【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十四話 戦士、黄泉返る

BACK / NEXT / TOP




 戦士像の眼に、光が燈っていた。
 もともと、神火の火明(ほあか)りが内部の空洞を伝って戦士像の眼を輝かせる仕掛けになっているのだが……、なにかがおかしい。
 アストには、それ≠ェ、視えてしまっていた。
 戦士像の全身から、暗く、得体の知れない不気味な気配が立ち昇っている。
「なんか、おかしくないか?」
「なにがおかしいんだよ?」
 肌が粟立ってゆくのを感じたアストは、荷車の後ろを押していたオレスに声をかけたが、彼はなにも気付いていないようだった。
「ほら、戦士像から、黒い煙みたいなのが出てるだろ」
「煙? 神火のか?」
「そういうんじゃないんだよ」
 アストは首を左右に振った。自分の見間違いかと思ったが、やはり何度見ても戦士像から暗い妖気のようなものが立ち昇っている。オレスには、視えないのだろうか。いや、オレスだけではなく、戦士像の近くにいるオルグや、他の新前たちのうちの誰かが気付いてもよいはずなのに、皆が異常を無視するかのように、戦士様の黄泉返りを祝して歓声を上げている。
 その光景を見ていると、皆が知らず知らずのうちに、とても不吉な儀式を進めているのではないか、という気がしてならなかった。
《黄泉返し》……?
《戦士様》の……?
 アストの脳裏に、点と点を繋ぐなにかが過(よ)ぎりそうになった、その時。
 妖気が、戦士像から溢れ出した。
 突如として荒れ狂った凶悪な気の波濤(はとう)が、魔手さながらに皆の身体を絡め取り始める。そんな状況だというのに、オルグも、サーシャも、誰も、気付いていない。
「みんな! 櫓から離れろ!」
 アストは叫び、荷車を棄てて戦士櫓へ駆け寄っていた。
 戦士像から溢れ出た妖気は既に櫓を覆い尽くし、天に向って上昇しつつある。
 その時アストは、西の空にあるだけだったはずの黒雲が、急速に空全体へ拡がろうとしていることに気付いた。
 いや……、あれは、黒雲じゃない。
「おいアスト! いったいどうしたってんだよ!? ――なんだ、あの空……!?」
 オレスも、上空の様子がおかしいことには気が付いたようだった。
 だが、戦士像に起こった異変が、どうして皆には視えていないんだ?
「あんた、急に慌ててどうしたってのさ? 今さら邪魔したって、あんたたちの負けは覆らないんだよ?」
 サーシャは、首や手足に巻きついている妖気を全く認識していないようだった。
《環》が視えると言った時と、同じだ。
 村内にはお化けが視えるという老婆もいるが、《環》のことは視えないというし、そんなものが空に浮かんでいるという話は聞いたこともないという。
 どうして自分にしか視えない……?
 おれの目は、やっぱりおかしいんだろうか?
「違うんだ! あれを見てくれ!」
 アストは叫んでいた。オレスにも見えるのだから、空の異常は皆にだって見えるはずだ。
 皆は怪訝そうな眼差しをアストに向けていたが、新前のうちの一人が空を見上げて吃驚の声を漏らした。
「なんだ? ただの雲じゃないぞ!?」
 その声につられて上空へ視線を転じた者たちが、一斉にざわめき始める。
「あれは――」
「《界瘴》だ!?」
「ウソだろ!?」
 皆がそのように気付けたのは、界瘴に侵蝕されていく星空が、震えるように波打っている様子がはっきりと見えたからだ。上空に大規模な界瘴が現れたという報せはあっという間に村人たち全員に拡がり、ただのざわめきが驚声や悲鳴に変わりつつあった。
「界瘴が、来るのか……?」 
 オルグの表情には、界瘴が現れたことへの驚きや恐怖より、異変に気付くのが遅れたことに対する自責と痛恨の念が浮かんでいるように見えた。
「みんな、祭りを進めるのに夢中になってて気付かなかったんだ! オルグさん、みんなを避難させるのを手伝ってくれ!」
「わかった」
 オルグが肯いてくれたところで、アストは、これでなんとかなるかもしれないという淡い期待を抱いた。界瘴から逃れることももちろんだが、結果として、戦士櫓の近くにいる者たちも渦巻く妖気の塊から逃れられればよいのだ。
 だが、遅すぎた。
 オルグが仲間たちへ指示を飛ばそうと振り返った直後。
 戦士像が、不気味な怪光を発した。
 同時に、アストたちの足下を烈しい震動が襲う。
「な、なんだ……!?」
 まともに立っていられなくなるほどの強い揺れだ。
 アストは烈しく揺さぶられる視界の中で、戦士櫓から天へと上ってゆく妖気が、上空の界瘴と引かれあうように結合してゆく光景を目にしていた。
 その周囲には、無数の雷光が夜空を引き裂くように奔っている。

