【第三章】祭りのあとに、雪花は降り積もる
第三十二話 枉人の王女と天下の七英

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 あてがわれた席へ腰を下ろしたところで、卓上に一つしかない燭台の火影が揺れた。既に着座していた同志たちは黙したままだったが、そのうちの幾人かからは、あからさまな嘲謔(ちょうぎゃく)の色合いを含んだ視線が向けられている。
「ねえ、ジーク。黄泉返ってすぐに黄泉へ還りそうになった男って、あいつなの? よく恥ずかしげもなくここに来られたもんだね」
「リュミエス、黙っていろ」
 薄闇と静寂のみが蟠(わだかま)っていた《払暁(ふつぎょう)の間》に、その男女の声はよく響いた。オルグの目の前でこれ見よがしに睦(むつ)み合っているこの二人は、南方のローベル地方に占住していたシャノア族の騎士と狩人であるらしい。顔を見たのは初めてだが、彼らは帝国軍との会戦を行ったロゼウス軍を支掩していたため、帝都への合流が遅れていたのだ。
 ここは、ヴェルハイム城の一画にある会議用の大広間である。だが、外壁全体を界瘴に覆われ、昼夜を問わず灯火が焚かれている城内からは、その名にあるとおりの払暁など拝めるわけもない。
 オルグたちは、《黄泉反しの司祭》たる魔女レニヤによる召喚を受けて、この払暁の間に集められたのだった。
 ――クソが。
 内心に毒づいたオルグは、議卓の真向かいに並んで座っている二人の男女に一瞥をくれたが、それ以上の反応は自制した。今はなにを言いつくろったところで、彼らに笑いの種を提供するだけだ。
 しかし、屈辱である。
「もう許してあげましょう。同志オルグも、自らの失態を十分に反省しているようですし」
 その声は、オルグから見てもっとも左奥の席から聞こえた。
 そこに座った貴族風の身なりをした青年が、愉しげに光らせた瞳をこちらに向けている。取り成すような体裁を装った言葉を吐いておきながら、冷笑を浮かべた口元を隠そうともしていない。
 こいつは、巫山戯(ふざけ)ていやがる。
「失態だと……」
 オルグは、慇懃な物言いの中に隠微な悪意を忍ばせた青年を睨みつけた。その威迫を、淡い青銅色をした瞳が臆することもなく受けとめている。
 オルグは、ナヴァルと、ギュメルという兄弟の名を思い出して、不快になった。青い頭髪と眼を持っている方が、弟のギュメルであったはずだ。男の割りにやや高い声が癪に障る。
 弟と対照的な赤銅色の髪と瞳をしているのが、兄のナヴァルだ。オルグたちの睨み合いには関心がないのか、先ほどから腕組みをしたまま会合の始まりを静かに待ち続けている。兄弟の歳は離れているように見えるが、現在の年齢を三百歳以上と数えてよいのなら、五、六歳の差はむしろ年が近いというべきか。この兄弟が、北西部のザラバント地方で栄えていたバルド族の英雄らしい。だが、オルグは彼らを認める気にはなれなかった。
「おや? お気に召さなかったのでしたら、不首尾、不始末、痴愚、間抜け、どれでも好きな言葉をお選びください」
 ギュメルが、今度は明確に、オルグを挑発する言葉を吐いた。
「てめえ!」
 声を荒げたオルグが席を蹴って立ち上がろうとしたその時、広間の壁に沿って幾つもの青白い火が灯った。壁には松明を差せるように鉄製の輪が取り付けられているのだが、そこに魔力で生み出したと思しき火の玉が浮いているのだ。
 オルグは慄然とした。
 気づかぬうちに、広間の奥に一人の女が現れていたのだ。
「いかにも宵闇の魔女らしいご登場だ」
 誰かが呟いた。
 現れた女は無数の通り名を持っているが、そのうちの幾つかはオルグも知っている。
