【第五章】生命の塔
第五十一話 命、啓かれる刻

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 その気配には、覚えがあった。
 村を襲撃した魔物たちの群れ。
 天界を追放された邪神に付き従う、異貌の下僕たち――ゼヴェスの祇徒。
 村を襲った魔物たちは蜥蜴の姿を露(あら)わにしていた。しかし、たった今目の前に現れた祇徒たちは、鈍い光を放つ暗銀色の甲冑を身に着けている。
 彼らが手にする広刃の黒剣が、一斉に真紅の焔を噴き上げるのが目に入った。
「出鼻を挫(くじ)いてやるわよ!」
 七色に煌く翼を背に纏ったマリーシアが上空へ飛翔していった。蝶の翅と似た翼は、《飛動》という意味の咒紋を編み上げることによって組成されているようだ。彼女の右手に持たれたオロゴスの杖が突き出され、上方から襲来した祇徒たちへ魔法の狙いを定める。両腕に展張した《日輪の羅紋》に雷撃の咒紋が綴られていき、杖身の周囲に烈しい火花が生まれ始めた。
「――あれ?」
 今まさに、魔法を発動せんとしていたマリーシアの口から戸惑いの声が漏れた。杖から放散されていた火花が消えている。様子がおかしい。
「早く撃ちなよ!」
「杖が咒紋を掻き消してくるのよ! どうしてこの子は急に言うことを聞かなくなったの!?」
 エリウスへ怒鳴り返す表情が焦りに染まっている。
 上空から、火焔の豪雨が降り注いでいた。祇徒たちの剣が焔の弾体を吐き出したのだ。
「ちょ――!? ちょっと待って待って!」
 逆に出鼻を挫かれた魔女が、懸命に焔の雨を掻い潜(くぐ)る。降り注いだ焔弾のうち、数発が踊り場に着弾した。直撃こそしなかったものの、同時に数ヶ所で起きた爆発がアストたちの足下を揺動させる。
「偉そうな恰好をして、この俺と互角になったつもりか!」
 剣を構えたヴァンが、通路沿いを滑空してきた一体の祇徒を迎え撃つ。両者の太刀が中空で交錯した。
「ぬおぉっ!?」
 ヴァンの巨体が、弾き飛ばされていた。
「この俺としたことが、全身にのしかかる疲労を忘れていたか……!」
 紙切れさながらに吹っ飛んだ英雄の末裔が、甲冑をけたたましく打ち鳴らしながら床の上を転がってゆく。勢いに乗った祇徒が、さらに追い撃ちをかけようとしていた。
「《着装(フォルゼ)》!」
 異形の戦士と化したエリウスが、黒刃の鎌を祇徒の剣に合わせて追撃を阻む。
「こいつら、結構強いよ!」
 両者の力は拮抗しているらしく、刃を噛み合せたまま固着が続いていた。
『アストどの!』
「わかってるよ!」
 アストは刀を抜いた。駆け抜けざまに払った一刀が、祇徒の甲冑を一文字に切り裂く。
「ありがとう、助かったよ」
『もやしどのは魔女どのに加勢を』
「うん、わかった」
 祇徒と同じ黒翼を広げたエリウスが、上空へと飛翔していった。
「今こそ、この翼が役に立つときです!」
 背中の霊翼を顕し、手元に長槍を喚び出したリリィがその後に従う。
「私も行きます!」
 視界の端に、ルシェルの姿が飛び出していくのが見えて、ぎょっとした。
「ルシェルさん!?」
 咄嗟に手を伸ばしたが、届かない。飛ぶための翼もないのに、空中に身を投げ出すなんて自殺行為だ。
 しかし次の瞬間には、宙を蹴ったルシェルの身体が上昇を続けていくのを目の当たりにしていた。彼女が宙を蹴るたびに、光の粒子が波紋のように拡がってゆく。
「あれは?」
 ルシェルが虚無の海を渡るときに見せた光と同じだ。戦士オルグの攻撃から逃れようと、アストもろとも塔の頂上から飛び降りたときも、あの光が二人の落下速度を和らげてくれたことを思い出す。