 祝え 称えよ 祝え 称えよ

 なぜか、祭りの唄の一節が脳裏に浮かび上がってきた。

 戦士はこの世へ 妖婆はあの世へ

 この唄の意味など、今までに考えたことはなかった。

 天地(あめつち)荒(すさ)ぶる黄泉返しの夜に

 しかし、この唄が示している情景は、あまりにも――

 古の戦士ぞ 降り来たる――

 まさか――

 結合した界瘴と妖気が、天地を繋ぐ漆黒の柱と化したのは、その直後のことだった。
 身体の奥底から途轍(とてつ)もない畏怖が込み上げ、全身が凍てつく。
「逃げろ!」
 アストは叫び、傍にいた誰かの服を掴んで力任せに引っ張っていた。できたのは、それだけだ。
「うわぁぁぁっ!?」
 サーシャと一緒に転がったアストが目にしたのは――
 界瘴を外套のごとくその身に纏った戦士の櫓と、奇怪な真紅の紋様を浮き上がらせた戦士の面。
 その足下から湧き上がった界瘴の黒波が、近くにいた新前たちを次々に呑み込んでゆく。正面に立っていたオルグの姿がその中に消えてゆくのを、アストはただ見ていることしかできなかった。黒波は、すぐ後ろの自分たちにも迫っている。
「な……っ!? なんなんだよいったい!?」
「起きろ! 走れ!」
 次に声を出したときには、サーシャを引き摺るように立たせて走り始めている自分を認識した。言葉より、身体の方が早く動き出している。
 初めに、妖気が身体に纏わり付いていた者たちが界瘴の餌食になったようだ。アストとともに妖気から離れることができたのは、サーシャだけだった。
「あっ、ああっ……!? アスト!?」
 ユータが、腰を抜かして地べたにしゃがみ込んでいるのが見えた。
「なにしてんだ! 走るんだよ!」
 駆けながらユータを引き起こし、サーシャと一緒に前方へ押し出す。チャラムたちがどこに行ったかはわからなかった。それなりにはしこい連中なので、きっとうまく逃げ出しているはずだ。
 アストの眼は、会場の中心に焚かれている神火の方へ向けられていた。
 自分が次になにをしようとしているのかは、自分自身でもわからない。
「マナ!」
 叫ぶのと、妹の姿を見つけたのは、ほぼ同時だ。荒れ狂う界瘴の黒波から逃げ惑う村人たちに突き飛ばされたマナミは、さして抵抗する様子もなく地面に尻餅をついた。
「通してくれ!」
 叫んだアストは、人びとの動きに逆らいながらもその近くまで駆け寄った。マナミは界瘴の柱と化した戦士櫓を茫然と見つめたまま、立ち上がろうともしない。
「しっかりしろ!」
 妹の腕を掴み、引っ張った。マナミが、びく、と身体を強張らせながらこちらを振り向く。その瞳は、ひどく震えていた。
「おにいちゃん……、オルグさんが……!」
「わかってる! とにかく今は走ってくれ!」
 なかなか動こうとしないマナミを怒鳴りつけたとき、眼の前の巨大な神火を、さらに巨大な黒波が押し潰した。
「走るんだ! 走れ!」
 マナミの身体を脇に抱えるように、走り出していた。
 どこからか、泣き声が聞こえる。赤子の泣き声だ。声がやってきた方向が気になるが、マナミを置いていくことはできない。
「兄貴……! このまま戻ってこないなんて、そんなわけないよな……!? 兄貴ぃぃぃっ!」
 オレスは荷車の酒樽にしがみついたまま、何度も兄を呼び続けていた。
「バカ! しっかりしな! 死にたいのかよ!」
 サーシャが叫びながら、オレスの頬を平手で打った。
「サーシャ! 兄貴が……! 兄貴があそこにいたんだよぉ……!」
「そんなのみんなわかってるよ! わかってるけど、逃げなきゃしょうがないじゃないか!」
 サーシャの声は、涙に濡れていた。だが、アスト以外で一番気をしっかり持っているのは彼女のようだ。
「サーシャ! マナミを頼む!」
「ちょっとあんた!? どこ行くんだよ!?」
 サーシャにマナミを押し付けたアストは、黒波を避けるように祭りの会場へ引き返した。やはり、先ほどの泣き声が気になる。
 祭りに集まっていた村人たちは方々に逃げ散っていったらしく、もう周囲に人の気配は無かった。
「あそこか……!?」
 会場の隅に、御包(おくる)みに巻かれたまま置き去りにされている赤ん坊の姿が見えた。
