見えてきた。 雨霧に濡れた金属製の大扉が、《篝火(かがりび)》の光を浴びて白々と輝いている。荘厳とも冷厳とも見えるその輝きが、アストの心に本能的な恐れを想起させた。日中に塔を訪れたときは、もっと軽い気持ちで塔内を探索するつもりでいたが、これから《篝火》の小さな光だけを頼りに中へ進入するのは、少々勇気が要ることだと思う。 《篝火》というのは、先ほどマリーシアが生み出したばかりの魔法の灯火だ。小さな白い光玉が、アストたちの頭よりやや高い位置に浮遊しながら周囲を照らしている。 しかし、その光が届くのも、時とともに深まってゆく闇と霧に閉ざされた世界の、ほんの一部に過ぎない。彼らの目に映るのは、塔の内部へと通じる扉と、その周縁だけであった。天を衝かんばかりに聳え立つ巨塔の姿にも圧倒されたが、全容を暗闇に隠されて、扉だけが見えている光景というのも薄気味悪いものだと感じる。 その様はまるで、顕世と幽世を隔てる、異界への扉―― まさか、あの世に繋がってるわけはないよな……、と内心に呟いたアストは、扉を開け放つべく足を前に進めた。 「フフフフフ……」 突然、嘲るような笑い声が耳朶にまとわりついてきた。その声がやってきた――鬼気が現れたのは、扉の、真上だ。 「扉をくぐる前からずいぶん怖がっているようじゃないか、坊や……」 そう告げるや、鈴の音(ね)とともに小さな白い影が扉の前に舞い降りる。それは、明らかに見覚えのある白猫の姿をしていた。 「リリ!?」 「な、なんです!?」 思わず驚声を漏らすと、傍に立っていた神遣いのリリィが反応した。 「違う! 白猫のリリだよ!」 鈴が付けられた紅い首輪を見て、間違いないと思った。サーシャが飼っている白猫のリリだ。 でも、リリの口元から、妹を攫(さら)った魔女の声が聞こえてくるのは、どういうわけだと思う。 「レニヤに操られてるのね」 マリーシアが呟くと、リリが鈴を鳴らしながら悠然と歩み寄ってきた。 「その猫を乗っ取って、なにをする気だ!」 アストは刀の柄に手をかけたが、白猫を斬り捨てるべきかどうかは、まだわからない。 「別にどうもしないわ。あなたたちを出迎えに来ただけよ」 「出迎えとは結構な心がけだな。見たところ、大したもてなしは期待できないようだが」 白猫を睨みつけたヴァンも、盾の中央に納められた剣の柄に手を伸ばしていた。 「もてなしの用意ならできているわ。お茶が必要なら、あなたたちの血を沸かして淹れてあげても構わないけど」 白猫の口の端(は)が、つい、と上がり、微笑を形作ったように見えた。あまりにも不気味で、底深い悪意に満ちた微笑。アストには、生理的に受け付けられるものではなかった。猫が、あんな風に笑うわけがないと思う。 「マナミは、無事なんだろうな!?」 「もちろん無事よ。せっかくの人質を傷つけるなら、あなたの目の前でやってあげないと意味がないでしょう?」 「ふざけるなよ!」 「私が冗談を言ってると思う? あなたには、大事な妹の血で沸かしたお茶を出してあげた方がよさそうね」 「おれが行くまでにあいつを泣かせたら、お前の首を刎ね飛ばすからな……!」 「その意気よ、坊や。塔内への進入を許可してあげるから、私がいる最上階まで昇ってきなさい。無事に辿り着けたら、あなたたちとたっぷり遊んであげるわ」 その言葉が終わると同時に、塔の扉が軋るような音を響かせながら、ゆっくりと開かれていった。 「待ってるわよ」 再び不気味な微笑を覗かせた白猫が、踵を返して塔の中へと入ってゆく。 「逃げるのはリリを放してからにしろ!」 その後を追いかけようとしたとき、「待ってください!」と叫んだルシェルに腕を掴まれて制止させられた。 「レニヤが罠を仕掛けているかもしれません。まずは慎重に進みましょう」 冷静になってと呼びかけているような空色の瞳を見て、アストは熱くなった頭を幾分冷やすことができた。もてなしの用意ならできている、とレニヤが言っていたのは、そういう意味なのかもしれないと思う。 「そうね。またバラバラになったところをあの女に付け入られたら、堪ったもんじゃないわ」 マリーシアの視線は、彼女の隣に立つエリウスへと向けられていた。 