【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十七話 妖婆再び

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 ルシェルは、アスト――確か、そういう名を少年が口走ったのを記憶していた――の姿が西の方角へ駆け去っていったことを目の端に捉えて、ひとまずは安心していた。
 それにしても――
 どこかで逢ったことがあるような顔の少年だった。
 しかし、どこで逢ったのかははっきりと思い出せない。
 自分には、グラード人の知り合いがいるわけでもないというのに……。
 胸の中に、既知感とでもいうべき奇妙な感情のしこりが蟠(わだかま)っている。
 でも今は、この感覚の正体について思いを廻らせている場合ではない――
「あの小僧を逃がすために、俺の相手をして時間稼ぎをするってわけか。嬢ちゃんは優しいなぁ」
 軽い嘲りの声だけを残して、オルグという名の魔戦士が距離を取った。
 かつて、ルシエラが戦った《七英》の一人に、そんな名前の男がいたはずだ。
 三女神の加護を受けた聖女を敗北寸前まで追い詰めた強敵だったはずだが、彼がどのような力を駆使してルシエラと戦ったのかは、よく思い出せない。
 ルシエラの物語は祖母から何度も繰り返し聞かされていたのに、伝説の戦士と本当に戦う羽目になるなら、一語一句たりとも漏らすことなく記憶しておくべきだったと痛感する。
「けどよ、それは無駄な優しさってもんだぜ」
 オルグの全身に、闇色の妖気が纏わりつき始めた。いや、妖気ではない。界瘴だ。
 界瘴を巻きつけた漆黒の大剣が、倒壊した櫓の残骸らしきものへ向けられる――と同時に界瘴が剣先から放出され、櫓の残骸を取り巻いた。
「――っ!?」
 そして、立ち上がった。
 姿を現したのは、千々(ちぢ)に引き裂かれたその身を界瘴によって接合された、白髪の妖婆。造りは粗末なものだったが、その奇怪な相貌からはどこか怨念じみた狂気の気配が発散されていた。
「ガキどもが作ったんでひでえ出来だが、こいつが《イゼレバ》ってやつだ」
「《イゼレバ》?」
「さっき小僧がちょろっと言ってたろ。ここいらでは、嬢ちゃんのご先祖様は、汚い身なりをした妖怪おばばとして伝えられてんだよ」
「ルシエラが……? どうして、こんな姿に?」
「そんだけ憎まれてんだよ。怨めしいのさ。この俺をぶっ殺して、この地をヴェルトリア人に支配させるきっかけをこしらえた張本人だからな」
「そんな……」
 ヴェルトリアにとっては救国の聖女、または興国の乙女であっても、逆の立場になればただの征服者でしかない。そのことはわかっていたつもりだが、征服された地に住む人びとの怨みつらみを、このような形にして見せられれば閉口するしかなかった。
 そういえば、ヴェルハイム城を襲った銀髪の魔女も、ルシエラに対する烈しい憎悪と怨讐(おんしゅう)を剥き出しにしていたと思う。
「しっかし、ここまでひでえ形(なり)にするこたねえよな。全部レニヤのやつが段取りしたんだろうが、女の――、いや、魔女の怨みってのは、恐ろしいもんだぜ」
 魔女という言葉を耳にしたルシェルの脳裡に、城を襲った銀髪の女の姿が想い起こされた。
「あなたは、あの銀髪の魔女と仲間同士なの?」
「仲間っていやぁ、そういうことになるが、嬢ちゃん、あいつともう遭ったのか? よく無事でいられたもんだな」
「あなたたちは、どうして――」
「おっと、無駄なお喋りはここまでだ。小僧の後始末はでっけぇ婆さんに任せるとして、俺たちはさっきの続きといこうか」
 露骨に会話を打ち切ったオルグが、戦闘の再開を促す。だが、宵闇のような長衣を纏った銀髪の魔女の名前が、レニヤ、であることと、この魔戦士と彼女が、なんらかの目的を共有した仲間同士であるらしいことはわかった。
 レニヤは枉人(まがびと)の魔道王イシュナードの娘で、七英の一人としては数えられていないが、父親譲りの強大な魔力を駆使してルシエラを散々に苦しめた魔女の名前であったはずだ。
 祖母の昔話の中にも、「白銀に輝く髪を靡かせた、黒衣の魔女」がよく出てきたことを憶えている。しかしそれが、剣の間で自分と皇女を襲った女の正体だったとまでは、思い至らなかった。
「待って! 怨みがあるのはルシエラや、その剣を受け継いだ私に対してでしょう? 本来ならあなたが守護するべき村の人びとに対して、どうして危害を加えようとするの!?」
「俺は、生き残った村人たちまでわざわざ殺そうとなんて思っちゃいないぜ。言ってみりゃ、この地に住んでるやつは皆、俺の子供たちみたいなもんだからな。ただ――、あのガキは俺の顔に傷を付けやがった。それだけは、許せねえ」
 確かにオルグの顔には、鼻柱の真ん中と頬のあたりに小さな傷が一つずつあった。頬の傷は新しかったので、それが、あの少年がつけたものに違いない。
 それでも、化け物を差し向けるほど怒ることかと思う。
「この地で英雄として祀られていたほどの戦士が、なんて狭量なことを……!」
「んなこたぁ関係ねえ。オイタをした子供には、それ相応のお仕置きをするもんだろ?」
 オルグが指を打ち鳴らすと、妖婆の櫓が前進を開始した。界瘴によって形成された足を引き摺るように、一歩、一歩。妖婆が足を踏み出すごとに大地が震えた。初めは緩慢に見えたその歩みが、次第に間隔を早めて駆け足のような速度に変わっていく。この巨体が全力で駆け始めれば、先に逃げていった少年はそのうち追いつかれてしまうかもしれない。
「待ちなさい!」
「おいふざけんな! 目の前にいるこの俺を無視して、他の男を追いかけようってのか!」
 ルシェルは妖婆の前進を阻みたかったが、いきり立った魔戦士が跳躍して切りかかってくればそんな余裕などなくなってしまう。
 神剣で漆黒の刃を受け止めながら、あの少年、アストが無事に逃げ切ってくれるのを願うしかないのが、今の彼女にできる精一杯のことだった。

