【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十話 妖婆奮戦し、戦士激怒す

BACK / NEXT / TOP




 兄弟というだけあって、大体の顔の造りはオレスと似ているが、その兄から受ける印象はだいぶ異なる。オレスから粗暴な雰囲気を取り除いて、もう少し眼や口元をきりっと引き締めたら、オルグと同じ顔になりそうだ。
「誰の毎日が道化だってんだよ!」
 挨拶代わりの軽い挑発に、オレスは簡単に乗ってしまったようだ。アストはとりあえず、櫓の脇に備え付けられている木刀を取り外した。大将が熱くなって、いつ突撃の号令が下るかわからない状況になると予測したからだ。
「自覚が足りないようだな。少しは尻拭いに追われる俺の苦労も知ってくれ」
「ふざけんな! 俺だって、てめえのケツぐらいてめえで拭けらぁ!」
「そうか。今日は大した威勢のようだが、お前が強気になれるのは仲間の前でだけか?」
「なんだと……!」
 兄からの侮蔑に堪えかねたのか、オレスが前に身を乗り出す恰好になった。アストが木刀を妖婆の面前に差し出す。
「うはっ!?」
 案の定、足場から落ちそうになったオレスが木刀に掴まって難なきを得る。忘れていなければオレスも命綱を巻いているはずだが、戦(いくさ)の前に櫓から落ちて、慌てて這い上がる姿を観衆に曝すのは酷い屈辱だろう。
「す、すまねぇ」
「燃えすぎんなよ、大将」
「ああ……」
 櫓から落ちかけて肝が冷えたのか、オレスは少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。しかし、観衆からは笑い声と囃(はや)し立てるような野次が飛んできて、下火になったオレスの怒りにまたぞろ勢いを付けようとする。
「あははっ! 戦う前に大将が櫓から落ちそうになるなんて、もう勝ち負け以前の問題だよ!」
 まだ祭壇の上に残っていたサーシャが、お腹を抱えて笑い転げている。
「ちくしょう! 笑うんじゃねえ!」
 オレスはやはり無視できないようだったが、そちらに落っこちられると、今度は木刀も届かない。
「誰の毎日が道化なのか、今ので気付いてくれればいいんだがな」
 オルグは笑いもせずに、徹底して冷然とした眼差しを弟に向けている。
「うるせえ! 俺がこんな役回りをやらされてんのは、クソ兄貴! 全部お前のせいだ!」
「それは逆恨みもいいところだろう」
「逆恨みじゃねえ! そういうスカした態度が、俺の調子をいちいち狂わせんだよ! 昔から事あるごとに兄貴を引き合いに出されて比べられて、忌々しいったらありゃしねえ! もうたくさんだ! 兄貴の引き立て役は今日で終わりにしてやる!」
「そうか……。人伝(ひとづ)てに聞いた話だが、今年の祭りは絶対に自分たちが勝つと触れ回っているらしいな。この祭りが開かれるようになってから、半人前の妖婆櫓が一度も勝ったことがないという事実は知っているのか?」
「そんなウザってえ歴史があろうと関係ねえ! クソ兄貴の英雄伝説もろとも、俺がまとめて葬ってやる!」
 オレスが威勢よく啖呵を切ると、観衆が一段と湧いた。この村で、これだけ人びとを面白がらせる兄弟喧嘩というのも、そうそうない。
 兄対弟。
 英雄対悪童。
 だが、オレスとその兄がまともに取っ組み合っているところは、アストですら見たことがなかった。
「でも、妖婆が勝つとこれからの一年は村に災いが起きるんだろ? 僕たち、勝ったらいけないんじゃ……」
 熱を帯びてきた会場の空気とは異なって、一人だけ妙に冷静なユータが、葬ってはいけない祭り成功の前提を口にする。
