【第四章】昏き影、嗤う魔女、集う光
第四十五話 父の面影

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 遠方に望むそれは、光の幕舎に思えた。
 厚い雲に覆われた灰色の空の下、そこだけが、清淡な光に満たされている。
 焚き火や、炬火台に燈される焔の色とは異なる、魔的な力によって生み出された白い光だ。
《犬小屋》が近づいてゆくに従って、聖堂や広場を取り囲む巨大な図像が、細部まではっきりと見えるようになってきた。
 霊光を帯びた不思議な紋様――これも、《咒紋》というものなのだろう――が縒(よ)り合わされるようにして、仄白く輝く柱や屋根を形成している。並び立つ柱の上部や破風には、背中に翼を広げた若者や少女の姿を象(かたど)った彫刻細工のような模様も描かれている。
 その仔細な様子を目の当たりにしたアストは、光が織り成す巨大な図像を幕舎と見立てた先ほどの印象を改めた。
 これは、聖堂なのだ。
 清らかな力と意思によって織り綴られた、光の社(やしろ)。
 地上に聳えるその姿は幽玄かつ荘厳な気配を漂わせているが、戦士様の聖堂が、突然現れた光の聖堂に上書きされてしまったように感じられた。
 もともと信心深くなかった上に、その戦士様に殺されかけたアストにしてみれば、彼の聖堂がどうなろうと知ったことではない。ただ、これが魔法によって生み出されたものであるなら、内部にどのような力が作用しているのかが気がかりだった。
 社殿を形成しながら絶えず流れてゆく咒紋の列に、どのような意味があるのかはよくわからない。
 ここから見る限り、光の内側に集まっている人びとに異常はないようだが……。
「聖域化の咒紋ね。神の栄光を讃える文言が綴られてるわ」
《覗き窓》から光の社殿を見上げていたマリーシアが、誰にともなく呟いた。魔法を操るだけあって、彼女には記述されている咒紋の意味がわかるようだ。
「聖域って?」
「神聖な力によって護られている領域のことよ。邪悪な意思を持つ存在(もの)は、聖域を侵そうとしても強制的に排除されて近づけないの。だからこの辺には、悪魔憑きになった人たちが寄ってこないでしょ」
「それって、どんな悪にでも反応するのか?」
 場合によっては自分も中に入れないかもしれないという不安に襲われたので、尋ねてみた。
「もっと具体的に言ってくれるかしら」
「誰だって、悪さの一つくらいはしたことあるだろ?」
 具体的にと言われたところで、女の人が入っているお風呂を覗こうとする程度の悪には反応するのか、とは聞けない。
「まぁ、そうね。完全な善性を持った人間なんていないから、徹底的に純化された聖域なら何人(なんぴと)たりとも立ち入ることができないでしょうね。ただ、聖域といっても、なにを聖邪と規定するかは、咒紋を行使した術者の理念や思想に委ねられるところが大きいのよ。この聖域は逃げてきた人たちを受け容れてるみたいだから、あたしたちも中に入れるかもしれないわ」
「そういう理屈はよくわかんないんだけど、誰がこんなものをここに創ったんだ?」
「そこまであたしにわかるわけないでしょ。これの中に咒紋を設置した人がいるんじゃないの?」
「それなら、とりあえず近くまで行ってみようか」
 なにかの罠が仕掛けてある可能性も考えられなくないが、既に多数の村人たちが集まってきている以上、それを覚悟の上で調べてみる必要がありそうだ。 
「マナミさんが、ここにいればよいのですが……」
 微かな望みを含ませたルシェルの言葉に、「うん」と首肯を返した。避難してきた人たちの中に妹がいるかもしれないのだし、ここで尻込みしているわけにもいかないと思う。
「ジェドが、あの光は怖いって言ってるよ」
 アストには聞こえないが、エリウスには黒犬の声が聞こえているらしかった。アストとアヤノのように、彼らもお互いの意思がやり取りできるのかもしれない。
「先ほどこの俺を跳ね飛ばしたばかりの犬だからな。己の存在が悪だという自覚があるのだろう」
