【第五章】生命の塔
第五十四話 魔物どもの狩場

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 異様な重苦しさに満ちた森だった。
 周囲を取り巻く大気に、ずしりと圧(の)しかかってくるような圧力を感じる。重なり合う枝葉が生み出す影に占拠された森の中には、上空の円環から降り注ぐ幽かな光など欠片も届かない。
 マリーシアは虫が寄ってくるのを嫌がって《篝火》を消したがっていたが、灯りがなくては一歩も進めないので、魔法の光を維持するように頼んでおいた。《篝火》で明瞭に照らし出せるのは半径五メトレ(五メートル)以内が精々とはいえ、無いよりは遥かに益(ま)しというものだろう。
 濡れた草地のところどころから立ち昇る蒸気が薄靄のように漂っており、それらが腕や脚に絡みついてくるのが気味悪く感じた。
 森へ入るときに聴こえた遠吠えは止んでいたものの、そこらじゅうに濃密な鬼気が蔓延(はびこ)っているので、どこからなにが飛び出してきてもおかしくない気配だ。《篝火》の光を撥ねて青褐色に輝く草木は枯死しかけているように見えたが、突然動き始めて襲いかかってきそうなほどの不気味な迫力がある。
 果たしてこの森は、生きているのか。死んでいるのか。
 あるいは、そのどちらとも言えるのかもしれない。
 この森は、生きながらにして、死んでいる。
 大型の動物が通ることでできたらしい獣道が樹間を縫うように伸びているので、それを辿るように進んだ。
 こんなところに棲んでいる動物たちは、一体どんな連中なのだろうと思う。山遊びの最中に初めてイノシシを見たときは、心臓が破裂しそうなほどの戦慄と興奮を覚えたものだったが、それとは比べ物にならないほど危険な存在が、青い錆の色をした木々の奥に潜んでいることは想像に難くない。
「瘴気が濃いわね……」
「ここの空気は界瘴と同じ匂いがするって、ジェドが言ってるよ」
 ふとマリーシアが漏らした言葉にエリウスが答える。
「ここが界瘴に毒された森だっていうの? それなら、植物が枯れずに残ってるのは変よ」
「頑張って適応したんじゃないの」
「そんなの聞いたことないわ。界瘴が持つ毒性っていうのは、頑張ってどうにかなるものじゃないの」
 確たる口ぶりで断言したマリーシアに、アストは胸の内で同意した。界瘴に呑まれたときの骨身に染み入るような冷たさと、次第に重たくなってゆく手足の感触は、生々しい記憶として鮮明に思い出すことができる。
 あの、おぞましいほどに深い闇洋(やみわだ)の奥底には、命がそのままの形を保つことすら許さぬ狂暴性が潜んでいるのだ。
「一度界瘴に捕まったら、骨の一本も残すことなく喰らい尽くされてしまうのよ。今までだって、界瘴に浚(さら)われて草木一つ生えなくなった不毛の土地を見てきたでしょ」
「静かにして」
 不意に眼差しを尖らせたエリウスが、マリーシアの話を遮るように静粛を促した。
「どうしたの?」
「なにか近づいて来る」
 音もなく主の肩を這い降りた黒犬が、全身を影状に伸ばしながら手に巻きつき、革様の手袋へと姿を変える。魔杖を掴むマリーシアの手が、固く握り締められた。
「『なにか』ってなによ? また変な虫じゃないでしょうね」
「獣の匂いだよ。かなり大きな群れみたい」
 エリウスの言葉は、アストの感覚と一致するものだった。さすがに匂いまではわからないものの、寂然と佇む木々の奥、黒一色に塗り込められた闇の向こうに、心身を突き刺してくる鬼気の群がりがある。それらは一つの塊と錯覚するほどに、各自が強固な意志によって結束していると感じられた。
「たくさんの気配が、瘴気の中に紛れ込んでいるのを感じます」
『ふむ。どこからなにが現れても応じられるよう、油断しなさるな』
