【第四章】昏き影、嗤う魔女、集う光
第三十五話 光射す空のもと、少年は少女に恋をした

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 意外にしつこく追いかけてきた自警団員を振り切ったアストたちは、聖堂の前まで走ってきたところでようやく立ち止まった。
「さすがに、もう、諦めただろう……」
 すっかり息が上がってしまっていたが、後方にはゴドーの姿が見当たらなくなっていたので安心した。
『まぁ、ちょうどよい運動になってよかったではござらぬか』
「でも、おかしいなぁ……。前は簡単に逃げ切れたはずなのに……。あのおっさん、いつからあんなに走れるようになったんだ……?」
 アストは膝に手をつっかえながら身体を支えるのがやっとの状態なのに、同じ距離を走ったはずのルシェルがほとんど息を乱していないというのが、驚きだった。
「もう種明かしをしてもよろしいのではありませんか?」
 ふと、彼女が、アストではなく彼の頭の上に向ってそんな言葉をかけた。
「え?」
『ふむ。勿体つけるほどのことではござらぬが、一度種を明かすと同じ手は使えなくなってしまうものでござるからなぁ』
「種って、なんだよ?」
 頭の上に問いかける。
『結論から申すと、あの禿頭の御仁は、とうに振り切っていたのでござるよ』
「は?」
 アヤノの言うことが、ちょっとよくわからなかった。
「じゃあ、さっきまでおれの後ろを追いかけてきたアレは、なに?」
『拙者が刃紋を編んで創り出した幻像にござる』
「幻像? なんでそんなことしたんだよ?」
『午後の稽古が取り止めになったので、少しばかり埋め合わせが必要だったのでござるよ』
「それでおれを無駄に走らせまくったっていうのか! そういう埋め合わせは要らないよ!」
 午後はアヤノのしごきから解放されると思っていたのに、とても損した気分だ。
『次からこの手は使えぬな。本来なら、アストどのの御母堂が追い立てるのが、もっとも効き目があるのでござろうが』
「ぞっとするようなこと言うなって!」
 追いかけてくるのが竹刀を持った母だったなら、捕まった途端に百叩きの刑になりそうだ。
 つまり、うちのおふくろは鬼か?
 確かに、鬼だ。
 想像するだけでも恐ろしい心持ちになってきたので、もうそのことについて考えるのはやめた。
「あーあ、アヤノさんのせいでこっぴどく疲れちゃったよ……」
 おかしな魔女が張った《霧》はすっかり晴れ上がっていて、空から強い光が射し込んでいた。適度に風が吹いてくれるので涼しくはあったが、ちょっと腰を下ろして一息入れたい気分だ。
 この辺に休めるところはなかったか、周囲を探してみた。
 聖堂前の広場といえば、以前は屋台が出ていたり、子供たちの遊び場になっていたり、中央の池近くの腰掛けに座った男女が、飽きることなくお互いを見つめあっていたりと、村民の社交場として賑わっていたはずなのだが、あの祭りの日以降はすっかり人通りも少なくなってしまったようだ。
 空(から)になった聖堂が、広場の現状を象徴しているように思えて心寂(うらさび)しい気分になった。
 本来なら、祭りが終わった翌日から聖堂の中に戦士様の櫓と像が安置されて、この広場に集まる村人たちを見守っているはずだったのである。しかし、黄泉返りを果たした戦士様があんな恐ろしい魔人であることを知った今となっては、ここに櫓と像が戻ってきてほしいとも思えない。
 暗い気分を振り払うように視線を巡らせると、広場の隅に一つだけ開(あ)いている屋台を見つけた。焼き菓子の、いい匂いが漂ってくる。その辺りにはまだ人気(ひとけ)があって、小さな子を連れた夫婦などが焼き菓子を買って子供に与えている姿が見受けられた。
 ――おやつにはちょうどいい頃合なんだけどな。
 そんなことを考えていると、屋台のおばちゃんと、目が合ってしまった。
「こんにちは」
 おばちゃんの方から声をかけてきた。その屋台は何度か利用したことがあるので、おばちゃんには顔を覚えられているのだ。小柄で少々横幅はあるが、愛嬌のいいおばちゃんだった。
「あ、こんにちは」
「女連れなんて珍しいじゃないか。彼女でもできたのかい?」
「え!? あ、いや、違うって!」
 もともと声が大きいおばちゃんが、殊更に声を張りながらそんなことを言ってきたので、アストは慌ててしまった。
