灯明の中に浮き上がったその姿形は、言い伝えにある戦士様を嫌でも髣髴とさせるものだった。 戦士様の石像が、そっくりそのまま人間になって動き出した、と言った方が正しいのかもしれない。赤銅色の地肌に直接羽織った革製の上着は、鍛え上げられた鋼の肉体を見せびらかすように胸元が開いてあった。両方の袖が千切られて無くなっているのは、極度に発達した腕の筋肉を通すのに邪魔で、取り払ってしまったからだろうか。戦士像にはあったはずの外套が見当たらないが、その理由を考えるほどの余裕はなかった。 背に負った漆黒の剣は、長身の男をもってしても身に余るほど大きい。斧のような肉厚の剣身と、人の胴の半分くらいはありそうな広刃は、まるで巨大な竜の首でも断ち落とすために誂(あつら)えられた一振りのように見える。 無造作に切られた黒髪の陰から、剣呑とした色合いを帯びた眼差しがこちらに向けられている気がした。 「目に灼きつけろよ――つっても、誰もいねえじゃねえかよ……。ま、俺がみんな喰っちまったからなんだが」 男はばつが悪そうに頭を掻いたが、すぐにあっけらかんとした笑みを浮かべて、今度ははっきりとアストに視線を向けた。 「そういや、少年が一人そこに残っていやがったな。――おい少年! 俺様のカッコイイ復活の瞬間をしかと目撃してくれたか?」 「…………」 アストは、何も応えられなかった。驚きのあまり茫然としていたせいもあるし、この男と迂闊に言葉を交わしてもよいものか、判断しかねたせいでもある。 「なんだよ……、びびって声も出ねえのか? まさか、そこでしょんべん漏らしたりなんかしてねえだろうな? 戦士様だぞ? 戦士様。お前らの戦士様が、ようやくこの世に還ってきてやったんだよ」 男の話す言葉が、アストには理解できなかった。理解できないというより、頭が解釈するのを拒んで受け付けない。 「戦士様? 本当に、あの、戦士様なのか?」 「おうよ。俺がその、戦士オルグだ」 返ってきた答えは、徹底して認めがたいものだった。 この男は自らを、あの戦士オルグ≠セと名乗ったのだ。 「ふ――」 「ん?」 「ふざけるな! 本当にお前が村を守ってきた戦士様なら……! どうして、みんなを酷い目に遭わせるようなことするんだよ!」 アストは喉が張り裂けても構わないとばかりに大声で怒鳴ったが、男――戦士オルグは肩を竦(すく)めてため息を一つついただけだ。 「そりゃ悪かったな。けど、しょうがねえだろ? お前らが俺に、『黄泉返ってくれー』『黄泉返ってくれー』って毎年のように頼むもんだから、こうでもしなきゃ黄泉返れなかったんだよ」 「こんなの……! 誰も頼んだ憶えはねえよ――うわっ!?」 腕を振り回しながら叫び返したはずみで、アストは御神火台から落ちそうになった。 「そいつはウソだな。《黄泉返しの祭り》ってのは、そういうことなんだぜ、少年」 「そんな……!」 アストは、自分が信じていた世界が引っ繰り返されたような衝撃を受けていた。 「こんなことのために、おれたちは、ずっと祭りをやらされてたっていうのかよ……」 「三百年も続けてくれて感謝してるぜ。でもまぁ、それなりに楽しかっただろ?」 おどけた調子でそんな言葉を吐く戦士様≠ノ、アストは心の底から怒りを覚えた。 このふざけた男を黄泉の国から呼び戻すために、村の人びとは……、オレスの兄は……、犠牲になったというのか。 こんなことが、許せるわけがない。 「お前が昔の英雄だろうが戦士様だろうが関係ねえ! 早くみんなを返せよ!」 「一度喰ったもんは返せねえよ。あいつらはもう俺自身≠ノなっちまったんだ」 「でたらめを言うな!」 「そう言いてえ気持ちもわかるが、でたらめじゃねえんだよ。喰ったやつらの中に、一人活きのいいのが入ってたみてえでな。案外馴染むのが早そうなんだ」 「…………」 それは、親友の兄だ、と思う。 「命のスープってのは、案外に美味(うめ)えもんだな。おかげで腹一杯になったぜ」 「スープだと……?」 口の中に、仄かな苦味が甦った。 どす黒い汚泥のような舌触りと、死の味と匂い。 界瘴の中に溶けた、人びとの命。 あれを、美味いスープだというのか。 「外道が……、英雄を騙(かた)るんじゃねえよ……」 こんなやつが、村の英雄であり、戦士様であるわけがない。 たとえそうであったとしても、おれは、認めない。 「あぁ? なんだと?」 戦士様の声が、にわかに鋭さを増した。 「たとえ端くれだろうと、男子たるものが、蚊の鳴くような声でぶつぶつ言うのは感心しねえな。