 ルシェルとアヤノのやり取りを耳にしながら、自分の感覚を信じすぎるのは危険か、と思った。
 強い害意を放つ者は認識できるが、それを殺し、森を満たす瘴気の中に己の気配を溶け込ませている者がいるとしたら、察知するのは困難かもしれない。
「なにかいると言うのなら、俺が確かめてやろう」
「さっき痛い目に遭ったのを忘れたのか!」
「忠告は無用だ。二度も同じへまをやらかす俺ではない」
 またしてもアストの警告を無視して前方に進み出たヴァンが、木々の合間に視線を走らせる。
「……なにもいないようだが」
 拍子抜けしたように呟いた彼が、こちらへ向き直った直後のことだった。
 梢が鳴った。ヴァンの、真上で。
 鋭く吼号した殺意の塊が、樹上から一直線に降下する。一目でそれとわかる捕食者の閃影。双眸に凶悪な光を滾らせた、一頭の狼だ。
「なんだと!?」
 ヴァンが振り向くより早く、伸ばされた前肢が彼の両肩を捕えた。うつ伏せに倒れた重戦士の背を荒々しく踏みつけるように狼が降り立つ。剥き出しになった牙が、今にもヴァンの襟首へ突き立てられると見えた。
「やめろ!」
 戦慄を感じた身体が勝手に反応し、アストは狼へ突進していた。その殺気に弾かれるように首を上げた狼が、急迫してきた新たな獲物を凝視する。そして跳躍。アストの頭上に黒影が舞った。すぐに刀を抜こうとしたが、間に合うものではない。狼と組み合うように草地の上を転がった。猛獣の荒々しい呼気が額を叩く。
「こいつ!」
 狼の肚を蹴り上げながら、力任せに投げ飛ばした。束の間宙で回転した獣影が、しなやかな身のこなしで着地する。起き上がると同時に刀を抜き、続けざまの突進を牽制した。相手もその場に静止したまま、こちらの様子を窺っているように見えた。敵対者の実力と、獲物としての価値を見定めているのだろうか。鋼のごとき爪牙を光らせ、青錆色の体毛に覆われた身体から凶々しい瘴気を立ち昇らせた魔獣の貌(かお)と、睨み合う恰好になった。幾秒かの固着。呼吸にして三度(みたび)。アストがもう一つ息を吸おうとしたとき、狼が静かに身を沈めた。……来るか――
 獣声。
 左へ跳ねた。先ほどよりも速い。背後を、取られた。焦りに焦がれて熱くなった身体を反転する。視界の右から、魔狼の爪。首筋に向かって奔る殺意の軌道。
 身を、捻った。凝集した瘴気を棚引かせた獣爪が右腕を掠める。仰向けに倒れたアストの視界を、魔狼の影が飛び越えていった。すぐに起き上がろうとしたが、右腕がうまく動かないのに苛立つ。下生えにでも引っかかったのかと眼を遣ると、黒い蟠りが腕に絡みついていた。……これは――
「界瘴か……!?」
 全身に縋りついてくる、冷たく重苦しい感触を思い出して、総毛だった。あの狼が纏っている瘴気の正体は、これだったのか。
「うわあああっ!?」
『すぐに祓いなされ!』
「どうやって!?」
 地を転げ回りながらアヤノに叫び返す。
『火≠フ熾し方を忘れたのでござるか!』
「――そうか!」
 身中に神気の焔を喚び熾す。身体の芯から発した熱を右腕に集め、解き放った。腕先から青白い霊焔が噴き上がるとともに界瘴が爆ぜ散る。
 上体を起こすと、再び突進してくる魔狼の姿が正面にあった。地を跳ねるように駆けてくる黒影に、刀の切っ尖を合わせる。疾風のごとき加速が乗った魔狼の身体が、自ら誘い込まれるようにして刃に貫かれた。喉元にめり込んだ切っ尖が背中まで貫き、牙列の間からどす黒い血流が噴き出す。溺れるような絶鳴が途絶え、魔狼の身体から生命の火が消え失せたのを確かめた後、刀から骸を振り落とした。
「みんなはどうした!?」
 すぐに立ち上がり、仲間たちの姿を探した。周囲は既に争闘の気配によって満たされている。《篝火》の光が篭っている方向に目を向けると、その中に敵味方の影が入り乱れているのが見えた。「あそこか」と口中に呟き、駆け始める。
