【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第二十二話 還ってきた負け犬

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 走り続けていた。
 目前に拡がるのは、界瘴によってすべてが浚(さら)われてしまった、故郷の大地。
 隠り世から戻ってくるまでに、どれほどの時が流れてしまったのかはわからなかった。
 もう、間に合わないかもしれない。
 違う、間に合わせるのだ。
 走る。走る。走り続ける。
 そして、見えた。
 命の息吹が一つ残らず掻き消された、荒地の奥に。
 いかな暴風が吹き荒れようと、決して折れずに耐え続けてきた、一輪の花。白い芍薬。
 ……いや、まだ名も知らぬ花だ。
 待っていてくれたと思った。
 でもきっと、あの花はアストのことなど待っていなかっただろう。
 それでも、構わない。
 なにをすべきかは、考えなくともわかっていた。
 なんにでも、なってやる。
 あの花が待ち詫びる陽光に。
 乞い願う雨水に。
 希(のぞ)み求める微風(そよかぜ)に。
 あの花を護り抜くためなら、おれは――
「よぉ少年。お早いお帰りだな」
 悪意を湛えた微笑が、アストの前に立ちふさがった。
 戦士オルグ。
 漆黒の大剣を肩に担ぎ、アストを見下ろしていた。正確には、彼が見ているのはアスト自身ではなく、アストが手にしている刀だ。
「おいおい物騒じゃねえか。刃物なんか持ち出してどうしようってんだ。まさかお前、そんなもんでこの俺に勝てるって勘違いしてんじゃねえだろうな?」
 ようやくアストの顔へ向けられた眼が、凄んでいる。口ぶりこそおどけていたが、突き刺してくるような殺意におどけは一切なかった。そしてこの男は、おどけた口ぶりのまま、人を殺せる男なのだ。
 つい先刻、自分はそうして殺されかけたばかりだった。
『アストどの、黙ってないでなにか言い返してやりなされ』
 背後に隠れていたアヤノが、両肩に手をかけてきたのがわかった。
「……なにを言えばいいんだよ」
『おぬしを斬りにきた、とだけ言えばよいのでござる』
 声にならない程度の呟きを口の中で転がしただけなのに、アヤノには伝わってしまうようだ。
「そんなこと言って、あいつが怒ったらどうするんだ?」
『これしきの挑発で心を乱す相手でござれば、恐るるに足らず。あやつが己の未熟さを露見しただけの話でござるよ』
「怒るのは、未熟なのか?」
『左様。怒りは気息を乱し、心中の眼を曇らせる。さすれば剣は相手を見失い、己自身をも見失う。己を見失った剣は、ただ敗(やぶ)るるのみにござる』
「そういうこと言われても、よくわかんないよ! 相手が怒ったら、普通は怖いもんだろ?」
 アヤノが語ったのは剣の心得というやつなのかもしれないが、アストの実感にはぴんとこないものだった。
『アストどのは、あやつが怖いのでござるか?』
「怖いさ、そりゃ……。アヤノさんが力を貸してくれなかったら、勝てる気がしないよ……」
 アヤノの力自体は当てにしている。それでも、いざあの戦士様とやり合うとなると、どうしても恐怖心が先に立ってしまう。
『立ち合いは、既に始まっているのでござるよ。ここで心が折れるのは、それ即ち、刀が折れることと同義にござる』
「じゃあ、おれはもう負けてるっていうのか?」
『左様、アストどのは敗れたり』
「そんなのありかよ……!」
「――おい! さっきから一人でぶつぶつと……、なにを言ってやがるんだ?」
 焦(じ)れたような声を上げたオルグが、怪訝な顔つきでこちらを見ていた。
 ……待てよ、と思う。
 彼は今、一人≠ニ言った。
 ――あいつ、まだアヤノさんに気づいてないのか?
『そのようでござるな』
「うわっ?」
 心の中で考えたことに返事を寄越されたので、アストは驚いて声を上げてしまった。
『気づかぬものをわざわざ教えてやる必要はござるまい。拙者は裏で糸を引くまででござるよ』
「どうして、おれの考えてることが――」
 呟きかけると、しぃ、とその先を封じられた。
『アストどの、もう考えたことを声に出す必要はござらぬぞ』
 ――どういうことだよ?
『初めに申しておくべきでござったが、殊縁の働きというものがござってな。拙者にはアストどのの心の声が聴こえるのでござるよ』
 ――そういうのあるんなら、もっと早く言ってくれよ!