 宵闇の魔女。白銀(しろがね)の妖姫(ようき)。枉人(まがびと)の王女にして、氷獄の支配者。
 三百年前は聖女ルシエラとの戦いに敗れたが、七英戦争終結後も生き延びたという、ただ一人の女。
 つい先ほどまで、そこには何者も存在しなかったはずなのに、冷艶とした微笑を浮かべた黒衣の魔女が、忽然と姿を現したのだ。
 咒紋による空間跳躍を行ったのだろうが、時空に歪(ひず)みが生じた気配はなかったし、魔力場が乱れた形跡もない。
 ただ転移咒紋を行使しただけでなく、巨大な魔力を動かした痕跡が残らぬよう、完璧な隠匿処置が加えられている。精緻にして精確無比な咒紋制御が必要とされる業だ。
 オルグ以外の者たちも、面上に驚懼(きょうく)の色を滲ませていた。その反応を見る限り、魔女が現れる予兆を察知できた者はいなかったのだろう。
 だが、彼らとて木偶(でく)人形ではない。いずれもが天下(てんが)に名を馳せた英傑である。
 いかに宵闇の魔女であろうと、七英にも列せられぬ小娘に目を欺かれるなど、容認できることではない。
 粛然と静まり返った払暁の魔に、魔女の靴音だけが響き渡る。
 七英たちからは穏やかならぬ殺意の気配が放たれていたが、魔女は涼やかな表情を崩さぬまま、その細くしなやかな肢体を議卓の首座に落ち着けた。
 ――枉人の姫様は、俺たちのような下賤(げせん)の輩とは格が違う、と言いたいわけか。
 可愛げのない女であるが、その実力は認めざるを得ない。
 奇妙に長い沈黙を挟んだ後、一同の顔を見渡した宵闇の魔女が口を開いた。
「全員揃ったようだな。ベンティスが不参となっているが、彼には別命を与えている。……では初めに、北部の戦況について報告を聞きたい。帝国軍の消息が途絶えたというのは真か?」
 魔女レニヤの紅い瞳が、ジークヴェルトとリュミエスの両名へ向けられた。
「リュミエスの矢文(やぶみ)で伝えてあるとおりだ。帝国軍に潜んでいたラルスの下僕(しもべ)が、なんらかの力を用いて敗軍の行方を晦(くら)ましているようだ」
 ジークヴェルトが問いに応じた。リュミエスは頭の後ろで手を組んだまま、気だるそうに天井を見上げている。
「それで、帝国軍に潜伏している神遣いを焙り出すことはできたのか?」
「凡(おおよ)その目星は付けてある。聖騎士団長のウェズラールだ」
「その者以外に、神遣いが人に成りすましている気配は?」
「ウェズラールの指揮下に、それらしき力を持った者が二、三名いる。だが、聖騎士団以外の各兵団には、疑わしい者は見当たらなかった」
「聖騎士団が、やつらの隠れ蓑になっているということか。地上支配の手駒を失うわけにはいかぬのであろうが、神遣いどもにはヴェルトリア人の守護に戦力を割く余裕はあるまい……。それで、ライゼル卿の様子は?」
「帝都への進軍を匂わせて、我々の反応をうかがっているように見えた。今後も協力的な関係を維持するつもりはあるようだが、心底(しんてい)では我々を信用していないのだろう」
 ジークヴェルトの答えに対して、レニヤは薄い笑みを浮かべた。
「当然であろう? あの坊やは、いつの日か我々を排除できると思っているのだよ。可愛い下心ではないか、フフフフ……」
 氷霜(ひょうそう)のごとき白面をした魔女の唇から、真冬の寒風を思わせるような笑声が漏れ聞こえた。この女には、露悪的な性癖でもあるのかもしれない。
「なんにせよ、神遣いの軍勢はしばらく身動きが取れまい。だが、この機に乗じて異霊どもが動き始めたようだ。やつらも《卵》を狙っている」
「――それで、我々に何をしろと言うつもりだ?」
 オルグの右隣に着座している壮年の男が口を開いた。
 往時は北方のゴルドア地方を治めていたラング族の王で、名をアドラフという。