『身中の火≠ヘ、絶やすべからず』
「わかったよ!」
 身の裡に燃え盛る神気の焔を維持したまま、灯影の中へ駆け込んだ。月明かりを思わせる蒼光の奥に、剣とともに舞うルシェルの姿があった。神剣が閃くたびに魔獣が斃れてゆく。その切り口からは、雷花が血飛沫のように散っていた。
「俺に不意打ちを喰らわせたのはどいつだ!」
 ヴァンが楯を振り払い、飛びかかってきた二体の狼を弾き飛ばした。そのうち、頭部を打たれて脳震盪を起こした一体に長剣が打ち下ろされる。舞い上がった血煙の向こうに、異形の戦士と化したエリウスが大鎌を振るう姿が見えた。その背後で跳躍した魔狼が、彼の右肩に喰らいつく。
「この――っ、痛いじゃないか!」
 怒りの声を上げたエリウスが、魔狼の身体を掴んで地面へ叩きつける。噛まれた肩口に界瘴がこびりついていたが、すぐにリリィが浄化と治癒の咒紋を施した。さらに三方から新手が来ている。アストはそれらの攻撃を阻害するべく直進した。もっとも至近に迫っていた魔狼と交叉する。刃光が、相手の脚と腹を巻き込むように奔り抜けた。両断された魔狼の骸が地を転がってゆく。その間にも、死角から間合いを詰めてくる鬼気がひとつ。身体を反転させ、すぐに地を蹴る。それより一瞬早く、相手が高々と宙に跳び上がっていた。
 アストは、跳んでいない。
 跳躍した魔狼の下を潜(くぐ)るように、足を遣っただけだ。垂直に振り下ろした刀刃(とうじん)が、魔狼の腹を引き裂いてゆく。開いた傷口から零れ落ちた臓物は、やはりどす黒い色をしていた。
 引き続き三頭目の相手をするべく身を翻したが、その必要は無かったようだ。エリウスの大鎌が一閃し、残る一頭の首を刎ね飛ばしていた。
 この隙に息を整えようとしたところへ、さらに五、六頭の集団が押し寄せてくる。

数多(あまた)に乱れよ、紫電の枝

 咒紋を紡いだマリーシアが、電子に変換した魔力を杖先から放出した。淡い紫色を帯びた電光が、無数に枝分かれしながら魔狼の集団を搦め捕る。獣の体毛と皮が焼け焦げる匂いが拡がったところで、大勢は決した。生き残っていた十数頭の狼たちが、一斉に退いてゆく。遁走する群れから遅れた、手負いのものもいた。
「ようやく格の違いを思い知ったようだが――、黙って見逃がしてやるほど俺は甘くないぞ!」
 ヴァンが、逃げ出そうとした一頭へ長剣を振り下ろした。しかし、跳躍することでその一撃を躱した魔狼は、ヴァンの頭を踏み台にしてさらに高く跳んだ。魔狼の足から生じた界瘴が、ヴァンの頭部を覆い隠す。
「ぬお!? 小癪な……!」 
「嚥(の)まないように口を閉じてください!」
 リリィが慌てながら浄化へ向かった次の瞬間、樹陰の至るところから伸びてきた糸≠ェ魔狼の身体を捕えるのをアストは見た。と同時に足下が烈しく揺れ、前方の地面がごっそり持ち上がる。直後、蓋のように開いた大地の下から巨大な影が突き出(い)でて、逃げ遅れていた別の一頭を咥(くわ)え込んだ。
 ぐしゃり、と頭蓋を噛み砕く音を響かせ、背中に負った土砂を振り撒いたその影は、幾つもの関節に分かれた脚を巧みに操り、地割れの中から這い上がってきた。
 頭部には、四方を見渡すように配された八つの眼。口元に生えた鋏状の角からは、今しがた噛み砕いたばかりの魔狼の血液が滴り落ちていた。二つの球体を接合したような身体の側面には、左右非対称に突き出た九つの脚が並んでいる。腹部の末端にある突起からは紐状の太い緒が垂れ下がっており、魔狼を捕えた糸≠ニ同一のものであるように思われた。
 どうやら自分たちは、気づかぬうちに彼≠フ狩場に入り込んでいたようだ。
「なによ、この蜘蛛!?」
 マリーシアが弾かれるように後ずさった直後、彼女の声が悲鳴に変わった。
「ひやぁぁぁっ!? なんなのこれ!?」