       †

 追われていた。
 周囲に林立する木々よりひと際背の高いそれ≠フ姿を一目見たときから、アストはもう後ろを振り返っていない。
 吐息とも、呻き声ともつかぬものに背中を撫でられながら、こんなにタチの悪い冗談はないだろうと思う。
 アストは今、倒壊してバラバラになったはずの妖婆櫓に、追われているのだ。
 界瘴によって身体を継(つ)ぎ接(は)ぎにされ、自由に動く腕や足まで生やした異相の妖婆が、大地を踏み鳴らし、木々を掻き分けながら、アストを追いかけてくる。
「いてっ!?」
 木の根か、石か。よくはわからないが、なにかに足を取られて転がった。苦呻(くめい)を堪えながら、起き上がる。ほぼ同時に、妖婆の足がアストの目の前に下りてきた。地面が揺れ、束の間身体の自由が奪われる。そのとき、目が、合ってしまった。半分に欠けた面に、一つだけ残っている妖婆の眼窩(がんか)。それが、赤く、光っている。ひび割れて裂けた口元が、嗤っているように見えた。
 いったいどうして、戦士様に続いて妖怪おばばまで復活してしまったのだろうか。
 祭りで無茶をやって櫓を壊してしまったからイゼレバが怒って、化けて出てきたのではないかと思えた。
「ま、待ってくれ! おれたちが無茶苦茶やって、櫓を壊してしまったことなら謝るよ! ごめん!」
 妖婆が言葉を理解してくれるかどうかはわからなかったが、彼女の怒りを少しでも鎮めようと頭を下げてみた。
「…………」
 しばしの沈黙。
「許してくれるのか?」
 振り払われた右腕が、妖婆の答え。アストは反射的に身を伏せて妖婆の一撃を躱した。頭上を掠めていった右腕が、木々を薙ぎ倒していく。
「ごめんって、謝ってるだろ!?」
 これ以上対話を試みても無意味と判断して、再び逃走を始めた。この醜い妖婆が、空から降りてきたあの美しい少女のご先祖様だというのが、未だに信じられない。
 でも、ルシエラという人が、実際にはあの少女のように美しい女性であったとするなら、今、自分を追いかけている妖怪おばばは、いったい何者だというのだろうか。
 本来は存在しない、イゼレバという虚像をでっち上げてまで怨恨の対象としていたことに、妖婆が激怒しているようにも思えた。村人全員から憎まれる役を三百年も押し付けられてきたのだから、それは当然のことかもしれない。本当に妖婆が怒っているのか、身に纏わりついた界瘴に操られているだけなのかはわからないが、アストはとにかく捕まらぬように逃げ続けるしかなかった。
 しかし妖婆の足は、鈍重そうな見かけから想像されるより遥かに速い。アストが全力で駆けても遅れずに後を尾(つ)けてくるので、少しも引き離すことができなかった。しかも、長く駆け続けていればアストは疲れが溜まってくるのに対し、妖婆は疲れない。巨体が邪魔になることを期待して林の中へ逃げ込んだのに、妖婆は鬱蒼と茂る木々をへし折りながらも、アストを追う速度は全く落ちていなかった。
 このままでは、直に追いつかれてしまう。
