【第五章】生命の塔
第五十三話 暗闇の森

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 目の前には、幽かな輝きを帯びた粒子の群れが立ち籠めている。
 その向こうに、茫漠とした光を放つ楕円状の空間があった。そこから放散される乳白色の粒子の群れが、光る雲となって天頂を満たしているようだ。
 無数に漂う粒子の雲はどこからか吹き込んでくる風に煽られ、絶えず蠢き回りながら天頂付近に滞留していた。
 リリィの話によると、それは気圧を一定に保つための設備が塔内を与圧するときに起こる風らしい。ここまで昇っても空気が薄く感じないのはそのためだったが、難しいことはよくわからなかった。
「あそこが、別の隠り世に繋がっているのか?」
「その、はずです」
 リリィの方へ振り向いて尋ねると、彼女は自信なさげに肯いた。
 ここから祇徒たちが飛び出してきたのだから、霊妙な光を放つ楕円の内部が、どこかに繋がっているのは確かなはずだ。
「この階段はもう二度と昇りたくないね……」
 エリウスとジェドが塔の底を覗きこんでいるので、自分も視線を下へ向けてみた。真ん中辺りに見える黒い点が、禊の台座だろうか。
「ふ……っ! この程度の……! 階段で根を上げるとは……! 軟弱なもやしだ……っ! いかに峻厳な岩山であろうと……! 息一つ……! 乱さずに踏破してみせるのが……っ! 英雄というものだ……っ!」
 重たそうな甲冑を引き摺るように階段を昇るヴァンが、すぐにそれとわかる強がりを口にする。
「あ、そう」
 エリウスはそれ以上の反応をしなかった。
「さっきの連中が待ち伏せしてなければいいんだけど」
 杖から降りたマリーシアは、そんなことを言いながら隊列の中央に収まった。待ち伏せがなかったとしても、祇徒たちが幾つかの集団を作って塔内をうろついているなら、どこかで出くわす可能性がある。
「だとしても、行くしかないだろ」
 思考が悪い方向へ転がり出す前に言葉を吐き出したアストは、雲の中へ足を踏み入れた。微かに生暖かい空気が身体を撫で付ける。視界はほとんど利かない。奥の方に、朧に光り続ける楕円があるのは見えているが、そこまでの距離感が掴みづらかった。
 周囲に鬼気が潜んでいないか探ってみようとしたものの、それらしい感応を得ることはできなかった。
『そのまま真っ直ぐ進みなされ』
「信用するぞ」
 足下に石段の硬質な感触があるのを確かめながら、慎重に歩を進めた。
 雲の奥で霞む光芒以外に、目印となるものはない。
 後に続く仲間たちの足音や息遣いを耳にしながら何段か昇ったところで、急に足下が水平になった。階段は、ここで終わりになっているのだろうか。
 前方に意識を戻すと、光を放つ楕円のだいぶ近くまで来ているのが目に入った。 
「行きましょう」
 背に手を添えられる感触とともにルシェルの声を認識し、自分がいつの間にか足を止めていたことに気づいた。怖じていると思われたかもしれない。しかし、あえて弁解はせずに肯きだけを返して、足を前へ進める。
 薄絹のように揺らめく粒子の群れを押し分けると、鮮やかな光が眼を射た。視界が白く染め上げられ、転移法陣を動かしたときに味わったのと同様の浮遊感が身体を包み込む。石段を踏む感触は既になく、自分が歩き続けているかどうかすらもわからない。意識が覚束なくなってきたが、背に触れている誰かの手の感触だけは、わかる。
 そのまましばらく進んでいくと、次第に粒子の雲が薄くなり、目の前が暗くなってきた。
 どうやら、次の隠り世に辿り着いたようだ。
 意識は鮮明さを取り戻してきたものの、濃厚な闇が視界を塞いでいる。マリーシアが杖先に《篝火》を灯したところで、全員の様子を確認した。雲の中ではぐれた者はいなかったので、ひとまず安心する。《篝火》の光は少々眩しいくらいに感じたが、緞帳のように重く圧(の)しかかる闇の中では各々の顔を識別するのがやっとだ。
 自分たちが通り抜けてきた粒子の雲が背後にある以外は、なにも見えない。