 粘性の高い糸≠ェ、彼女の全身に巻き付いていた。目の前にいる大蜘蛛が仕掛けたものだろうか。マリーシアを捕えた蜘蛛の糸は強靭にできており、彼女がいくらもがいても引き千切れることはなかった。それどころか、もがけばもがくほど糸が絡みつき、彼女の手足の動きが封じられていく。
「マリーシア、落ち着いて!」と声にしながら駆け寄ったエリウスが、彼女の身体に巻きついた糸を剥ぎ取ろうとした。
「いやぁぁ! どこ触ってるのよ変態!」
「取ってあげるからじたばたしないで!」
 エリウスの手足にも大量の粘糸が付着したところで、大蜘蛛の眼が不気味な光を放った。くすんだ青銅色をした八つの眼に一斉に光の筋が奔り、忌まわしげな記号の列を綴ってゆく。

滾りて刻め、赤熱の糸

「咒紋だ……!?」
「糸から離れてください!」
 リリィが叫んだときには、大蜘蛛の腹部から垂れ下がる糸に赤い光が伝っていた。魔力の筋と思しき光芒が、樹間に張り巡らされた糸を燠火の色に染めながら全体に拡がってゆく。ところどころに火の粉を撒き散らしながら進む光が、先ほど捕えた魔狼の身体に達した直後。
 焔の筋が獲物の全身を駆け抜け、灼き切られた四肢が細片となって落下した。
「あんな死に方絶対嫌よ! 早くなんとかして!」
「魔法でなんとかすればいいだろ!」
「じゃあ離れなさいよ! あんたごと燃やしてもいいっていうの!?」
「いいわけないだろ! くそ! どうしてこの糸取れないんだよ!」
 身動きが儘ならなくなった二人にも、赤い光が到達しようとしていた。
『ちぃっ』
 次の瞬間、宙に広がった羽衣が蜘蛛の糸を断ち切りながらアストたちを押し包んだ。尚も灼熱の糸が押し寄せてくるが、糸先が羽衣に触れた途端に弾かれ、血煙のような火花を噴き上げつつ散り失せていった。しかし、赤熱の暴威は留まることを知らず、四方の木々を灼き切りながらアストたちに迫り続けている。
「蜘蛛が魔法を使うなんて……」
「どうして糸があんな風に動くんだ?」
「魔力を通して自在に操っているのでしょう」
「あんな図体して器用なんだな」
 ルシェルと言葉を交わしながら切り込む機会を窺ってみたが、羽衣の外に出た瞬間ばらばらにされるのは目に見えていた。
「気をつけてよ! そいつが使ったのは略式咒法だけど、眼が増幅器の役割を果たしてるのよ!」
 手も足も出せずに立ち尽くしていると、後ろからマリーシアの声が飛んできた。
『ふむ……。つまるところ、餅は餅屋≠ニいうことでござるな』
 呟いたアヤノは、アストの肩を飛び降りてマリーシアのもとへ向かった。彼女を捕えていた粘糸を手刀ひとつで切り払うと、糸の端を引っ掴んで丸め取る。エリウスに絡みついていた粘糸も同様に丸め取ったアヤノは、出来上がった蜘蛛糸の鞠玉を脇に投げ捨てた。あっさりと彼女の手を離れた鞠玉が、慌てて自身が持つ粘性の高さを思い出したように地面にへばりつく。
「あぁ、助かった……。これだから虫って嫌いなのよ」
『魔女どのの魔法で糸の動きを抑えてくだされ』
「いいでしょう。糸はあたしが抑えるから、蜘蛛をやっつけるのはお願いね」
 気を取り直すように三角帽子を被りなおしたマリーシアは、杖をかざして咒紋を綴り始めた。

天地を取り捲け、紫電の蔓

 アストたちの頭上を覆っていた羽衣が仕舞われると同時に、魔法が発動された。電子の束を纏ったマリーシアの全身から、幾つにも分岐した電光が四囲に拡がってゆく。曲折を繰り返しながら這いずり回るその様は、縋るものもなく伸び続ける葛草(かずらぐさ)のように見えた。やがて天地を取り捲き始めた電光の蔓が、赤熱を続ける蜘蛛糸と絡まり互いの動きを束縛しあう。
「後は任せろ。この俺が化け蜘蛛に止めをくれてやる!」
