足下が暗かった。 さっきまでは、地面の小石を見分けるくらいの明るさはあったはずだ。そう思った後で、そろそろ日没が迫っているらしいことに気づいた。空を覆う雲が、黒炭のような色に変わりつつある。 アストたちは、古塔の麓まであと僅かというところまで近づいていた。 妹は、まだ見つかっていない。 付近をすれ違う人――あるいは、人でないもの=\―がいれば、最低でもアヤノか黒犬が気づくはずだが、現時点ではそのような気配もないようだ。 神遣いに連れられて、既に古塔へ辿り着いてしまったのだろうか。 ……まさか、塔の中にまでは入ってないよな。 嫌な想像が浮かぶたびにそれを打ち消そうと努めていたが、胸中の不安と焦りは募るばかりだ。 この時刻になって、また霧が出てきた。先ほどまでは大きく見えていた塔の姿が、今は霧の向こうに隠れている。このまま日没を迎えれば、視界はほとんど利かなくなってしまうだろう。辺りに完全な闇が這い降りる前に、マナミを見つけ出さなければならない。 妹と一緒にいる神遣いが凶暴な存在ではなかったとしても、それが敵か味方かの判断は、実際に会ってみるまで保留することにした。 それが剣を持った少女を捜しているという話だが、それはやはり、《剣の斎女》であるルシェルのことなのだろう。彼女が持つ神剣の力を、神遣いたちが欲しているのかもしれない。ならば、祇徒とかいう化け物たちも、同じ目的で動いているのだろうか? それとも、古代の遺跡と思われるあの石塔に、別の目的があるのか? 「視界が利かなくなってきたわね」 マリーシアの声に思考を遮られ、首だけをそちらに振り向かせた。十歩と離れていないところにいる彼女の姿が、霧の中に霞んで見える。 「はぐれないように注意して進みましょう」 「そうだな」 ルシェルの言葉に肯きながら、これからは隊伍を組んで動いた方がよさそうだと思った。不意の襲撃に備えて《犬小屋》には乗らずに移動してきたが、漫然と歩いているだけでは、敵が攻撃を仕掛けてきたときに混乱しかねない。 前列にはアストとルシェルが立ち、後方はヴァンとエリウスに警戒してもらう。マリーシアは、自分がか弱い≠アとを理由に挙げて、隊列の中央に収まった。彼女が本当にか弱い≠ゥどうかはともかくとして、ひとまずこれでいいだろう。 賽子(さいころ)の五の目のような隊列を組んだアストたちが移動を再開しようとしたとき、霧の奥で烈しい光が明滅を繰り返した。一瞬遅れてやってきた轟音が大地を鳴動させる。 「爆発か!?」 『急ぎなされ。あすこで争闘が始まったようでござるぞ』 「誰が戦ってるんだ?」 『わからぬが、超常の者たちに混じって、一つだけ人の気配がござる』 「わかった!」 アヤノに返事をすると同時に駆け出した。あそこに人間が一人いるというなら、それが自分の妹である可能性は高い。神遣いや、祇徒とかいう化け物たちとの争闘に巻き込まれてしまったら、そうそう無事ではいられないはずだ。 「マナミ!」 霧の奥に向って叫んでいた。断続的に起こる爆発の光以外に、まだ見えてくるものはない。 「――おにいちゃん……!?」 声が返ってきた。妹の声だ。 姿はまだ見えない。霧が、さらに濃くなっていた。隣を走るルシェルの姿でさえ、霧の中に隠れてしまっている。 「今そっちに行くからな!」 『用心しなされ。この霧は妙でござるぞ』 アヤノの声は聞こえていたが、だからといって立ち止まるわけにはいかなかった。すぐそこに、妹がいるのだ。多少の危険があろうと、まずはマナミのもとへ辿り着くのが第一だと思えた。 しかし―― 声がした方角へいくら走り続けても、妹の姿は見えてこなかった。 近くを走っていたはずのルシェルたちの気配も、どこかに消えてしまっている。 アストの周りには、数歩先も見通せぬような深い霧と、誰もいない世界に迷い込んでしまったかのような、不穏な静寂だけがあった。 「みんな、どこにいったんだ?」 途方に暮れて立ち尽くすと、むう、と唸る声が聞こえた。 『この霧は、拙者らの足を迷わせるためのものだったようでござるな』 「じゃあ、罠だったのか?」 