 その様子が挙動不審に映ったのか、ルシェルは不思議そうな顔をしてこちらを見ていたが、彼女がグラードの言葉をあまり理解できなくて助かったと思う。
「この子はなんというか、うちのお客さんで、この辺を少し案内してあげてたんだ」
 おばちゃんに捕まってしまったものは仕方ないので、ルシェルに「ちょっと待ってて」という身振りをしながら屋台の方に近づいていった。木で作った骨組みに天幕を張っただけの、簡素な屋台だ。中には火床が設置されており、その上に金型を備え付けて菓子を焼いている。
 円筒状の窪みが並んだ銅製の金型に、小麦や卵、蜂蜜を合わせた生地を流し込んで餡(あん)を乗せ、その上にさらに生地をかけてからひっくり返して焼いたものを、この辺りではオーバン焼きという名前で呼んでいた。中に入れる餡には様々な種類があり、柔らかく煮た小豆に砂糖を加えて練り上げた小豆餡の他に、同様の調理法で素材に栗を用いたものや、布で裏漉しした小豆餡に練り胡麻を加えた胡麻餡などが使用されている。この店では、羊乳から作ったクリームも餡として使っており、個人的にはなかなか気に入っていた。
「帝国から来た子かい?」
 おばちゃんが、急に声を潜(ひそ)めながら尋ねてきた。
「そうなんだよ。色々と事情があるみたい。でも、悪い人じゃないよ」
 ヴェルトリア人を見かけただけで機嫌が悪くなる村民もいるので、気を遣いながら話をするのが難しかった。
『ほう、大判(おおばん)焼きでござるか』
 後をついてきたアヤノが、アストの肩越しに屋台を覗き込んでいた。人に見られると困るので実体は解いているが、ルシェルと一緒に向こうで待っててくれた方がよかったのに、と思う。
 ――ここのは結構ふわふわしてて評判がいいんだ。
『ルシェルどのに買ってやるのでござるか?』
 ――買ってもいいけど、気に入るかな?
『まぁ、要らぬと言われたときは、拙者が責任を持って腹に納めるので問題ござらぬ』
 アヤノも実体を持てば、アストたちと同じものを食べたり飲んだりすることができた。 
 ――自分が食べたいだけじゃないか、それ。……でも、あんまりお金持ってないから、一個しか買えないんだけど。
 もともと買い物をするつもりで外へ出てきたわけじゃないので、ズボンのポケットに銅貨が一枚入っている以外、お金は持ってきていない。
『拙者は半分こでも構わぬよ』
 ――アヤノさんはちっちゃいんだから、半分もいらないだろ!
 少し迷ったが、オーバン焼を買っていくことにした。中に入っている餡が、小豆の餡ではなくて羊乳のクリームのやつにすれば、きっとルシェルも食べやすいだろう。
 ――それにしても、オーバン焼きを一個買うのが精一杯なんて、おれはなんて情けない男なんだろう。
『ふむ。アストどのは甲斐性(かいしょう)無しでござるな』
 ――そこはもう少し労(いたわ)りの言葉をかけるとこだろ。
 包みを受け取ると、おばちゃんが二人分のお茶も用意して渡してくれた。
「はい、しっかりやんなよ」
「え? あぁ、うん」
 そんなことを言われても、何をしっかりすればよいのかよくわからない。笹の葉を使った包みを小脇に抱えながら、両手に一つずつ茶の入った湯呑みを持ってルシェルのもとに戻る。
「お茶を二つ貰っちゃったよ。これ、手持ちがなくて一個しか買えなかったんだけど、半分ずつにして食べる?」
「いただいても、よろしいのですか?」
「うん。とりあえず、ちょっとどこかに落ち着こう」
 池の近くにある長い腰掛けの方を見たが、今は誰も座っていないようだった。
「あそこでもいい?」
「はい」
 ルシェルが同意してくれたので、そこに腰を落ち着けることにした。いつもアストの肩や頭の上を指定席にしているアヤノでも、広さに余裕があるところでは下に降りて適当な場所で正座している。
「えっと……、半分にするの得意じゃないから、頼んじゃってもいいかな?」
「はい、わかりました」
 自分のお茶を脇に置いてから、包みをルシェルに手渡した。包みを開いた彼女は、興味深げな様子でオーバン焼きに視線を注いだ。
「マフィンのような形をしていますね」
「オーバン焼きっていうんだけど、そっちにも似たようなのがあるんだ?」
「少し似ていると思いました。……これで、よろしいでしょうか?」
「うん、ありがとう」