 勇んで飛び出したヴァンが、白銀の長剣を振りかざして大蜘蛛に切りかかる。アストたちも後に続いた。大蜘蛛が幾つかの脚を振り上げ、爪先を槍のように突き出してくる。その軌道を脇に逸らしたアストは、蜘蛛の脚が伸びきったところで殻の隙間に刀を滑り込ませた。関節を断ち切る。大蜘蛛の足先が、ごとりと地に落ちた。視界の端には、真正面から斬りこんでゆくヴァンの姿が見える。
「自分を傷つける間合いで糸遊びはできまい!」
 白銀の刃が振り下ろされようとした次の瞬間、大蜘蛛の鋏角が突き出され、ヴァンの身体を挟み込んだ。
「ぐああああっ!?」
 巨大な鋏によって鎧ごと圧迫されたヴァンの喉奥から絶叫が迸り、剣と楯が手を離れて落下した。装甲を構成する金属板が軋み、彼の身体が不穏な形状に歪み始める。大蜘蛛の鋏がヴァンを圧し潰すまで幾許もないと見えた、そのとき。
 白銀の鎧が、眩い光に包まれた。
 直後、ヴァンの身の裡でなにか≠ェ弾け、急速に膨らんだ。強大な神気の渦。闇を震わせ、大蜘蛛の鬼気をも消し飛ばすほどの圧倒的な力の気配が、大気を伝播してアストの身体に響いてきた。装甲の継ぎ目から夥しい力量を内包した神気が奔出し、黄金の霊光となってヴァンの身辺を染め上げている。いまや光の化身と化した重戦士が、自身を拘束する大鋏を力任せにこじ開けた。その、絶大なる膂力。耐え切れず、半ばから引き裂かれた鋏角が派手に千切れ飛ぶ。悠然と地に下りたヴァンは、先ほど取り落とした剣と楯を拾い上げ、身体を微かに屈めた。
「貴様は終わりだ。この光を、見てしまったのだからな」
 静かに呟いた重戦士が、土砂を抉り出すほどの力で地を蹴った。大蜘蛛の口から粘液の塊が吐き出される。外気に触れた瞬間、網目状に凝固した粘液は環状に拡がって赤熱を始めた。しかし、並の獲物であれば確殺が運命付けられていただろう一撃も、黄金色の光に包まれたヴァンを捕えることは敵わない。事もなげに斬糸の網を突き破った重戦士が、ひと際に烈しく輝く剣を振り下ろした。斬撃と同時に、剣先に凝縮された神気が、一挙に放出される。
 頑健な分厚い外骨格を誇る大蜘蛛だが、この一撃の前には為す術もなかった。苛烈なまでの斬圧に曝された頭部が容易く両断され、刃の軌道上から発した剣光が、大蜘蛛の巨体を押し割り、突き進む。腹部の奥深くまで達した光刃は体内のあらゆる器官を断裂し、大蜘蛛の生命活動を強制的に終わらせた。
「ここで力を遣う羽目になるとはな」
 鬼気が消え失せ、ただの抜け殻となった蜘蛛の残骸を見下ろしたヴァンは、悔しげに舌打ちをしてから振り返った。鎧の胸甲部に、大剣と楯を表す幾何学的な紋様が浮かんでいる。彼の鎧には、このような装飾など施されていなかったはずだと思う。
「お前たちに見せるのは初めてだったな。こいつは《英雄の章紋》といって、俺の一族に代々受け継がれてきたものだ。この紋が光り輝くとき、一族に伝わる真の力が解放される」
 誇らしげに口を開いたヴァンは、徐々に光量を絞りながら紋様を消していった。
「今まで力を隠してたのか?」
「隠していたつもりはない。これを見せるのは強敵と戦う機会に限っているだけだ。何度も使うには消耗が激しい力なのでな」
 アストの問いかけに対して、彼は苦笑しながら答えた。その苦笑でさえも、どこか誇らしげに見える。
「あたしは知ってたわよ。この人の宿紋のことは《辞書》に書いてあったでしょ」
 マリーシアが素っ気ない一言を差し挟むと、ヴァンは不愉快そうに眉をひそめた。《辞書》に書いてあるといわれても、《辞書》を引く要領がつかめないアストにはピンとこない。
「まだうまく《辞書》が引けないんだよ。その宿紋ってのは、なんなんだ?」
「特殊な霊異を引き起こす紋章のことよ。自分の命に宿った異能が、固有の形状を取って顕れるのを宿紋って言うの。そこのアヤノさんが遣う刃紋や、あたしの、これ≠ンたいにね」