言いたいことがあるんなら、もっとはっきり言ってみろや」 「外道が……! 人間のふりして、男を語ってんじゃねえよ!」 「おー、俺様に説教とは大きく出たな、少年」 オルグは両腕を広げて、空々しく驚くような仕種を見せた。 「まぁ、その、なんだ。老婆心ながら言っといてやるが……、長生きしたけりゃ、口の聞き方には気をつけろよ?」 「口の聞き方が、なんだってんだよ!」 「通じなかったみたいだな。じゃあ、特別にわかりやすく言い直してやるよ」 そこで言葉を区切ったオルグが、瞼を閉じて深く息を吸い込んだ。再び瞼が開かれたとき、そこには、血肉に餓えた豺狼(さいろう)のごとき殺意を湛えた二つの黒瞳があった。 「――ガキが調子ぶっこいてんじゃねえっつってんだよ!」 大気を揺るがす怒号。同時に、オルグの指先からなにかが弾き出された。しかし、なにが弾き出されたのか、アストの目で捉えることはできない。直後に、金属の破裂する音が轟いた。アストの、すぐ傍で。 「うっ――わぁぁぁっ!?」 御神火台が、吹き飛んでいた。身体が宙に放り出される。直撃による即死は免れたが、このままでは地面に激突してしまう。空中で身体を反転させながらも、なんとか石柱にしがみついて落下を防いだ。 「うはっ!? な――、なんなんだ今のは!?」 なにも、わからなかった。 オルグが指先を弾く仕種を見せた直後、御神火台が吹き飛んだのだ。 「指弾って、知ってるか? こいつはオモチャみてえなもんだが、鼻クソを丸めて飛ばすのとはわけが違うぞ?」 おどけるような口ぶりで応じたオルグが、再び指を弾いた。 今度は、視える。 小さな光の弾が、アストがしがみついている柱の根元へ吸い込まれていった。そして―― 爆発。 土台を粉砕された柱が、大きく傾き始めた。 「あぁぁぁっ!?」 アストは身を硬くしていたが、このまま倒れゆく柱にしがみついていては助からない。 「くそっ!」 地面に激突する直前、柱から飛び降りた。その勢いのまま、身体が砂地の上を転がり続ける。 「…………」 止まった。身体に多少の痛みはあったが、この程度なら、無事という部類に入るだろう。 仰向けになった身体を起こす。 戦士様が、目の前にいた。 「ほう、いい落ち方だったじゃねえか。うまく落下の衝撃を逃がしやがったか」 「あ、あ……」 絶望した。 御神火台を粉砕したさっきの光弾を、こんな至近で撃たれてしまったら、自分の身体など粉微塵になってしまうだろう。 「どうした? みんなの仇が目の前にいるんだぞ。ここで一発ぐらいぶん殴れないようじゃ、男が廃(すた)るぜ? ほれ」 オルグは、殴ってみろといわんばかりに顔を前に突き出してきた。 「な――」 なんなんだ、こいつは!? 「う、うわぁぁぁっ!?」 アストは逃げ出した。 光の弾と追いかけっこをすれば確実に負けるだろうが、それでも、この男から離れなければ確実な死が待っている。 オルグが追ってくる気配はなかった。光の弾も、まだ撃たれていない。もっとも、撃たれたときは、自分が死んでいるときだと思うが―― 「おいおい、いきなり逃げるこたねえだろ」 声。ほぼ同時に、節くれ立った手で首根っこを掴まれた。 いつ追いつかれたのか、わからない。追ってくる足音など、聞こえなかった。 このままアストを縊(くび)り殺すことなど、この男には造作もないだろうと思えるほどの強い力が、首を締め付けている。 「あーわかった。さっきのでドタマをドカンと吹っ飛ばしたりはしねえから、安心しろって。だからよ……、もうちっとばかし遊んでけよ、――な?」 言いざま、後ろへ放り投げられた。 「うあぁっ!?」 綿毛のように軽く扱われたアストの身体は、しばらく宙を舞ってから地面に落下し、硬い感触に背中を撃ちつけられたところで停止した。御神火台の残骸が転がっているあたりまで、戻されてしまったようだ。 「うっ、くっ……、うっ……!」 息ができない。烈しい痛みで、身体が強張っている。 「わりぃわりぃ。俺様は強すぎるからよぉ、加減ってもんがわかんねえんだ。でも、骨はイッてねえんだろ? ま、男ならそれくらいは根性で我慢してくれや」 オルグは鼻柱を軽く手で押さえながら、ゆっくりとこちらに近づいていた。 「それより、さっきからなんかヒリヒリすると思ったんだが……、そういや、俺様の凛々しい御顔に傷を付けてくれたのは、お前だったな?」 オルグが押さえていた手をどけると、そこに真新しい傷があるのが見えた。 「なんのことだよ……!?」 