 この闇には、光を吸収する性質でもあるのだろうかと思えてくる。
「なにも見えないわね……」
 揺らめく灯明の中で、マリーシアが微かに眉を顰(しか)める。彼女が杖をやや傾けて足下を照らしてみると、黒い石でできた床は表面が湿っているらしく、どこか生々しげな色艶を帯びているのが見えた。
「明かりがあるだけマシだろ」
 汚泥に全身が浸かっているのに比べれば、よほど快適な環境だ。そう思いながら闇の中へ足を踏み入れると、滑(ぬめ)るような感触が靴底から伝わってきた。床面に苔でも生えているのかもしれない。
『油断は禁物でござるぞ。そこいら中に妖しげな気配がこびりついてござる』
「おれはなにも感じないけど」
 左肩に乗っているアヤノが囁いてきたが、鬼気と呼べるような気配は感じられない。それよりも、呼吸するたびに妙な土臭さが鼻に纏わりついてくるのが不快だった。
 自分たちの足音がやけに響いて聞こえるということは、かなり広い空間に出てきたのかもしれない。
「向こうに灯りが見えるぞ」
 ヴァンの声に反応して振り向く。彼の指が示す先には通廊への入り口があり、その奥の方から松明の光がちらついていた。
「……変だな。さっきはなにも見えなかったのに」
 そう呟く間に、隊列を離れたヴァンが通廊の入り口に歩み寄っていた。
「待てよヴァン!」
「俺が安全を確かめてやろう」
「一人で動き回るのは危険だぞ!」
「心配するな。俺はいつでも、危険と背中合わせで生きてきた男だ」
 重ねての警告に対して自信たっぷりの口ぶりで応じたヴァンが、通廊の入り口に差しかかった直後、
『――! そこへ近づいてはならぬ!』
 アヤノの喝声が鼓膜を打ち、アストは意識が醒める感触を味わった。
「なんだこれは!?」
 動揺の声を上げたヴァンの頭へ狙いを定めるように、先端が尖った杭が並んでいた。
 ……いや、違う。
 これは、巨大な上顎に隙間なく密生している、歯牙の列だ。なにが起きているのか把握に努めようとする前に、牙の列が動き出した。
「向かってくる気か――うおっ!?」
 楯を構えようとしたヴァンの後背に、小さな影がぶつかってきた。身体を丸めたジェドが、体当たりで重武装の戦士を弾き飛ばしたのだ。間一髪の差で空を切った牙の列は後方にあった円柱らしき構造物に喰らいつき、いとも簡単に噛み砕いた。
 口中に含んだ柱の一部を、ろくに咀嚼もせずに嚥み下したそれ≠ェ頭部を持ち上げる。
 その影像は、鎌首をもたげた大蛇のそれに似ていると思われた。
 なんなの、と声を上げたマリーシアが《篝火》の光を強める。すると、闇が押し退けられたそこに巨大な蠕虫(ぜんちゅう)の姿が露となった。黝(あおぐろ)い殻に覆われた身体は幾つもの節に分かれており、その表面には気味の悪い斑模様が浮かんでいる。
 頭部には、暗い光を発する三つの眼孔。
 上顎の両端に二本ずつ、異常に発達した鋏のような牙が突き出ており、開いたままの口の奥には、先ほど目にした松明と同じ色の霊火が燈されていた。その火の向こうに、延々と続く通廊の幻像が揺らいでいる。
『あれがまやかしの素でござるよ』
「そういうことか」
 大口を開けて待っているだけで、幻惑された獲物が自ら口の中に入ってくるという寸法なのだろう。
 得心しながら刀の柄に手をかけた瞬間、蠕虫の口から液状のなにかが吐き出された。即座に反応したアストたちは四方へ散開。一瞬遅れて撒き散らされた液体が、大量の気泡を発しながら床の表面を溶解した。こんなものをまともに浴びたら、あっという間に骨まで溶かされていたに違いない。
 身の裡に神気の焔を喚(よ)び熾(おこ)し、刀を抜き放つ。蠕虫の側面へ飛び込んだ。瞬く二条の剣光。反対の側面に回りこんだルシェルが、同時に剣撃を浴びせていたのだ。

 荒ぶる焔よ
 地疾りて 獲物を捕う縛鎖となれ