『むう、これは確かに拙者の手落ちでござった。申し訳ござらぬ』
 ――別に謝らなくてもいいけどさ。
 とにかく、意思伝達の手段がこれで済むのならありがたいことだ。
 それに、オルグがアヤノの存在を認識していないというのは、付け入る隙になると思えた。
「このガキ、なんか連れてきやがったのか? 妙な気配はしやがるんだが――」
 オルグがさらに言葉を続けようとした、その時。
「どうして――」
 彼の背後から声が上がった。
「どうして、戻ってきてしまったの?」
 剣を支えにしながら、異国の少女が立ち上がろうとしている姿が見えた。オルグにだいぶ痛めつけられたようだが、大きな傷は負っていないようだ。彼女の周囲には風の刃が渦巻いており、それが防壁のような役割を果たしているのだと知れた。
 その痛ましい様子を見ただけで、身体中の血液が突沸しかける。
「助けに来たんだよ!」
「助けに……? 私を?」
 驚いたようにこちらを見つめる少女と、目が合った。空色の瞳が揺れている。
「ああ! そいつをどうにかして、君を助ける!」
 ……そうだ。
 自分は、彼女を助けに来たのだ。いつまでも戦士様に怯えていては、彼女のもとに辿り着くことすら叶わない。
『相手が娘子となれば、途端に元気になるのでござるな、アストどのは』
 ――うるさいなぁ!
『ふふふ。拙者に怒るだけの気力がござるのなら、あやつにもぶつけてみなされ』
 恐ろしい敵を間近にしているはずなのに、アヤノには人をからかう余裕があるようだ。
「ふっ――はははははっ! 助けにきただと?」
 オルグが、肩を揺らしながら大笑を放っていた。
「笑わせんなよ。先刻ベソかいて逃げ出したばかりの洟垂(はなた)れ小僧が、よくもまぁ勇ましいことを言えたもんだな。女の前でカッコつけようって気はわからなくもねえが、嬢ちゃんは今、俺と遊んでる最中なんだ。そいつを奪(と)り合うってのがどういうことか、わかってんだろうな?」
「わ、わかってるに決まってんだろ!」
「いや、わかってねえな」
「?」
「俺とお前の序列は、もう決まっちまったんだ。それがどういう意味を持つのか、男ならちっとくらいは理解できねえとまずいんじゃねえのかな」
 オルグが言わんとしていることがはっきりと理解できたわけではないが、わかる――ような気がした。
「自分より強ぇ拳骨を持ったやつによ、ガツーン、と一発やられた。これが今まで喰らったどの拳骨よりも痛ぇんだな。ベソかきながらなんとか仕返ししようとしたけどよ、こっちが何発殴ろうが、ちっとも効きやがらねぇ。……んで、そのうち気付くわけだ。俺はこいつには勝てねえ。こんなに痛ぇのに、いくら頑張っても無意味だ――ってな」
 その言葉で、思い出した。手当たり次第に石を投げつけた、無意味な抵抗。
 それどころか、途轍もなく大きな瓦礫を頭上に掲げられて、押し潰されるところだった。
 圧倒的な力の差。格の違い。
 それを目の前にしたときの恐怖が、再び背筋を這い上がってくる。
「で、そっからどうするって話だが……、さっきのお前は、尻尾を巻いて逃げ出すことを選んだわけだ。――違うか?」
 そのとおりだと思えた。
 自分では、わかっている。
 おれは、この男には勝てない。
 序列は、もう決まったのだ。
 犬だって、一度格上と認めた相手にはおいそれと逆らわないだろう。
 だから……おれは、尻尾を巻いた負け犬に成り下がるしか、ないんだ――
「まぁ、ここまで言やぁわかったとは思うが、お前は負け犬だ。負け犬が今さら何の用だ。まさかお前、俺様ともっぺん闘(や)り合う――なんて、吐(ぬ)かすつもりじゃねえだろうな?」
「…………」
 答えられなかった。
『アストどの。先ほどから言われっぱなしで悔しくはござらぬのか?』
 ――だって、やっぱりあいつには勝てないよ。
『ならば、アストどのは、このまま負け犬になっても構わぬのでござるな』
 ――ああ、そうだよ、負け犬だよ。殴られるのが怖いから、殴られる前に負けを認めた方が……。
 思考の中でも、言葉に詰まった。涙が、滲みそうになる。
 ――悔しいよ! どうしたらいいんだよ!