 どのような力を使うのかは知らぬが、鉄紺の外套を纏った身体は、腕や肩、胸板、首周りの筋肉などが余すところなく分厚く、全身の筋量はオルグの体格を二周りほど増やしたところで、まだ及ばぬと思われた。錫色(すずいろ)の頭髪には白髪も多く混じっているものの、豪放に伸ばされた髭と相まって、王者としての風格は些(いささ)かも損なわれていない。
 命令を下すのが枉人の魔道王イシュナードの娘であろうと、他者の指図に黙って従っているような男だとは思えないが、今のところは無用な衝突を避けてレニヤに協力する姿勢を取っているようだ。それは、オルグや他の者たちについても同様のことだった。この場で魔女に叛旗を翻したとしても、他の七英たちがどのような動きをみせるか読みきれぬため、今は互いの腹を探り合っている段階なのである。
 形の上では同志と呼ばれているものの、自分たちは同じ考えのもとで行動を共にしている仲間ではない。一括りに七英と呼ばれたところで、あの戦争から三百年を経た現在になって、初めて顔を合わせたばかりの者たちなのである。神遣いや異霊のような、外敵となる脅威が存在する限りは手を結んでいても、将来的にそれらが片付く時が訪れれば、今度は七英同士で剣戟を交えることになるだろう。
 そもそも、誰かと連(つる)むという行為自体、オルグの性に合わない。
 無論、好い女であれば話は別だが――
「《卵》がゼヴェスめの手に渡れば、厄介なことになる。異霊を《卵》に近づかせるわけにはいかんな」
 レニヤの瞳が、独りだけの思考に耽っていたオルグの表情を捉えているのに気付いたが、動揺を顔に出すような真似はしなかった。
 アドラフが会話を続ける。
「では、早々に剣の娘を始末して、我々に《卵》の回収を急げということか」
「無論、回収は速やかに行わなければならぬが、それについては私に腹案がある。今は、地上に現れた異霊どもの掃討が先だ」
 レニヤの言葉は、異霊だけではなく、同志たるオルグたちにも《卵》へ近づかせたくないように聞こえた。
「なあ、宵闇の魔女さんよ」
 オルグは、あえてレニヤの気に触る言葉つきを意識して、口を開いた。
「どうした?」
 紅い瞳に幽かな怒気が揺らめいたが、一度瞬きする間にそれは消えていた。
「いまひとつよくわからねえんだが、その《卵》ってのはなんなんだ? そいつがお前の親父を黄泉返らせるのに必要だって話は聞いたが、なぜ俺たちと同じように蘇生しなかったんだ? その《卵》ってやつが必要な理由はなんだ?」
「ルシエラに消滅させられた父上は、お前たちのように亡骸を神像と化して霊代(たましろ)にすることができなかった。それ故に、黄泉返りを果たすために《卵》が必要になるということだ」
「霊代になるもんがなきゃ、俺たちと同じやり方はできねえってことか? なら、《卵》には、なんの力があるっていうんだ?」
「私も詳しくは知らない。すべてをご存知なのは、隠り世の父上のみだ」
「……そうかよ」
 レニヤの口から、それ以上の説明は語られそうになかった。
「私の説明では、不満か?」
「そうだな」
 オルグは即答した。
「けどよ、俺たちがお前に黄泉返らせてもらったのは事実だ。その分は真面目に働いて返してやるよ。ただし、お前の親父さんが黄泉返ってからのことについては、もう指図を受ける気はねえ。俺の好きなようにさせてもらうぜ」
「フフ……、グラードの戦士は正直だな。だが、その過剰な自信が、一度はお前たちを殺しているのだ。あの戦争で剣の娘に敗れた事実は、努々(ゆめゆめ)忘れて欲しくないものだな」
 そこで悪意のある微笑を挟んだレニヤは、
「つい数日前に痛い目を見たばかりの戦士殿には、あえて言うまでもないことだが」