「……いじけちゃうんだよね、そういうの」 肩に乗った愛犬へ語りかけるように、エリウスがぽつりと呟いた。妹が連れ去られたのは彼だけのせいではないのに、マリーシアの鬱憤の捌け口となっている姿を見ると少し同情できなくもない。 「とにかく、中に入ってみましょう。怪しいものを見つけても、勝手に触ったりしないであたしに報せてちょうだい」 マリーシアの言葉に全員が首肯を返した。レニヤが罠を張り巡らせていなかったとしても、古代の建造物に魔法的な仕掛けが施されている可能性はあるはずだ。 マリーシアとリリィを中央に置く形で隊列を組み直したアストたちは、開け放たれた大扉を潜って塔内へ進入した。永き沈黙の時より解放された秘境の空気が、久方ぶりに現れた人間たちの手足に纏わりつく。 塔内に入った彼らを出迎えたのは、エントランス・ホールと思われる天井の高い広間だ。豪奢な飾り付けを施された大燭台が吊り下げられていたが、そこに火は燈されていなかった。代わりに、壁のあちこちに取り付けられた腕木に青白い光を揺らめかせている灯火が掲げられており、《篝火》に頼らなくても広間の全体を見渡すことができる。だが、灯火の一つ一つをよく見ると、火ではない霊的な光を放つ粒子が灯影(ほかげ)を形作っていることに気づく。それが揺らめき続ける様子が人魂(ひとだま)のように見えてしまい、アストは背筋が寒くなるのを感じた。 足下に視線を移すと、そこには青白い光に染められた石床が広がっていて、広間の中央には絵画のような浮き彫りが施された巨岩が鎮座している。画の中には後光を背負う神々と、彼らを崇め奉る人間たちの姿があり、天霊や異霊たちが、この塔を建てるために協同で働いているような光景も描かれていた。巨岩の下は人工の泉になっており、画中の川や泉に穿たれた穴から湧き出た水が、そこに流れ落ちる仕組みになっているようだ。 広間を取り囲む柱は壁と一体になっており、そこにも巨岩と同様の精緻な彫刻細工がなされている。これらの装飾には、単に造形の美しさだけではなく、束の間目を奪われてしまうほどの威厳と迫力が満ちていた。 グラードの民にしてみれば、異境の地の、異教の神々であるはずなのに、巨岩に刻まれたその姿を見ているだけで、有無を言わさぬ畏怖の念というものが湧き起こってくる。 生まれてからほとんど村を出たことがないアストにとって、ここは、全く異なる次元に存在する空間であった。まだ入り口を潜っただけなのに、突然別世界に放り込まれてしまったような錯覚に陥る。 ……いや、むしろこれは、現実として認めるべきことなのだろう。 自分が生まれ育った村の下には、異境の地、異教の神々が眠っていたのだ―― 「これが、ヴェルトリアの神様なのか?」 浮き彫りの中央に刻まれた二神の内のどちらかが、この中で最も格が高い神なのだろう。確か、ラルスとか、ゼヴェスとかいう名前をマリーシアが口にしていたはずだ。その他にも数体の神々が描かれており、中央の二神のすぐ傍には、ヴェスティールと思しき美しい女神たちの姿も見える。 「たぶん、右にいるのがラルス神だと思います。髭を蓄えた壮年の偉丈夫として描かれることが多いですから」 説明の口を開いたルシェルも、無数の彫像が織り成す神代(かみよ)の光景にじっくりと見入っているようだった。 「じゃあ、左にいるのは?」 「ゼヴェス神です」 「こっちの方がだいぶ若そうに見えるんだけど」 「外見の若さは、ゼヴェスの未熟さを表すものだと聞いたことがあります」 ルシェルがそう答えたところで、マリーシアが「それは天主(ゼノア)教徒としての見解ね」と付け加えてきた。 「ゼヴェスを崇める地神(ダイン)教徒たちの言い分はこうよ。ゼヴェスはより若くて力のある神だが、それを妬んだラルスが彼を天上から追い出した――と」 「追い出された方を信じてる人たちもいるんだ?」 「そうね。立場が替われば、善神と悪神も入れ替わるものよ。天上を追い出されたゼヴェスと、戦争に敗れてエルダナの地へ追い出された自分たちの境遇に重なるものがあるんでしょうね」 「それはなんとなくわかるな」 自分にわかりやすいもので置き換えてみると、戦士オルグと聖女ルシエラの関係が、それに当たるかもしれないと思う。