 ヴァンが嫌味を言ってのけると、エリウスは、むっ、とした表情で睨み返した。自称「英雄の末裔」は、ユータに手伝わせながら再び鎧を着込んでいる。
「ぐずぐずしてる暇はないのよ。力ずくでも言うことを聞かせなさい。あなた飼い主でしょ」
 マリーシアにせっつかれたエリウスは、「そうだけど」と力のない返事をした。
「ジェド、行ける?」
 飼い主に促された黒犬が、怖ず怖ずとした足取りで聖域の内部へ進入する。頭から尻尾の先まで光の中に入りきったようだが、特に異常はない。
「なんともないみたいだな」
「当然でしょう。とりあえず、中の様子を調べてみましょう」
 マリーシアの言葉に肯きながら、安堵の息をつく。
 その直後、広場に集まっていた人びとの中から、武装した男たちが数人飛び出してくるのが見えた。
「止まれ!」
 彼らの先頭に立った男が、こちらに向かって威喝の声を張り上げた。ほとんど白くなった頭髪や髭を野武士のように蓄えた壮年の男であったが、その眼光は氷刃のごとく研ぎ澄まされている。
 四肢に盛り上がった筋肉の鎧を束ね上げた、頑強な偉丈夫であった。
 男は自警団の団長で、名をシュゲンという。その隣には、数時間前にアストたちを追い回したゴドーの姿もあった。
 剣を手にした自警団の男たちが、いつでも切りかかれるような体勢を取りながら《犬小屋》の周りを取り囲んでいる。
「ジェド、止まって」
 黒犬を停止させたエリウスが、若干戸惑った顔つきでこちらに振り返った。
「なんか、物々しい雰囲気なんだけど」
「窓を開けてくれ」
 応答した母が窓際に近寄ると、《覗き窓》が瞼のように上がって開放された。
「シュゲン! 私だ!」
 窓外へ身を乗り出した母が、腕を振りながら白髪の団長へ呼びかけた。
「リオナか!? この黒犬の化け物はなんだ?」
「危険はないから安心してくれ。うまく説明はできないが、奇妙な者たち≠フ力を借りることになった」
「奇妙な者たち≠セと?」
 シュゲンは腑に落ちかねた様子で眉をひそめたが、団員たちには剣を鞘に納めるよう指示を送っていた。
「私が団長と話をする。出口を開けてくれないか」
「じゃあ、奇妙な者たち≠煌Oに出たほうがよさそうね。どうやら人間じゃないと思われてそうだから」
「すまない。悪気はなかった」
 母が侘びると、マリーシアは「そうでしょうね」と軽く受け流すように応えた。
「でも、この程度でいちいち腹を立てていたら、善い魔女≠ネんてやってられないのよ」
 帽子を被り直した彼女が席を立ったところで、《犬小屋》の出入り口が開いた。

 呼吸をすると、清澄そのものの空気が肺腑に染み渡った。
 聖域の内部には、大気を浄化する力でも働いているのだろうか。
「空気が澄んでる……」
『ふむ。ここの空気は、やけに爽やかでござるな』
 左肩に乗ったアヤノも、腕を伸ばしながら深呼吸をしていた。
「お前たちも一緒だったのか」
 地に足を降ろしたところで、シュゲンが声をかけてきた。アストたちが村内で騒ぎを起こすたびに自警団の厄介になっているおかげで、彼らにはすっかり顔を覚えられてしまっているのだ。
 今までに多くの団員たちから雷を落とされてきたものだが、とりわけ団長の拳骨が、一番、重かった。
「怪我はないのか?」
「ああ。ユータがどっかで痣を作ってきたみたいだけど」
「無事ならいい」
 シュゲンはアストの後ろに隠れていたユータの頭をくしゃくしゃに撫でると、村人ではない℃O人の男女の方を見遣った。
「彼らは何者だ?」
「あぁ、この人たちは――」
 その問いかけに対して、どう答えるべきか迷っていると、
「魔女よ」
「犬使い、かな」
「英雄だ」
 三人が順繰りに口を開いた。
 三人ともグラードの言葉がわかるのには感心するが、色々と省かれ過ぎていて、かえって怪しさが増す自己紹介だと思う。
「なるほど、確かに奇妙な者たちだ」
 腕組みをしたシュゲンが、九割の不審と一割の得心、といった表情で呟く。
「あまり驚かないんだな」という母の声に視線を振り向かせた彼は、「不思議な者なら、先ほども見たばかりだからな」と応じた。