『決まっているでござろう』
 アヤノの手が、背後からそっとアストの拳に重ねられた。戦士様を殴ろうと思って拳骨を作っていたのではない。怖くて、拳の形に握り締めているだけだった。
『自分の拳骨を、もう一度だけ信じてみなされ』
 ――おれの、拳骨?
『左様』
 ――信じたところで、あいつに勝てるわけじゃないだろ?
 普通の人間を相手にした喧嘩なら、気の持ち様が影響することもあるだろうが、いまアストの目の前にいるのは、そんなものでどうにかなる相手ではない。
 所詮は、無意味だと思う。
『いいや、必ず勝つ』
 ――嘘だ!
『嘘と言ってしまえばそれまででござろう。然(さ)れど、拙者は信じてござるよ』
 ――なにを?
『アストどのの拳骨は、あやつの拳骨よりも、強い』
 ――そんなの……。
 嘘だと思う。
 嘘だと思うけど、自分だって、本当は信じたい。
 おれの拳骨だって、戦えるんだ。
 自分の拳骨が強い……とは思えないけど、弱くたって、弱いなりに戦って、なにかを守ることもできるんだって――
 信じたい。
「――おい、返事がねえな。俺は気が短けえんだ。タマがついてんなら、闘(や)る気があんのかねえのかぐらい、はっきり答えやがれ!」
 痺れを切らしたのか、オルグが大声を張った。
「あ、あるに決まってんだろ!」
 どうにか応えることができたが、震えて擦(こす)れ合った歯が、がちがちと鳴っていた。
「ああ? 聞こえねえな。若(わけ)えんだから、もっと腹から声出せよ」
 オルグが動く気配はまだなかったが、大剣の柄が、ぎしりと音を立てていた。腸(はらわた)が煮えくり返っているのだろう。過剰な自信と高すぎる誇りを持った男なら、洟垂れ小僧が刃向かってくるという状況自体が、許しがたいはずだった。
「つまりお前は、この俺になにが言いてえんだ?」
 黒狼の眼が、アストを射抜いていた。心が、竦(すく)む。
「な、なにがって……」
『アストどの!』
「いっ――!?」
 答えを躊躇(ためら)った瞬間、アヤノの指が肩に食い込んだ。その痛さが、萎(しぼ)みかけたアストの心を奮い立たせる。
「お――、お前を! 斬る!」
 喉の奥に突っかかっていた言葉が、ようやく出てきてくれたようだ。
「ほう、こいつは傑作だな」
 オルグの口元が微笑を形作る。だがやはり、眼は笑っていない。
「小僧、俺は軽んじられるのが嫌いなんだ。この俺様を軽く見るということは、俺様の誇りと尊厳が著しく傷つけられるということだ。……わかるな?」
 大剣を担ぐオルグの右腕に、血管が浮き上がる瞬間をアストは見た。
「わかるかよそんなもの!」
「それと、その口の聞き方だ。お前には、『長生きしたけりゃ気をつけろ』と言ったよな? その言いつけを守らねえってのは、どういうことだ?」
 魔戦士の全身からは、徐々に殺意の気配が立ち込めてきている。
 ――あいつ、なにを言ってるんだ?
『わからぬ。あやつの矜持(きょうじ)の問題なのでござろうが、拙者は好かぬな』
 ――じゃあ、どうすればいい?
『捨て置きなされ。いずれ大したことは申してござらぬ。それよりも、あやつの剣気が、内なる爆発を起こす瞬間だけを、見逃さなければよいのでござる』
 ――内なる爆発?