「まぁ、例年通りなら半人前は適当にやって、適当に負けるだけの儀式だもんな」
 真剣勝負への期待が膨れ上がっている今年の祭りがおかしいことは、アストにもわかっていた。それとも、村一番の問題児をその兄が懲らしめる――という構図を皆が面白がっているだけなのかもしれない。
 だいたい、勝ちたいと言ったところでそう簡単に勝たせてもらえるわけがないのだ。新前たちだって、初めて自分たちが中心となって進めた村の行事を、なんとしてでも成功させたい、という意地がある。
「そうだよね。ねえオレス、僕たちが勝つのは、向こうの立場になる来年でいいんじゃないの?」
「ばっかやろう! あいつを直接叩きのめす機会は今年しかねえんだ! ここまで虚仮(こけ)にされちまったら、もう儀式とか来年の吉凶とかは関係ねえ! これは、男と男の戦いだ!」
 オレスの言うとおり、一つ年上の兄と櫓で戦えるのは今年だけだ。だからこそ、今年の祭りに懸けるオレスの意気込みは相当なものであるはずだが、その相手となるオルグは、弟からの挑戦を快く受け取っているようには見えない。
「でもさぁ」
「でもじゃねえ! だいたい、よく考えてもみろ! 毎年戦士の櫓が勝ってるからって、俺たちになんかいいことあったか? 悪いことばっかりだったじゃねえか! 戦士様が勝つといいことが起きて、妖怪おばばが勝つと悪いことが起きるなんてのは、全部ウソっぱちなんだよ! ただの迷信なんだ!」
「それは……、そうかもしれないけど……」
 オレスの弁には一応の説得力があったので、ユータはうまく反論できないようだった。
「先ほどから口ぶりだけは勇ましい限りだが、お前は、俺への個人的な恨みを晴らすために皆を巻き込んでいいと考えているのか?」
「なんだと!」
「俺に勝ちたいのなら、いつでもその機会はあったはずだ。だが、それをせずに仲間の力を恃(たの)みにして、この場でだけ強がるのは卑怯者の為せる業だ。違うか?」
「ぐっ……!」
 兄からの指摘に、オレスは反論の言葉が出ないようだった。図星だったということなのだろう。
「お前が大将では皆も従いたくないだろう。時間をやるから他の者に替わってもらえ」
「う、うるせえ! 俺が大将の器かどうか、今から勝って証明してやるぜ!」
 オレスが叫んだところで、アストは「ユータ、構えておけ」と低声(こごえ)で合図を送った。
「突撃だぁぁぁぁぁっ!」
 号令一下。巨体が軋り、妖婆の櫓が前進を開始した。
「うわっ!? いきなり危ないだろバカオレス!」
 まだ祭壇の近くにいたサーシャが危うく櫓に轢(ひ)かれかけて尻餅をつく。灯送りの巫女を務めた他の少女たちは、既に焚き火の周りに戻っていた。
「んなところでいつまでもぼさっとしてんのがわりぃんだろうが! さっさとどけやがれ!」
「この悪ガキ! 粗大ゴミ! ボコボコにされちゃえ!」
 サーシャがしっかりと悪態をつきながら避難を始める。そこまでは、アストにも周囲の様子を見る余裕があった。だが、戦士の櫓が眼前に迫ってくれば、最初の搗(か)ち合いに備える必要があったことを思い出す。
「いっけぇぇぇっ! 新前どもをぶっとばせえぇぇぇっ!」
 オレスが叫びを上げた直後、巨大な人形櫓同士が激突した。爆ぜるような衝突音が耳を聾(ろう)し、身体が足下からわずかに浮き上がる。アストは、妖婆の指にしがみついてこの衝撃を耐えるしかなかった。
「わわわっ!? 落ちるーっ!」
「落ちてないんだろ!?」
「なんとか……!」
「ならいい!」