 続けざまに、《律戒》の咒鎖と略式咒法を展開したマリーシアが、杖先を床に振り下ろした。その一点から生じた焔の鎖が床上を疾走し、苦悶に哮(たけ)る蠕虫の巨体を縛り上げる。幾筋もの緋焔を縒り合わせた縛鎖は這い回るように魔物の全身を焙り尽くし、断末魔の絶鳴が途絶えるまで、その責め苦が止むことはなかった。
「まだ終わらせんぞ! あの世へ旅立つ前に俺の剣を受けろ!」
 遅まきながら振るわれたヴァンの剣が、炭化しかかった蠕虫の頭部を断ち落とす。切断面からは、危険な溶解力をもった体液が大量の気泡を発しながら溢れ出てきた。
「止めを刺せてすっきりしたかしら」
 マリーシアがかけた言葉に、白銀の重戦士は不快げな表情で応じた。
「首を落とす前にやつが死んでいるのはわかっていたが、お前の言い方には少々の悪意を感じる」
「無駄なことをしたと言わない分だけ、思いやりがあるでしょ」
「少々どころではなかったな。お前は大いなる悪意の塊だ」
「罠にかかって虫に食べられそうになったところを助けてあげたのに、ずいぶん酷いお言葉じゃない」
「お前は俺が油断して罠にかかったと思っているのだろうが、事実は異なる。罠のかかり方のお手本を、お前たちに見せてやっただけだ」
「確かに、いいお手本を見せてもらったわ。どうせなら、食べられ方のお手本まで見せてくれてもよかったんだけど」
 益体もない憎まれ口の応酬は、マリーシアに圧倒的な分があるようだった。
「そんなことより、お前たちは犬のしつけをなんとかしろ。そいつには、俺の姿が視界に入ると飛びかかってくる習性があるようだ。いかに器が大きい俺といえど、忍耐には限りがある。二度までは微笑みを浮かべて許してやったが、三度目は烈しい怒りを買うものと思え」
 意地悪い魔女との舌戦を諦めたらしいヴァンは、主人の肩へ戻った黒犬に非難の眼差しを向けた。
「今度は助けてあげたんだから、別にいいでしょ」
 一切悪びれたところのない堂々としたエリウスの答えに、ヴァンは舌打ちを返すのが精一杯だったようだ。
「はいはい」
 二、三度と手を叩いたマリーシアが会話の流れを打ち切りにした。
「おふざけはそこまでにして、さっさと先へ――」
 彼女がそう言いかけたところで、頭上から大気のざわめく音が近づいてきた。調子外れな草笛の音色のような、大気を掻き鳴らす小刻みな振動音。あるいは、幾重にも重ねられた虫の羽音。
 虫――?
 脳裡に呟いた直後、すぐ近くで悲鳴が上がった。
「なんなのよこいつらはっ!?」
 微小な黒点の大群が、マリーシアに向かって殺到していた。小指の先ほどもない小さな羽虫の大群だ。一匹ずつが放つ鬼気は微々たるものだったが、その身に毒を持つ虫であるなら厄介なことになる。
「こっちにこないでよ!」
 両腕に火焔を纏わりつかせたマリーシアが、群がる羽虫の大群を灼き払う。彼女が腕を振るたびに、虫たちの爆ぜる音が幾重にも響いてきた。闇の中には夥しい数の虫が潜んでいるらしく、いくら灼いても後から後から湧き出てくる。
「火を消しなって! 明かりに向かって集まってくるんだよ!」
「いやっ! もういやっ! いやあああっ!」
 エリウスの言葉にも耳を貸そうとしないマリーシアは、羽虫の群れを灼き払いながら闇雲に走り出した。面前に迫る虫への恐怖心のために、すっかり取り乱してしまったようだ。その後を、一塊になった羽虫の大群が追跡してゆく。灼かれても灼かれても、愚直に、執念深く、執拗に。
「待って! マリーシア!」
 叫んだルシェルがマリーシアを追いかけていったので、アストもそれに続いた。錯乱状態に陥った魔女は、天井から垂れ下がっていた植物の蔓や蜘蛛の巣など、身体に触れるものはすべて無差別に燃やし尽くしながら迷走を続けている。
 彼女の姿を追っていくと、前方に密生している蔓の隙間から、薄明かるい光が差し込んでくるのが目に入った。蔓の排除をマリーシアに任せる恰好で、薄明かりの下に出る。
 そこで突然立ち止まった彼女は、「もういい!」と声を荒げながら羽虫の大群へ向き直った。
「完全にキレたわよ! いい加減にしなさぁぁぁいっ!」
 魔杖を天にかざしたマリーシアの全身から火柱が立ち昇り、彼女に追いすがってきた羽虫の群れを一匹残らず灼き尽くした。