グラードの地を追い出されなかった分だけ、地神教徒の人たちよりは幸いだったと考えることもできるが、長きに渡ってヴェルトリア人の支配を受けてきたのだから、単純にどっちがよいとも言い切れない。 「なんで、神遣いと祇徒が一緒に塔を建ててるんだ?」 「このときはまだ親玉同士が喧嘩してなかったのよ。ここにいる――」 マリーシアの指先が、二神を見守るように佇んでいる一体の女神を指し示した。 「ユレアっていう女神を巡って争いが起こったって、神話には伝えられているんだけど」 「女神様の取り合いをやったのか」 「そういうことね。ユレアは生命をつかさどる女神だから、その力を欲したという理由はあるんだけど」 その説明に納得していると、今度はエリウスが口を開いた。 「こういうのは初めて見たから驚いたよ。今までも幾つか遺跡に入ったことはあるけど、全部ぼろっちいやつばっかりだったもん」 「遺跡なんて大抵は朽ち果ててるもんでしょ。こんなに綺麗な形で保存されているここが特別なのよ」 二人の会話に聞き耳を立てていたアストは、「この塔は、眠っていただけですから」と発した別の声が気になって視線を下へ移動させた。 「神遣いなら、ここのことを詳しく知ってるんじゃないのか?」 リリィの知識を当てにできると踏んで声をかけてみたのだが、彼女は申し訳なさそうに首を左右に振った。 「すみません……。私もここへ来たのは初めてなので、あまりよくわからないのです……」 「来るのが初めてでも、話に聞いたことくらいはあるんじゃないの?」 アストと入れ替わるように問いを押し被せたマリーシアの目つきは、嘘を見逃すまいとするような厳しいものだった。 「少しは聞いたりしましたが、神遣いとしての勉強がまだまだ足りないので、皆さんのお役に立てるかどうかは自信がないのです……」 マリーシアが怖い顔をして問い詰めるものだから、リリィの目じりには涙の粒が浮き始めていた。 「勉強不足って、あなたいくつなの?」 「六歳です」 ぐす、と鼻を鳴らしながらリリィが答える。 「それ、人の年齢に換算すると六歳という意味? 実際にはもっと長生きしてるんでしょ?」 「生まれてから六年経ったという意味で、六歳なのです。人の年齢に換算してみても……、やっぱりそのくらいの幼少期に当たります」 「あぁー、そう」 マリーシアは、全身で落胆を表すように大きなため息を吐(つ)いた。 「人間の六歳じゃなにも知らない子供だけど、神遣いさんでもそうなんでしょうねぇ」 「はい、すみません……。私より四つ上のミリィお姉ちゃんだったら、もっとしっかりしていて、いろんなことを知っていると思うのですが……」 「わかったから、もういいわ。偉大なる天界の主は、どうしてこんな子供たちを使いに出したりしたのかしら?」 「私たちにも、色々とやむにやまれぬ事情というものがあるのです……」 そこまで口にしたリリィが再びぐずり始めたので、「それなら仕方ないよ」とアストは声をかけた。 「わからないものを問い詰めたって答えは出てこないんだから、みんなで手探りしながら進んでいくしかないってことだな」 「それで、まずはどうやって進むつもりなのよ?」 腕組みをしたマリーシアが、じとっとした目つきでこちらを睨んでいた。 「どうやってって、とりあえず階段を探して――」 「ないわ」 ぴしゃりと言い切られたアストは、「ここにはなくても、別の部屋にはあるかもしれないだろ」と抗弁した。 「別の部屋なんてどこにあるのよ?」 「え?」 そんなもの、探せばすぐに見つかるだろうと思ったアストは、改めて広間の全体を見回してみた。 「あれ……?」 ない。 階段はおろか、隣室に通じる扉や連絡口のようなものも、まるで見当たらない。この広間には、開け放たれたままの入り口が一つあるだけだ。 「ないな……」 「ほとほと困り果てるのよね。こういうの」 マリーシアの言葉へ同意を示すように項垂れたところで、「あ、あの」とリリィが遠慮がちな声を上げた。 