 声のやりとりだけでユータの安否を確認する。彼は落ちないように妖婆の拳の中へすっぽりと身を隠しているらしく、アストの位置からは姿を見ることができなかった。櫓から放り出されてさえいなければ、まずは十分だ。
「よーし、いいぞ! もう一発ぶちかませぇぇぇっ!」
 最初の搗ち合いで二体の櫓は弾かれるように分かれたが、オレスが間髪を容れずに再度の突撃を指示した。
「またやるの!?」
「当たり前だっ!」
 すでに涙声となっているユータをオレスが怒鳴りつけ、二度目の搗ち合いが行われる。
 櫓と櫓。戦士と妖婆。半人前と新前。意地と意地。
 どちらも退(ひ)かない。今度は櫓同士が組み合ったまま、その場で固着した。
「押せ押せぇぇぇっ! 勝てばうめえ酒が呑めんぞっ!」
 オレスが押し手の少年たちを励まそうと声をかける。大将や攻め手たちが木刀で渡り合うには、櫓のぶつかり合いで有利な状況を作っておかなければならないのだ。しかし、戦士櫓の力は強く、妖婆櫓が傾(かし)ぐように後ろへ下がり始めた。
「なんだっ!? こっちが押されてんのか……!?」
 オレスが動揺を声にしていた。
 たとえわずかでも、背中側へ足場が傾くのはアストたちにとって非常に不利だ。
「力負けすんなっ! お前ら、俺の干し肉食ったんだろ!?」
 オレスが叫んだ瞬間、オルグの手にした木刀が閃いた。
「うおっ!?」
 突然、目の前に突き出された木刀の切っ尖に驚いたオレスが、仰け反るように後ろへ転がる。
「櫓の上で喚(わめ)き散らすのだけが、お前の仕事か」
 冷徹な声。木刀を向けられたのは自分ではないのに、アストは背筋が冷やりとした。大将はもとより、攻め手のアストやユータまでもが足場の傾きばかりを気にしていた今、妖婆の面に打ち込まれていたら、まともに反応できなかっただろう。それをわかった上でオレスを狙う余裕が、相手にはあるのだ。
「くそったれ! アスト! 手出しは無用だ! この野郎は俺がぶちのめす!」
 すぐに起き上がったオレスが、遮二無二(しゃにむに)木刀を振り回しながらオルグに打ちかかる。人を直接木刀で打つことは禁止されているのだが、もうそんな決まりごとなど忘れるくらい、怒りで冷静さを失っているのだろう。アストはアストで、戦士櫓の攻め手二人を相手にしなければならないのだから、オレスを援護する余裕などなかった。ユータは……、最初から戦力として当てにしていない。
 左。右。
 同時に打ち込まれていた。木刀を切り上げるように遣い、妖婆の面を狙った攻撃を受け止める。だが、重い。腕力はそこそこにある方だったが、さすがに新前二人分の力を受けきるのは無理だ。
「ユータ! 少しは手伝え!」
「う、うん! で、でも、どう手伝えばいいの?」
「自分で考えるんだよ!」
 ユータが迷っている間に、敵の木刀が一度引いた。
「また来るぞ!」
 アストは叫びながら、敵方の攻め手が二撃目をしかけてくるところを狙い打った。まずは右。返す刀で左。それで、左の攻め手の木刀を落とすことができた。押し手の新前たちが、慌てながら落ちた木刀を左の攻め手のもとへ戻す。
「アストすごい! どうしてそんなことができるんだよ!?」
 ユータが賞賛してくれたところで、あまり嬉しくはなかった。
「知るかよ!」
 剣の稽古などはしたことがない。元は旅の武芸者だったという母親に付き合わされて、たまに竹刀で滅多打ちにされることはあるが、あれは剣の稽古なのか、普段の悪行へのお仕置きなのか、アストにはわからなかった。いつも一方的に打たれているだけなので、剣の手ほどきを受けているとは思えない。ただ、母がよく遣う竹刀の捌き方を真似したら、偶々(たまたま)うまくいった。それだけのことだ。
