狭い小部屋だった。 目の前に大きな広間があるところを見ると、さっきまでいた場所と構造は似ているようだ。広間の壁には人魂か鬼火のようなあの灯火が掲げられていたが、それらの光は弱々しく、小部屋の中にはほとんど届いてこない。 自分は、どうしてこんなところにきてしまったのだろう。 怪しげな刻印を触った途端、全身が青い光に包まれたことまでは覚えている。それから意識が妙に軽くなって、わけがわからないうちにここまで移動してきてしまった、ということなのだろうか。 『むう』 頭の上から、アヤノが唸る声が聞こえた。 『やはり、魔女どのを先に呼ぶべきでござったな』 「アヤノさんも巻き込まれちゃったのか?」 『アストどのがその刀を身につけている限り、拙者が傍を離れることはござらぬよ』 「あ、そうか。こっちが本体だもんな」 無意識の内に、腰に差したサクラメの鞘を撫でていた。 「……さっきは、ごめん」 『なにがでござるか?』 「刀を、地面に投げつけちゃっただろ」 『そのことなら気にしてござらぬよ。あんなものでアストどのの気が紛れるなら、いくらでも拙者を擲(なげう)ってくだされ』 アヤノが寛容に応じてくれたのはありがたかったが、心がずきりと痛むのを感じた。 「もうできないよ、そんなこと」 妹が浚(さら)われて頭に血が昇ったせいで、彼女に八つ当たりしてしまったのだと思う。でも、そんな言い訳をしたところで、刀を乱暴に扱った後悔が消えるわけではない。 『今はくよくよしている時ではござらぬぞ。一刻も早く皆のもとへ戻ることを考えなされ』 「わかったよ」 肯いたアストは、先ほどの刻印と似たものがないか、小部屋の中を手探りで調べてみることにした。同じ造りの部屋なら、同じ仕掛けがあって、また元の場所に戻れるかもしれないと思ったのだ。しかし、いくら部屋の壁を探し回ったところで、指先にそれらしき感触が引っかかることはなかった。 「この部屋にさっきの印があれば、元の場所に戻れると思ったんだけど」 『どうやら先ほどの仕掛けは、片道しか使えぬようでござるな』 「参ったなぁ……。みんなもあれを使ってここに来てくれるといいんだけど」 『では、いかがいたそうか?』 「仕方ないから、ここで――」 少し待ってみよう、と続くはずだった言葉は、次にやってきた声に遮られた。 『我らの安息を妨げる者は、誰だ』 それは、身体の内側に響いて臓腑を震わせるほどの重声だった。 「誰かいるのか!?」 反射的に小部屋を飛び出したアストは、聞こえてきた声の主を探すべく広間を見回した。全身の毛を逆立てるほどの強い鬼気を感じるが、方向は特定できない。鬼気がどこからやってくるか、というより、全方位を鬼気に取り囲まれているような感覚だ。 仄かな灯明を頼りに周囲の様子を探ってみたものの、咒隷とかいう連中が近くに潜んでいる気配はない。 部屋の大きさは入り口にあった広間と同程度だが、中央に巨岩や泉が置かれていないので、身を隠す場所はないと思えた。 では、どこにいる? 『壁の向こう≠ゥら来なさるぞ』 アヤノの囁きを受け、壁面に視線を転じた。青い灯影の中に、浮き彫りの像が姿を覗かせている。壁の広範に渡って、宮殿のような巨大な建造物を模した像が彫り込まれているようだ。やがて灯火が烈しく揺らぎ始め、壁に描かれた宮殿のすべてが闇の中に照らし出された。 よく見ると、灯火の光が当たっているのではなく、浮き彫りの像それ自体が光を放ち始めているようだと気づく。壁面に掘られているのは宮殿だけではなく、丘の上に建てられた神殿や、軍船の停泊する港、家々が軒を連ねる街並みの様子も克明に表現されている。 都だ、とアストは思った。 