『天候を何者かに利用されたのは、確かにござる』 「そいつが魔法で張った霧なのかな。とにかく、さっさとここを抜けよう」 『その前に、ちと掃除をしてゆく必要がありそうでござるな』 「掃除?」 アヤノの言葉に問いを返した、その直後。 『――下でござるぞ!』 「えっ!?」 なにも見えない。咄嗟に後ろへ跳んだのは、アヤノの言葉と自らの勘に従っただけのことだ。足のすぐ下を、一筋の殺意が掠めてゆくのがわかった。 「なんだ!?」 なにかいる。そう思った直後、背に固い感触が当たって息が詰まった。木の、幹だ。 『影≠背負いなさるな!』 「影≠チて……!?」 アヤノに一喝され、弾かれるように木の傍を離れる。樹幹から黒い影が滲み出てくるのを見たのは、その数瞬後のことだった。 「なんだ、あいつは……?」 次第に厚みを増す影が、人の形を取ろうとしていることに注意の大半を奪われたアストは、地面の窪みに足を取られて転倒した。 あの影は、なんなんだ? 影から、なにかが出ようとしているのか? 影――? はっ、と気づいたときには、転がりながらその場を離れていた。地面と接している身体の下には、影が生まれる。 余勢で立ち上がると、自分が倒れていたあたりの地中から、鋭い刃が突き出ているのが見えた。アストが離れても尚、そこには黒い影が蟠(わだかま)っている。その影の中から、浮上してくるものがあった。 湾刀を掴んだ腕と、漆黒の頭巾。 アストは、サクラメの鞘を払った。 樹幹から姿を現した一体は、もう間合いに入ろうとしている。それは、全身を黒装束に包んだ暗殺者のような姿をした、影≠セった。目を凝らしても頭巾の奥にあるはずの顔は見えず、冷然とこちらを見据えている気配だけがある。その手に提げられていた湾刀が、音もなく突き出された。太刀筋が踊る。左の二の腕に、熱い感触が奔った。 躱わしたつもりだったが、切られていたようだ。 『皮一枚でござるな。これしきの薄手(うすで)でござれば、血はすぐに止まる』 無言を返事に代えた。今度は、湾刀が薙ぐように払われる。あえて刀を合わせず、踊る太刀筋を潜(くぐ)り抜けるように転がった。互いの位置が入れ替わる。 対峙に入った。 刀を清眼に据え、《太樹》の相を取る。足下から地中に神気の根を張れば、相手の強撃を受けても飛ばされぬ堅牢な防御が可能となるのがこの位相だ。しかし、どうすれば自分の足から神気などというものを地中に下ろせるのかはわからない。 《太樹》はあらゆる位相の礎となる態勢であり、刀を下段に移せば《月陰》、中段よりやや上に取り、切っ尖を相手の額の中央に向ければ《星天》、さらに上段へ振り上げれば《月華》となり、最初の《太樹》の位置から刀を脇に移行すると《水鏡》の相となる。 しかし、満足に刀を操れぬ自分が無闇に位相を変えたところで、相手が翻弄されることはないだろう。 黒装束が手にしている湾刀が、陽炎のように揺らめいて見える。 あれが、踊る太刀筋の正体か。 刀身が揺らめいているから湾刀に見えただけで、本当は直刀なのかもしれない。 ――アヤノさんは、あれの太刀筋が読めるか? 『さしてむつかしいことではござらぬな。アストどのも修練さえ積めば、いずれは読めるようになるはずでござるよ』 ――いずれじゃなくて、いま読まなきゃいけないんだよ! 胸裡に叫んだそのとき、黒装束の身体が低く沈んだ。懐に、飛び込んでくる。水平に払われた刀身が、まるで意思を持つもののように踊りくねった。先ほどのように潜(くぐ)ってやり過ごすのは、無理だ。アストは地を蹴った。 下に、黒い頭巾が見える。サクラメを振った。霧中に煌く弧月。黒装束の背中。すべてが舞灯籠(まいどうろう)のように視界を往(ゆ)き過ぎる。 着地。 頭蓋を断ち割られた敵が、地に崩れ落ちていった。 その骸(むくろ)が、瞬く間に黒い液溜まりと化してゆく。 「死んだのか……?」 『観察するのは後回しにしなされ!』 頭にしがみついていたアヤノが、アストの視線を下に向けさせた。地表に浮いた影から、陽炎のごとき刃が突き出される。