 でも、母の鋭い太刀捌きに比べれば、いま自分が相手にしている二人の木刀はかなり鈍重なものに思えた。二人同時に相手をするのは厄介だが、個々が動き出す瞬間を狙えれば、打ち勝てる。
「ユータ! お前は面を守るのに専念しろ!」
 下手に手を出されるよりは、その方がいいと思えた。相手二人のうちどちらかの攻撃を受け損なうことがあった時だけ、ユータになんとかさせるしかない。
「わかった! それで、どうすればいいの?」
「とにかく邪魔すればいいんだよ!」
 ユータとのやりとりは、万事がこの調子でまどろっこしい。とりあえず、攻め手同士の攻防に関してはアストが二人分働いて凌ぎきるしかないようだ。問題は、大将同士の方だが――
「お前が相手では話にならんな。俺に居眠りをさせる気か」
「うるせえ! いつまでも俺に勝てると思うなよ! いくら兄貴だからってなぁぁ!」
 オレスが振り回す木刀は尽(ことごと)くいなされて、戦士の面に届きもしない。逆に、体勢を崩したところへ軽く突きを入れる振りをされて、これに驚いたオレスは後ろへ転がっていた。
「うわぁぁぁっ!? 退(ひ)けっ! 退けぇぇぇ!」
 オレスが悲鳴のような指示を出し、妖婆の櫓が後退を始める。だが、ただ後ろに下がるだけでは逃げ切れるものではない。
「このやろう! これでも喰らえってんだ!」
 オレスが櫓の上から幾つかの小袋を投げた。小袋は戦士櫓の押し手たちに命中すると同時に弾け、中から飛び出した粉末が周囲に拡散する。
「なんだこれは!?」
「へ――、ふぇっくし!」
「こ、胡椒だ!」
「な、なんか辛いやつも入ってるぞ!? 目が染みる!」
 小袋の威力はなかなかのもので、あっという間に敵方の押し手たちへ動揺が拡がる。戦士櫓の動きが急激に鈍り、アストたちはこの間に妖婆櫓を後退させることに成功した。
「へへっ! どうだ、くしゃみ袋の味は! アストに用意してもらったのが役に立ったぜ!」
「おい……、おれの名前は出すなって」
「心配すんなって! アストのかあちゃん、今日はいないんだろ?」
「そうだけどさ」
 胡椒などの香辛料を詰めた小袋を作ったのはアストだった。母が不在の時を狙って、胡椒、石灰、山椒や蕃椒(ばんしょう)といった刺激物を擂り潰して粉末状にし、薄い薬包紙に包んだのだが、バレればまた擂り鉢で頭を殴られるだろう。幸いなことに、急用を頼まれた母は薬種(くすだね)を採りにいくために村を離れているので、祭りの会場にはいなかった。
「おにいちゃん! お母さんがいないときに道具を勝手に使っちゃダメって、言われてたでしょう!」
 観衆のどこかから妹の声が飛んできた。どこにいるかは探さない。探したくない。
「あんたたち! そんなものを用意してるなんて卑怯だろう! 恥を知りな!」
 サーシャを始めとして、観衆から一斉にアストたちを非難する声が上がった。
「わははっ! みんなの野次が心地いいくらいだぜ! ――花火の援護がないぞ! 打ち方はどうした!」
 オレスに急かされる恰好で、櫓の遥か後方から花火が打ち上げられた。幾筋もの火線が闇を切り裂くように伸び、戦士櫓へと殺到する。
 この花火は、櫓の乗り手や押し手に選ばれなかった残りの半人前たちが打ち上げるもので、戦士櫓の陣営にも同様の花火は用意されていた。
 すぐに打ち合いが始まり、両軍の花火が火矢のごとく入り乱れる。爆発はせずに甲高い音と光が出るだけの花火だが、集中して当てられると櫓の面が傷んでくる程度の威力はあるので馬鹿にできなかった。
「毎年のことだけど……、なんて過激で危険なお祭りなんだ!」