「いくらなんでも、この広間で行き止まりということはないはずなので、どこかに隠し扉や階段なんかがあるはず、なのです」 「それなら、全員で手分けをして広間の中を調べてみましょう」 自信なさげなリリィの言葉にルシェルが応じたところで、各自が周囲の探索を始めた。 「アヤノさんも手伝ってくれよ」 頭の上に呼びかけたアストは、広間の壁際を注意深く探して回ることにした。 「なにも見つけられなかったら、天井に穴を開けながら昇ってくことになるわね」 巨岩の向こう側から、マリーシアがぼやくのが聞こえてきた。彼女は浮き彫りの像や泉の周辺を調べているのだろうか。 「――おい!」 ヴァンが、なにか発見したようだ。 「どうしたのよ?」 「怪しいものを見つけたぞ」 「どれのこと?」 「こいつを見ろ。泉の水面に、この世のものとは思えぬほど凛々しい顔立ちをした男の姿が映っているぞ」 「そんなのどこにいるの?」 「目が悪いのか? お前の顔のすぐ隣に映っているのだが」 あぁ、と脱力するようなマリーシアの声がした。 「あんたが頭の足りない人なら仕方ないけど――、今度くだらないことであたしを呼びつけたりしたら、脳味噌を火の玉でぶっ飛ばしてあげるわよ!」 「なぜ怒るんだ? 人が真面目に怪しいものを報告しているのに不誠実な女だな」 一連のやり取りを耳にしながら、わざわざ見に行かなくてよかった、とアストは思った。 とはいえ、こちらも手がかりと呼べるようなものが見つかったわけではない。 そのまましばらく進んでいくと、広間の一番奥まったところにある、窪んだ空間の前に辿り着いた。 これは、彫像などを置く壁龕(へきがん)というやつなのだろうか。ただ像を置くだけにしては広い小部屋のようでもあるが、人が十人も入ったらぎゅうぎゅう詰めになりそうなくらいの狭い空間だった。 「ここ、なんだと思う?」 『さぁ。拙者にはとんと見当がつかぬな』 マリーシアに報告するべきか迷ったものの、くだらないことで呼びつけると頭を吹っ飛ばされるみたいなので、もう少し詳しく調べてからの方がいいかもしれない。 中を覗いてみると、水瓶を運ぶ神遣いの姿が壁に彫られているのが見えた。しかし、広間の至るところにある彫刻細工と比べて、それが特に変わったものであるとは思えない。 床に広がる彫刻細工は消えかかっていたが、神や人の姿ではなく、紋章的な図柄を彫り込んだもののようだと知れた。そこにそっと足先を下ろしてみても、特に変わった反応はない。急に落とし穴が開いたり、突然あちこちから杭が飛び出してくる、といった罠が仕掛けられていなかったことに安堵しつつ、そのまま中に入ってみる。 小部屋の中をざっと見回すと、入り口の脇に、小さな刻印が縦に並んでいることに気づいた。 「これは、なんだろ?」 『あちこち弄繰(いじく)り回す前に、いっぺん魔女どのを呼んだ方がよいのではござらぬか?』 「そうだな」 小部屋の外へ顔を向けると、近くを調べていたらしいルシェルと目が合った。 「なにか見つかりましたか?」 「ああ。ここに、なんかの印みたいなのが並んでるんだ」 アストは、一番下に位置していた刻印を指先でトントンと叩いてみせた。 そのとき―― 「あれ!?」 指先で叩いた刻印が青い光に染まった。 「どうしたのですか?」 「なんか、ここの印が急に光り始めたんだけど……」 ルシェルが駆け寄ってくる間にも、足下にあった紋章の溝をなぞるように青い光が奔り抜けてゆくのが見えた。 「あなたたち! そこでなにやってるの!?」 「それを勝手に動かしてはいけません!」 マリーシアやリリィが慌てた様子でこちらに向かってきたが、その時には青い光がアストの全身を包み込んでいた。 「どうすれば止まるんだ!?」 なにをどうしたらいいのかわからず、全身に冷や汗が噴き出してくる。反応があった刻印を何度も叩いてみたが、それで光が消えてくれるような気配はない。いっそ、他の刻印にも触れてみるべきだろうか? そこまで考えた直後、意識が、ふっ、と軽くなるのを感じた。 目の前が、真っ白だ。 上も下もない。 身体を置き去りにした意識が、どこか≠ヨ向かって只管(ひたすら)に引っ張り続けられる感覚。 そして、急に重くなった。 意識に、身体が追いついたのだ。 気がついたとき、アストは、どこか≠ノある薄暗い一室の中にいた。 |