後ろに倒れながら、空(くう)を掬い上げるように刀を遣った。宙に躍り上がった黒影が、二つに割れる。そのまま脇に転がった。落下してくる骸を躱し、すぐに立ち上がる。 「どこに隠れてる?」 周囲に動くものはなかったが、敵がいなくなったとは思えない。 やってくるとしたら、また足下だろうか。 自分の影を正面に置く。地表には、黒装束の屍骸と思われる黒い染みが二つ。それらの他には、なにも見当たらなかった。 『危うきを識(し)るには、鬼気の在(あ)り処(どころ)を察しなされ』 アヤノが、すぐ行うには難しそうなことを囁きかけてきた。 「そんなの、どうやったらいいんだよ?」 『とうに稽古で教えたことでござるぞ』 「そんなの教わってないぞ」 『拙者が骨身に刻みつけた鬼気を忘れたのでござるか?』 「……あれ≠ェ、それ≠セっていうのか?」 言われてから、ただ立っているだけのアヤノから凄まじい気配を叩きつけられて腰砕けになったことを思い出した。 『左様』 「憶えてるけど、突っ立ってたらもの凄い寒気がしただけだぞ?」 『ならば十分。アストどのの身体は、既に鬼気の察し方を識(し)っているのでござるよ』 「そんなこと、本当に――」 できるのかよ、と問いかけたその時。 首筋に、冷やりとする感触がやってきた。後ろからだ。反射的に身体を捻る。視界の端を、黒い閃影が奔り抜けていった。 「今の!?」 『それが鬼気でござるよ!』 アヤノに怒鳴られながら、先ほど得た感触を想い起こした。首筋に、いきなり刃物を押し当てられたような冷たさが奔ったのだが、あれが鬼気というやつなのだろうか。 今も、肌を刺してくるような凶々しい気配が、アストの周りを取り囲んでいる。気配の数は、三つ。その中の一つが、急速に接近してきた。位置は、目の前。霧の中には、何者の姿も見えない。だが、危うきは確実に、そこにいる。 右から、斬り上げてきた。陽炎の刃。霧を巻いて迫る太刀筋が、アストには視えて≠「た。刃の流れに逆らわず、左へ回り込んだ。鬼気と馳せ違う。霧が割れた。腰から二つに切り離された敵の身体が、その中から滑り出るように現れて地面に転がる。 『今度は、霧を纏うことで身を隠していたのでござるな』 アヤノが独り言のように呟いていた。その理屈は、よくわからない。霧の中に隠れているのだとすれば、あらゆる方角からの攻撃を警戒しなければならないはずだ。 アストは、奥に潜んでいた鬼気の一つを、正面に捉えた。霧の中にはなにも見えないが、なにもいないわけではない。霧を纏って、隠れているだけだ。霧の幕を引き剥がすように、刀を水平に払った。割れた霧の中から、黒装束の骸が吐き出される。 残る鬼気は、一つ。 アストはサクラメの刀身を翻すと、切っ尖を空に向けて突き出した。 真白き剣尖が、狭霧(さぎり)の海を刺し貫く。 そこに、上空から踊りかかってくる、鬼気があったのだ。 刀を振り下ろすと、胴を貫(ぬ)かれた黒装束が地に落ちた。見る間に黒液と化した躯骸(くがい)が、白露(はくろ)に濡れた大地の上に拡がる。 『鬼気を察する骨(こつ)は掴んだようでござるな』 「滅多打ちにするだけの稽古より、こういうのをもっと教えて欲しいんだけどな」 稽古で烈しい手数を浴びているおかげで、化け物の二、三体に囲まれても対応できるのかもしれないが、あまりありがたみを感じるものではなかった。 『極意を伝授するにも頃合というものがござる。拙者への文句より、先にやるべきことがあるのではござらぬか?』 なにを、と口にしかけたところで、背後を振り返った。霧の奥から、二つの気配が近づいてくるのに気づいたからだ。しかし、鬼気ではない。肌を刺すような独特の冷たさを持った鬼気とは違い、近づいてくる二つの気配は、温かい。その片方からは、よく見知ったもののような感触すら覚えた。 この感じは、きっと―― 頭で理解するより早く、アストは駆け出していた。 「マナミ!」 ありったけの声で呼びかける。 「おにいちゃん!? どこにいるの!」 妹の気配が、徐々に近づいてくるのがわかる。