呼吸は元に戻りつつあったが、言葉を口にしようとすると、呻き声が混じりそうになる。 「しらばっくれんなよ。お前、祭りで調子に乗って、俺様の面に傷を付けてくれただろう」 「あれは……、だって、そんなの、知らなかったから……!」 「まぁ、知るわきゃねえよな。……だが、知らなかったじゃ済まされねえことが世の中にはあんだよ、小僧」 吐き捨てるように呟いたオルグの形相が、怒りの色に染まってゆく。 殺される。 確実に、殺される。 普段、オレスと連れ歩いているおかげで喧嘩に巻き込まれるのには慣れていたが、この男の相手をするのは、それとは全く次元の違う話だ。 「く、くるなよ!」 アストは手当たり次第に、小石や、御神火台であったものの瓦礫や残骸を投げてオルグにぶつけた。 一秒でも早くここから逃げ出したかったが、逃げたところでまたすぐに追いつかれてしまうだろう。 逃げても、無駄なのだ。 そう考えると気力と足が萎えてしまい、もう速く走ることはできそうになかった。 「おいおい、そんなんじゃいくら当てられたって効かねえぞ。……まぁ、ちっとだけ痛えが」 アストの投石を浴びたところで、オルグの表情は余裕を保ったままだ。 「石投げ合戦ってのは、俺もガキの頃よくやったぜ。もう三百年も昔の話だけどな」 アストの投石は続いているのに、この男には往時を懐かしむ余裕があるようだった。 「でもよ、男なら――」 オルグは、アストの傍にあった瓦礫に手をかけた。上下左右に一尋(ひとひろ)以上はありそうな、巨大な瓦礫だ。それをこの男は、軽々と頭上まで持ち上げてしまった。 「こんくらいので闘(や)り合わなきゃ、面白くねえよな?」 屈強たる両腕によって頭上に掲げられた巨大な瓦礫の影が、アストの全身を覆う。その表面から剥がれた砂状の破片が、アストの頭にぱらぱらと降りかかった。 ……もう、だめだ。 もうじき自分は、この瓦礫に押し潰されて、圧死するのだろう。 あと何秒後かには、アストという名を与えられていた少年はこの世に存在しなくなる。頭も、胴も、手足も。どれ一つとして満足に原型を留めぬ血肉の溜りが一つ、瓦礫の下に在るだけだ。 「あ、あぁ……」 自分の死に際が想像できてしまった途端に身体中の力が抜け、両手を地に突いた。目の前が涙で滲みかけた――、その時のことだ。 手を突いていた地面から、眩い光が溢れ出した。 「なんだ……?」 アストは、目じりに溜まりかけていた涙を拭って目を凝らした。地表から淡い光で綴られた文字のような紋様が浮かび上がり、彼の周囲を取り巻き始めている。その意味はわからない。わからないが、戦士の面や界瘴の湖に浮かんだ紋様とは、全く別のものだと感じられた。 「おい小僧!? なにをしやがった!」 この光景はオルグにとっても意想外だったのか、瓦礫を頭上に掲げたまま動きを止めていた。もちろん、問われたところでアストには答えるべき言葉などない。 彼の周囲を取り巻いた光の紋様は、徐々に天に向って昇るように連なって、紋様の柱と化していた。 「おい! ガキの悪戯にしては、手が込み入りすぎだろう!」 オルグが瓦礫を後ろへ放り投げ、アストに向って手を伸ばしてきた。だが、その手が紋様の柱に触れたところで、不思議な力によって弾かれる。 「聖域化だと? 俺を中に入れねえつもりだな!」 オルグが忌々しげに呟いた。アストには、なにが起きているのかまるで想像が付かない。 地面が揺れている。いや、揺れているのはアストの足下だけで、地中からなにかが隆起しつつあるようだった。 大地を割り、姿を現したのは―― 「あぁっ!?」 白壁(はくへき)の古塔。 地中より現れた真白き巨塔が、界瘴に覆われた闇空の下に聳(そそ)り立とうとしていた。 アストを頂上部に乗せたまま、古塔は天に向って真っ直ぐ伸び上がってゆく。眼下に見える戦士オルグの姿が、あっという間に小さくなっていった。 「あの小僧が、遺跡を起動させちまったっていうのかよ!?」 オルグが叫んでいたが、アストには彼の言葉に注意深く耳を傾けている余裕がなかった。 なにが起こっているのか、全く理解が追いつかない。 この塔はなんだ? あの紋様の柱はなんだ? いったい、どこに向って上昇し続けているんだ……? 界瘴に覆われて闇一色となった天空を睨み続けていると、このままそこに吸いこまれてしまうのではないかという気分に襲われて、怖くなった。この塔が、本当に空へ届くまで伸びてしまったら、また界瘴に呑みこまれて今度こそお終いだ。そうなる前に、塔の内部へ入れるところを探した方がいいのかもしれない。 