「不思議な者って?」
 アストが尋ねると、シュゲンは上空に光の紋様で描き出された社殿の天井を見上げた。
「この光の聖堂を描いていった者だ。見た目は子供のようであったが、背に透き通るような翼が生えていたな」
「――それって、神遣いじゃないかしら!?」
 マリーシアが急に大きな声を上げたので、皆の視線が彼女に集中した。
「ヴェルトリア人の神に仕える、天霊というやつか?」
「そうよ。まさかとは思うけど、ゼヴェスの祇徒たちに対抗して、ラルスの神遣いたちが地上に降りてきたのかもしれないわ」
「解(わか)らんな。ヴェルトリアの神に仕える者たちが、なぜグラードの地で争う必要がある?」
「それはあたしにもわからないけど、争う価値のあるものが、この村にあるんじゃないの?」
 シュゲンの問いに答えたマリーシアは、なにかを探すような素振りで空の彼方を見遣った。彼女が見つめていたのは、村外れに現れた巨大な塔がある方角だ。空が暗いせいではっきりと目視することはできないが、方々で雷光が閃くたびに、白亜の巨塔の姿が浮かび上がる。
「あの塔に、なにかあるのか……?」
 そう口にした直後、
「お前!」
 いきなり横合いから伸びてきた手が、アストの胸倉を掴んだ。強引に身体の向きを変えられ、眉目を凄ませたゴドーの顔が正面にきた。
「なんだよ!」
「その徽章はどこからかっぱらった! それでいっぱしの自警団員になったつもりか!?」
 アストが襟元に着けている徽章を、盗んだものと勘違いされているらしかった。
「これは、オレスから預かってくれって言われただけだよ」
「なにぃ!? 適当なウソで言い逃れしようなんて思うなよ!」
「ウソじゃないって!」
「やめろ」
 団長の一声が、アストを締め上げようとしていたゴドーの手を降ろさせた。
「それは、オルグの徽章だな」
「そうだよ」
「なぜ、お前がそれを着けている」
「オレスから預かったんだ。自分が自警団員になったつもりはないけど、オルグさんも、村を護りたいだろうなって思ったから」
 アストはそれ以上言葉を続けなかった。こんな感傷的な理由が、大人に通じるものかと思う。
「そうか……」
 低く応じたシュゲンが片手を上げた。殴られる。そう思って身を硬くしていると、岩も砕けそうなほど分厚い手が、アストの肩の上に置かれた。
「それなら、その徽章はお前が着けていろ」
 意想外の言葉が、身体の芯を揺さぶった。
「あいつも、一緒に戦わせてやってくれ」
 その一言で、シュゲンは自分の気持ちを理解してくれたのだとわかった。
「ああ」
 肩に置かれた手の重みと、団長の眼差しを真っ向から受け留め、しかと肯いてみせた。シュゲンが認めてくれるかはわからないが、自分は、男として約束したつもりだ。
「少しは、親父に似てきたようだな」
 シュゲンの口元が、微かに笑ったように見えた。
「おれが、親父に似てるのか?」
「あぁ、そうだ。――なぁ、リオナ。お前の息子が、エイジのやつに似てきたと思わないか?」
「からかいはよしてくれ。父親に似る前に、人間になれるよう必死で叩き直しているところなんだ」
 母は、悪い冗談でも往(い)なすようにかぶりを振った。
「おれは人間じゃなかったのかよ……」
 愚痴を零すように呟いた、そのときのことだった。
「――アスト!」
 縋りつくような叫び声に背中を打たれ、振り返った。
 こちらを遠巻きに見ている人垣の中から、サーシャの姿が飛び出してくる。
「無事だったのか!」と声にしながら駆け寄ると、彼女の頬や額に青い痣ができているのが気になった。
「その痣はどうしたんだ?」
「お父さんが悪魔に取り憑かれて、いきなりあたしを……」
 そこまでを口にしたところで、サーシャは声を詰まらせた。堰を切ったように瞳から溢れ出した涙が、彼女の頬を濡らしてゆく。
「小父さんがやったのか?」
「おじいちゃんも、お母さんも……、みんなおかしくなっちゃったの……。リリも見つからないし……、あたしだけ、なんとかここまで逃げてこれたんだけど……」