濃霧を振り払うようにして、マナミの姿が現れた。 「おにいちゃん!」 胸に飛び込んできたマナミの身体を、しっかり受けとめた。 「ずっと捜してたんだよ……。今までどこに行ってたの?」 霧で湿った黒髪が、アストの肩に押し付けられる。 「それはこっちの科白だよ」 口の端に苦笑を浮かべながら妹の身体を放したアストは、少し離れたところで所在無げに佇んでいる子供に視線を向けた。まだ幼少の域を出ていないような、小さな女の子だ。二つ結びにした金色の頭髪の上には神威の加護を示す光の環を戴き、背中には透き通るような一対の翼が広がっている。 「その子が、神遣いなのか?」 「うん」 二人の視線を受けた神遣いの少女は、やや泡を食ったように両腕をばたつかせた。 「あ――、あの、はい! お、お、お恥ずかしながら、わわ、わたくしめが、みみみ神遣いにございます!」 「なんで慌ててるんだ?」 「人見知りが激しい子で、緊張したら、こうなっちゃうみたい」 「あ、あの、そうなのです……。すみません……」 今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませた神遣いを見て、こういうのは自分の手に余るな、とアストは思った。 「ひ、ひとつ、お尋ねしても、よろしいですか?」 神遣いの少女は小さな身体をさらに縮こめるようにして、アストの顔色を窺っていた。 「いいよ」 「お兄さんと一緒にいるはずの、斎女のお姉さんは、どちらにいるのですか……?」 「ルシェルさんのことか?」 「はい」 話には聞いていたが、神遣いがルシェルのことを捜しているのは、本当だったようだ。 「すぐ近くまで来てるんじゃないかな?」 後方に彼女の気配を感じたので、振り返った。霞んでいてもそれとわかる白い人影が、こちらに向って駆け寄ってくる。 「ご無事ですか?」 「うん。黒ずくめの変なのが襲ってきたけど、なんとか片付けたよ」 「咒隷なら、私の方にも現れました」 「咒隷?」 「魔女レニヤに従う妖魔の群れです。数は少ないですが、帝都を襲った者たちと比べると幾分手ごわく感じました」 「確かに手ごわかったよ。あんなのがたくさん湧いてきたら、ちょっと危なかったかもな」 会話を続けながら、左腕の状態を確認した。傷口は、本当に皮一枚という程度の深さで、出血はもう止まっている。 「腕にお怪我をされたのですか?」 「こんなのは、怪我のうちに入らないよ」 小さいころ、山遊びをしているときに、これくらいの傷はいくつも創ったものだ。 そんなことより、ルシェルだって同じ敵に襲われたはずなのに、露に濡れた彼女の肌には傷一つついていないのを目の当たりにして、己の未熟さを痛感させられた。 「――その傷、私に見せてください!」 突然、恐い顔をしながら近寄ってきた神遣いの少女が、アストの腕につけられた傷をじぃっと見つめた。 「そんな大した怪我じゃないって」 「放って置くのはいけません! 傷口から瘴気が入り込んで悪さを働くことがあるのです!」 「悪さを働くと、どうなるんだ?」 「腕が腐ってしまいます!」 「ウソだろ!?」 怯んだ声を漏らす間に、神遣いの少女は右手をアストの傷口にかざした。彼女の手の甲に神聖な雰囲気を帯びた紋様が浮かび上がり、右手全体が淡い優しげな光に包まれる。瞳を閉じた神遣いが、そっと撫でるように手を動かすと、傷は跡形もなく消え去っていた。 「どうなってるんだ?」 「小さな傷であれば、《治癒》の咒紋で治すことができるのです。大きな傷は、無理ですが……」 「大したもんだな。ありがとう」 「いえ、それほどでも……」 アストが礼を述べると、神遣いの少女は照れるように顔を俯けた。 「綺麗にふさがりましたね」 微かな驚きを含んだルシェルの言葉に「ああ」と肯く。 「マナミさんもご無事だったようで、安心しました」 「何度も魔物たちに襲われたのですが、リリィが助けてくれたんです」 マナミは神遣いの手を取って、ルシェルに引き合わせた。リリィというのはこの子の名前のようだ。サーシャが飼っている、白猫のリリと似た名前だと思う。 