 と付け足した。
「二度あることは三度ある――とでも、言いてえのかよ」
「そう怒るな。異霊どもの相手などつまらぬ仕事であろうが、やらぬわけにはいくまい?」
「どうしてだ?」
「わからぬか? やつらは今――」
 レニヤの瞳が戯(ざ)れるような輝きを宿した直後、派手な爆発音と微かな振動が払暁の間に響いてきた。
「我々の頭の上にいる」
 ちっ、とオルグは舌打ちした。レニヤの揶揄(やゆ)に対してではなく、自分が敵の接近に全く気付けなかったことが腹立たしいのだ。
 道理で、あんな小僧を相手に不覚を取ったわけだと思う。
 このままでは、魔女の支配から抜け出すことは愚か、あの小僧に借りを返すことすら儘ならない。
 オルグが内省する間にも、爆発と振動は絶え間なく続いている。
「数が多そうだな」
「ああ。やつらが真っ先にここへ現れたということは、我々を帝都に押し込めたまま皆殺しにするつもりなのであろう」
「俺たちが帝都に集まる頃合を見計らって、攻囲を仕掛けてきたってわけか。……しょうがねえな」
 まずは異霊の大軍を片付けなければ、オルグたちは帝都から出ることも敵わぬ状況のようだ。
「――では、歓談はここでお開きにして、来客を出迎えにゆくとするか」
 ナヴァルが席を立つと、ギュメルもそれに従った。
「三百年も眠っていては、いかな英傑であろうと腕が鈍(なま)って当然だ。弟よ、油断はするなよ」
「わかりましたよ、兄上。黄泉返ったばかりで黄泉に還らないように、僕らも気をつけなくちゃね」
 ギュメルがなにか言いたげな眼差しをこちらに向けたが、オルグは無視した。
「我々が先行することになるが、よろしいかな」
 ナヴァルの申し出に、レニヤが首肯を返す。
「いいだろう。他の者たちも、直ちに迎撃を開始してくれ」
 それが、散会の言葉となった。
「リュミエス、話は聞いていたな?」
「あーあ! せっかく黄泉返ったっていうのに、なんかつまんない話ばっか!」
「我慢してくれ」
 大袈裟に伸びをしたリュミエスの頭を、ジークヴェルトが優しく撫でていた。
「ジークはいつもそればっかり言う!」
 戯れ合いながら戦場に出てゆく二人の姿を、それ以上観察する気にはなれなかった。
「なあ、フィオーネ。ここは一つ、共同戦線といかねえか?」
 オルグは隣席にいた女の同志に声をかけた。柔らかな白藍(びゃくらん)の色に染め抜かれたドレスに身を包んでいる、若い女だ。生前は、その細腕からは想像もできぬような烈剣を振るう女剣士で、北東部のロンダルシア地方を支配していたアルヴァ族の指導者であったらしい。彼女が瑞々しく艶やかな金色の髪を靡かせるように振り返ると、仄かに甘い香が漂った。
 好い女の匂いだ、と思う。
 髪の色といい、雪のように白い頬といい、ルシエラに似た面立ちをした女だ。ということは、先日太刀を合わせたルシエラの子孫にも似ている。女だてらに凄まじい剣技を使うというところも、同じだ。だが、腰まで届く金髪は束ねられておらず、瞳の色が頭髪と同じ黄金であるところは、違った。
「悪いが断る。私は、お前のように野卑で知性の感じられない男は好かない。私の周りをうろついていたら容赦なく斬り捨ててやるから、そのつもりでいろ」
 気性も違うようだ。汚物にでも向けているかのような冷たい眼差しと言葉が、オルグの顔と心に突き刺さった。
「わかった、わかったよ。……ちくしょう。断るにしても、言い方ってもんがあるだろうがよ……」
 愚痴を零しながらも、オルグはフィオーネに続いて払暁の間を後にした。



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