 半分になったオーバン焼きを受け取った後、彼女にお茶を渡した。心持ち大きい方がアストに寄越されたようだ。ちょうど半分には分けないで、わざとそうしてくれたのかもしれない。
「アヤノさんも一口食べる?」
 アストが、そこから適当に一口分を千切ってアヤノに手渡した。普通の人の大きさで一口分だから、小さくなっている今のアヤノには十分大きいだろう。
『これはかたじけない』
 そんなことを言いながら受け取ったアヤノは、既に実体化を終えて食べる気満々だった。ちゃっかりと自分のお茶まで用意している。
「じゃあ、ちょうどよさそうな時間だし、おやつにしよっか」
『そう致そう』
「では、いただきます」
 三人で一緒に、最初の一口を食べる。クリームのほどよい甘さが口の中に広がった。
『ほう……。羊の乳酪というのも、なかなかに珍味なものでござるな』
 アヤノが唸っている。
「どう?」
 それよりもルシェルの感想が気になるので、早速尋ねてみた。
「パンケーキみたいにふわふわしていて、とても美味しいです」
「あそこのオーバン焼きはそうなんだ。ちょっとしたおやつにいいかなと思ったんだけど、気に入ってくれた?」
「はい」
 ルシェルが笑顔で答えてくれたので、ほっとした。この笑顔が見られるなら、手持ちのお金が無くなったところで惜しくはない。
「もうちょっと小銭があれば他のも買えたんだけどなぁ」
『アストどの、拙者はあんこが大好物でござるぞ』
「アヤノさんには聞いてないよ」
『むう』
 アストが素っ気無い反応をすると、アヤノはちょっと拗(す)ねたようだった。
「本当は今ごろ塔の中を探検しているはずだったんだけど、これからどうしよっか?」
 三人でのんびりした時間を過ごすのも悪くないものだと思う。いつもこういうところに座っていた若い男女みたいに、ルシェルと仲睦まじくお互いを見つめあうようなひと時も味わってみたいが――
 流石にそれは、無理な願いだろう。
「後でもう一回、塔に行ってみる?」
「いえ……、村の方々のご迷惑になるようなので、塔を調べるのは諦めます」
「全然迷惑じゃないよ。若いのがなにかやってるのが気に食わなくて、うるさく言ってくるだけなんだ」
「でも無理に入ろうとすれば、やはり迷惑になってしまいます」
「そうかなぁ?」
 ルシェルは、目立つ行動を取って村の人たちを刺激したくないのかもしれない。それにアストがくっついていたのでは、それだけで「悪いことをしている」と疑われてしまいそうだ。
『では、特にやることがないのでござれば、今から少しばかりでも稽古を――』
「じゃあ、散歩がいいかな! 散歩にしよう!」
 アヤノの言葉を遮るように、勢いよく立ち上がった。
 空になった二つの湯呑みを屋台のおばちゃんへ返して、礼を言う。
 戻ってくると、アヤノが恐い顔をして待っていた。
『アストどの。休んでばかりいては、怠け癖がついてしまうでござるよ』
「今日だけだよ。午前中はちゃんと稽古したんだから、休んでばかりってわけでもないだろ? 人間には、こういうのんびりした時間も必要だよ」
 稽古をすれば汗だくになって、風呂へ入らなければならなくなるし、折角だから、ルシェルとのお出かけをもっと楽しみたかった。
『稽古がなければ、アストどのはのんびりしっぱなしではござらぬか』
「ルシェルさん! 小うるさいのはほっといて早く行こう!」
 ちょっと強引ではあったが、アストたちは特に行き先も決めぬまま聖堂前の広場を後にした。

 結局、辿り着いたのは隠れ場の丘だった。
 もっと村の中を案内してルシェルに色々見せてあげようかとも思ったのだが、まだ方々に瓦礫が残っている状態の村を見せて回るのもなにか違うし、村一番の見所である聖堂はもう見てしまったわけだから、あとは村の外の自然を見せるくらいしか残っていないのだ。
 女山を迂回して来るときは、『やっと稽古をする気になったのでござるか?』『稽古はせぬのでござるか?』『稽古を疎(おろそ)かにしていては、けして強くなれぬでござるよ?』という具合に、アヤノがうるさかった。
 丘の頂上に出てから、八重桜の木があったところまでルシェルを連れて行く。アストがここに来るのは祭りの日以来のことだったが、思っていたとおり、桜があったところには、木の太さほどの穴が空いている。
「稽古場にある桜の木って、最初はここにあったんだよ」