「彼女が、私を捜しているという神遣いなのですか?」 「はい。リリィが『剣の斎女』という方を捜しているというので、きっとルシェルさんのことだと思って、一緒に……」 「わかりました。――それでは貴女は、私になにか伝えるべきことがあって、地上へ降りてきたのですね?」 ルシェルが視線を合わせると、リリィという名の神遣いは「は、はい! はいです!」とどもりながら何度も肯いた。 「わた、私は、剣の乙女が使命を果たせるよう、その導き手となる重要な役目を仰せつかりました、リリィと申しますものです! ほ、本当は、姉のミリィと一緒に来るはずだったのですが、降りてくるところを間違えたりして、色々と手遅れと手違いが重なるような事態になった次第なのです……! 私はいつも失敗ばかりするので、お姉ちゃんがいないと、なにもできなくて――」 そこで声を詰まらせたリリィは、身体を震わせながら嗚咽し始めた。 「それは、困ったな……」 一通り話を聞いたところで、アストは率直な感想を呟いた。この数時間だけで次々と起こる変事に理解が追いつかず、他に返すべき言葉が見つからない。 「この泣き声はなんなの?」 それから程なくして、マリーシアが合流してきた。その後ろには、エリウスやヴァンの姿も見える。全員、無事だったようだ。 「この人たちは?」 「お前を捜すのを、手伝ってくれた人たちだよ」 「私を捜してくれたの?」 そう呟いたマナミは、心持ちアストの後ろへ隠れるように身を寄せてきた。怖がらなくていいと言おうとしたのだが、どう見ても魔女のような恰好をしたマリーシアを見ると、無理もないか、と思う。 「妹さん、見つかったの?」 「ああ」 「で、この子が神遣い?」 「そうらしい」 「ふーん……」 マリーシアは、泣きじゃくる神遣いの顔をしげしげと覗き込んだ。 「なんか、どこかで見たことあるような気がする子ね。よく思い出せないけど、まぁ、いいわ」 視線をこちらに戻したマリーシアは、「それで、これからどうするの?」と言葉を続けた。 「おふくろが心配してるから、マナミを広場に送ってやりたいんだ。それから、村に変な魔法をかけたやつを探し出す」 「だったら、僕が妹さんを送ってくよ」 手短に意見を述べたところで、エリウスが手を挙げてきた。 「ジェドに乗ればすぐに戻ってこれるから、時間を無駄にしなくていいでしょ」 特に異論はなかったので、アストはその意見に賛成した。エリウスが、「行こう」とマナミの肩に手をかける。 『――ちと待ちなされ』 その時、アヤノが制止の声を発した。 「どうしたんだ?」 肩の上に移動してきたアヤノが、ただならぬ雰囲気を宿した瞳で、エリウスの顔を睨みつけている。 「僕の顔に、なにかついてる?」 エリウスは多少の驚きを滲ませた表情で、その視線を受けとめていた。 『おぬし――』 まるで対峙に入るような気迫を漲らせたアヤノは、微かな間を置いてから言葉を継いだ。 『あのもやし男ではござらぬな』 その声が響いた瞬間、周囲の空気が凍りついたような気がした。 「ふっ――、ははははっ」 エリウスが、笑っている。いや、正確には、エリウスの姿をしたものが笑っている。 「こんなにすぐ見破られるとは予想外だな。固有の霊体波動も、完璧に偽装したはずなのだが」 既にその声は、彼のものではなくなっていた。 「うそ……?」 驚声を漏らした口元を手で押さえたマリーシアが、信じられないという眼差しでその様子を見つめている。 『マナミどのから、手を放しなされ』 「私に命令をする気か?」 もはや別人のものとなった相貌に、悪意に歪んだ微笑が浮かぶ。どこかで見たことのある女の顔だった。 銀髪の、魔女? 「レニヤ!?」 叫ぶように声を上げたマリーシアの表情からは、すっかり血の気が引いていた。 「久しぶりね、マリーシア」 黒衣の魔女が、紫衣の魔女に艶然と微笑みかける。 「なによ! あたしになれなれしく話しかけないでちょうだい!」 二、三歩後ずさりをしたマリーシアだったが、強気な口調だけは崩さぬように精一杯気を張っているように見えた。 