 とても怖い思いをしたのだろう。いつも勝気なサーシャが、小さな肩を震わせるように泣いている。
「ユータたちと一緒にいたんだろ? あいつは……、オレスは無事なのか?」
 サーシャの手が、縋りつくようにアストの服を掴んだ。その濡れた瞳と向き合うのが辛くなって、目を逸らしてしまった。
「あいつも、お前の家族と同じだ」
「そんな……」
 涙と失意で掠れた声が、アストの心にざわりと触れる。憎まれ口を叩かれたときは泣かせてやりたくなることもあるが、現実にこんな姿のサーシャを見せられるのは耐え難かった。
「みんなを元に戻す方法は、これから見つけてみせるから」
 確約はできない。それでも、決意を口にしたつもりだった。
「無理はしないでよ。あんたになにかあったら、マナが悲しむんだから」
「ああ。……ここに、マナミは来ていないのか?」
「マナに会わなかったの!?」
 妹のことを尋ねると、サーシャは弾かれたように顔を上げた。
「ついさっき、あんたを探しに行くって、羽根が生えた子と一緒にここを出てっちゃったんだよ!」
「なんだって!?」
 頭の中が凍りつくのを感じた。妹は、ここにいたのだ。
「どうしておれが来るまで待たせなかったんだ!?」
 苛立ちをサーシャにぶつけても仕方ないことはわかっていたが、声を荒げずにはいられなかった。
「あたしは待つように言ったんだけど、あの子、あんたのことが心配だからって言い出して、聞かなかったんだよ!」
「あいつ、こんな時までおれの心配してどうするんだよ!」
 ここへ着くのがもう少し早ければ、妹と会うことができたのだろうか。握り固めた拳を、行き場のない怒りと戸惑いが戦慄(わなな)かせる。
「マナミが、どの方角に向かったかはわかるか?」
 落ち着きを失いかけた頭の中でも、妹を捜すための手がかりだけは得なければならないと考えることはできた。
「わかんないよ……。羽根の生えた子が、剣(つるぎ)を持った女の子を捜してるって言ってたらしいんだけど、マナが、その子ならあんたと一緒のはずだって……」
「剣って――!?」
 必死に驚声を呑み下しながら振り返ると、こちらを見つめていたルシェルと目が合った。
「神遣いが、ルシェルさんを捜してるのか?」
「その子、なんなの?」
「今は説明してる時間がない」
 訝るようなサーシャの声を振り切ったアストは、「行こう」とルシェルに声をかけた。
「神遣いが、私を捜しているのですか?」
 サーシャとの会話はグラード語で行われたが、部分的にはルシェルも理解していたようだ。
「事情がよくわからないけど、そうみたい。妹が一緒についてったらしいんだ」
「マナミさんが……?」
「ついさっきまでここにいたっていうから、まだ遠くには行ってないはずなんだ。急げばすぐに捕まえられると思うんだけど」
「それなら、早くここを出発しましょう」
「うん」
 神遣いが、どのような目的で地上に降りてきたのかは判然としないが、先刻戦った怪物たちのように危険な存在ではないことを願った。それが村人を守る聖域を創ってくれたということは、人間に攻撃を加える意思は持っていないものと思われるが……。
 とにかく、このことをマリーシアたちにも伝えて早く妹を追いかけよう、と考えたところで、
「おい、小僧」
 ゴドーに声をかけられた。
「今度はなんだよ?」
「そう怒るな。お前の妹さんのことなんだがな。お前のことを捜しているというから、少し前に塔の方で見かけたって話しちまったんだ」
「じゃあ、マナミはあの塔に向かったんだな?」
「かもしれねえが――、おい!? 待てって!」
「今すぐ塔に行ってみるよ!」
 返事もそこそこに、アストはマリーシアたちのもとへ駆け寄った。
「妹が、神遣いと一緒に塔へ向かったらしいんだ。すぐに追いかけようと思うんだけど、みんなの力を貸してほしい」
「もちろん、そのつもりよ」
「僕も同じく」
「あえて答えるまでもない愚問だな。英雄には世界を救う義務がある」