 マリーシアたちと同じ高度まで達したルシェルが、踊るような足遣いで自在に身を翻しながら敵に切りかかっていく。一呼吸する間に、二体の祇徒が斬り捨てられた。
「……空中に地面があるみたいだ」
『呪場による障碍(しょうがい)をすっかり跳ね除けたのでござろう。ルシェルどのの神気が充実しつつござる』
「斎女の力が、戻ってきてるのか?」
 唖然として、宙を跳ねるように駆け回るルシェルの姿を見上げていた。
「くそっ! あんな蜥蜴風情に薙ぎ倒されるとは恥辱の極みだ! もう一度さっきの奴と戦わせろ!」
 床に突き立てた剣を支えにしながら、やっとのことでヴァンが立ち上がってきた。 
「教えろ! あいつはどこだ!」
『其奴(そやつ)なら、ルシェルどのの剣で疾うに真っ二つでござるよ』
「なんだと!? この俺を吹き飛ばした蜥蜴なら、他の蜥蜴の十倍は強かったはずだ! ――となれば、奴は蜥蜴たちの中では英雄であったに違いない!」
『英雄でもなんでも、とにかく其奴は真っ二つでござるよ』
「馬鹿にしやがって! 俺に赤っ恥をかかせたまま、あの世に勝ち逃げしたというのか!」
 いきり立ったヴァンは、中天を乱れ飛ぶ祇徒たちへ剣の切っ尖を差し向けた。
「そもそも空を飛んで逃げ回るとは汚い奴らだ! 僅かなりとも己を恥じ入る心があるのなら、地に足を着け、正々堂々と勝負を挑んでみせろ!」
 数え切れぬほどの焔の弾丸が、その挑発への返事だった。
「それがお前たちの答えか。――いいだろう。逃げずに正々堂々と戦う行為がいかに尊く気高いものか、この俺の姿から存分に学び取るがいい!」
 ヴァンは迫りくる焔弾の嵐に向かって、白銀の楯を構えた。着弾と同時に真紅の爆光が彼の身体を覆い隠す。
「ぐうおおおっ!?」
 膨れ上がった火球の中からヴァンの姿が吐き出された。いまや遥か下方に遠ざかった塔の底へ向かって、真っ逆さまに落ちてゆく。
『いちいち手間がかかる御仁でござるな!』
 アヤノが羽衣を縄のように投げると、その先端がヴァンの甲冑に巻きついた。
「うおおおおっ!?」
 勢いよく引き寄せられた羽衣の中から、独楽(こま)さながらに烈しく回転する重戦士が解き放たれた。上空へ放り投げられた白銀の独楽が、その軌道上にいた不運な祇徒たちを散り散りに引き裂いてゆく。
「窮地に瀕して新たな武技の可能性を見出すとは、さすが英雄といったところか。少々目は回ったが」
 ある程度の戦果を上げたヴァンが、再び踊り場の上に降り立った。火焔の弾幕を浴びたというのに、白銀の楯と鎧は彼の身体を完全に守りきったようだ。
「なかなか面白かったぞ。今のをもう一度やってくれ」
『次はござらぬよ』
 突っけんどんに言い放ったアヤノが、こちらを振り向いた。
『――何奴(なにやつ)』
 眉目を尖らせた彼女の口から、堅く張り詰めた一声が放たれた。
 首筋におぞましい鬼気を感じ、振り返る。
 そこに、眼≠ェ、あった。
 昏い魔力線で描かれた巨大な眼球が一つ、アストの鼻先に浮かんでいる。
 咄嗟に刀を構えようとしたが、それより一瞬早く眼≠ェ怪光を放った。
「なんだ……!?」
 不可解な衝撃に撃たれ、身体が宙を舞っていた。
 踊り場から放り出された状況は理解していたものの、怪光に撃たれた全身には抗し難いほどの強い痺れが奔っており、指一つ動かすことすらできない。
『――――!』
 アヤノが叫んでいる。しかし、なにを言っているのかは聞き取れない。聞こえるのは、烈しい耳鳴りだけだ。
 身体の周囲には、闇色の紋様が現れていた。鎖のように連なった咒紋の列が、身動きできないアストを雁字搦めに縛り上げる。