「霧と咒隷で時間稼ぎをしている間にエリウスに化けて紛れ込むなんて、ずいぶんせこい真似をするじゃない!」 「お友達の前だからって、無理に強がってみせる必要はないのよ。あなたこそ、魔女のくせに剣の聖女と手を組んだりするなんて……、そんなに私のことが怖いの?」 「誰が怖がってるっていうのよ! ――ルシェル! この冷血女を、ギッタギタに切り刻んでおやりなさい!」 びしっと突き出した指先が戦慄(わなな)いているところを見ると、マリーシアはこの女を極度に恐れているらしかった。 「こいつが、ヴェルトリアを襲ったって魔女なのか?」 アストはサクラメの柄に手をかけた。妹の身体が、抵抗する間もなく女の腕の中へと引き寄せられる。 「妙な真似はするんじゃない。可愛い妹の首を捩じ切られたくはないだろう?」 恫喝を放った魔女の指先が、マナミの首筋に食い込んでいるのが見えた。 「あ、あ……!」 喉笛を圧迫された妹は、途切れ途切れの声を漏らすだけで精一杯のようだ。その瞳が、兄に助けを求めている。 「やめろ!」 思わず叫んだアストに、魔女の嘲笑が浴びせられた。 「自分の立場を理解する頭もないのか。妹を返して欲しければ《卵》を寄越すことだな」 「《卵》?」 「その女が、首にぶら下げているだろう」 魔女の指が、ルシェルの胸元に下げられた宝珠を指し示した。 その視線から庇うように宝珠を掴んだルシェルの手が、震えている。 「すぐに決心がつかぬというのなら時間をやろう。ただし、この娘の命は私が預かる」 魔女の足下に、咒紋で構成された魔法円が拡がった。 「塔の最上部へ来るがよい。その宝珠と引き替えに娘を返してやろう」 不気味な光に包まれた魔女と妹の身体が、虚空の彼方へと飛翔してゆく。 「待てよ! おれの家族を交渉の道具に使うなんて認めるかよ!」 アストは力の限りに叫んでいたが、その声は霧の海に吸い込まれ、虚しく掻き消えてゆくだけだった。 「――くそっ!」 鞘ごと外したサクラメを、思い切り地面に叩きつけた。 「どうしてこうなるんだよ!」 肝心なときに、戦うことができなかった。 妹を人質に取られて、身じろぎ一つすることさえできなかった。 瞼の裏までこみ上げてきた怒りと悔しさを、溢れ出ないように堪えているだけの自分が許せなくなる。 『ここで苛立ちを撒き散らしても仕方ござるまい。一刻も早くマナミどのを取り戻す手立てを見つけるべきでござろう』 その通りだと頭ではわかっていたが、突沸した感情が返事を口にするのを拒絶していた。 「レニヤにこの宝珠を渡して、マナミさんを返してもらいましょう」 ルシェルが首に下げていた宝珠を外して、アストの前に差し出してきた。 「本当にいいのか?」 「マナミさんを巻き込んでしまったのは、早くこの村を離れなかった私の責任です。ですから――」 「それはいけません!」 横合いから伸びてきたリリィの手が、宝珠を差し出そうとしていたルシェルの手を押し留めた。 「これは途轍もない力を秘めた宝珠なのです! たとえ、何人(なんぴと)の命が犠牲になろうとも、これをあの魔女の手に渡してしまうことだけはなりません!」 「これが、そんなに凄い力を持ったものだって言うのか?」 「は、はい……。詳しくは、私もよく知らないのですが……」 自信なさげに返ってきた答えが、アストの神経を刺激した。 「そんなよく知りもしないものを守るために、マナミに死ねって言うのかよ!」 「そ、そのように仰られましても、私は、《卵》を奪われぬように命令を与えられているだけなので……!」 「そうかよ。ということは、ルシェルさんを捜していたのも、本当は《卵》とやらを監視するためなんだな?」 口にしてみてから、それはありえることだと思った。 「そ、それは、その……」 急に口ごもるような反応をしたリリィを見て、自分の想像はそれほど間違っていないようだと確信した。本当は、《卵》というのがどういうものなのか、彼女は知っているのかもしれない。 「お前たちはいったいなにを企んでるんだ? こんな役立たずな子供を寄越してきたのだって、おれたちを油断させるためなんじゃないのか?」 