 前置きしたマリーシアは、両腕に絹織りのような霊気の被膜を喚び出した。
「それって、咒紋を映すのに使うやつだろ」
「《日輪の羅紋》っていうの。これがなくても咒紋は遣えるんだけど、映唱系宿紋には咒紋の記述を強化、増幅する働きがあるのよ。その代わり、咒紋との相性があるから実戦で通じる魔法が限定されちゃうんだけどね」
「さっきの蜘蛛も、そういう紋に映して魔法を遣ったのか?」
「あれは、八つの眼に咒紋の映唱回路としての機能があったんでしょう。神遣いや祇徒なんかだと、魔法を操る手足自体に、咒紋を強める働きがあるみたいだけど」
 マリーシアが脇に眼を遣ると、そこにいたリリィがそそくさとルシェルの後ろに隠れた。
「まぁ、彼らにとっての魔法は呼吸を行うことと同じだから、自由自在に扱えるのが当然なんでしょうね」
 言われてみれば、リリィは咒紋を遣うときにマリーシアのような霊絹(たまぎぬ)を介していなかったと思う。
「あたしが知っているのは魔法に関することがほとんどだけど、それがすべてじゃないのよ。人の命が持つ可能性の数だけ、宿紋が存在すると言われているの」
「命が持つ可能性……? じゃあ、どうしたら、そういう紋が遣えるようになるんだ?」
「有史以来、紋の研究に生涯を捧げた者は数あれど、それが発現する仕組みを解き明かした者はいないのよ。でも、あなたは力を遣える人みたいだから、そのうち紋が顕れるかもしれないわね」
「そうかな」
 そんな霊異が、簡単に顕れるとは思えなかった。神気の焔を熾すのとは、さらに異なる仕組みでもあるのだろうか。
 英雄の一族や、斎女の末裔のように、特別な血統を受け継いだ人間でなければ紋は現れないのかもしれない。だとしたら、自分の家系がそれに該当するとは思えなかった。そんなものがあるのなら、親父は戦争で死ななかったはずだ。
 どうすれば、彼らのように特別な力が遣えるというのだ。
 ……本当に、倒せるのか。
 塔頂で待ち受ける、黒衣の魔女を。
 その恐ろしさのすべてを知るわけではないが、怪光を海に突き刺し、幾重もの大波を引き起こすほどの魔力を揮(ふる)う瞬間をこの眼で見た。
 戦士オルグが放った斬波と同等か、それ以上のものかもしれない力に立ち向かい、打ち破ることなどできるのだろうか。
 怖い、と思う。しかし、やらなければ妹を取り戻すことはできない。
 だから、自信を持って魔女との戦いへ向かうために、自分だけの力が欲しかった。
 魔狼の爪が掠めた右腕をリリィに治療してもらったが、こんなに小さな子供の方が役に立っていると考えると、気が滅入りそうになる。
「少し力が遣えるようになったくらいじゃ、ダメなんだ……」
 心の中で呟いたつもりだったのに、声に出してしまっていた。
『徒に思い悩んだところで力が湧くものではござらぬよ。力が欲しくば、拙者の力を遣えばよいだけのことにござる』
「うん……、ありがとう」
 アヤノの言葉に肯いたものの、胸底に燻る不安は晴れなかった。このまま魔女と相対したところで、まともに太刀打ちできるのかと思う。神気の焔を熾すだけでは、まだ足りない。七英のような連中を相手にするための、絶対的な力が必要なのだ。
 だが、アヤノが言ったとおり、思い悩んだところで特別な力に目醒めることなどないのだろう。
 今はとにかく、前に進むしかなかった。
 ルシェルが気遣わしげな瞳を向けてきたが、大丈夫、と視線で答えたつもりだ。
 どれだけ敵が強大であっても、現在の自分が持ちうるだけの力で、戦うしかない。
 ……マナミ、待ってろよ。
 口の奥で呟き、目的を心に刻むことで自分を奮い立たせるのが、アストにできる精一杯の強がりだった。



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