淡い光を帯びて壁面に浮かび上がったそれらは、かつて繁栄を極めた王国の姿を写し取ったものなのであろうか。 種々の宝石を鏤(ちりば)めたかのごとき輝きに彩られた、古都の幻像。亡国の遺影。 一連の彫像群には、まるでそれらの建物が本当にそこに存在しているかのような立体感と奥行きを感じる。 『我らが霊廟(みたまや)を荒らす者に、死を――』 『約束の地を侵す者に、死を――』 壁面に描かれた都の中から、無数の鉄靴が地面を踏み鳴らす音が近づいてくる。 「お墓だったのか、ここ……?」 アストが呟いた直後、それらは姿を現した。 街路を埋め尽くすように連なる、鋼鉄の甲冑群。 《都》のあらゆるところから湧き出でた兵士たちが、ここ――アストのいる広間を目指して行進してくる。整然と槍先を並べ、繰り出される足並みまで寸分の狂いもなく揃えた彼らであるが、その姿からは少しも生気というものが感じられない。中身≠ネど持たない冷たい鉄塊の群れが、吐く息もなく粛々と迫り続ける姿に気圧されたアストは、無意識の内に広間の中央まで後退りしていた。 「まさか、こっちまで出てくる気なのか?」 『そのまさかでござろうな』 壁際まで進んできた甲冑たちは壁面を抜け出る際に実体化し、青白い灯火の下に並び立った。 広間に出てきた鬼気を感覚的に数えてみただけでも、二百か、三百くらいはいるだろうか。 完全に、取り囲まれてしまった。 『まるで戦(いくさ)のような数でござるな』 広間を埋め尽くしても尚有り余る数の兵士たちが、壁中の《都》にひしめいていた。殊に、宮殿の中庭や城壁の上には、鼠一匹入り込む余地がないほどに白鋼(しろがね)の甲冑が溢れ返っている。 その、さらに奥。 妖光に包まれた宮殿の露台に、灰色のローブに身を包んだ男が現れた。杖を手にしたその姿はいかにも魔道士然として見えたが、フードを目深に被っていたため、その顔を窺うことはできない。 『我が名はオロゴス――。我らが偉大なる主君であり、三界(さんがい)の真なる統治者、至尊の魔道王イシュナード様よりサン・ドラルの守護を任された者だ』 フードの奥から、厳かな響きを含んだ重声が聞こえてきた。 「サン・ドラル……?」 それが、壁中に封じられた《都》の名前なのだろうか。 『此処なる《都》は、故国に命を捧げた英雄たちの墓所にして、永遠の楽土。我らが安息の地を踏み荒らす者は、その死をもって償うがよい』 冷厳な一声とともに杖が振り上げられた直後、白鋼の亡兵たちが動き始めた。一斉に突き出される槍。身を躱す隙間など、ない。 『ちぃっ』 そのとき、瞬時に人並みの大きさに戻ったアヤノが宙に舞い上がり、羽衣を振るった。突き出されたすべての槍頭が瞬く間に断ち落とされる。あの羽衣は、鞭のように撃つだけではなく、刀のように斬ることもできるのか。 『ぬおおおお――』 その余勢を駆るように回転し始めたアヤノは、羽衣で最前列の亡兵たちを薙ぎ払った。回転が、さらに加速する。羽衣が、透き通った繊維のようなものに、解(ほぐ)れ始めた。中空に、刀の刃文(はもん)のごとき紋様が揺らめく。 あれは、刃紋≠セ。 戦士オルグと戦ったとき、アヤノはあの紋様を織り重ねて巨大な羽衣を生み出したのだ。 今度はそれを解(ほど)いて、いったいなにをする気なのだろうか。 アヤノの回転は、尚も加速し続けている。 『おおおおおっ!』 広間を震動させるほどの気合が放たれた瞬間、旋風(つむじかぜ)のように舞う刃紋が亡兵たちに襲いかかった。為す術もなく無数の鉄片に引き裂かれた兵たちが虚空に巻き上げられる。 その中心に位置するアストからは、高速で旋回する刃紋が対流を形成しながら渦を巻いている様子がよく見えた。 