「そんな――、役立たずなんて――、う、う――」 なにも言い返せなくなった神遣いの少女を見て、アストは、少し言い過ぎたかもしれない、と思った。 「うわあああん! ごめんなさいぃ!」 突然泣き出したリリィが、手の内に光り輝く短剣を喚(よ)び出した。 「こここっ、こうなったのもすべて、マナミさんをここへお連れしたわたくしの不徳の致す所存です! かかかか、かくなるうえは……っ! わたくしの、ししっ、死をもって、お詫びを致してしまわれます!」 支離滅裂な謝罪の言葉を連ねたリリィは、ガチガチと震える手に握り締めた短剣の切っ尖を喉元に向けていた。 『アストどの、それくらいで許してやりなされ』 「……わかったよ」 アストはリリィの手を押さえて短剣を下げさせた。怒りが目を曇らせるというのは、今日一日だけで何度も思い知ったことだ。 「本当に責任を取りたいんなら、マナミを助けるまではおれたちに力を貸してくれ。死ぬのはその後でもできるんだし」 「うう……、私が死ぬのは、決まっているのですか?」 「自分で言い出したんだろ」 「では死にません!」 「じゃあ、それでいいよ」 神遣いであっても、やはり子供の相手は難しい、と思う。 「――ふう、ようやくみんなに追いつくことができたよ」 その声がやってきた方角に、全員の視線が集中した。 「あれ? みんな怖い顔してどうしたの? そんなに待たせちゃった?」 霧の中から姿を現したエリウスが、頭を掻きながらこちらに近寄ってくる。 『今度は本物でござるな』 アヤノに言われなくても、そんな気がした。 「このっ――、もやし男っ!」 マリーシアが、肩を怒らせながらエリウスに詰め寄っていた。危険を察知したのか、ジェドが素早く彼の肩を跳び下りる。 「な、なに?」 「今までどこをほっつき歩いてたのよ!」 「人が道草食ってたみたいに言わないでよ。変な黒装束がたくさん出てきて大変だったん――うわっ!?」 エリウスの話が終わる前に、マリーシアの両手が彼の襟首を乱暴に引っつかんだ。 「咒隷に襲われたのはみんな同じよ! なのに、あんただけこんなに遅れるのはどういうわけ? なにか理由があるというのなら言ってごらんなさい!」 「理由ならあるよ! 誰かさんを庇って雷に撃たれた影響がまだ残ってるんだから!」 「あたしのせいにするなんて男らしくないわね! あんたが遅れたおかげであの女があんたに化けて出てこれたってことは、全部ひっくるめてあんたの責任じゃない!」 「そんな無茶苦茶な! 迷惑をかけたのは悪かったけど、少しは僕の話も聞いてよ!」 「言い訳は後にしなさい!」 マリーシアが手を振り上げたところで、『魔女どのもそこまでにしなされ』とアヤノが声をかけた。 「どうしてよ! このもやし男を懲らしめないことには、あたしの気が済まされないでしょ!」 『もやし男に八つ当たりしたところで、なにも解決せぬよ。それよりも、マナミどのを助け出すために知恵を貸してくだされ』 「これからの方針を考えろって言うなら、決まってるでしょ! 妹さんは助け出す! 宝珠は渡さない! あの高慢ちきな冷血女を取っ捕まえて八つ裂きにする! 他になにかある!?」 「状況がよくわからんが、俺もその意見に賛成だな。要するに、あの女がすべての元凶ということだろう」 マリーシアが鼻息を荒くしながら一気に捲くし立てると、ヴァンが同意を示した。 「とにかく、あの塔に行ってみるしかなさそうだな」 アストの眼は、霧の向こうに聳える古塔の影を見据えていた。 妹のことだけではなく、村内を襲った異変を鎮めるためにも、あの魔女を討ち果たす必要がある。 仲間たちの方へ視線を戻すと、エリウスがリリィの咒紋による治療を受けているのが目に入った。祇徒の群れと交戦した際に、雷撃を受けて体内に熱傷を負ったらしい。その隣では、まだ苛立ちを燻らせた表情のマリーシアが、小さな光の球を生成して宙に浮かべている。あれを松明の代わりにするのかもしれない。 間もなく、霧に包まれた村内に、夜の帳が降りようとしていた。 |