地の底へ向って螺旋を描く階段を、二人の少女が駆け下りてゆく。 階段を沿うように配置されている灯火のおかげで、塔の内部は数歩先が見通せる程度には薄明るかった。駆け抜けていく二人の鬼気を煽るかのように、連なった燭台の火影が心もとなげに揺れていく。 先ほどまで猛火が放つ熱気に当てられていたせいか、空気が嫌に冷たく感じた。静寂と薄闇が支配する塔内に、二人の足音だけが響いてゆく。警備の兵が巡回することはあるものの、現在の塔は無人になっているはずだった。だがそれとは関係なく、この不気味なまでの静けさはルシェルが暮らしていた頃から続いているものだ。 かつてはこの塔が、彼女にとっての家≠セったのである。 当時一緒に暮らしていた祖父母は、二年前に相次いで他界していた。両親は……、そのずっと前からいない。 母は、自分を産む時に衰弱して息を引き取ったと聞いていたし、父はその翌年に流行り病にかかり、多量の喀血(かっけつ)で苦しんだ末に亡くなった――と聞かされている。 まだ幼かった頃に両親がいないことの説明を求めたルシェルだったが、祖母から返ってきた答えは、すんなりと納得できるものではなかった。だが、ルシェルが自分を生んでくれた父と母の、どちらの顔も知らないことは、認めなければならない事実である。 血の繋がった肉親は、もう誰も生きていない。生きているのは、自分ひとりだけだった。今ここでルシェルが死ねば、三百年に渡って代々受け継がれてきた斎女(いつきめ)の血も、途絶えてしまう。 自分の命が失われることを恐れるよりも、斎女の血脈が絶えることを恐れろ。 祖母には、そのように教えられた。 斎女の血が途絶えることには、自分ひとりの死以上に深刻な意味がある、と。 ……祖母は厳しかった。ここでの生活に、楽しかった思い出など一つもない。外へ出ることも許されず、こんな薄暗い塔に押し込められて、剣を初めとした武術の稽古にひたすら打ち込むだけの日々。外の世界を知らぬまま一生を終えてしまうのかと思い悩み、自棄になって塔から逃げ出したくなったことも、一度や二度ではない。 皇女付きの侍女として宮中に入れるようになった時は、お姫様の侍女なんて自分に務まるんだろうか、と不安になる一方で、ようやく塔の暮らしとお別れすることができた、とひどく安堵した心持ちになったものだが……。 やはり、この身体に流れる血が、忌まわしき定めから逃れることを許してくれない。 ルシェルには、皇女と過ごす穏やかな日常の中で忘れ去ろうと努めても、決して消え去らぬ宿命があった。 剣の斎女。 神剣を手に執り、亡国の危機を救った聖女ルシエラの末裔として、この世に生れ落ちた宿命(さだめ)……。 階段を下りていったこの先に、なにがあるのかは知っていた。 《剣の間》 そこに、帝国を守護する神剣があるのだという。 その剣の名は―― 《ヴェスティール》 今より三百年の昔に繰り広げられた七英戦争において、大陸全土を恐怖に陥れた枉人(まがびと)の王、イシュナードを討ち滅ぼした聖女の剣が、今も剣の間に眠り続けているのだ。 剣の間に施された封印を解除できるのは、斎女の血を引く者だけである。だが、今までに封印を解いて中へ足を踏み入れたことなど一度もなかった。母や祖母、恐らくはそれ以前の代々の斎女たちも、同様のはずだ。 ヴェルトリアに亡国の危機迫るその時まで、みだりに封印を解いて神剣を持ち出してはならない。 それが、戒めだった。 でも、封印を解く必要に迫られる時が、自分の生きている間に来るはずがない。 そう思っていた――いや、思い込もうとしていた。 しかし、時は来てしまったのだ。 自分はこれから、斎女として剣を手に執り、そして―― 戦わなければならない。 そして、一たび神剣を手にしたら、二度と手放すことは許されない。 敵を討ち果たし、祖国に平和と安寧をもたらすか、戦いに敗れ息絶えるその時まで―― それが、斎女の末裔として生を受けた自分に課せられた宿命だった。 本音を言えば、戦いたくなどない。 もっと、外の世界のことを知りたかった。人並みの幸せというものがなんであるのかも、味わってみたかった。 斎女の血脈なんて、どうでもいい。 怖かったのだ。己の死が―― 「あっ!?」 