「あー最悪! どうしてあたしが虫に集(たか)られないといけないわけ!?」
 憤懣やるかたない表情のマリーシアは、両腕に火焔の残滓をたなびかせながら服をはたき始めた。
「実に面白かったぞ。今のはなんのお手本だ?」
 鼻先で笑いながら歩み寄ってきたヴァンに対して、マリーシアは突き刺さんばかりの目つきで睨みを返した。
『それにしても、妙なところへ出てきたものでござるなぁ』 
 ぐるりと周囲を見回したアヤノにつられて、アストも視線を廻らせた。そこは小高い丘のようになっていて、すぐ後ろには、自分たちが出てきた建物がある。大きさの揃った四角い石を積み上げて造られた円塔のようだ。その上には、隈なく密に蔓を張り巡らせた巨木が覆い被さっており、四方に黒々とした枝葉を広げていた。マリーシアの《篝火》では全体を照らし出すことができず、巨木と円塔の影が一体になっていたが、木の頭頂部だけは仄白い光に曝されており、切れ込みの入った広い黒葉が剣呑な色合いに輝いている。
 見上げれば、白い円環。
 星一つ存在せぬ深い闇空の中に、幽微な輝きを放つ光の環が浮かんでいる。
 見渡せば、黒い森陰。
 物言わぬ木々の姿は、沈黙を守ることで人の侵入を拒絶する意思を顕示しているように感じられた。
 足下には露に濡れた草地が広がっており、自分たちが塔の外に出てしまったのではないかという錯覚に襲われる。しかし、そこにあるべきはずの星々がない闇空と、寒々しい色の光を投げかける円環を目にすれば、ここが自分の知っている世界でないことははっきりと認識できた。先ほど襲ってきた不気味な虫たちと、墨を垂らしたような黒い枝葉に覆われた木々にしても、そうだ。
 天地も生き物も、その在り様が歪にゆがめられてしまった、昏冥の世界。
 この隠り世について抱いた最初の印象を言葉にするなら、それ以外になかった。
 そもそも、空に浮かんでいるあの輪(わ)っかはなんなのだろう。
 月なのか、太陽なのか。
 今がこの世界にとっての夜であるならば、あれは月に相当するものだと考えられる。だが、太陽や、あるいは月と太陽の双方を兼ねるものであるなら、この世界を覆っている闇は永久に払われることがないのかもしれない。
 その真相がどうであれ、こんなに気味の悪い界層は素早く通り抜けたいものだと思った。
「この界層も、どこかに出口があるんだよな?」
「もちろん、そうなっているとは思うのですが……」
 口ごもるように答えたリリィは、額に手をかざしてきょろきょろと辺りを見回し始めた。その姿に苛立ちを覚えなくもないが、修行中の神遣いを一々怒鳴りつける気にはなれない。
「とにかく、怪しそうなところを探してみるしかないか」
 努めて前向きに呟くと、頭の上によじ登っていたアヤノが声を上げた。
『あすこに、一つだけやたらと背の高い樹がござるぞ』
 彼女が示した方角に目を向けると、欝蒼と生い茂る木々の奥に、群を抜いて高く聳える大樹の姿が見えた。
 輝く円環の真下に、周囲の木々とは冠絶した威容を誇る大樹が、孤独に、孤高に、佇立している。
 その樹の全長は、軽く千メトレ(メートル)を超えているように思われた。
「確かに怪しそうな感じだけど、隠り世の出口と関係あるのかな?」
「この隠り世が上下の界層を繋ぐ意図をもって設計されているなら、特別に背の高い樹には、なにかの意味が持たされているはずなのです」
 エリウスの呟きに対して、リリィがそれなりに説得力のある回答を口にした。
「それでは、あの樹を調べてみる必要がありそうですね」
 ルシェルの言葉に皆が同意したので、一先ずの方針が定まった。
 あの大樹の下へ辿り着くには、不穏な気配を漂わせている木々の中を突っ切ることになるが、他に道はない。
 意を決したアストたちが森へ足を踏み入れた直後、どこからか獣の遠吠えが聞こえた。



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