 瘴霧よ、風塵と交わり無窮の泥土と成れ

 生ある者には苦呻と悲嘆
 死せる者には歓喜と安寧を我は約する

 畏れの儘に償還の刻を迎えよ

 腐りし血肉、穢れし霊魂によって聖餐の杯は満たされん


 咒紋の列が妖しい光を帯び始め、それらの内から黒い霧のような瘴気が漏出(ろうしゅつ)し始めていた。アストは、周囲に瘴気が満ちていく様子をただ眺めていることしかできない。

辱界の咒法――《不浄なる深潭(しんたん)》

 発動の引き金となる結句が綴られ、魔法が、喚起する。
 アストを取り囲むように拡がっていた瘴気の黒霧が、俄かに重みを増していくのを感じた。

        †

 突然やってきた悪寒に、心臓が震えた。
「なにが起きてるの……!?」
 足下に光の波紋を拡げ、宙に身体を固定した。アストたちの安否が気になって、視線を下方に転じる。
 踊り場があったはずのところに、どす黒い瘴気を噴き上げる汚泥の沼が広がっていた。
 空中での戦いに気を取られている間に、祇徒たちに魔法を使われてしまったのかもしれない。
「やめろ近寄るな! 泥水に流されて溺れ死ぬ英雄などお前たちも見たくないだろう!」
 迫りくる汚泥に向かって叫んだヴァンが、懸命に階段を駆け上がってくる。
『ルシェルどの!』
 塔内に溢れかえる泥土の淵から、アヤノの声が聞こえてきた。 
『アストどのが泥玉の中に!』
 簡明に情況を伝えてきたアヤノは、ルシェルの反応を待たずに汚泥の中へ飛び込んでいった。
「アストさんが……!?」
 どうやら彼は、突然溢れ出てきた泥土の中に呑み込まれてしまったようだ。
 ルシェルは、沼の中央に浮いている球状の土塊(どかい)へ視線を奔らせた。その表面に、魔力の線で描かれた巨大な眼≠ェ張り付いている。
 あの中に、アストが囚われているのだろうか。
「すぐにお助けします!」
 叫び、泥の塊に向かって降下しようとしたルシェルを、
「軽はずみな行動はやめなさい!」
 進路を塞ぐように降りてきたマリーシアが制止した。
「止めないでマリーシア! アストさんがあそこに閉じ込められているの!」
「助けるなとは言ってないでしょ! そうやってすぐに一人で飛び出すのをやめなさいよ!」
「でも、アストさんの命に万が一のことがあったら――」
「彼を助けるのは手伝ってあげるから、まずはあたしを助けて! この杖が反抗的で大変なの!」
「力ずくでも言うことを聞かせるんじゃなかったの?」
「それをやるためには、余計な時間と力を消費しなきゃいけないのよ!」
 杖を振り回しながら喚いているマリーシアの相手をする間に、焔の剣を振りかざした祇徒たちが上方に迫っていた。
「あいつらの相手は頼んだわよ! この子とお話≠オて、誰が主なのかみっちり言い聞かせて調伏したら、すぐに戻ってくるから!」
 そう言ってルシェルの後方に退避したマリーシアは、杖身を掴む手に魔力を集中し始めた。発光した手の甲から火花を飛ばしながら、杖身へ絡み付けるように雷(いかずち)の鎖を編み出してゆく。
「よぉーくお聞きなさいっ! あたしの言うことに素直に従わなかったら、あんたが黒焦げになるまで魔力を流し込んでやるわよ!」
 杖はマリーシアの魔力を撥ね散らして抵抗を見せたが、伸び続ける鎖をすべて掻き消すことはできないようだった。
「だから、悪い力が篭められてるかもしれないって言ったのに……!」
 苛立ちを込めて呟いたルシェルは、杖との対話に勤しむ魔女を背中に庇いながら祇徒たちを迎え撃った。