「子を置いたまま逃げる親がいるのかよ!」
 誰の子かは知らないが、アストはやり場のない怒りを吐き出していた。しかし、突沸した感情に任せて怒鳴ったものの、この赤子が本当に親に置き去りにされたのかどうかはわからないことだ。親が界瘴に呑まれてしまい、この赤子だけ助かったという可能性だってあるだろう。
 とにかく赤子を拾い上げ、友人たちのもとへ走る。
 赤子は、泣いていた。泣く元気があるということは、まだ大丈夫なはずだ。
「よしよし、泣くな泣くな! ……いや、泣くのは赤ちゃんの仕事か。じゃ、泣くのはいいから、暴れるのだけは勘弁してくれよな……!」
 赤子をあやすのは、苦手だった。こういうのは、マナミの方が得意なはずだ。アストには、赤子の顔など皆同じに見えるから、男児と女児の区別さえ付けられない。
 走りながら周囲の様子を確かめようとしたが、祭りの会場があった野原は、既に界瘴の湖海と化していた。
「おにいちゃん!」
 妹が呼んでいる。見晴し台へと向う坂道の途中で、友人たちと一緒に待っていた。
「アスト! 早くこっちに来い!」
「アスト急いで!」
「逃げ切れなくてマナを悲しませたら、承知しないよ!」
 オレスたちも、必死の形相でアストを呼び続けている。
 心配無用だ。
 逃げ足なら、この村でアストに敵う者なんていないのを、皆は知っているだろう。
 坂に入れば、界瘴が押し寄せてくる速度も鈍るはずだった。坂に、足がかかる。妹たちは、もう目の前だ。
 よし、逃げ切れる。
 そう確信した、直後。
 左足が、何者かに掴まれた。
「な――っ!?」
 黒い手が見えた。左の足首に、界瘴の波際から伸びてきた黒い手が絡みついている。物凄い力だ。強引に足を引き抜こうとしたが、かえって体勢を悪くしただけに終わった。
「おにいちゃん!?」
「アスト!? ちくしょうっ!」
 妹の悲鳴。友人たちの悲鳴。宙を舞う赤子。暗転する視界。纏わり付く死――
 アストの身体は、界瘴の中に引きずり込まれていた。重くて、冷たい、水の中に沈んでゆくような感触。凍てつく寒さが、全身を覆い包んだ。体温を、奪われる。息が、できない。
 死ぬ。このままでは、死ぬ。界瘴に呑まれた人間がどれだけ生き続けていられるのかわからないが、このままでは確実に、死ぬ。
 意識が、真っ暗になりそうだった。
 身体が流される。流されてゆく。嫌だ。このまま死に向かって流されるのは、嫌だ。手足は、まだ動く。もがいた。夢中でもがき続けた。泳ぎは得意な方だったが、身体に重く纏わりついてくる界瘴の中では手足が思うように動かず、水の中で泳ぐのとはまるで話が違う。ただ、もがく。もがき続けることしか、できない。
 顔が、湖面に出る。
「う――くはっ!?」
 息が、吸えた。マナミたちの姿が見える。あの赤子は、マナミの腕の中だ。よかった。おれもまだ、生きている。
「おにいちゃん!」
「なにしてんだ! 早く逃げろ!」
 それだけを叫んだ直後、また頭まで沈んだ。死ぬ。嫌だ。死にたくない。手足の動きが、重くなってきた。感覚が、ない。浮かぶ。沈む。浮かぶ。沈む。沈む。沈む。沈む……。
 もう浮き上がる力がないと、わかってしまった。
 肺の中の空気は、すっかり使い果たしている。
 泣き声など、無視すればよかった。
 あの赤子を助けようとしたばかりに、おれは死ぬ、死ぬのか、死ぬかもしれない、死ぬ、きっと、死ぬのだろう、死ぬ、死ぬに決まっている、死ぬ、おれは、死ぬのだ――――い、嫌だ、苦しい、怖い、死ぬ、死ぬのは嫌だ、嫌なのに、死ぬ、苦しい、死ぬ、息が、死ぬ、息を、死ぬ、させてくれ、死ぬ、本当に、死ぬ、い、嫌だ、死ぬ、死にたくない、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ――
 本当に、死ぬのか、おれは、死ぬのか、死ぬ、嘘だ、死ぬ、おれは、死ぬ、すべて真っ暗に、死ぬ、真っ暗になって、死ぬ、すべて、死ぬ、わからない、死ぬ、わからないが、死ぬ――嫌だ! やめてくれ! 死ぬなんてやめてくれ! 死にたくない死にたくない死にたくない……! 死ぬのは嫌だ死ぬなんて恐ろしい死ぬなんて嫌なのに――