そう思って視線を水平に戻すと、紋様の柱が、アストだけではなく塔を包む込むほど巨大なものになっていることに気付いた。 上空にばかり気を取られていたが、紋様は今もアストのすぐ傍から紡ぎ出され続けているのだ。彼の足下には大きな円形の天窓らしきものがあり、その表面に浮かび上がった紋様が、天窓から遊離するように次々と宙へ放散されているのだった。 アストが先ほど手を着いたのは、ちょうど天窓の中心あたりだっただろうか。もしかしたら自分は、触ってはいけないものに触ってしまったのかもしれない。 崩れた御神火台の真下にこんな塔が隠されていたなんて、今の今まで考えもしなかったことだ。 「?」 ふと、頭上が気になって、再び空を見上げた。 空から目を離してはならない。 目を離したら、とても大事なものを見逃してしまう。 理由は自分でもわからないが、なぜかそんな気がしてならなかった。 その、とても大事なもの≠ェ現れる瞬間をここで待ち続けることが、この塔を呼び出した自分の役割であるように感じるのだ。 界瘴に覆われているせいで、星空や例の《環》はもう見えなかったが、そこに近づいているという、確かな感覚があった。 なぜこんなときに、自分が《環》のことを強く意識しているのかはわからない。だが、この塔と、紋様の柱が伸びていったその先が、あの《環》に繋がっているという感覚は、疑いようのないものとしてアストに認識されていた。 《環》が、アストに呼びかけている。いや、《環》の中に存在する何者かが、アストを呼んでいるような気がした。 でも、誰が? そんな疑問を脳裡に転がしたとき、アストは、光を見た。 「なんだ、あの光?」 小さな光。 か弱く、今にも消え入りそうなほど繊細な光だというのに……、清らかで、温かな、優しい光。 「こっちにくるのか?」 頭上に拡がる界瘴の奥。そのさらに上空の《環》の中から光が幾度も瞬き、確かにアストを呼んでいる。 その光に、どう応えればよいのかわからなかった。 『手を――して――』 突然、頭の中に声が響いてきた。 「おれに、話しかけているのか……?」 『――を、受けとめて――』 驚いて立ち上がったアストに、声はなおも語りかけてくる。途切れ途切れでなにを言っているのかは聞き取れないが、澄んだ、優しい声音だ。 「受けとめる? なにを?」 アストは、声に言われるまま手を前方に差し出して備えた。でも自分は、いったいなにに備えようとしているのだろうか……。 そのまま様子を見守っていると、光が、界瘴の空を突き破り、紋様の柱の中を通って一直線に降下してきた。舞い降りてきた光が、アストの頭上に静止する。そしてすぐに、光が人のような姿を取り始めた。両腕を広げた女性らしき柔らかな輪郭を描いた光が、次第にその輝きを収めてゆく。その中から、白衣(びゃくえ)に身を包んだ少女の姿が現れた。金色の美しい髪と、雪のように白い肌がアストの瞳に灼きつく。 「あぁ……!?」 その少女(ひと)はあまりにも清らかで、見目麗しく―― 可憐だった。 光の中から姿を現した少女の美しさに思わず見惚れていると、中空での静止を解かれた彼女の身体が、アストの頭上に覆い被さってきた。 「うわ――っ!?」 少女の身体の柔らかな感触をしっかり受けとめながら、アストは後ろへ倒れそうになった。 「わわっ!?」 少女の身体が視界を完全に塞いでいるので、目の前が真っ暗でよく見えない。体勢を崩しそうになるのを堪えながらそのまま数歩下がったものの、左足が空を掻いたところで身体が沈んだ。これ以上下がったら、塔頂から落ちてしまう。 「こっ――、ここから落ちるのだけは勘弁してくれっ!」 アストは無理やり身体を反転させて、今までとは逆方向に倒れた。 「いてっ!」 石床に背を強(したた)かに打ち付けたが、塔のてっぺんから転落するのに比べれば大したことはない。そんなことより、顔がたっぷりとした柔らかい感触で塞がれていて、前がよく見えないのが問題だった。それに、少々息苦しい。無理やり呼吸してみると、花の香りを思わせる甘い匂いをいっぱいに吸い込んでしまい、頭が惚(ぼ)けそうになった。 「あ……?」 アストは、少女のふくよかな胸の間に顔を埋めていたのだと気付いて、慌てて彼女の身体を引き剥がした。柔らかくて温かい感触と甘い香りが離れてゆくのが、心寂しい気がする。 「ご、ごめんなさい……!」 石床の上に彼女の身体を横たえた後、すぐに謝罪の言葉を口にしたのだが、少女は瞳を閉じたまま眠っているように見えた。 |