       †

 やけに、生温かい。
 滑りとした感触が、全身を包んでいた。
 知覚できるのはそれだけで、自分の身体が、どのような状態になっているのかはまるでわからない。
 恐らく、泥の中にいるのだろう。
 手足を動かそうにも、感触が無い。
 鼻や口を塞がれて、呼吸をすることすら儘ならなかった。
 苦……しい。
 早くここを抜け出さなければ、息が絶えるまで幾許もないと思えた。
『力持つ者と睨んでいたが、見込みが外れたようだな』
 耳の中まで入り込んだ泥を伝って、くぐもった声が聞こえてきた。視界が塞がれていてなにも見えなかったが、あの巨大な眼≠ェ、前方にいると感じる。
 お前は何者だ。
 そう怒鳴り返そうとしたが、声が出てこなかった。肺の中にある空気が、鉛のように重くなって臓腑に圧(の)しかかっている。
 ……まさかと思いたいが、肺の中まで泥で埋まっているのかもしれない。
『しかし、妙ではあるな。不浄の深潭に全身を浸かりながら、尚も己の容(かたち)を失わずに自我を保ち続けているとは』
 なにも反応できずにいるアストに構うことなく、眼≠フ言葉が続いていた。
『生かしておけば、後の災禍の芽になるやもしれんな。その力、開かれる前に摘み取らせて貰うぞ』
 なんのことだ、と思った直後、全身を包む泥の感触が、さらに身体の中≠ヨ入り込んでくるのに気づいた。
 身の毛をよだたせるおぞましい感触が、皮膚の下へ――
 身体の裡へ――
 潜り込んでくる。
『地より生まれし者は、腐り落ちて地に還るが道理。我が瘴土より逃れる術(すべ)など存在せぬ』
 魂を揺さぶるような低声が、身体の内部で反響していた。
 ――このまま腐って土に還るのが、道理だっていうのか……?
 黙って死を受け容れるつもりなど毛頭ないが、なにもできないまま汚泥に侵されてゆく我が身に絶望する。
 アヤノは、どこにいったんだ。
 今こそ、彼女の助けが必要なのに。
 ……結局、アヤノがいなければ、なにもできないのだ。
 彼女に出逢い、サクラメという刀を手にして、自分が強くなったつもりでいた。
 たった数日間の稽古をし、化け物たち相手の実戦も幾度か経験して、戦いの空気に慣れてきたつもりでもいた。
 すべて、錯覚だったのだ。
 力無き者、弱き者が戦えばどうなるか。
 死は、当然の帰結だった。
 既に感覚が無くなりかけている分だけ、手足を一つ一つ切り落とされるよりは苦しまずに死ねるのかもしれない。
 身体の中を蠢く汚泥と一体になり、自分という存在は緩やかに消滅してゆく。
 穏やかな死。
 ――死ぬのか……?
 ――このまま、死ぬのか……?
 ――ちくしょう……! どうしておれには、力が無いんだ……!
 魔法のような力が自分にあれば、少しは戦えたはずだと思う。
 ――いや、違う。
 ――おれにだって、戦士様と戦うことはできたんだ……!
 ――力が無くたって、諦めるものかよ!
 銀髪の魔女を倒して、村を元に戻す。
 そして、マナミをおふくろのところへ連れて帰ろう。
 果たさなければならない誓いがあるんだ。
 親父のいるところには、まだ逝けない。
 ……そうだよな、親父。
 こんなに味噌っかすな洟垂れ小僧のまま、親父に会うことなんてできるか。
 ……死ぬものかよ。
 こんなところで――
 ――こんなところで腐って死ねるかぁぁぁ!
 アストの意思が叫びを上げたとき、心臓がひと際高く拍動した。熱く煮え返った血潮が、脈を打つたびに全身に拡がってゆく。今まで全く感覚がなかった四肢に、力が通い始めた。