周囲の空間を捻(ねじ)り、歪(ひず)ませ、そこに生じた大気の空隙に閃電を迸らせるそれはもはや、暴れ狂う竜巻のごとき刃の舞踏。立ちはだかる者たちへ無慈悲に降り注ぐ無尽の刃。時を刻むごとに拡大してゆく斬撃の暴威が、石床を穿ち、天井を貫き、亡兵の群れを屠り去る。 竜巻の上部からは、千々に切り裂かれた石片や鉄片が外へ弾き出され、周縁にいた亡兵たちの頭上に降り注ぎ被害を拡大していた。既に、広間へ出てきた部隊の五割近くが斃されていたものの、壁の中にはその何十倍にも見える兵数が残存している。 「凄い力だ……」 アヤノの竜巻が敵を蹴散らしてゆく様は圧巻であったが、アストは不意にやってきた眩暈に耐えられなくなり、床に膝を突いた。 『これはいかん!』 竜巻を消したアヤノが慌てて傍まで降りてくると、眩暈はすぐに治まった。 『アストどの、しっかりしなされ!』 「もうだいじょうぶだけど、一瞬気が遠くなったよ……」 『少しばかり力を借りたつもりでござったが、アストどのに負担をかけすぎたのでござるな』 「今ので少しってことは、本気を出されたら命がいくつあっても足りないな」 『アストどのに足りぬのは修行でござるよ!』 そう叫ぶや、アヤノは再び接近してきた亡兵たちに飛びかかった。迫りくる白鋼の隊列を、舞うような身ごなしですり抜ける。それだけで、敵の一隊が鉄屑の山に変わった。 『拙者の後についてきなされ! あすこに広間の出口がござるぞ!』 宙に浮いているアヤノにはそれが見えるのだろうが、アストの視界は亡兵の群れによって塞がれていた。刃紋の竜巻で損失した兵力は、壁中から切れ目なく湧き出る増援によって補われてしまったようだ。 「わかったけど、さっきみたいに無茶苦茶な力の使い方はしないでくれよな!」 『かように申されても、敵が実体を持って現れた以上、拙者も実体を持たねばなにもできぬではござらぬか』 「あそこまでやる必要はなかっただろ?」 『先ほどのは、まぁ……、ちと張り切りすぎたのでござるな』 けろりとした調子で答えたアヤノは、足を床に下ろすと敵中へ真っ向から突進した。彼女が撫でるような柔らかさで手刀を振るうと、亡兵たちの甲冑が薄紙同然に切り裂かれて飛散してゆく。 文句を言う気力が失せたアストは、鞘から刀を引き抜いて彼女の後に続いた。少しは援護ができればと思ったが、その必要はなかったようだ。行く手を遮る亡兵は片っ端からアヤノに薙ぎ倒され、いとも容易く包囲の戦列が割れてゆく。アストは討ち洩らしを片付けるどころか、敵と切り結ぶ機会すら訪れない内に広間を脱することができた。行く先が仲間たちのいる部屋に通じていることを祈りながら、薄暗い通廊を駆け抜ける。 『封都を暴(あば)く者に、死を――』 『聖域を穢(けが)す者に、死を――』 亡兵たちは鈍足であったが、執拗に追ってくる足音や怨念に満ちた声が通廊内に木霊していた。 「しつこいやつらだな」 鬱陶しげに後方を見遣ったアストは、『どうやら、罠に嵌められたようでござるな』というアヤノの声を耳にして、視線を前方に戻した。 「ウソだろ?」 通廊の奥から、甲冑の群れが雪崩れ込んでくるのが見えた。 『挟み撃ちにしたつもりでござろうが、死地に飛び込んだのはおぬしらでござるぞ!』 身を低く沈めたアヤノが、敵の先陣に突っ込んだ。 『指っ――ひとぉぉぉつっ!』 その掛け声とともに差し出された指が、亡兵の胸甲に突き刺さる。その直後、縦列を組んで突進してきた敵の一隊が、弩砲にでも撃ち貫(ぬ)かれたかのように一斉に破裂した。 「やっぱりアヤノさんは無茶苦茶だ……!」 驚嘆と呆気が入り混じった言葉を口にしながら、微塵に破砕された甲冑の残骸を踏み越える。 