【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第三十一話 氷土の覇者

BACK / NEXT / TOP




 荒野は、死によって満たされていた。
 断ち折られた剣と槍。ひしゃげた鎧。血と泥に塗(まみ)れた軍旗。地に折り重なる、人や、馬であった存在(もの)たちの亡骸。
 風が吹くたびに、むせ返るような血臭が鼻孔を突き、死者たちの絶鳴が耳朶(じだ)へ纏わりついてくるようだ。
 その、目を覆いたくなるばかりの惨景を、荒野の中央に位置する丘の上から見下ろす一つの騎影があった。
 堂々たる威容を誇る漆黒の巨馬の鞍上(あんじょう)に、白銀の鎧を纏った長駆の男が打ち跨っている。
 鎧と同じ色に輝く総髪を頭の後ろへ撫で付けた、白皙(はくせき)の美丈夫であった。
 凍てついた氷海を髣髴とさせるような青白い瞳には、荒野に拡がる血の河と死者の山へ捧げる哀痛や憐憫(れんびん)の情など、微塵も篭められていない。
 至極当然な業報(ごうほう)を受けた者たちを、哀れむ理由などなかった。
 高慢で欲深き侵略者どもへ、己(おの)が所業に相応しき罪苦を思い知らせるには、まだ足りぬ。
 男の胸に去来した感情に、それ以外の意味は含まれていない。
 丘の上へ戦陣を布(し)いたのは、高処(たかみ)から屍山血河(しざんけつが)を見下ろすためだったのではないか。
 そう言われたところで、彼は否定しないだろう。
 亡国の憂き目に遇ったあの日から十年。
 胸奥に湧き起こる憤怒の焔に身を焦がしながら、この日まで生き抜いてきたのだ。
 己がこの世に生れ落ちた悲運を嘆き、この世のすべてを呪い続ける日々であった。
 それは、生きながらにして死んでいるような日々ですらあった。
 しかしついに――、焔は放たれた。
 胸奥より溢れ出す焔が叛乱の火の手となって燃え上がったのは、今より四ヶ月ほど前のことである。
 彼らは、皇帝の叔父であるロゼウス公バルナバスを誅戮(ちゅうりく)し、故国の地をヴェルトリア人の手から取り戻すことに成功した。
 ロゼウス公国は滅びたが、ヴェルトリア人の公爵を国主に据え、彼らが都合よく支配できるように造られた国の滅亡を悲しむロゼウス人など、いるはずがない。
 圧制に苦しめられていた民衆は叛乱の指導者たちを英雄として称え、さらにはその志に共鳴した者たちが義勇兵となって各地から参集し、その数は日ごとに増していった。
 先代のロゼウス国王ヴォルムンドに放逐された自分が、救国の英雄として祀り上げられるとは皮肉である。
 今さらゴルトフリート王家の再興を目指すつもりはない。
 だが、ロゼウス人の国を取り戻し、外敵を討ち滅ぼす必要はある。
 一度は棄てられた自分の命にまだ価値があるというのなら、この戦いの果てに力尽きたところで、惜しくはない。
 そして、今日。
 皇帝オルデニウス率いるヴェルトリア帝国軍と、いまや国境を越えて帝国領内に進出したロゼウス軍は、帝国北部の都市パレナに隣接する、グルニアス平原において激突した。 
 三十万の兵を動員したといわれる帝国軍に対し、ロゼウス軍の兵力は十六万。
 それも、義勇兵といえば聞こえはよいが、各地より駆けつけた民衆が武装化しただけの、いわば雑軍(ぞうぐん)である。
 だが、決して勝算のない戦いを挑んだわけではなかった。
 むしろ、勝利への揺るぎない自信を抱(いだ)いて臨んだ戦いである。
 戦闘は朝方に始まり、半日と経たぬ内に結着した。その間に生み出された十万を超える戦死体のほとんどが、ヴェルトリア人のものである。対する自軍の被害は、死者が七千を超える程度という報告があったが、思ったより善戦されてしまったな、というのが男の感想であった。
 だが、思ったより善戦した£骰糟Rには、悠長に感想を漏らしている余裕などない。一時(いちどき)の戦闘で十万を超える死者を出した帝国軍は、蒼白になって逃走を始めた。
 圧勝である。
 奇策など、必要なかった。
 帝国軍が持つ力に、より大きな@ヘを衝突させた結果が、この絶景なのだ。
 酸鼻を極めるような地上の地獄絵とは裏腹に、上空には清々しいばかりの蒼天が広がっていた。
 じっとしていても、まだ汗ばむ程度には暑気が残っている時季であるが、先ほどから地表に粉雪が降り始めたのが奇妙に感じられる。
