【第五章】生命の塔
第四十九話 その光、虚無を拓く

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 広間には静寂が戻った。
 オロゴスの消滅とともに、数え切れぬほど群がっていた亡兵たちや、壁中の隠り世に存在していた《都》の姿も、消えている。浮き彫りの像など一つも見当たらない真っ平らな石壁が、そこにあるだけだ。いま目にしているのがこの広間の本当の姿であるのなら、最初に目にした一連の彫像群は、魔法的な力によって生み出された幻像であったのかもしれない。
「いったいなんだったのよ、あいつら」
 両腕に纏っていた咒紋を消したマリーシアが、気怠(けだる)そうな顔つきで振り返る。
「よくわからないけど、兵士たちの亡霊がここに葬られてたみたいなんだ」
「ここは、英霊廟になっていたのですか?」
 若干の驚きを篭めて問いかけてきたルシェルへ、「たぶんね」と答える。
「かつてルシエラと戦った魔道王が、戦場へ向かう兵士たちに死後の楽園を約束していた、という話を聞いたことがあります」
「よくあるやり口ね。いいところに逝かせてあげるから、お前たちは安心して戦場で散ってきなさいってやつ」
 平らになった石壁を胡散臭そうな目つきで見回したマリーシアは、粗略な感想を吐き捨てた。
「あんまりいいところには、見えなかったけどな」
「そうですね……。愛する家族や恋人と離れ、このようなところに永く閉じ込められていた人たちの魂に、安らぎはあったのでしょうか……」
 視線を微かに伏せたルシェルが剣を鞘に納めると、鍔鳴りの音色が哀しげに響いた。
 壮麗だが、どこか無機的に建築物が連なっていただけの《都》の景観を思い返すと、静寂はあっても安らぎはなさそうだと感じる。とはいえ、亡兵たちに襲われている最中は彼らのことを不憫に思う余裕などなかったし、そう思ったところで無抵抗に殺されてやるわけにはいかないのだが。
「まぁ、可哀想といえば可哀想よね。生きてる時も捨て駒みたいに扱われて、死んでからも墓守として利用されてるようなもんなんだから」
 マリーシアの言いようには同意するが、たった今まで当人たちの墓があった場所でそんなことを言う彼女は、祟られたりしないのだろうかと思う。
「そもそもの疑問なんだけど」と口にしたエリウスが変身を解くと、彼の身を包んでいた全身装甲は流体状になって左手の黒い革手袋へと収縮していった。
「その王様は、なんでこんなところにお墓を造ったのかな」
「さあね。この奥にあるなにかを、彼らに守らせたかったんじゃないの?」
 アストの肩越しを抜けていったマリーシアの視線は、広間の出口へと向けられているようだった。
 この先に数え切れぬほどの財宝が隠されていたとしても、そんなものに心を奪われている場合ではないと思う。今は、囚われた妹を助けることがなによりも優先されるのだ。
「そんなの、進めばわかることだろ」
 身を翻して歩き出そうとした矢先、
「――ちょっとお待ちなさい」
 マリーシアに襟首を掴まれた。
「なんだよ?」
 苛立たしげに振り返ると、自分以上に怒っているらしいマリーシアと目が合って、一瞬たじろいでしまった。
「なんだよ、じゃありません。あなた、自分の行動でみんなに多大な迷惑がかかったってことを自覚してる?」
「それは悪かったよ。ごめん」
「死人が出てたら『ごめん』じゃ済まないわよ。こういうことが二度と起きないように、怪しい物を見つけたら逸早(いちはや)くみんなに報告するというのを、徹底してちょうだい」
「そうするつもりだったけど、ちょっと文字みたいなのを触っただけであんな仕掛けが動くなんて、想像できなかったんだ」
 無知が言い訳になるとは思っていないが、ほかに弁解の言葉が見つからなかった。
「古代文明を舐めないでくれる? こういう遺跡では、そのちょっとが命取りになることだってあるのよ」