 死ぬ。

 死ぬしか、ないのか――

 なにかに、引っかかった。
 長くて、大きい、ということしか、わからない。
 必死でしがみついてよじ登ってみると、手先だけは湖面に出た。そこに、掴まることが、できそうだ。
 残った力を振り絞って、身体を這い上がらせた。平たい、台の上だ。
 吐いた。どす黒い汚泥のようななにかを、吐き続けた。
 界瘴を、呑み込んでいたのか。
 幾人もの骸(むくろ)が攪拌(かくはん)されたような、紛うことなき死の匂いと味が鼻口(びこう)を塞ぐ。
 ――おれは、誰かを、呑んでしまったのか……?
 吐いた。身体の中になにも残らなくなるくらいに、吐き続けた。
 身体は、濡れている。水ではないなにかによって、濡れている。
 周りを見渡した。
 界瘴。
 それ以外に、なにも目に入らなかった。
 身体が冷える。すぐ傍に、温かいなにかがあった。
 御神火台だ。神火が、まだ消えずに赤々と燃えている。ここだけが、赤い。
 神火の近くに、身を寄せる。
 その温かさに救われながらも、なにが神火だ、と思う。広場の中央にあった巨大な神火は、界瘴によってあっという間に揉み潰されてしまったのだ。
 目の前を、人の手が流れていこうとしていた。
 身を乗り出し、掴む。反応が、あった。顔が、湖面に浮かんでくる。オルグ、ではない。名前はわからないが、新前のうちの誰かだ。櫓の戦いの後、アストたちに殴りかかってこようとした、誰かの顔だった。まだ、息がある。御神火台まで、引っ張り上げようとした。だが、湖面からなにか≠ェ伸びてきて、アストの腕に絡んだ。
 手だ。黒い手だ。無数の手。たくさんの手。
 人の腕と同じ形をした界瘴が、湖面から続々と――
 伸びて伸びて伸びて来る来る来る来る――
「うわああああっ!?」
 驚いて、振り払う。新前の手を、放してしまった。見ている。こちらを見ている。絶望と怨嗟の入り混じった瞳。束の間アストを見つめ、沈んでいった。
 アストは――
「悪かった……、悪かったよ……!」
 泣いていた。御神火台に這い蹲(つくば)り、頭を抱え込みながら、泣いている。
「おれを許してくれ……! 頼むから……!」
 侘びることしか、できなかった。助けられたかもしれない人の手を、放してしまったのだ。
「頼むから――こっちを見ないでくれぇっ!」
 最後に見た新前の顔が、脳裡に焼きついていた。あの眼は、決して、アストを許しはしないだろう。
 あの黒い手に掴まれた瞬間、再び界瘴に呑まれるという恐怖が全身を駆け抜けた。「死にたくない!」という思惟の絶叫が、アストに手を振り払わせていたのだ。
 たとえ一緒に界瘴へ引きずり込まれたとしても、手を放してはいけなかったのだろうか。
「ああぁぁぁ……」
 震えていた。口を閉じていられず、掠れた声が漏れる。どれくらいの人が、界瘴に呑まれてしまったのだろう。わからなかった。呑まれても助かったのは、自分だけなのだろうか。しかし、本当に助かったかどうかは、まだわからないことだ。今のところ、界瘴が御神火台の高さまで達してくることはなかった。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろうと思う。
 ついさっきまで、皆で年に一度の祭りを楽しんでいただけなのに……。
 妹や友人たちだけは、絶対に無事でいて欲しかった。ここからマナミたちの姿は見えなかったが、もう見晴し台の近くにはいないはずだ。
 御神火台の周囲を見回すと、界瘴の湖面一杯に、真紅の紋様が浮かんでいた。眼を凝らして見ると、意味のわからない文字や記号のようなものが連なって、一つの絵図らしきものを形成していることに気付く。戦士の面に浮かび上がった紋様と、大きさは異なるが同じものだ。その禍々しい容(かたち)は、妖しげな儀式に用いられる魔法円をアストに連想させた。
 界瘴が呑み込んだ人びとの血によって綴られた、魔法円。
 その魔法円が、不気味な光を放ち始めた。
 魔法円が輝き、回転し、それとともに、界瘴の渦巻く勢いが烈しさを増してゆく。