 人肌に触れるとすぐに溶けてなくなってしまうところを見れば、確かに雪だ。しかし、北方の僻地での生活が長かった身には、これが大自然によって生み出された雪でないことはすぐに察せられた。
「ここまでは、魔女の手の内ということか」
 人知れず呟いた男の後方に、大地を蹴立てる馬蹄の響きが近づいてきた。
「ライゼル、高処(たかみ)から冥界の見物とは結構な趣味だな」
 名を呼ばれた銀髪の男が馬首を返すと、白葦毛の軍馬に跨った騎士の姿が見えた。緩やかに波打つような砂色の髪をした青年だったが、整った眉目には凛々しさと力強さが備わっており、一介の騎士風情には見えぬほどの覇気に満ち満ちている。
「義兄上(あにうえ)のお言葉とあれば、数少ない趣味も自重せぬわけにはいかんな」
「その呼び方はよせと言ったろう」
「わざとだよ、エルンスト。あの二人はどうした?」
「今こちらへ向っている。お前に話があるらしい」
 エルンストが、やや疎ましげな視線を後方へ送った。
「そうか。私も彼らと話がしたいと思っていたところだ」
 暗色の甲冑に身を包んだ《忌士(きし)》たちに囲まれるようにして、二つの人影を乗せた黒馬が接近しつつあった。だが、悠然とこちらに近づいてくるそれを馬≠ニ呼んでいいものなのかについては、判然としがたいところがある。遠くから見ればライゼルが騎乗する黒馬と似ていなくもないが、全身が鱗のような硬い皮膚に覆われ、毒蛇のごとき鋭い尖眼(せんがん)を光らせているとなれば、同じ生物と考えぬ方が妥当であろう。兵たちの中には、あの馬が牙を剥き出しにして敵兵の頭を噛み砕くのを見た、と噂する者までいる。
 真偽はともかくとして、得体の知れぬ怪馬とともに現れた二人組を忽(ゆるが)せにするわけにもいかなかった。
 見た目には、若い男女の連れ合いである。男の方は、長槍を脇に手挟(たばさ)んだ騎士らしき装いをしており、名をジークヴェルトといった。長弓を胸に抱いた女の方は、男の懐へ納まる形で鞍の前輪(まえわ)に乗っており、名はリュミエスというらしい。
 長身の優男に矮躯(わいく)の小女(こおんな)という組み合わせだが、この二人が帝国軍との戦闘で凄まじい戦果を上げたのは、否定しようのない事実であった。
 周囲を固めている忌士たちは二人の護衛をしているのではなく、主君の前で二人が暴れ出すことのないよう監視している、と言った方が正しいだろう。
 そんな忌士たちの様子を面白くなさそうに半眼で眺めていたリュミエスは、鞍の上でじっとしていることに飽きたのか、
「よっ」
 と一息で馬を跳び下りた。足を止めた忌士たちは抜剣こそしなかったが、突然馬を下りたリュミエスへ警戒の視線を注いでいる。
「あんたたちさぁー」
 若葉色の瞳を凄ませたリュミエスが、忌士たちへ一瞥をくれながら身体を一回りさせると、亜麻色のおさげ髪が弾むように踊った。
「弱っちい雑魚なんだから、端っこにどいててくれない? 後ろから踏み潰してもいいって言うなら、そうさせてもらうけど」
「やめろ、リュミエス」
 馬上から浴びせられた声に、リュミエスは「なんでさ!」と口答えをしながら振り返った。
「彼らにも、面子(めんつ)というものがある」
「屍肉(しにく)の腐汁煮込みでできたやつらに、面子なんかあるわけないでしょ」
「だからこそ、かえって体面が重要になるということだ。多少は彼らを哀れんでやってくれ」
「いやだね」
 リュミエスが、ぷいと顔を横に背ける。忌士の中には剣の柄へ手をかけた者がいたが、ライゼルが手振りで制止した。
「これを頼む」
 ジークヴェルトが、先に地面へ下りたリュミエスへ槍を預けて、自らも下馬した。
「あたしを従者扱いにしないでよ」
「傍にいるのがお前だから、安心して槍を預けられるんだろう」
「すぐそういうこと言ってごまかすんだ」
 リュミエスが不満げに口を尖らせる。彼女の身長は長槍の半分ほどもあるか怪しいところだったが、槍を支えきれずに倒れるということはなかった。
 ジークヴェルトの瞳がこちらに向けられる。瞳の色はリュミエスと同じ緑だが、若葉のような艶に濡れた彼女の瞳とは違い、翠玉をそっくり嵌(は)めこんだと見えるような煌びやかな光に満ちた瞳だった。その瞳と同じ色をした鎧を身に纏い、淡青色の頭髪をやや長めに伸ばした、整った顔立ちの青年である。