「よく思い知ったよ。入り口で檻に閉じ込められてた人の言うことは、さすがに説得力があるな」
「あ!? あれは不運な出来事が重なって、結果として不幸な状態になってしまったというだけよ! あなたは人のことをとやかく言う前に、自分の行いを反省しなさい!」
「わかった、わかったよ。反省するって」
 いつもの癖でつい口が滑って、魔女の更なる怒りを買ってしまったようだ。
「わかればよろしい。さっきの小部屋だって、最低限の魔法知識さえあればあんなことにはならなかったんだけど……」
 独り言のように呟いたきり黙考に入ったマリーシアは、ややあってから「――ああ、そうだわ!」と顔を上げた。
「あたしたちで、《辞書》を共有しましょう」
「《辞書》?」
「そうよ。《辞書》さえあれば、あなたたちも咒紋が読めるようになるでしょ」
「おれ物覚え悪いから、そんなの寄越されても困るんだけどな……」
「その点は心配しなくていいわ」
 マリーシアが右の掌を差し出すと、そこに奔った魔力の線が、一冊の分厚い本を象(かたど)った幻像を浮かび上がらせた。そこに現れた《辞書》の外装には、幾何学的に重なり合った太陽の紋章が描かれている。
「共有さえしてしまえば、この《辞書》に書かれてあることはすぐに引き出せるようになるのよ」
「なんか便利そうだけど、魔法が使えない人でも使えるのか?」
「全然問題ないわ。ここに手を置いてみて」
「ああ」
 促されるまま、《辞書》の表紙に右手を重ねる。すると、表紙に描かれていた太陽の紋章と同じ図像が、手の甲に浮かび上がってきた。熱いとも冷たいともつかない奇妙な感触が、腕を伝って頭の中に流れ込んでくる。その現象にアストが驚いてる間に、手の甲に浮かんだ太陽の紋章は淡い紫色の光を放ちながら消えていった。
「はい、結構」
「これで終わりなのか?」
「ええ。これからは、知らない文字を目にしても読めるようになってるはずよ」
「本当か? 全然頭がよくなった気がしないんだけどな」
 首を傾げていると、宙をなぞったマリーシアの指先が魔力の篭った文字を刻んだ。今までに見たこともない形をした文字だった。
「これ読める?」
「『水』――あれ!?」
 すんなりと答えてしまった自分に一驚した。口元に微笑を浮かべたマリーシアが、その隣にもう一つの文字を刻み付ける。
「じゃあ、これは?」
「『風』」
「読めるじゃない」
「なんだこれ? 初めて見た文字なのに知ってる≠シ……?」
 知らないのに知っている、という奇妙な感覚にアストは混乱しかけた。
「これが《辞書》の共有化よ」
 風もないのに《辞書》が独りでに捲(めく)られていき、そこに記された項目――月や太陽などの星々や、天に漂う巨大な城、灼熱の息を吐き出す火竜、翼を広げて星空を駆け回る天馬の群れ――を解説した文章や挿絵が、次々と立体的な像となって宙に浮かんだ。
「こんな具合に、ちょっとした百科事典にもなってるのよ」
「その《辞書》に書かれている情報が、おれの頭の中に入ったのか?」
「ちょっと違うわね。必要なときに、この《辞書》から情報を引き出す権限を付与してあげたのよ。その代わりと言ったらなんだけど、あなたが持ってる言語知識を《辞書》の中に追記させてもらったわ」
「おれの知識? そんなのなにもないけど」
「自分ではそう思っていても、この村に伝わる文化や習俗、祭事や宗教に関することなど、有益な情報は意外と多いものよ。グラード語の辞書は既に入ってたんだけど、あなたたちがやってるお祭りのことなんかは全く知らなかったし」
 そう言いながら《辞書》に視線を奔らせたマリーシアは、新たに書き加えられた項目を一つ一つ確認しているようだった。
「ふうん……。それで、《共有》っていうのか」
「そうよ、なかなか便利でしょ。たださっきも言ったけど、情報を引き出せるようにしただけだから、中身を憶える努力は自分でやってちょうだいね」
「わかったよ」