 もっと妖婆を惑わすように、不規則に動き回った方がいいのかもしれない。
 そう考えている間に何度も木の根や石に足を取られそうになって、林の中に入ったのは失敗だったと悔やんだ。林から出るべきだろうか。だがそれ以前に、自分がどの辺りを走っているのかもわからなくなっていることに気付いた。右手の方角へ向っていけば女山にぶつかるような気はするが、闇に閉ざされた林の中をめくら滅法に駆け続けたせいで、方向感覚は完全に失われている。
 アストは今、目の前にある《道》をひたすら突き進んでいるだけだった。
 深い闇の中で、そこに人が通れる道がある、とはっきり見えるわけではない。ただ、感じるのだ。木々の間を抜けてゆく空間的な連なりをなぞるように足を運ぶと、不思議と何にもぶつからずに進むことができた。
 なぜ自分がそんな感覚を得られるのかはわからないし、《道》がどこへ通じているのかもわからない。
 それでも今は、この感覚を頼りに逃走を続けるしかないのだ。
 しばらく進んだところで、《道》が上り坂に差しかかった。だが、アストの足運びに迷いはない。今は、《道》を信じて走るだけだと心に決めているのだ。息を切らせながらも、なんとか、坂を登りきった。
 どこかの、丘の上だ。
 なぜか、とても慣れ親しんだ場所に出てきたような気がする。
 隠れ場の丘、だろうか。
 アストの目に、八重桜の樹影が飛び込んできた。
 間違いない。
 隠れ場の、丘だ。
 アストは八重桜の幹へしがみつくと、そのまま膝を折るように頽(くずお)れた。
 もう、走れない。
 ずっと続いていた《道》の感覚も、この八重桜にぶつかったところで途切れている。
 どうやら、ここで、終わりらしい。
 幹に背を預けるように身体の向きを変えると、力尽きた獲物を見下ろす妖婆の姿があった。
 本当に、ここで、終わりのようだ。
 もう、怖いとは思わなかった。
 ゆっくりと目を閉じる。
 ここで死んだら、オレスの兄や、助け損ねた新前の人は、許してくれるだろうか。少し遅れたけれど、結局同じところに逝くのだから、そんなに怒らなくたって、いいはずなのだ。
 ふと、妹や、友人たちの顔が脳裡に浮かんできた。
 マナミのことは、きっと、オレスやサーシャたちが守ってくれるだろう。
 おふくろには、なんて謝ればいいんだろうか……。
 親より先に逝くなんて、順番を守れなくて、ごめん……。
 最後に、あの美しい少女の顔が想い起こされた。
 あの子は、無事なんだろうか……。
 助けてもらったのに、お礼もなにも言わずに、ただ逃げ出してきただけなんて……。
 おれは、なんて最低な奴なんだ……。
 このまま、本当に、死――
 目を、開いた。
 妖婆の黒い手が、顔のすぐ前にある。八重桜ごと、アストの身体を握りつぶそうとしているのだろう。
 ――い、嫌だ……!
 ――やっぱり、死にたくない……!
 ――死ねるかよ……! こんなところで化け物に殺されて、死ねるものかよ……!

 死――に――た――く――な――い――!