その声を認識した時には、階段を踏み外して前方へ大きく体勢を崩したセフィナを抱きとめていた。 「ごめんなさい……」 ルシェルへ上体を預けたまま詫びた皇女の息遣いは、激しく乱れていた。その表情からは血色が消え失せ、すっかり蒼褪(あおざ)めてしまっている。眩暈を起こしているのか、真っ直ぐ立っているのも辛いように見えた。 自分の責任だ。平素から貧血になりがちな皇女のことを、もっと気遣うべきだったのだ。 数年ぶりに塔へ足を踏み入れてから、余計な感傷に浸りすぎてしまった……。 たとえ斎女としての務めを忘れようとも、皇女の身を護ることだけは忘れるわけにいかない。 皇女には、この薄暗い塔から外の世界へ連れ出してもらった恩がある。 だから、皇女の存在だけは、死命を賭してでも護り抜かなければならないのだ。 その決意は、斎女として戦って死ぬことを恐れる感情と矛盾しているが、ルシェルにとっては矛盾ではなかった。 「申し訳ございません。先を急ぐあまり、セフィナ様のお体のことを――」 自責の念に駆られたルシェルは皇女の身体を抱く力を強くしたが、セフィナはかぶりを振って謝罪の続きを拒んだ。 「いいえ、ルシェルについていけない私が悪いの……。それより、早く《剣の間》に行かなくてはならないんでしょう? いざとなったら、私を置いていっても構わないから――」 「そのような不忠義を、犯すわけには参りません」 今度はルシェルが慌てて皇女の言葉を遮った。 「もうすぐこの階段は終わるはずです。私の肩をお貸しいたしますので、いま少しだけご辛抱くださいませ」 「ありがとう」 ルシェルがセフィナを脇から支えるようにして、二人は再び階段を降り始めた。駆け足に比べて速度はだいぶ落ちたが、やむを得ない。 「お兄様は、ご無事なのかしら……」 ふと、セフィナが呟いた。彼女の父である第十七代皇帝オルデニウスは自ら兵を率いて出陣していたために不在だが、皇太子のクラウスが留守を預かっていたのだ。妹が兄の安否を気遣うのは当然にしても、他の皇族方のことまで思いが至らなかったルシェルは自分を恥じた。今は、己の境涯を嘆いている時ではない。 「クラウス様には特に選り抜かれた近衛騎士たちがお傍についておりますゆえ、必ずや彼らが安全な場所までお連れするはずです」 「そうだといいんだけど……。でも、安全な場所なんて、どこにあるの?」 うつむき加減で答えたセフィナの声音には、あからさまな不安が滲んでいた。 全域が城塞化され、五万を数える兵士たちによって守られていた帝都が、この有様なのだ。黒ずくめの化け物たちに襲われて焔に包まれる前までは、帝都の最奥に位置するヴェルハイム城こそが、この国でもっとも安全な場所だったはずなのである。 「……私にもわかりませんが、既に城外へお逃げなさっているとすれば、近隣の領主たちを頼るほかはありません」 「では、私たちもどこかの領主のお城で待っていれば、お兄様に逢える……?」 「はい、必ず」 そもそも、皇太子が無事に城外へ脱出したという確証はないのだが、ルシェルは断言するように答えていた。セフィナをあまり心配させたくなかったということもあるし、不安の種を数えていけばきりがない。しかし、いくら大丈夫だと言ったところで、なんの気休めにもならないことはわかっていた。 「それなら、早く剣を手に入れて私たちも逃げましょう」 「はい」 即答して見せたものの、それは言葉にするほど簡単ではないと思った。剣の間で神剣を手にすることができたとしても、先ほどの黒装束たちが追ってきているのだ。……恐らく、扉は既に破られているだろう。皇女を護りながらどうにか切り抜けられたところで、城を出てからのことについては自信がない。どこかの領主を頼るにしても、誰がもっとも信頼の置ける人物なのかはわからなかった。帝都から東に向ったところにあるフィエンテの侯爵なら、皇太子の妃であるアンリアナの父親でもあることだし、悪いようにはされないかもしれない。なにより、皇太子自身もそこへ向う可能性が高いと思える。 なんにしても、まずは神剣を手に入れないことには話にならない。初めに持っていた剣は投げ撃つのに使ってしまったから、今は丸腰だった。