 オルグの様子を見てみたが、それらしい兆候は、どこにも見られなかった。だいたい、それが言葉通りに身体の内側で起こることなら、外からいくら見たところで、わからないのではないかと思う。
「おい、聞いてんのか」
 オルグが、声を荒げていた。
「…………」
 アストは、無言を貫いた。
 お前の薄っぺらい誇りなんかに、付き合っていられるかと思う。
 オルグが、不快げに唾を吐き捨てた。 
「小僧、お前は、俺様を軽んじすぎた……。許さねえ、絶対に――」
 オルグの足が地を噛み、身体が微かに沈みこんだ。
『内なる爆発を、見逃しなさるな』
 アヤノが耳もとで囁いた、直後。
「許さねえぞクソガキがああああっ!!」
 オルグの全身から、火花が噴き上がったように見えた。視界の中で、魔戦士の姿が急速に膨張する。その一瞬にアストが認識できたのは、そんなものだった。
「うわ――っ!?」
 咬み合う閃光。唸る刃。叫ぶ鋼。
 力と力が。業と業が。白刃と黒牙が。
 アストの目の前で、拮抗していた。
 中空より振り下ろされていたのは、漆黒の大剣。
 それを、地摺りから切り上げた刀が防いでいる。
 いつ切り結んだのかなど、わからなかった。
 アストが目にしているのは、その結果だけだ。
「うっ!?」
 やや遅れて、腕の痺れを知覚した。
「と、止めたのか!?」
「軽んじるなと言ったぁぁぁっ!!」
 オルグの身体が、再び火花を噴いた。
 束の間宙に留まっていた黒狼が加速する。
 加圧。
 アストの腕にかかる負荷が、より強まった。
「圧力が、まだ上がる……!?」
「いっちょ前に持ちこたえようとしてんじゃねえええっ!!」
 さらに、加速。
 刀が、大剣に圧(お)され始める。足が地を削りながら、後退(あとずさ)りし始めた。
 ――なんて力なんだ!?
『ちいっ、糸を通しただけではこれ以上保(も)たぬか』
 ――う、腕が千切れる……! 早くなんとかしてくれよ!
『やむを得ぬな。アストどのの力を無理繰(むりく)り搾り出すしかござるまい!』
 アヤノが叫んだ直後、アストの手足に張られていた糸が霞の束へと変化して、全身に纏わりついてきた。身体の芯が熱を発し、自分のものとは思えないほどの力が湧き上がってくる。
 それでようやく、オルグの剣圧に耐えられるようになった。
 烈しく揺らめきながら渦巻く霞の束は、全身から白煙が立ち昇っているようにも見える。
 ――なにが起きたんだ!? 
『アストどのの身の裡に、火を熾したのでござるよ』
 霞の中から、アヤノの声が聞こえてきた。どうやら彼女の身体も霞の束に変化しているようだ。
 ――それで力が出るようになったのか……!
『左様にござるが、心身に過度の負担をかけてござるゆえ、あまり長くは保(も)たぬよ』
 ――わかったけど、戦士様のほうが派手に燃え上がってるぞ!?
『ふむ。恐らくは、身の内に練り上げた神気を爆発させ、突進する力へと換えているのでござろう。それを火花として爆ぜ散らかすのは、あやつの勝手でござるがな。――ほれ』
 アヤノの声に操られるまま、刀が柔らかく右に払われた。
「なんだと!?」
 驚声だけを残して、魔戦士の身体が虚空を滑る。その勢いのまま、地面に激突した。同時に、推進力としていた神気の爆発が、純粋な爆発へと変換される。巻き上がる大量の土砂。瞬時に膨れ上がった熱と風がアストの身体を叩いてゆく。
 荒地には、大穴が空いていた。
 ――自爆した?
『然(さ)れど、あんなものでくたばるような手合いではござるまい』
 その隙に、アストは距離を取ることができた。異国の少女を背後に庇う位置で、刀を構え直す。
「くそっ! なんなんだ、今のは!?」
『馬鹿力を振り回すことに満足しているから、いなされただけで痛い目に遭うのでござるよ』
 悔しさを滲ませたオルグの声に、アヤノが応える。
「この俺が……、あんな洟垂れ小僧の前に膝を折って、地に這(は)い蹲(つくば)っているだと……!? そんなことはありえねえ!」
 穴から這い上がってきたオルグが、憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。
『では、認識を改めることでござるな。有り得(う)るから、おぬしは洟垂れ小僧の前に這い蹲っているのでござろう』
 アヤノが放つ言葉はなかなかに手厳しかったが、アストが洟垂れ小僧という部分は彼女にも肯定されてしまった。
「いや――、なんか聞こえたぞ? この俺様に向ってエラそうに説教をかます不届き者がいやがるな? どこだ!? 姿を見せやがれ!」
『ふふふ。先ほどからおぬしの目の前におるではござらぬか』
 もう少しで、魔戦士がアヤノの存在に気付いてしまうかもしれないというのに、彼女の口ぶりには余裕があるように感じられた。
「てめえぇぇっ! 俺を愚弄するんじゃねえええっ!」
 眦(まなじり)を決し、漆黒の牙を剥き出しにした黒狼が、再びアストへ踊りかかった。



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