 これなら、動ける。
 動けるなら、戦えるはずだ。
 ――刀はどこだ!?
 ――サクラメは、どこにある……!?
 抵抗の意思を切らさぬようにもがき続けていると、
『此処にござるよ』
 遥か遠方から、応えるものがあった。
 周りは泥土で埋め尽くされているはずなのに、その声の主は、そよ風の中に踊る胡蝶のようにひらひらと近寄ってくる。
 柔らかな気配がアストの顔を撫でていき、目が、開いた。
 桜の花片が舞っている。どこからかやってきたそれらの花片は、霞のような微細な粒子で構成されていて、向こう側が微かに透けて見えるようだった。
『芽を腐らせずに済んだようでござるな』
 無数の花片が一所(ひとところ)に集まって、幻影のように揺らめくアヤノの像を形作る。彼女を中心にして潮が引くように泥土が後退してゆき、そこだけが空洞になった。アストはまだ、泥から顔を出しただけの状態だ。
『何者だ』
眼≠ェ誰何の声を発した。
『それを訊きたいのはこちらの方でござるな』
『夢幻体の分際でありながら、瘴土の侵蝕を寄せつけぬとは赦せんな。貴様が、その小僧を守護する者か』
『拙者はただの刀に過ぎぬよ』
『なるほど。あの刀が貴様の本体か』
 そう呟いた眼≠ェ、嗤ったように見えた。
『ならば、終わりだな。刀は次元の異なる界層へ隔離してある。寄る辺となる小僧が死ねば、貴様もその身体を保つことはできまい』
『さて、それはいかがでござろうか』
『強がりを吐(ぬ)かすな。直に小僧は腐り落ち、貴様も滅する』
『無駄口を叩かずに首を洗って待っておれ。今から、この洟(はな)垂れ小僧がおぬしを斬りに往(ゆ)く』
 言い放つや、アヤノの幻像は霞となって宙へ拡がり、風を巻きながらアストの身体を取り囲んだ。全身を覆っていた泥が、烈しく渦を巻いた霞によって引き剥がされてゆく。
「腐ってなかった……?」
 以前と変わりない自分の手足を確認することができて、束の間安堵した。泥土と融合しかけていた身体を、アヤノが分離させてくれたのだろうか。
『では、あやつを斬りに往くとしようか』
 身体を取り巻く霞を伝って、アヤノの意思が流れ込んできた。
「刀が無いのに、どうやって斬れって言うんだよ?」
 鞘は腰の帯に差し込んだままだったが、肝心の刀が手元にない。
『刀なら有るではござらぬか』
「どこに?」
 アヤノへ聞き返しながら周囲を見回すと、どこからともなく流れ込んできた桜吹雪がアストの目の前に集束して、サクラメが姿を顕した。
『異空の彼方より刀を喚び寄せたか』
眼≠ェ、驚懼の声を漏らしていた。
『これも縁の為せる業でござるよ。――さあ、アストどの』
「あ、ああ」
 宙に静止している刀を手にしたアストは、前方に浮かぶ眼≠ヨ切っ尖を向けた。
「あいつを、斬れるのか?」
『案ずるなかれ。あやつはただの影に過ぎぬ』
「じゃあ、本当のあいつは、別のどこかにいるんだな?」
『左様。影は、ただ払うのみ』
「簡単に言ってくれるな……」
 柄を握る手に力が入り、切っ尖が戦慄(わなな)いた。
 また、妙な魔法を使われてしまったらと考えると、手足が動かなくなってしまう。
「魔法を使われたらどうするんだ?」
『抗う術はただ一つ。《命の力》を燃やしなされ』
「命の力……?」