 了解の返事をすると、どことなく誇らしげに《辞書》を閉じたマリーシアはルシェルの方へ向き直った。
「あなたもここに手を置いて」
「ええ……」
 ルシェルが《辞書》の上に手を置くと、アストのときと同様に太陽の紋章が彼女の手の甲に浮かび、やがて消えていった。
「斎女に関する情報は、後で読ませてもらうからね」
「わかったわ」
「一度《辞書》を共有した人なら、新たに追記された情報を随時に引き出すことができるから心配しないでね。知りたい情報をすばやく思い浮かべるのには、ちょっと慣れが必要だけど」
 マリーシアがこちらを振り向いて言った。慣れが必要というのは確かなようで、《辞書》にどんなことが書かれているのか調べてみようと思っても、なにも頭に浮かんでこない。咒紋を読まされたときは言葉が感覚的に口をついて出てきたが、《辞書》を適当に捲るつもりで情報を引き出すのは難しいようだ。
「そういうことか」
 ここまで様子を見ていたヴァンが呟いた。
「この《辞書》とやらがあるおかげで、お前たちはグラードの言葉を話すことができたのだな?」
「そうよ。これにはロゼウスやエルダナの辞書も入ってるし、それ以外の言語でも一から情報を蓄積して解読することができるの」
「つまり、お前たちはずる≠していたということだ。ならば、旅を続けながら自力で現地の言葉を習得した俺が、この中でもっとも優秀な頭脳を持っていることになるな」
「その努力は認めてあげるけど、『西』と『左』を一緒にしてた人は黙りなさい」
「いつまでも人の間違いに付け込んで、鬼の首でも取ったかのような顔をしているやつは嫌われるぞ」
「あなたと話してると時間が無駄になっちゃうから、さっさとここに手を置いて」
 強制的に話を打ち切られたヴァンは、「……嫌な女だ」と愚痴るように零しながら《辞書》に手を置いた。
「目新しい情報は、特になさそうね」
「よく確認しろ。英雄の一族に関する情報が余すところなく載せられているはずなんだが」
「確かに載ってるけど、長ったらしくて読みにくいから後で消去しちゃおうかしら」
「おいふざけるな。英雄の歴史を闇に葬るなら、お前を悪の魔女として認定するぞ」
「わかったからさっさとどいて。さて次は――」
 マリーシアの視線がアストの隣に向けられた。
「アヤノさん、だったかしら?」
『拙者もそれに手を置くのでござるか?』
「もちろんよ。あなたはよくわからない言葉を使ってるのに意味が頭に入ってくるし、なんかすっきりしないのよね。魔女としては、自分の知らない言語があるというのが許し難いのよ。解析に協力してくれる?」
『まぁ、拙者は一向に構わぬが』
 アヤノが《辞書》に手を置いた。
「ずいぶん古い言葉を使っているみたいね。ここよりもっと東の方で使われていた言葉かしら」
『かもしれぬな』
「あたしたちが話している言葉はわからないんでしょ? 今までどうやって意志の疎通を取ってきたの?」
『ここいらの言葉は、拙者にとってちんぷんかんぷんでござるからな。アストどのが認識した言葉の意味を拾っていたのでござるよ』
「彼とは、言葉を解さずに直接意思のやり取りができるということね」
 マリーシアの念押しに肯くアヤノの姿を見ながら、今までそんなに面倒なことをしていたのかと思う。
「あなたは何者なの? 《夢幻体》の割にはやけにはっきりとした自我を持ってるし、ちょっと信じられないぐらいの力を持ってるみたいだし……」
『拙者は、アストどのの刀≠ナござるよ』
「ということは、あなたの本体はあっちの刀なのね。刀に固着しているはずの自我が、持ち主の力を借りることによって実体を伴って顕れているのかしら。――あるいは、あなたという存在は刀が見る夢≠ネのかもしれないわね」
『かような理屈はわかり申さぬが、拙者がここにいるのがアストどののおかげであることは確かにござる』
《辞書》から手を離したアヤノがこちらを見上げた。彼女を界瘴の中から持ち出したのは自分だが、元の世界に戻ってこられたのは彼女の力があってこそのことだと思う。