『一見無茶苦茶な術≠ノも理合(りあい)というものがござるぞ。あのような鉄の塊に対して、如何なる強度、如何なる速度、如何なる指遣い≠ナ撃ち込めば隊列を貫く衝撃を生み出せるのかは勿論、アストどのから瞬時に引き出せる力との兼ね合いをすべて読みきった上での打突にござる』 もっともらしい口ぶりで講釈が語られたので納得しかけたが、無茶苦茶なことには変わりがないと思った。前と後ろの双方から敵が迫っているというのに、アヤノの術とやらについてまともに考察する余裕はない。 「あいつらに先回りされてるのか?」 『いや、これは先回りというより――』 二人で前方の敵を押し返しつつ、通廊を抜けた。アストの眼に飛び込んできたのは、白鋼の軍団と、その背後に聳える《都》の威容。 「さっきと同じ部屋だ……!?」 『これが彼奴(あやつ)の術≠ニいうことでござるな』 アヤノの眼差しは、兵列の奥に見える宮殿の露台へと向けられていた。 『いかに足掻いたところで、我らの無限回廊からは逃れられんよ。一切の抵抗を諦め、神妙に死を受け容れるべきだ』 壁中の封都と一体になった広間に、魔道士オロゴスの声が響く。彼が手にする金属製の杖は、紫暗の色に染まった光を宿していた。 「いい加減にしろよ! お前たちのお遊びに付き合って死んでやるほど、おれはお人好しじゃないんだ!」 『数百年来に現れた、瑞々しき輝きを持つ魂を逃すわけにはいかんな。死して我らに奉献したまえ』 壁中よりの応(いら)えを機に、亡兵たちの攻撃が再開された。 『つまり彼奴らにとって、アストどのの魂はご馳走ということでござるな』 「嬉しくないな、それ!」 精一杯の強がりを口にしたものの、絶望的な戦いだと思った。数千どころか、数万にも及ぶかもしれない敵をすべて相手にして、生きていられる自信などない。一緒に戦ってくれるアヤノの存在は心強いが、彼女が戦えば戦うほどアストの力は消耗してゆく。どう考えても、すべての敵を斃しきる前に自分の方が力尽きてしまうのは明白だ。 どうにかしてこの窮地を脱する方法はないものかと考えたとき、広間の一角が烈しい光に包まれた。 あそこは――、この広間へ転送されてきた自分たちが最初に入っていた、あの小部屋だ。 ということは、あの仕掛けを動かして―― 「これはどういう状況なのよ!?」 マリーシアたちが来てくれたのだ。 「アストさん!」 こちらへ呼びかけるルシェルの声が、なによりも励みに感じる。 「ここだよ!」 「すぐにそちらへ参ります!」 声を交し合う間にも、彼女の気配が近づいてくるのがわかった。 「ちょっと待ちなさい! ――もう! このウジャウジャいるのはなんなの!」 「敵でしょ」 「大軍を蹴散らす英雄というのは画(え)になるな。後世の詩人や画家たちは、この場に居合わせなかった不運を嘆くのに違いない」 「アストお兄さんが、そんなにすごい英雄さんになるのですか?」 ここから全員の姿を確認することはできないが、視界を埋める兵列の向こうに仲間たちがいるのは間違いなかった。 『百万の兵より心強い援軍が来なさったぞ』 亡兵を切り伏せる合間に語りかけてきたアヤノの横顔には、心なしかの笑みが浮かんでいた。 「ああ!」 刀を振るう腕に、力が戻ってくるのを感じた。アヤノの前に出て、亡兵二体を切り捨てる。ルシェルの気配は、すぐそこだ。アストに切りかかろうとしていた敵兵の身体に、白金の剣閃が奔り抜けた。崩れ落ちる甲冑。その向こうに見えたのは、光り輝く剣を携えた白衣(びゃくえ)の少女。 天穹に煌く流れ星のような剣の軌跡が、アストの眼に灼きついていた。 