 そんなの、どうすればよいのだと思う。これまでの戦いで、アヤノが不思議な《力》を使うところは何度も見てきた。それらの業が、アストの《力》を費消して行われるという仕組みは聞かされていたものの、自分で自由に使えない力の存在を確信することはできない。
「おれに、そんな力があるのかよ……?」
『力は、この世に生きるすべての命が持つものにござる』
 アヤノの意思が答えた。 
 それでも、にわかには信じられない。
『妙な真似はさせぬぞ』
眼≠ェ叫び、無辺に広がる泥土をけしかけてきたが、霞を纏ったアストには触れることすらできないようだった。
『隠り世で闇を拓いたときのことを、思い出しなされ』
「あのときの……?」
『拙者が手を貸さずとも、アストどのは力を遣えたではござらぬか』
「あれは、早くあそこを出ようと必死になってやったら、偶然できてしまったってだけだよ」
 自分を逃がしてくれたルシェルを助けるために、ただそれだけのことを考えて刀を振ったのだ。
『偶然ではござらぬよ。一心≠ノ刀を振ろうとした結果、アストどのの命に火≠ェ熾きたのでござろう?』
「火=c…?」
 呟いたアストに『左様』と応じたアヤノは、さらに言葉を続けた。
『生ある者は皆、命という火種を身の裡(うち)に宿すものなり』
 アヤノの言葉が心の中へ響き渡るのと同時に、身辺に漂う霞が、呼吸を通じて体内へ取り込まれてゆく。それを繰り返すたびに、身体の奥底に熱が生まれてくるのを感じた。
『《命の力》とは即ち、息(い)の内(ち)に潜む力』
 アヤノの意思が続ける。
『それは、六極(りっきょく)に満ちる森羅万象の神気を取り込み、己の身の裡に燃焼させることによって、赫耀(かくやく)と生まれ出ずる力なり』
 彼女の言葉はよくわからなかったが、身体の内側に発した熱が、その力によって齎されたものだということは明確に理解できた。
『命は焔となり、焔は光と熱を生み出す』
 身体が、芯から滾(たぎ)り始めた。命の火種が、燃えている。
 身体の芯から発する熱が五体を満たす。
 皮膚の、すぐ下で。
 力が蠢く。昂ぶる。燃え滾っている。
 身体という殻による拘束、抑圧からの解放を訴えている。
『切っ尖に神気を篭めよ。さすれば焔は姿を顕す』
 烈しい熱を伴った《力》のうねりが、腕を伝って刀へと注がれてゆく。
 この身に流れる血潮が、五体の隅々へ行き渡るように、それは、自然な力の流れであるように感じられた。
『眼を瞠(ひら)き――、魂(こころ)を拓(ひら)き――、己が命を啓(ひら)かせよ!』
 アヤノの意思が叫び、そして――
 刀に、焔が宿った。
 サクラメの刀身が、灼然と燃え上がる白焔(びゃくえん)によって包まれている。
 沸き立つような、命の脈動。燃え滾るような、命の熱火。
「これが、《命の力》……?」
『左様。アストどのの《力》にござる』
「おれの、《力》……?」
 刀だけではない。四肢の先まで、力が漲ってくるのを感じていた。
『影を、払いなされ』
「ああ!」
 アヤノの言葉に背を押されるようにして、アストは地を蹴った。
『小僧の裡に眠る力を、呼び醒ましたというのか』
眼≠フ様子に、明らかな動揺が見て取れた。
 アストの心に、もう恐れはない。
 間合いに入った。
 刀を、振り下ろす。
 不浄の泥土に刻まれる、真白き焔の閃軌。
『信じられぬ――』
 当惑の滲む一声だけを残して、巨大な眼を形成する影は両断されていた。



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