 心が絶叫を放った直後、アストの身体は妖婆の手中へと消えていった。

 真っ暗になった。
 すべてが、真っ暗だ。
 もはや、自分が生きているのか、死んでいるのかもわからない。
 きっと、死んだのだろうと思う。
 とすると、ここはあの世か。
 これだけ暗いのだから、間違っても天国ではないだろう。では、地獄か。
 まだ十六年しか生きていないのに、どうして地獄に堕ちなければならないんだ。
 しかし、それは関係ないとも思う。
 赤子の内に、あるいは生まれてくる前に消えていく命だってある。
 では、もう十六年も生きたと考えなければ、駄目なのか。
 どうせ生きていても冴えない人生だったろうし、心残りなことも、特には――
 死ぬと、どうなるんだろう。
 このまま、消えてしまうんだろうか。
 幼い頃にも、死を考えて怖くなったことがある。自分の意識が――存在が消えてしまうのが、堪えられない。眠るのと同じようなものだと考えて、ごまかそうともしてみた。でも違う。毎晩安心して眠れるのは、必ず次の目醒めがあると信じられるからだ。もう二度と覚醒することがないとわかっていたら、眠るのだって、怖いはずだった。死ねば夢を見ることだって、できないだろう。
 死とは、なんなのだろうか。自分が消えてしまうのが、怖い。生きていることを証できなくなるのが、怖い。無になるのが、怖い。死ぬのが、怖い……。
 ――死にたくない!
 やがて堪えられなくなったアストは、無性に暴れ回りたくなる衝動に駆られた。だが、身体はおろか、手足の一つも満足に動かすことができない。その前に、今の自分に手足はあるのだろうか……?
 自分の身体は、どうなっているんだろう。動けなくても、せめて、周りの様子くらいは知りたい。
 …………。
 なにも見えない。なにも聞こえない。

 あるのは、奥深き闇。

 果てしなき暗黒。

 底知れぬ冥暗。

 それ以外には、なにも、なかった。

 一切が、虚無。

 なんだ?
 なんなんだ、これは?
 ……嫌だ。
 こんなの、嫌だ――

 叫びたくても声が一つも出てこない自分に絶望しながら、アストの意識は完全な闇に閉ざされていった。

       †

 目を開けた。
 声が、聞こえたような気がしたのだ。
 彼女は横笛を吹くのをやめて口許から離してみたが、今はもう、なにも聞こえない。
 気のせいかもしれぬ。
 彼女は、声が聞こえてきたと思(おぼ)しき方角へ、ゆっくりと首を廻(めぐ)らせた。
 そこに、なにかが見えるわけではない。
 彼女の目に映るものといえば、ただ一つ。
 果てしなく拡がる、界瘴の海原。
 彼女は、ここに独りで立ち続けていた。
 立ち始めてから、どれくらいの月日が流れたのだろうか。
 よくは憶えていないが、数十年や、数百年ではきかぬであろう。
 千年か、二千年ほどの時が流れているはずだ。
 その間、自らが吹く笛の音と、界瘴が起こすざわめき以外の音を聞いたことなどなかった。
 しかし、先ほど聞こえたものは、やはり声だったように思う。
 それも死霊の類ではなく、生きた人の声だ。
『今の声は――』
 ふと、呟いていた。自分の声を聞いたこと自体、久しぶりだったように思う。
『拙者との縁を持つ者が、まだ現世(うつしよ)におったのでござろうか』
 それが、何者かはわからない。ただ、彼女と縁を持つ者が、ここへ流れ着こうとしているのは、確かなことのようだ。
『果てなき虚ろの流れといえど、辿り着く旅人はいるものでござるなぁ……』
 感慨げに呟くと、再び目を閉じて笛を唇に当てた。
 笛を吹くのが好きなわけではない。
 あまりにもやることがないので、いつからか暇つぶしがてらに吹くようになっていただけなのだ。
 でも、いつもよりは、好い音が出ていると思う。
 いつもは、哀しい音しか出ないのだ。
 なぜ哀しいのかは、自分でもはっきりとしなかった。
 無明(むみょう)の汀(みぎわ)に立ち続けること幾星霜(いくせいそう)。
 このような陰気臭いところに閉じこもっていれば、心の底まで湿気てしまうのも無理からぬことかもしれない。
 だが今は、笛が明るく弾むような音色を奏でている。
 その音色は、彼女と縁を持つ何者かを導こうとするかのように、界瘴の海原へ響き渡っていた。



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