「あの木は、元々この丘にあったのですか?」
「うん。おれと一緒に妖怪おばばに取り込まれたんだけど、アヤノさんから刀を貰ってこっちに戻ってくるときに、女山の頂上に出てきちゃったんだ」
 二人で、地面に空いた穴と女山の頂上付近を交互に見遣る。
『アストどの。妖怪おばばとは申すが、あれはルシェルどののご先祖でござるぞ』
「あ、そうか。言い方が悪かったね、ごめん」
「いえ、お気になさらないでください。あれはお祭りのために生み出された妖怪のイゼレバさんであって、私のご先祖様ではないのですから」
「それもそうか。じゃあ、今度の祭りからはアヤノさんの櫓を作って、おばばの役をやってもらおうかな?」
『ほう、アストどのは、拙者を鬼婆(おにばば)と同じに見ていたのでござるな?』
 アヤノの、じとっ、とした視線が顔に突き刺さる。
「え、あ、いや、えらく長生きしているみたいだからぴったりかなって、思っただけなんだけど」
 アストはうろたえた。よく考えずに人を茶化すものではなかったようだ。
『左様でござるか。では、アストどのの期待に応えて鬼婆となり申すゆえ、明朝よりの稽古を楽しみにしていなされ』
「えぇ? そういうのは勘弁してほしいなぁ」
 アヤノがしれっとした調子でそんなことを言うので、アストは髪を掻きながらぼやくしかなかった。
 隣にいるルシェルは、声こそ出していなかったものの、口元に微笑を湛えてこちらを見ている。
「あ、他人事(ひとごと)だと思って笑ってるでしょ?」
「すみません。お二人はいつも楽しくお話をされるので、つい」
「そうかなぁ……」
「はい」
 ルシェルはそのように言うのだが、彼女がいたヴェルトリアのお城では、こういう会話をしないものなんだろうか?
 ……しないだろうな。
 冗談を言ったりはするのだろうが、もっとお上品に会話をしてそうな気がする。
「それにしても、ここはとても良い景色が見られますね」
 ルシェルが海の方を眺めているので、アストもそれに倣(なら)った。海からのそよ風に乗って、潮騒(しおさい)の音色が丘を駆け登ってくる。髪が風に遊ばれてゆくルシェルの横顔に、思わず目を奪われてしまった。
「あったかい季節のときは、ここでよく昼寝するんだ。桜の木があったから、ちょうどいい木陰になってくれたし、海からの風も気持ちよくてさ」
「わかる気がします。……ここから、海の近くまで下りられますか?」
「下りれるよ。行ってみる?」
「ご案内していただいても、よろしいのですか?」
「いいよ。ついてきて」
 斜面に密生した林を抜けて、海を目指す。木漏れ日の中を歩いていると、友人たちや妹と一緒に探検した幼い日々のことが思い出される。いつだったか、オレスと共謀して、隠れんぼの鬼になったユータを置いたまま逃げ帰ったことがあった。全然彼が戻ってこないから心配して迎えに行ったが、さすがにあれはひどい悪戯(いたずら)だったと思う。
「ここから岩場になるから、足下に気をつけてね」
「はい」
 岩場はごつごつとしていて歩きにくかったが、ルシェルの足運びを見る限り心配はなさそうだった。
 マナミを連れてきたときは、ここで転んで泣かせちゃったことがあったっけ。
 ちょっと擦り傷ができただけなのに、おふくろに力いっぱい殴られてえらい目に遭った。
「この先に行ったところで、たまに釣りをしてるんだ。いつもハゼとか、イソガニのちっちゃいやつしか釣れなくて、ガッカリしながら帰るんだけどね」
「他にお魚はいないのですか?」
「いっぱいいるよ。でもあいつら、人間が思ってるより賢いんだ。何回やっても、うまい具合に餌だけ取られちゃうんだよ」
「お魚にも、知恵があるのですね」
「うーん、そうみたい。おれは魚より知恵がないのかな」
 自分が魚より頭が悪いと認めてしまうのは、なにか癪(しゃく)だった。
『では今度、拙者と釣り比べを致そうか?』
「え? アヤノさんは釣りできるの?」
『伊達に齢(よわい)を重ねて星霜(せいそう)を閲(けみ)しているわけではござらぬぞ。釣りは大の得意であったような覚えがござる』
「記憶違いかもしれないだろ。あんなところに何年もいたんだから、腕だって鈍(なま)ってるはずだよ」
『かように申されれば自信はござらぬが、アストどのと出逢うたときは羽衣で見事一本釣りにしたではござらぬか』