 飛び交う花火に身を竦ませながら、ユータが呻(うめ)いた。表面を湿らせた外套は、この花火から身を守るために着ているものだが、ユータは頭まですっぽりとフードを被って完全防御に徹している。アストは、フードを被るのがなんとなく気に入らなかったので、外したままだ。
「よーし! 俺たちもぶっ放すとするか!」
 オレスがどこからか竹筒を取り出して、アストに放り投げてきた。
「なんだこれ、花火が入ってるぞ?」
「そりゃそうだろ。これから撃つんだからよ。火、受け取れって」
 オレスは火の点いた松明も投げ落としてきた。妖婆の頭にある炬火台から火を貰ったのだろう。
「もちろん、花火は新前どもの方からくすねてきたぜ。少しでも向こうの弾を減らさねえとな!」
「お前、こういうのはほんとによくやるよなぁ……」
 オレスの手癖が悪いのには呆れるばかりだが、アストにくしゃみ袋の製作を頼んだ手前、自分もなにか用意しなければと考えたのかもしれない。
「ユータ! お前も火ぃ点けるくらいはできんだろ! あ!? やべ――」
 オレスがユータにも花火を渡そうとしてなにかしくじったようだが、アストからはよく見えなかった。
「へっくしょん! オレス! わざとやったな!」
「わりいわりい。わざとじゃねえって――ぶぇっくし! かーっ! 目にもきやがるぜ!」
 どうやらくしゃみ袋を落としてしまったらしい。
「毎日が道化ってのは、言えてるかもな」
 アストは手渡された花火に火を点けながら呟いた。花火は戦士櫓の近くを掠めるように飛んでいったが、なかなか当たるものではない。
「兄貴と同じこと言うなよ――へっぶしっ! ちきしょうめ! やっぱりあいつこそが、俺にとっての疫病神なんだ!」
 オレスは、花火が一発ずつ仕込まれた竹筒を六つ束ねて右脇に抱えていた。火は、既に点けられている。
「こいつで根こそぎ厄を祓ってやるぜ! クソあにきぃぃぃっ!」
 発火した花火が六つの光軸を棚引きながら、戦士櫓の頭を目指して飛んでいく。
 オルグの木刀が、動いた。
 ただ一振り。それだけで、オルグの身体へ命中する軌道にあった三つの火線を叩き落していた。残る三つの花火は、戦士櫓の頭上を虚しく通り過ぎてゆく。
「す、すげえ……」
 花火を撃ったオレス自身が、そう呟いたきり絶句していた。 
「それで、終わりか」
 それは、ただ静かな声だった。その内に、微かな怒りの響きが含まれている以外は。
「…………?」
「小細工は尽きたようだな。では、今から全力をもってお前たちを叩き潰す」
 戦士様が、怒っている。アストにはそう思えた。もしかしたらオレスやユータも、同じことを思ったかもしれない。
「ま――、まだあるって! まだあるから待ってくれ! あと三日くらい!」
「待ってやっても構わないが、残念なことに黄泉返しの祭りは今日限りだ。お前も男なら、覚悟を決めろ」
 オルグが木刀を振りかざし、突撃の合図を出した。にわかに喚声が湧き起こり、戦士櫓が猛然と突進を始める。
「やべぇ!? 避(よ)けるぞ! 右か!? やっぱ左か!? うわぁーっ、どっちだよ!?」
 オレスの指揮が混乱したおかげで、妖婆櫓はまんじりとも動けぬまま戦士櫓の突撃をまともに喰らった。最初の搗ち合いとは比べ物にならないほどの衝撃と激震がアストたちを襲う。妖婆櫓の骨組みが悲鳴にも似た軋みを上げ、このままばらばらに砕かれてしまうのではないかと思えた。
「うわーっ!?」
「ぐはーっ!?」
 ユータやオレスの絶叫が聞こえたが、櫓から落ちたときは自力で這い上がってもらうしかない。アストだって、足下から浮き上がりそうになる身体を抑えつけるだけで精一杯だ。