「あなたがさっき遣った宿紋はなに? 《刃紋》っていう力みたいだけど」
『うむ。あれは《刃渡(はわた)り》という術にござるな。あの男が放った瘴気の内へ刃紋を伝播させたのでござるよ。アストどのに負担をかけぬよう、最小限度の力を乗せただけの代物でござったが、彼奴を壁の内より引きずり出せばいくらでも止(とど)めの刺しようがござる』
「魔法の中を渡ってくるなんて、魔女としては非常に不愉快な気分になる現象を見せられたわ。その刃紋っていうのはどうなってるのよ?」
『刃紋とは即ち、斬断の理(ことわり)にござる』
 アヤノの答えは簡潔なものだったが、この場にその意味を理解できた者はいなさそうだった。 
「一応、《辞書》にもそう書いてあるんだけどねぇ……。もっとわかりやすく説明してくれるかしら」
『つまり、あらゆる斬ること≠フ理が権化(ごんげ)したものにござるな』
「その、『あらゆる』という言葉の中には、『魔法』も、『異次元の壁』も含まれているわけね?」
『左様』
「あら、そう。この世にはずいぶん不条理な理があったものだわ。《夢幻体》っていうのは、実存と虚無の狭間にいるような不確かで薄弱な存在であるはずなのに、あなたみたいに特異な力を持った例外もいるのね」
 どこか釈然としない面持ちをしたマリーシアは、空いている方の手に幻像のペンを喚(よ)び出して《辞書》になにごとか書き加えていた。
 特異な力。例外。
 膨大な知識や情報を《辞書》に蓄えた彼女が言うくらいなのだから、アヤノという存在はよほど珍しいものなのかもしれない。
「まぁ、いいでしょう。他にも聞きたいことは山ほどあるけど、きりがないからこのくらいにしておくわ」
 質問を切り上げたマリーシアは、《辞書》を乗せた掌をリリィに向けて差し出した。
「この際だから、神遣いさんにも協力してもらおうかしら」
「わ、わたしですか!?」
 きょろきょろと辺りを見回したリリィに、「他に誰がいるのよ」とマリーシアが言う。
「で、でもでも、みだりに私たちの言葉を教えてはいけないと、普段から厳しく注意されていますので……」
「絶対に嫌だというなら拒否してもいいわ。――その代わり! 全く協力する気がない人を連れて行くなんて絶対に嫌だから、あなたをここに置いてくことになるけど」
「ええっ!? ど、どうしてそうなるのですか!?」
「当然でしょ。あなたが嫌なことを一つ拒否したら、あたしも嫌なことを一つ拒否できる。そうじゃないと世の中不公平というものでしょう?」
「それはそうかもですが、こんなところにひとりで置き去りにされたら、私は迷子になってしまいます! お願いですから一緒に連れて行ってください!」
 素気無くあしらおうとするマリーシアに対して、リリィは背中の羽をばたばたさせながら必死に懇願を続けた。
「そんなにお願いされても困っちゃうのよねぇ」
「どうしても、だめですか?」
「どうしてもというわけじゃないけど、あたしたちに連れてって欲しいのなら、それなりの誠意を見せてもらうのが筋でしょう?」
 やけに穏やかな声音で語りかけた紫衣の魔女が、幼い神遣いにゆっくりと近寄りながら《辞書》の共有を迫る。
「そんなぁ」
 肩を震わせたリリィは、やがて覚悟を決めたようにがっくりと項垂れた。
「わかりました……。《辞書》の共有を、受け容れます……」
「ご協力に感謝するわ。はい、これに手を置いて」
「うぅ、お姉ちゃんにばれたら怒られるかなぁ」
《辞書》の共有を果たしたリリィは、泣きべそをかきながらルシェルの後ろに隠れた。
「こんなに幼い子供を脅すとは、お前は絶対に悪の魔女だろう」
「脅したなんて人聞きが悪いわね。あたしは公正な取引をしただけよ」
 ヴァンの指摘を平然とあしらったマリーシアは、神遣いの言語知識が追記された《辞書》を満足げに捲っていた。