「そうやって助けられたのは事実だけど、人を魚みたいに言わないでくれよ!」
 アヤノと言い合ったり、ルシェルが微笑んだりしている間に、岩場の突端に着いた。打ち寄せる波が岩場にぶつかり、無数の飛沫(しぶき)となって舞い上がる。
 ルシェルは、陽光に煌く海原を眩しそうに見渡していた。
 右奥に見える岬の南側は小型の漁船が停泊する船溜まりになっていて、今も舳先を並べた何艘かの小船が静かに波に揺られている。
「これが、海……」
 彼女の呟きには、微かな感慨が浮き立っているような気がした。もしかしたら、彼女は海を見たことがなかったのだろうか。
「海を見るの、初めてだった?」
「はい。お城から出たことはほとんどありませんでしたし、主君に付いてお出かけをするにしても、帝都の中に限られていました。ですから、こんなに豊かな自然に囲まれて生活できるアストさんが、うらやましいです」
「ここはただの田舎だよ。おれは、お城の生活っていうのを知らないから、そっちの方が楽しそうな気がするけど」
「そうでしょうか? 毎日気を遣うことが多すぎて、とても疲れます」
「そうなの? じゃあ、親方の機嫌を伺いながら働いてる見習いと、あんまり変わんないんだ」
 それで機嫌を損ねたとしても、相手が親方なら拳骨で済まされるが、王や皇帝なら首を刎ねられかねない。
「どうせなら、おれが王様になって、ルシェルさんに色々面倒見てもらうのが一番いいかな」
 ルシェルの反応が見たかったので、冗談のつもりで言ってみた。
「私が、アストさんの侍女に、なるのですか?」
「うん、そう」
「それでは……、お部屋のお掃除が大変になりそうです。お召し物の修繕も多くなりそうですし、毎朝お寝坊もされるので、起こして差し上げるのにも時間がかかってしまいそうで……」
 彼女は、主君になったアストと、それに仕える自分の姿を真面目に想像しているようだった。
「それはあれだよ! ルシェルさんに仕事を作ってあげてるってことだよ!」
『単に、アストどのがだらしないだけでござろう』
「う――」
 アヤノの言うとおりなので、あまり強く言い返せないのが辛かった。
「それに、好き嫌いをなさってお野菜を残すのはよろしくありませんので、残さず召し上がっていただかなければなりません」
「えぇー? それじゃあ、王様になってもあんまり楽しくないな」
 一週間ほど一緒に生活してきたから、アストがどんな人間なのか、ルシェルにすっかり知られてしまったみたいだ。
「でも、アストさんに仕えるのでしたら、毎日が楽しそうです」
 口元を微笑ませながらしゃがみ込んだルシェルが、海にそっと手を差し入れる。波の打ち寄せる感触を確かめているようだった。
「じゃあ、うちの侍女になってみる?」
「え――?」
 ルシェルが驚いてこちらを振り向いたとき、岩場に当たって弾けた波が盛大な飛沫を広げて彼女に降りかかった。
「きゃっ!」
 はしゃぐような声を上げてこちらに逃げてくるルシェルの姿が、とても愛らしく感じる。
 ――ルシェルさんでも、こうやってはしゃぐことがあるんだ……。
 いつも物腰が落ち着いているような印象しかなかったから、そんな彼女の姿を見るのが、すごく新鮮に感じられた。
「いきなり凄いのがきちゃったね」
「少し濡れてしまいました……。アストさんがびっくりするようなことを言うからです」
 ルシェルは若干の抗議をしつつも、白いハンカチを取り出して頬や服についた水滴を拭いていた。
「おれのせい?」
「アストさんのせいです、きっと」
「そっか。悪いことしちゃったね。ごめん」
「いえ、冗談のつもりでしたので、本当にお詫びしていただくのは、困ってしまうのですが……」
「いや、おれの方こそ、ルシェルさんがどういう反応するかなと思って、わざとやってるんだ」
「そうなのですか? ――もう、アストさんは意地悪です」
 頬に照れを滲ませながら拗ねる顔も、可愛いと思う。
 ルシェルと、このくらいの会話ができる関係になったのが、嬉しかった。もっと、彼女と親しくなりたいという気持ちが、日に日に強まってきている。
「本当にごめん。でも、海を見たことがないんだったら、もっと早く連れてきてあげればよかったかな。動物が苦手じゃないんなら、牧場(まきば)の方も見せてあげたいんだけど」
「その牧場に、羊はいますか?」
「いるよ。馬も牛も豚も、鶏(にわとり)もいる」