「来てくれて助かったよ」 「アストさんには心配させられてばかりです」 少しだけ窘(たしな)めるような響きが含まれた声であったが、ルシェルはすぐに互いの背中を庇い合う位置についてくれた。 「ごめん」 「ひとまず態勢を立て直しましょう。早く戻らないとマリーシアに怒られてしまいます」 「そうだね」 彼女の言葉に肯きを返した直後、マリーシアたちの気配がする方角に巨大な火柱が立ち昇った。直下から噴き上がる焔に巻き込まれた亡兵の甲冑が、灼け崩れながらアストたちの近くへ落下してくる。 「もう怒ってるわよ! 前衛が二人もいなくなったら、あたしが困っちゃうじゃない!」 群がる亡兵たちを退けながら進んでくるマリーシアたちには、ずいぶん余裕があるように見えた。彼女に向かうほとんどの攻撃はヴァンの楯によって弾き返されているし、リリィも小さな身体では持て余しそうなほどの長槍を振り回して応戦している。 さらに、跳躍を繰り返しながら巨大な鎌で亡兵たちを薙ぎ倒す異形の戦士が、アストたちの前に降り立った。 「さっきからずっとあの調子なんだけど、いつものことだから気にしないでね」 「……君、誰?」 「声でわからない? 僕だよ」 異貌の仮面の奥からは、エリウスのものらしき声が聞こえていた。純黒の全身装甲が醸し出す気配には、彼と愛犬が合わさったような印象を受ける。 『ほう。これはあの犬どのが具足となって、もやしどのを護っているのでござるな』 「そうだけど、僕のそのあだ名は、もう決まっちゃったのかな……」 やや俯いた異貌の仮面に表情などないはずだったが、どこか哀しげに見えた。 「――られると、こっちは大変なのよ。まぁ、即席のパーティーだから仕方ないんでしょうけど、銘銘(めいめい)が好きに動き回ったらバラバラになっちゃうでしょ。少しは連携というものを考えなきゃ駄目よ」 先ほどからずっと続いていたらしい小言とともに、マリーシアがやってきた。 「悪かったよ。まさか、急にあんな仕掛けが動き出すなんて想像できなかったんだ」 「あなたが触った刻印をルシェルが当てられなかったら、全然違うところに転送されてたはずよ。だから勝手なことはしないでって言ったのに、いい具合に面倒な状況にしてくれたわね」 ぶつくさと文句を連ねながら咒紋も列(つら)ねたマリーシアは、片手を上げて頭上に光球を撃ち出した。 中空で破裂した光球が、魔力の礫弾となって亡兵たちに降り注ぐ。 「とにかく、これだけの数を相手にするなんてまともにやってられないし、さっさと逃げることにしましょう」 「それが、この広間から出ようとしても、あいつの魔法でここに戻ってきちゃうんだ」 アストは宮殿の露台に立つ魔道士に視線を向けた。 「広間と連結する通路を無限回廊にしてるのね。この部屋にあったはずの転移法陣を消したのも、あいつの仕業なんでしょう」 「じゃあ、どうする?」 「そんなの決まってるじゃない」 両腕に新たな咒紋を展開したマリーシアは、左右の掌を重ね合わせて魔道士に狙いを定めた。 「あいつをやっつければいいんでしょ!」 勝気な一声と同時に、重ねた掌から一筋の電光が放たれた。紫色(ししょく)の火花を散らす電撃が、魔道士の身体を捕えるかに見えたそのとき。 マリーシアの魔法は、露台の手前で弾かれて消失してしまった。 『実に愚かな娘だ。己と《都》を隔てる壁≠ェ視えんのか』 傷一つ受けなかった壁の中から、オロゴスの笑声が轟く。 「あの壁の向こうは隠り世になっているみたいです。並の魔法では通用しません」 壁面に描かれた宮殿の様子を観察したリリィが、困惑げにマリーシアの顔を見上げた。 「あっちは異次元の構造になっているというわけね……。あなたは神遣いなんだから、あの中に通せる魔法を知ってるんじゃないの?」 