「おれにはよくわからないけど、そんなに凄いことが書いてあるのか?」
「彼女たちが扱う言語というのは、魔法そのものなのよ。それを欲しがらない魔女がいると思う?」
 アストが口を挟むと、《辞書》の幻像を消したマリーシアから開き直りともとれる答えが返ってきた。
「そうだとしても、子供相手にあんなやり方をするのはちょっと乱暴じゃないか?」
「あたしに説教するつもり? だいたい、誰のおかげでこんなところへ飛んでくる羽目になったと思ってるの。少しくらいは得るものがないと割に合わないでしょ」
 その点を責められると、アストとしてはうまく返す言葉が見当たらない。
「――あ、そうそう。ついでだから、これも貰っていこうかしら」
 マリーシアは床に落ちていた杖を拾い上げた。魔道士オロゴスが持っていた金属製の杖だ。持ち主や隠り世の《都》が消滅しても、これだけは消えずに残っていたらしい。
「さっきの魔道士とこの杖の力が、死者たちの都を維持していたんでしょうね」
「悪い力が篭められている心配はないの?」と、心配げに問いかけたルシェルへ、
「だいじょうぶよ。主(あるじ)が替わったばかりの内は言うことを聞かないかもしれないけど、あたしが力ずくで押さえつけてみせるから」
 マリーシアはひどく楽観的な答えを返した。
「さあ、こんなところに長居は無用なんだから、さっさと先へ進みましょう」
 本当に大丈夫なのか不安はあったが、上機嫌で歩き始めたマリーシアへ不用意な言葉をかける気にはならなかった。杖の扱いについてとやかく言ったところで、彼女の神経を逆撫でするだけだろう。
 魔法や呪術に通じている彼女のことだから、杖に呪いがかけられている危険性など承知の上で拾ったはずなのだ。
「やっぱり魔女って言うからには、杖の一つくらい持ってないと格好が付かないのよね」
 手にした杖を鼻歌交じりにくるくると回している姿を見れば、上機嫌を通り越して能天気に過ぎるのではないかと思えてしまうのだが……。
 ともかく、《都》の広間を抜けたアストたちは、遺跡のさらに奥へと足を進めた。
 先ほどは通路が無限回廊と化していたのだが、オロゴスの死によって通路内に展開されていた歪空間が滅失し、元いた広間へ戻される心配はなくなったようだ。
 しばらく進んだところで、立ち止まった。通路が三方に分かれている。中央の通路は真っ直ぐ奥へと伸びているだけだが、左右の通路には扉が幾つか並んでいた。
 全部で六つあった扉をすべて開放してみたものの、いずれも小さな部屋に繋がっているだけで、驚いて逃げ回る鼠の姿以外になにも見受けられない。
「なんにもないな」
「そうですね……」
 ルシェルと一緒に部屋の中を調べてみたりもしたのだが、転移法陣のような仕掛けが隠されている気配はなかった。
 宝探しをしているわけではないにしても、上層に向かう階段くらいは見つかってもいいのではないかと思う。
 先ほどの四つ角に戻って真ん中の通路を進んだアストたちは、その後も幾つか現れた分岐点で進路の選択を迫られた。アヤノの直感やマリーシアの気分で右左折や直進を織り交ぜながら進んでみたものの、延々と続く通廊に終わりが訪れる気配はない。もしかしたら、同じところを何度も回っているだけなのではないかと思い始めたところで、
「――なんだ?」
 突然、闇が現れた。
「真っ暗だな」
 闇の中に二十メトレ(二十メートル)ほど通路が迫(せ)り出していて、その周りは天井も壁も色濃い闇に覆われていた。……いや、それは単に闇が覆っているのではなく、その先に続くべき世界が、そこでふつと途絶えているような印象さえ受ける。マリーシアが《篝火》を掲げてみても、その闇の中を見通すことはできなかった。
「これはちょっと厄介ね……」
 苦い表情で呟いたマリーシアに「どう厄介なんだ?」と尋ねてみた。
「ご覧の通りよ。時空が欠落していて、これ以上先に進めないの」
「時空が欠落……?」