「一度、そういうところを見てみたいと思っていたのです。今までは、本を読んで想像することしかできませんでしたから」
「本を読むのが好きなの?」
「はい。自由に外へ出ることができなかったので、読書が唯一の娯楽でした」
 お城にいたときのことを話すルシェルの表情は、どことなく複雑な色合いに翳(かげ)っているように見えた。
 彼女にとって、お城での生活は、あまり楽しいことばかりではなかったのかもしれない。それなら、この村にいる間ぐらいは、色々なところを見せて楽しませてあげたいと思う。
 そして、もっといっぱい笑ってもらいたい。
 純真で屈託したところのない彼女の笑顔が、アストは好きになっていた。
「じゃあ、今度は牧場の方に連れてってあげるよ。秋になったら山が紅葉するから、その景色も見て欲しいんだ」
 それは、ルシェルを喜ばせるつもりで口にした言葉だったが、彼女の表情が晴れることはなかった。
「私も、できれば見せていただきたいと思うのですが……」
「どうしたの?」
「そろそろ、アストさんたちとお別れしなければなりません」
「え? どうして?」
「早く、主君を捜しにいきたいのです」
「あぁ――」
 アストは絶句してしまった。
 忘れていた、わけではない。
 いつか、その日が来ることはわかっていた。
「身体の調子が戻るまでお世話になったことは感謝しています。アストさんや、マナミさんや、おば様と一緒に過ごすのは、とても楽しかったです。海も見せていただいて、貴重な経験もできました」
 そこで、ルシェルは言葉に詰まったようだった。アストを見つめる空色の瞳が、揺れている。
「帝国の人間は憎まれているはずなのに、皆様に温かく受け容れていただけたことが、嬉しかったです。でも……、これ以上ご好意に甘えていると、この村を離れる決心が鈍(にぶ)ってしまいそうで、怖いのです……」
「…………」
 アストは、なにも言えなかった。
 口を開けば、彼女を引き留めようとする言葉しか出てこないとわかっているから、なにも言えないのだ。でも、ここでルシェルを引き留めたところで、それは彼女を困らせることにしかならない。
 快く、送り出してやるべきなのだろう。
 でも。
 そう簡単に割り切れないほどの感情のうねりが、アストの心を支配していた。
 彼女を快く送り出すことなんて、できそうもない。
 長い沈黙を挟んでから、表情を引き締め直したルシェルが、アヤノにも言葉をかけた。
「アヤノさんに剣術のご指導をしていただいたおかげで、自分の剣がまだまだ未熟であることがわかりました」
『ルシェルどのなら、独力(どくりき)でも己の剣を完成させることができよう。日々の修練を、大切にしなされ』
「はい」
『別れは名残惜しゅうござるが、こればかりは致し方ござらぬな。主君への忠義立てを邪魔するような、無粋な真似はできぬ』
 アヤノの言うことはもっともだが、アストは納得できなかった。
『ルシェルどのとは、まためぐり逢う縁でござるよ』
 なにも言えずに俯いていると、アヤノがそんな言葉をかけてきた。
 縁がどうとか誤魔化されたところで、なんの慰めにもならない。
 もし、彼女とまた逢える運命だったとしても、それが何年後になるかは、わからないじゃないか。
 ずっと会えないなんて、嫌だ。
 ルシェルと、別れたくない。
 一日だって、離れたくない。
 じっと耐えているのに、目じりから涙が零れてきそうだった。
 泣き虫な男なんて、格好悪くて嫌われてしまうかもしれない。
 でも、やっぱり泣いてしまいそうだった。
 たった一週間くらいを一緒に過ごしただけなのに、こんなに別れが辛く思えることなんて、あるんだろうか?
 こんなに誰かのことを好きになったのは、初めてだった。
『アストどの』
 アヤノは、泣くな、と言っているようだった。顔に、冷たい感触が当たる。
 雪だ。
 空を見上げる。
「たく、おかしな雪が降ってくるから、目に入っちゃっただろ」
 顔についた雪を払うような仕種で、涙を拭った。
『――いや、おかしいのは雪だけではござらぬぞ』
「え?」
 その言葉の意味がわからなくて眼を凝らすと、空に浮かぶ《環》を掠めるように、流れ星が横切ってゆくのが見えた。



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