 拒否の声が一つも出なかったことに、アストは感謝した。少々性格に癖はあるが、皆、心根のいい人たちでよかったと思う。
「みんな……、ありがとう」
「顔を上げなさいよ。お礼なら妹さんを見つけた後でいいわ」
 アストが頭を下げると、マリーシアがすぐにそう言ってくれた。
「がめつい魔女だな。英雄は礼など取らん。まぁ、どうしてもというのなら、少々の食料を受け取ってやるのも吝(やぶさ)かではないが」
「あたしが言ってるのは言葉のお礼であって、あなたみたいに物を恵んでもらうつもりはありませんから」
「お前の言い方では、俺がさも卑しい人間であるかのように聞こえるのだが」
「違ったの?」
「なんだと」
 性格に癖があるのは構わないが、出発する前から喧嘩が始まるのは困る。
「マナミはあの塔に向かったのか?」
 母が声をかけてきたので、アストは顔を上げた。思ったとおり、大剣を手にした母はアストたちに同行するつもりのようだ。
「おふくろは、ここに残っててくれないか」
「どうしてだ?」
「おれたちが出発したあと、マナミがここに戻ってくるかもしれないだろ? あの蜥蜴みたいなやつらだってまだいるかもしれないし、団長たちと一緒にここを守っててほしいんだ」
 アストが口にしたのは、母をここに残らせるための方便だった。これからは、あの蜥蜴たちよりも恐ろしい敵が待ち構えているだろうことは想像に難くない。だから、母には少しでも安全なところにいてほしかったのだ。
「お前……」
 呟いた母は、「子供のくせに、一丁前(いっちょまえ)の口を聞くんじゃない」と、アストの頭に軽く拳を置いた。
「子供かもしれないけど、おれだって男だよ。必ず戻ってくるって約束するから」
「馬鹿を言うな。お前が男を気取るのは十年早い」
 そう言いながらアストの頭を押しやった母は、急に身を翻して背中を向けた。
「お前も、あの人と同じだ」
 その声が、微かに震えている。先日見た母の涙を思い出し、胸の奥で感情が疼き始めるのを自覚した。
「お前の父親は約束を破らない人だったが、ただ一つだけ守れなかった約束がある」
 母は、その『約束』について深くを語ろうとはしなかった。それでも、アストにはわかる。
「無事に戻ってこなかったら、許さないからな」
「ああ」
「早く行け。マナミを見つけるまで、家(うち)には帰ってくるな」
「わかったよ。絶対にあいつを連れて帰ってくる」
 背を向けたままの母に応え、後ろで待っていたルシェルたちの方へ向き直った。
 ――親父が守れなかった約束、か。
 戦場に行った父は、きっと、アストと同じ約束を母にしたのだと思う。
 そして、二度と還らなかった。
 父が果たせなかった約束を、息子の自分までもが破ってしまったら、母は、……母は、どうなってしまうのだろうか。
 こちらに向けている母の背中が、ひどく小さなものに見えてしまって、戸惑いを感じた。
 そういえば、幼いころは見上げるばかりだった母の瞳が、いつの間にか自分と同じくらいの高さになっていたな、と思う。
 いつも気丈に振舞う母には、父親のような頼もしさを感じることもあったが、やはり、ずっと無理をしていたのだろう。
 うちのおふくろなんて、我が子の頭を押さえつけようとしてくるだけの邪魔者だ。
 そのようにしか考えていなかった今までの自分が、とても恥ずかしくなる。母の細身にかかる負担や心労を素直に認めていれば、もっと気遣いのやりようがあったはずなのだ。
 これまで好き勝手に生きてきたつもりのアストでも、自分を生み、育て、今も見守ってくれている肉親が存在するという事実は、否定できなかった。
 子供のころから、母とは数々の約束を交わしてきたものだが、自分が約束を守った記憶など一つもない。自分は、手間や面倒がかかるだけで出来も悪い、酷い息子だったと思う。
 それでも、この約束だけは――
 破るものか。
 胸裡に誓いを刻みつけたアストは、一同に出発を告げて広場を後にした。



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