げさせることができたら、反乱軍が態勢を立て直す時間を稼げることになるでしょ?」
「…………」
 ルシェルはセフィナの言葉に是も非も表さず、黙って耳を傾けていた。
「それに、一度こういうことがあって兵を退いてしまったらこれからも、私や上のお兄様を狙った同様の事件が起こるでしょうし、そうなったらお父様はこのヴェルハイムに釘付けになって、ますます彼らの思う壺だと思うの」
「それ故に、陛下はお戻りになられない、と?」
「あなたも本当はそう思っているでしょう?」
「…………」
 セフィナの返した問いにルシェルはまたしても沈黙せざるを得なかった。
 皇女の推論は自分の考えとほぼ同じだったからだ。
「これで当分は外に出てお芝居見に行ったりできなくなっちゃうね」
 ちょっとした困りごとのように口元に微笑を作ったセフィナだが、その笑顔がルシェルの青い瞳には悲しげに映っていた。
「ねえ、ルシェル」
「はい」
「東国から伝わったっていうあのパンケーキ……、アンマン、だっけ? あれ、もう一度食べてみたいな」
 そこで、暗い話はもうおしまい、というセフィナからの言外のメッセージをルシェルは受け取った。
 アンマンというのは、かつて、ルシェルが城下ではこのような菓子が出回っているとセフィナに教えたものだ。
 アンマンに興味を示したセフィナがルシェルに食べたいとねだったために、皇女のお使いという名目で城を抜け出したルシェルが繁華街の一角に開店したばかりの東洋風の店舗に足を運んだのであった。
 お店には、豆沙包子、という看板がかかっていたのだが、その変わった形の文字の読み方はルシェルにもわからない。
 だが、ルシェルが学校に通っていた当時に東方からの移民の同級生がいて、その子がアンマンと呼んでいたからその名前で覚えたのだった。
 店内で厨房の様子を覗いてみると、アンマンの中には小豆の餡が詰められており、蒸しあがったそれらが蒸篭から取り出されるまでの工程の一部を興味津々に眺めたものだ。
 外から持ち込んだ食べ物を毒見にも通さず皇女に食べさせるのは安全性の面から宮中では当然禁止されていたから、袋に包んでもらったそれを上着の中にしまいこんで城門をくぐるときはさすがのルシェルも冷や冷やしたものだった。自分の分など最初から考えていなかったルシェルだが、『一緒に食べよ?』とセフィナがアンマンを半分こずつにして、それを二人で食べたのも今となってはいい思い出である。
 皇女に仕える侍女としては悪いことをしたのだが、それでも、大きな権力や、厳しい規則に心なしかの小さな反抗を企てたみたいで、その当時はやけに楽しい気分でやっていたものである。
「では、すぐにでも用意してまいりましょうか?」
「また今度の話よ。……あ、次は二つ買ってこなきゃダメだよ? 自分だけ遠慮して食べないとか、そんなの認めませんから!」
「心得ました」
 口を尖らせたセフィナにルシェルが神妙な面持ちで頭を下げて答えた後、二人は自分たちがおかしくて声に出して笑った。
 その直後、部屋の外から扉をノックする音が二人の笑い声を裂くように響いてきたので、雑談はそこで打ち切りとなる。
 不満そうな表情を浮かべるセフィナと同じ顔をしているわけにいかないルシェルは応対に出て扉を開けると、そこに現れた人影を見て反射的に身を引いて通路を空け、御辞儀をしていた。
「セフィナ、大事はないのか?」
 若々しく、張りのある男の声が腰をかがめたままのルシェルの頭上で発せられる。
「お兄様……?」
 慌てたように椅子から立ち上がろうとしたセフィナだが、自らが兄と呼んだ男が手振りで彼女の動きを制し、そのままでいい、と示す。
 その男はセフィナにとって一番上の兄、現在の皇位継承権第一位にある皇太子、クライシュだった。
 二番目の兄、ジェイクスはグラード地方への行軍で父に帯同したため不在だが、ヴェルハイムには父の代わりに皇太子が留まっていたのだ。
 ルシェルは皇太子が室内中央の、セフィナが席に着くラウンドテーブルの前くらいまで歩を進めたことを耳で確認してから上体を起こし、その後姿を見た。
 セフィナとは違う、父譲りの赤髪が目に入る。
 だが、その印象はオルデニウスと比べて洗練されたものがあった。
 髪の毛の長さ、太さが違うのか、と余計なことを考えそうになったルシェルは慌てて自分の雑念を打ち消す。
 獅子のたてがみのように荒れ狂っている父の頭髪と比べれば、適度な長さに整えられている皇太子の方が清潔感に勝るのは当然かもしれない。
 背丈は同じほどだが、体型は父に比べれば華奢に見える。
 年はセフィナとだいぶ離れており、今年の冬で二十六になるはずだった。
 頭髪と同じ色の紅い瞳を除けば、目鼻立ちの整った顔貌はやはり皇女と同じ血族だと思えるのだが、今のルシェルの立ち位置からその精悍な顔立ちを窺うことはできない。
「暴漢に襲われたと聞いているのだが、……怪我は無いようだな?」