 ライゼルは目の前にいた忌士を下がらせて、自分の正面を開けさせた。
「失礼した。まずは貴軍の勇戦と大捷(たいしょう)に祝意を表したい」
 ライゼルの前に立ったジークヴェルトが、優雅な物腰で一礼する。
「私はなにもしていない。兵たちがよく奮闘してくれたおかげだ」
「此度(こたび)の戦で、ヴェルトリアの蛮人どももロゼウス兵の精強ぶりを思い知ったことだろう」
 心にもない世辞であったが、ライゼルは意に介さなかった。
「それもすべては貴君らの助力あってのことだ。我らが大陸の覇権を手にするその時まで、今後も同様の力添えをお願いしたい」
「無論そのつもりだ。ヴェルトリア人の討滅は、我らの悲願でもある」
 その言葉に嘘はないのだろう。ジークヴェルトの瞳の奥には、確かな忿怨(ふんえん)の焔が渦巻いている。
 ライゼルは、彼の表情を注意深く観察しながら会話を続けた。
「では、喜んでばかりもいられんな。蛮人たちの帝(みかど)が存命である以上、その首を刎ねるまで油断はできない。直ちに追撃へ移りたいところだったが、彼らが不自然に姿を消したため、断念せざるを得なかったよ」
「蛮人たちにも力を貸す者がいるようだな。だが、憂う必要はない。その者どもは我々が排除してみせよう」
「それは心強い。――して、そちらの首尾は?」
「帝都は既に手中へ収めた。すべて順調に進んでいる」
「ならば、我々も都へ兵を進めて構わないだろうか?」
「帝国軍の動きがわからぬ状況で、帝都への進軍を急ぐ理由でもあるのか?」
 その反問に、頑ななまでの拒絶の意思を感じた。
「我が軍を都へ入れ、玉座の主が代わったことを天下に示す。その上でヴァルトリア人に降伏を呼びかけよう。オルデニウスが応じるとは思わんが、連中とて一枚岩ではない。況(ま)して、この大敗の後だ。諸侯の中には主君を見限る者も出てくるだろう。長期戦になる前に揺さぶりをかけてやれば、やつらも決戦を急いで姿を現すに違いない」
「だが、彼らに力を貸す者たちの動きが読めない以上、軽率に動くわけにはいかんな」
「では、我々にどうしろと?」
「今しばらく、軍を動かすのを手控えて頂きたい。我々は帝都へ向うが、同志たちへの報告を終え次第、すぐに戻る」
 ――話がある≠ニいうのは、そういうことか。
 ライゼルは理解した。
「いいだろう。だが可能な限り、早い帰還を願いたいものだな」
「了解だ。では急がなければならぬ故、これで失礼させて頂く」
 形の上では鄭重(ていちょう)に一礼したジークヴェルトが、颯爽と踵(きびす)を返して連れ合いのもとへ向った。
「リュミエス、行くぞ」
「つまんない話は、もう終わったの?」
「ああ、これからすぐに帝都へ向うぞ」
「えぇー? あたし、あの女のところに行くの、いやなんだけど」
「いつも文句ばかり言わずに、たまには我慢してくれ」
「ジークがそんなだから、あたしはいつも我慢してんだよ!」
 騎乗し、槍を受け取ったジークヴェルトは、リュミエスが鞍の前輪に納まるのを待ってから馬を進めた。二人を乗せた黒馬が、見る間に地平の彼方へ消えてゆく。
「あの二人が七英の一角とは、信じられんな……。あれをわざと演じているとするなら、なかなかに食えない連中だが」
 二人の姿が完全に見えなくなってから、黙したまま会話の様子を見守っていたエルンストが口を開いた。
「あれは演技ではないだろう。だが、食えない連中であることは確かだ。我々を極力帝都から遠ざけておきたいらしい」
 もとより、帝国軍が健在という状況で帝都に入るつもりはなかったが、あの男の反応は見ておく必要がある、と思っていた。
「では、斥候を忍ばせて帝都の様子を探るべきじゃないのか?」
「いや、やめておこう。先方が待てというのだから、このまま大人しく待ってやるだけさ」
「やけに物分りがいいんだな」
「ヴェルトリアを打倒するためには、彼らの協力が不可欠だからな。事を起こすのであれば、我々にも力が必要だ」
 それ以上言葉は費やさなかったが、エルンストが意を汲んでくれたことは目を見ればわかる。
「我々は、力無き者、ということか」
 視線を荒野の彼方へ移したライゼルは、あえてその呟きには応えなかった。



BACK / NEXT / TOP

inserted by FC2 system