「次元の壁を破る魔法はあるはずなのですが、難しいのはまだ勉強中の身でして……」 「知らないのね」 「はい、ごめんなさいです……」 リリィがぺこりと頭を下げると、落胆したらしいマリーシアはため息を吐(つ)いた。 しかし魔法が通じないというなら、異次元の壁によって護られている相手に対して、どう戦えばいいというのだろう。 『これでわかっただろう。無謀な戦いを続けたところで、徒に苦しみが増すだけだ。すべてを我が手に委ね、安らかな死を受け容れるべきだ』 オロゴスが手にする魔杖の周囲に、瘴気で綴られた咒紋が描き出される。 『貴様らが持つ命の輝き……。我らの渇きを癒すために奉献して貰おう』 虚空に突き出された杖が紫暗の光を宿し、魔道士の口から発せられた愉悦の声が隠微に揺らめく。次の瞬間には、杖の先端から放たれた魔力の奔流が、おぞましげに啼き叫ぶ黒鳥の群れと化してアストたちに襲いかかった。 † 魔女の娘が、再び咒紋の映唱に入る姿が見えた。 潜在的には高い魔力を秘めているようだが、同じ魔法を繰り返すだけなら我らの次元域に干渉することは敵わぬ。傍にいる神遣いもまだ幼く、次元障壁を貫く術は心得ておらぬと見える。 剣や刀を手にした連中に至っては、亡兵たちの相手をするだけで手一杯になっている。 詰まるところ、彼らの中に我らを脅かす者など皆無。 ならば、狩るだけだ。 あの瑞々しい輝きを。 命の光を。 これだけの魂を一時(いちどき)に喰らえば、満たされるはずだ。 死後の生を受けて以来、この身を苛んできた飢えと、渇きが。 満たされるはずだ。 満たされなければならぬ。 それは、もうすぐだ。 侵入者たちは、この期に及んでも無駄な抵抗を続けているように見える。 魔女の咒紋は届かぬ。神遣いの結界も長くは保(も)たぬ。 すべて、無力だ。 彼らがあらゆる抵抗を試みたところで、我らの《都》には、無縁。 さあ――、震えるがいい。 壁中の異次元領域に構成された《永遠の都》こそが、陛下より賜りし我が宿紋(ちから)。 あと数秒もせぬ内に、《黎明の杖》より放たれた狩魂の咒法――《死命告げる黒鳥》が、彼らを呑み込むはずだ―― ああ―― あの瑞々しい輝きを放つものたちが、もうすぐこの手に―― 『!?』 その時、オロゴスの眼は、黒鳥の群れが瞬時に引き裂かれるのを見た。 一筋の光が、魔力の奔流を遡ってくる。 魔女が放ったものでも、神遣いが放ったものでもない。 明らかに、異質な光。 それは、磨き抜かれた刃のごとく煌く、美しい紋様だった。 『なぜだ』 その問いが口元から発せられたとき、既にその紋様は首筋に巻きついていた。瞬時に刃状の紋様が絡まりあって、仄白く透き通った羽衣を形成する。 次元の障壁を破る術(すべ)を持つ者が、あの中にいたのか。 一体何者だ、と思考を巡らせた直後、抗しがたいほどの力に引き寄せられ、身体が露台を離れていた。 遠ざかる―― 遠ざかってゆく―― 我らの《都》が―― 不滅の宮殿が―― 『縁がござったな』 身体が壁の外へ引きずり出されるのと同時に、声が聞こえた。 次の瞬間に認識したのは、羽衣を操る童女と、刀を振り上げる少年の姿。 『さあ、アストどの!』 童女が叫んだ直後、青白い光が視界を縦断した。 消える―― 消えてゆく―― 我らの《都》が―― 鎮魂の霊廟(みたまや)が―― すべて―― 夢幻(ゆめまぼろし)だったというのか―― いや―― 在(あ)ったのだ―― 此処に―― 此の地に―― 我らの《都》が―― 永久(とこしえ)の楽土が―― ……陛下―― お赦しを―― オロゴスの思念が断たれたそのとき、封都サン・ドラルは消滅した。 |