「はい、ルシェルが守ってくれましたから」
「そうか」
 皇太子クライシュはセフィナの言葉に答えながら、ドアの傍で控えるようにしているルシェルのほうを振り向いた。
「妹の危機をよく防いでくれた。私からも礼を言う」
「皇太子様からのお労わりの言葉、恐れ入ります」
 ルシェルは頭を深く下げ、恐縮した風情を見せながら皇太子の礼を受け取る。
 侍女の着る蒼いエプロンドレスではなく、外出するときのブラウスにスカートという服装のままだったルシェルだが、皇太子は特にそれを見咎めるようなことはしなかった。
「ルシェルのように機敏で優秀なものが警護の兵についていればこのようなことに頭を悩ませずとも済むのだがな。……そうだ。ルシェル、侍衛官を務めてみる気はないか?」
「侍衛官、ですか?」
 それは皇太子の思いつきだったのだが、ルシェルはそれをどのように受け止めていいか判断しかねて戸惑いの表情を見せてしまった。
 そんなルシェルに、うん、と頷いたクライシュはさらに言葉を続ける。
「今も侍衛官という役職は形の上では置いてあるのだが、皆、貴族の出で剣の扱いもままならない。だが、君なら彼らより剣術も心得ているし、いざというときの度胸も据わっている。適任だとは思わないか?」
「そんな……、わたくしのようなものに、そのような大役は……」
「遠慮しているのか? 騎士を含め、武術試合では城内にルシェルの右に出るものなし、ともっぱらの評判を耳にしたんだが」
「…………」
 微笑を見せて笑い話のように語る皇太子に自分の噂話を聞かされたルシェルは、逃げていいのなら窒息するまで地の果て目掛けて走り去りたい衝動に駆られていた。
 やはり、宮中に入ると同時に剣の稽古などやめるべきだったのかもしれないが、今さら後悔しても後の祭りだ。
「しかし、侍衛官と申されましても、わたくしには何をすればよいのか……」
「名前を変えるだけだ。普段は今までと同じでいい。今までどおり、セフィナの傍についていてくれ。だが、侍衛官としての佩剣(はいけん)は許可する。……もしものときは、頼む、ということだ」
「…………」
 なんとか逃げ道を探りたかったルシェルだが、次々と皇太子に話を進められてしまうと、閉口せざるを得ない空気に呑まれてしまった。
「父には後で私から言っておく。引き受けるかどうかは、それまでゆっくり考えておいてくれ」
「……わかりました」
 文句など挟む余地もなく、ルシェルは事実上承服するような返事を搾り出すだけだった。
 この上に、オルデニウスにもやれと言われたら、口が避けても、嫌だ、とは言えないだろう。
「悪くない話じゃない? ルシェルのお父様にも良い報告ができるでしょ?」
 セフィナまでがこの話に前向きなようだ。
「それは、そうなのですが……」
 父なら絶対に、やれ、というだろう。
 もはや自分に逃れられる選択肢は無さそうだ。
「さて」
 話は一段落したと見た皇太子が再び口を開いた。
「この話は後日改めてすることにして、ルシェル」
「はい」
「セフィナと話がしたいので、下がってもらってもいいか?」
「かしこまりました」
 いつもの淡々とした面持ちで恭しく頭を下げたルシェルだが、心の奥底では動揺が治まらなかった。
 音を立てずに扉を閉め、ぼんやりと廊下の窓から中庭を覗いたものの、いつの間にか薄雲に覆われた空が先ほどまでの陽光を遮っていて、冷たさを感じるようになってきた秋の風に吹かれる草花も心なしか元気が無さそうに見えたことが更にルシェルの心持ちを暗くした。
 城壁を越えた地平線の彼方は沈み行く夕陽によって朱色に染まった雲が拡がっている。
 自分が侍衛官にされそうだなんて、世の中が乱れるとこういうことも起こり得るものなのかと思ってしまう。
 皇都から遠く離れた地方に住む人々が差別や貧しさに耐えかねて叛乱を起こしたことが自分の処遇とどう関係があるのかうまく説明がつかなかったが、現在の帝政に不満を持った人間が皇女を襲い、それを撃退したのがたまたま自分であった、ということは事実である。
 だからこうなってしまったのかもしれないが、ルシェルにはどこか釈然としない気持ちも強くあった。
 また、侍衛官を務めることが、これから先、自分にどのような影響を及ぼしてくるのかも今は想像することができない。
 唯々、漠然とした不安に襲われ、憂鬱に胸を塞がれるだけである。
「これから、どうなっちゃうんだろう……」
 気丈と思われているルシェルが今日初めて口にした十七歳らしい弱気だった。
 考えてどうにかなりそうなものでもなかったが、宮中に入ったとき同様、覚悟を決めてやるしかないのだと思う。
 やがて日が沈み、昼間暖められていた城内の空気もひんやりとしてきた頃、自分が薄着だったことを忘れていたルシェルは、一度だけ身震いした。



BACK / NEXT / TOP

←ネット小説の人気投票です。
投票していただけると励みになります。(月1回)