 湖面の水位が、徐々に下がり始めているように見えた。渦を巻きながら、どこかに吸い込まれ始めたようにも見える。 
 これから、なにが始まるというのだろうか……。
 湖面の中央に、黒い塊が見えてきた。櫓の、頭のようだ。一段と闇が濃い界瘴をすっぽりと被った姿は相変わらずで、湖面に現れた魔法円ごと、周囲の界瘴を土台の奥へと吸い込んでいる。
 その奥に鎮座しているであろう戦士像が、人びとの命を喰らっているのだと思えた。
 なんのために……?
 界瘴はあらかた土台の奥へ吸い込まれていたが、最後の一塊が入り口のところで抵抗しているように見えた。人のような形をした界瘴の一部が、入り口に手足を突っ張りながら外へ出ようともがいている。
 人型をした界瘴は、震えながら、手を伸ばしているように見えた――こちらに向って。
「オルグさん、なのか……!?」
 アストは、その人影が彼のものに思えてならなかったが、御神火台を降りて助けにいこうという勇気は湧いてこなかった。
 助けようとして、一緒に引きずり込まれたら、どうする……?
 怖くて動けないのは、心が弱い卑怯者のやることかもしれない。でも、あの人影がオルグだという保証はないし、アストが近づいたところを取り込もうと狙っている、他のなにかであることも考えられた。
 では、どうすればいい?
 考えたところで、あの人影の正体がわかるわけではない。
 ……結局、動かなかった。
 人の形をした界瘴が、やがて力尽きたように土台の奥へと消えてゆく。
 アストは、その場で震え続けているだけだった。
 ――おれは……、卑怯者だ……。
 ――おれは……、卑怯者だ……!
 目じりからはとめどなく涙が溢れてきたが、アストはその場に蹲(うずくま)って自責の念を繰り返すだけだった。
 だが、いくら自分を咎(とが)めるふりをしてみせたところで、人を救えなかったという事実は覆らない。
 赤子を助けに戻ったときは、怖いなどと考えもしなかった。しかし、逃げ切るのに失敗して死にかけたことで、恐怖心が芽生えてしまったのだ。新前を助け損ねたときは、黒い手に掴まれた時点で心が挫け、腕を振り払ってしまった。そして今は、誰かの人影を目にしたところで、もう助けに行こうとする気力すら湧いてこない……。
『はぁっ――はっはっはっはぁ!』
 突然、大笑する男の声が聞こえてきた。アストたちの身に起きた不幸を嘲るような、耳障りな笑声。それは、櫓の中から響いてきたように感じられた。
 櫓の、中……?
 アストが目を瞠(みは)って櫓を注視していると、界瘴に埋まった土台の奥から赤い光が漏れてきて、奇妙な明るみを帯びていることに気付いた。
『お前らのおかげで、黄泉返りに必要な分の命は集まったぜ!』
 やけに陽気な響きをもった声が語りかけてきたのと同時に、土台の奥に生まれた光が烈しさを増した。見る間に櫓を包み込んだ赤光(しゃっこう)が、灼熱の焔と化して燃え上がる。
『じゃあ、とくと目に灼きつけろよ。お前らが待ち望んだ――、戦士様復活の瞬間をよ!』
 声がそのように叫んだ直後、焔の塊となっていた戦士櫓が爆散した。その爆発と同時に天に向って伸び上がった焔が、中空に一つの像を結んでゆく。その獣的な造形は、血に餓えた狼の姿を表象しているように思われた。闇洋(やみわだ)に現れた餓狼が、地に這い蹲ったまま怯えている獲物――アストへ鋭い眼光を向けている。描き出された餓狼は、じきに中央の一点に集束され、消えていった。
「人が、あそこにいるのか……?」
 アストは目を疑った。上空の、餓狼の像が集束された一点に、人影があるのを認めたからだ。そこに現れたのは、若い男だった。空の上から、悠然と男が降りてくる。落ちればまず助かるわけがない高度にいたはずだが、男は何事もなく地に降り立った。
「嘘だろ!?」
 アストは思わず叫んでいた。
「はっはっはぁっ! ようやく娑婆(シャバ)に戻ってこれたぜ! やっぱ、地上(ここ)の空気は好(い)いもんだなぁ!」
 豪気な笑声とともに地に降り立った男は、戦士像と瓜二つの姿をしていた。



BACK / NEXT / TOP

inserted by FC2 system