素手であの黒装束たちを倒せないのは、先ほど一戦したときにわかっていることだ。 「そろそろ地階に着くころかしら……?」 皇女が呟いたとおり、長く続いた螺旋階段が終わりにさしかかろうとしていた。昇降口の先に、広間がある。その奥に、石造りの大きな扉が閉ざされているのが目に入った。思わず身体が震える。いわく言いがたい畏れのような感情が全身を駆け抜けていったのだが、なぜそんなものが湧いてきたのかはわからない。 「この扉の先に、《剣の間》があります」 「ここが、そうなの?」 ところどころひび割れているものの、どこか荘厳な気配に満ちた巨大な扉を見上げたセフィナは、「もうだいじょうぶ」と言ってルシェルに支えられていた身体を離した。 「この扉、どうやったら開くのかしら? とても重そうだけど……」 「祖母の教えによると、この扉は、斎女の存在が鍵として機能するようになっているらしいのです」 「どういうこと?」 「試したことがないので、私にもよくわかりません。祖母からは、ただ扉に手を合わせてみろとしか……。いま、開いてご覧に入れます」 ルシェルは、扉の中心部に左の掌を合わせた。 すると――、そこに浮き彫りにされていた円形の模様が、淡い光を帯び始めた。光は次第に輝度を増し、扉に刻まれた溝をなぞるように拡がってゆく。 いや、これはただの溝ではない。 紋章だ。 天に向けて突き立つ剣に、三叉の矛にも似た一対の翼。 この紋章には、見覚えがあった。斎女の紋章だ。以前、祖母が描いたものを見せてもらったことがある。 斎女の紋章に、光の血が通ってゆく。 剣の間が、目覚めようとしているのだ。 紋章全体に光が満ちると、石扉が左右に開き始めた。巨大な扉と床が擦れ合うことで生まれる重低音が戛然(かつぜん)と鳴り響き、二人の足下に微かな振動が伝わってくる。セフィナが、ルシェルの袖をぎゅっと掴んでいた。怖くて逃げ出したいのを、懸命にこらえているのだろう。 石扉が開ききり、広間には再び静寂が戻った。剣の間は開放されたが、中には灯り一つなく、漆黒の闇で埋め尽くされている。 「では、参りましょう」 「え、ええ……」 近くにあった燭台を外して手に持ち、剣の間へと足を踏み入れた。 中ほどまで進んでみたものの、蝋燭の火が届く範囲には敷き詰められた石床が広がっているだけで、聖女の剣や、それが置かれていそうな台座らしきものはなにも見当たらない。 手にした燭台を頭上へ掲げてみる。 うっすらだが、剣の間全体が見渡せるようになった。 そこには―― なにも、なかった。 そこにあるのは―― ただの、空洞。 「うそ……? なんにもないの……? そんな……」 吃驚(きっきょう)の声を漏らしたセフィナが、石床へ力なく座り込んだ。 「どうすればよいかは、剣の間に行けばわかるって聞いていたのに……」 ルシェルは、胸中に湧き上がってきた困惑を抑えきれずに呟きを漏らした。 「ルシェルのおばあさまは、なんと仰ってらしたの?」 「《常に月を見つめる窓》の前に斎女が立たぬ限り、剣の間が真の姿を現すことはない、と……。ですが、そのような窓はどこにも……」 「常に、月を見つめる窓?」 「はい」 祖母が、そのように教えてくれたのは覚えている。 しかし、そんな窓がどこにあるというのだろう。 こんな地下深くに設けられた一室に、空が見える窓などあるはずがない。まして、常に月を見つめるとは、どういう意味なのだろうか……。 周囲を注意深く見回したところで、なんの手がかりも見つからない。 他に教えられていたことがなかったか思い出そうと努めたものの、そもそも、代々の斎女たちが一度も足を踏み入れなかったという剣の間に関する情報は少ない。 もし、この三百年の間に、忘れ去られてしまった大事な教えがあったとしたら……。 そんな可能性に思い当たると、背筋が凍りつきそうになった。 ルシェルの心が徐々に冷静さを失って焦りに支配されつつあった、その時。 「……!?」 光。 途方にくれている二人を励ますように、微かな光が射し込んできた。 光? どこから? 光がやってくる方向を見上げると―― 雲間に覗く月影。 あった。 頭上に。 雲が、風に流されることによって露になった満月と―― その光り輝く姿を映し出す天窓……。 |