 アストは闇の中を覗き込もうと首を伸ばしてみたが、慌てて腕を伸ばしてきたマリーシアに襟元を掴まれた。
「ちょっと! 迂闊に深淵を覗き込まないでくれる!?」
「そんなに危険なのか?」
「呑み込まれたら二度と戻ってこられないわよ!」
 マリーシアの怒りようを見る限り、冗談や脅しで言っているわけではなさそうだ。
「じゃあ、ここから先に進むにはどうすればいいんだよ?」
「それを今考えているんだから、ちょっと待ってなさい! 神遣いさんならあれを渡る方法を知ってそうだけど――」
「知らないです……」
「知ってそうだけど知らない、ということね。ご協力ありがとう」
 その後盛大にため息を吐(つ)いたマリーシアは、口を閉ざして黙考を始めた。
「こんなところで立ち往生するわけにはいかないんだけどな……」
「どうすればいいのでしょう……」
 ルシェルが困惑げに呟いた、その時のことだ。
 突然、三女神の腕輪が光を放ち始めた。
「なんだ!?」
「わかりません。腕輪が突然――」
 不意の出来事に声を震わせたルシェルが、通路の先へ吸い寄せられるように歩いてゆく。
「そっちに行っちゃ駄目だ!」
 咄嗟に彼女の腕を掴んだが、こちらを振り返ったルシェルの表情が、いつも以上に落ち着き払っていることに驚いた。
「もしかしたら、この闇を祓うことができるかもしれません」
「どういうこと?」
 問い質したアストは、神剣の鞘と剣帯も、腕環と同様の光を発していることに気づいた。
「私にもわかりませんが、腕環を通してヴェスティールの意思が語りかけてくるのです」
「三女神の、意思だっていうのか……?」
 静かに肯き返したルシェルを見て、アストは彼女の腕をそっと放した。
 ヴェルトリアの女神を信じたわけではない。
 でも、彼女の言うことなら、信じられると思った。
 ゆっくりとした足取りで通路の先へ向かったルシェルが、光すら届かぬ昏冥の中に足を踏み入れる。
 彼女の様子に異状はない。
 三女神の武具からは清らかな光の紗幕が紡ぎ出され、ルシェルの全身を護っているように見えた。
 彼女が虚無の海溟(かいめい)に足を降ろす度、淡い光の波紋が拡がってゆく。
 他に見えるものがない闇の中では距離感が掴みにくいが、だいぶ進んだところでルシェルが足を止めた。
「――我、古の盟約によりて捧げられし、斎女の末裔」
 祈るように両手を組み合わせた彼女が、なにごとか呟いているのが聞こえてくる。
《誓文(せいもん)》という言葉が、《辞書》に記された知識の海から浮かび上がってくるのを感じた。
「約定(やくじょう)の刻はきたれり。我、ここに誓う。御心(みこころ)に仇為す者どもを討滅せるその時まで、剣とともに戦い続けんことを――」
 底深き虚無のしじまに、ルシェルの澄んだ声音だけが響き渡る。初めて耳にするのに、厳かな言葉の列なりに侵しがたい神聖な力が内在しているのを知覚して、肌があわ立った。
「願わくば、今ふたたび御前(みまえ)に現れし剣の斎女に、三女神の祝福とご加護を……」
 ルシェルが誓文を唱え終わると、彼女の身体を包む光が一段と強くなった。その足下に、青白い紋章が浮かび上がる。その中央に描かれているのは、一振りの剣と、一対の翼。
「聖女の、御証(みあかし)……?」
 リリィの口から驚きの声が漏れた直後、魔法円のようにも見えるその紋章から光が溢れ始めた。
 ルシェルの周囲を埋めていた虚無の闇が、漣(さざなみ)のように押し拡がる光によって塗り替えられてゆく。
 まるで、原初の創世を見ているような光景だった。
 そこにあるべき床や壁や柱が、光に焙り出されるように浮かび上がってくる。
 紋章から溢れ出た光が隅々に行き渡ったそのとき、アストたちの目の前には無辺に伸び上がる石柱に囲まれた大聖堂が姿を現していた。



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