 夜気が引き裂かれる音を認識したのは、その直後のことだった。
「――いい反応だ」
 オルグの黒い瞳が、アストを真っ直ぐ見下ろしていた。手にした木刀が、妖婆の面に向けて振るわれた一撃を食い止めていたようだ。いつそんな反応をしたのか、覚えていない。オルグの木刀が風を切る音を耳にしたときには、既に身体が動いていたような気がする。
「鍛えれば、ものになるかもしれないな」
 そう呟いたオルグの口元には微笑が刻まれていた。その意味が、アストにはわからない。
「気は抜くなよ」
 その言葉と同時に、木刀が払いのけられた。アストの身体が後方に滑る。足場の傾きで踏ん張りが利かないのだ。腰が妖婆の親指に当たったが、そこを支点にして身体はそのまま外へ転落しそうになった。
「っ――、落ちるかよ……!」
 命綱に左腕を絡ませ、身体についた勢いを殺す。再び前に出たアストの眼に、敵方の攻め手が妖婆の面を打ちにいく姿が見えた。木刀を差し出したが、やはり二人同時の攻撃は支えきれない。しかも左腕は命綱に絡ませてあるので、片腕だ。アストの木刀は簡単に払われてしまう。
「ユータはなにをやってんだよ!?」
「ごめん! 突撃されてびっくりした拍子に、木刀が遠くに飛んでっちゃった!」
「そいつは期待通りの働きだな!」
「ごめんよぉ……!」
 ユータにそれ以上皮肉を言ってやる余裕もなかった。彼の足場からは、嗚咽と洟(はな)をすする音が聞こえてくる。
「もういい、泣くなって!」
 とはいえ、片腕で応戦するしかないアストに二人分の攻撃が受けきれるはずはない。次第に妖婆の面が打たれるようになっていた。面には、既に皹(ひび)が入り始めている。
 オルグの攻撃が加わればすぐにでも面が割れるはずだが、彼は不動を保ったまま静観しているだけだ。妖婆櫓の陥落は時間の問題と見て、余裕を装っているのだろうか。
「オレス早く戻ってこい! やられるぞ!」
「いま昇ったとこだよ! もうちょい持ちこたえてくれ!」
 足場の継ぎ目に蹴つまずきながらも、オレスが木刀を手に駆け戻ってきた。
「クソ兄貴め! 調子に乗るのもそこまでだぁぁぁっ!」
 気合とともに木刀を一閃――された。
「なぁぁぁぁ!?」
 へし折られながら烈しく回転した木刀が宙を舞う。
「決まりでは人を直接打つことは禁じられているが、どうする」
「あわわわわ……!? お、お助けぇーっ!」
 兄に一睨みされたオレスは、自分から転がるように再び櫓の外へ落ちていった。
「さて、そろそろ終わりだな」
 オルグの視線がこちらに向けられる。ついに、武器を持って抵抗できるのは、アストひとりだけになってしまった。だが、大将が逃げ出してしまったのだから、これ以上粘っても意味はなさそうだ。
「おれも、もういいかな……。割と頑張った方だと思うけど」
 アストは木刀を手放して降参の意を示した。
 オルグとは小さい頃一緒に遊んでいたことがあるし、今でも見かければ挨拶くらいはするので、言葉を交わすこと自体に気後れはない。オルグが自警団の見習いになった辺りから、オレスが兄を避けるようになって、アストたちもそれに合わせていただけなのだ。
「物分りのいい半人前は面白くないな。無駄な抵抗を続けて派手にやられるのも、お前たちの務めだと思うが」
「やめとくよ。おれ、無駄な努力はこの世で二番目か三番目に嫌いなんだ」
「好んで無駄な努力をするやつはいないさ」
 オルグが微笑した。その時のことだ。



BACK / NEXT / TOP

inserted by FC2 system