【第五章】生命の塔
第五十七話 影獣の牙

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 斬られる、と思った。
 目の前に、刃が迫っている。しかし、動くことができない。
 手足が、震えている。
 身体が、声≠ノ縛られている。
 怪人の叫び声に宿る魔力が、エリウスの身体を呪縛しているのだ。
 その状態から、どうして鎌を持つ手が動いたのかはわからない。ジェドが反応してくれたのか。辛うじて刃を合わせたが、それだけだ。剣圧に屈して身体が倒れた。刹那に電光を発した大剣が、止めを狙って突き出される。再度鎌で防ぐか。しかし、腕は動かない。くそ、と叫ぼうとしてそれすら果たせず、全身に冷たい汗が噴き出したそのとき。
 視界を割るように流れていった火の玉が怪人の胸に直撃し、朱い爆光が拡がった。 
 不意に縛が解けたことに気づき、棒切れのように転がっていた身体を起き上がらせる。
 今のは、魔法の光だ。

 異空の下より出でよ、赤熱の飛礫(つぶて)
 地へ降り注ぎ、我に仇なす者を穿て


 なおも数重に連なる火球が飛来し、標的に小規模の爆発を重ねていく。爆光に隠れた怪人の上体が微かに傾いでいたが、その足は地をしかと踏みしめて持ちこたえているように見えた。
「倒れろ!」
 敵の足を刈るべくして大鎌を振るう。しかし、寸前に跳躍で躱された鎌刃が空を薙いだ。
「そっちは――!?」
 マリーシアがいる、と断じた思考が反射的に身を翻させた。敵は、絶え間なく襲い来る火球をものともせずに彼女へ襲いかかろうとしている。
 彼らは、魔法に対してひと際高い抵抗力を持っているのか。
 立ち上がり、その背を追った。
「略式じゃ効かない!?」
 魔杖から火球を放ち続けるマリーシアの顔に、焦りと驚きの色が浮かんだ。しかし、すぐに表情を引き締めた彼女は、《日輪の羅紋》に呼び出している咒紋の列を、より強力な発動式へと組み替え始めた。
 ――駄目だ、それじゃ間に合わない!
 意識の絶叫が、彼に地を跳ねさせた。怪人の背が、瞬時に目前となる。鎌を薙いだ。敵の首から上が、なくなっていた。だが、手応えはない。くるり、と怪人の身体が上下を逆さまにした。股下にぞわりとした鬼気を覚え、刺突用の槍刃がついた穂先を地へ向ける。重い衝撃。下から競り上がってきた刃が、穂先に絡んでいた。敵は低空で宙返りし、死角から一撃を放ってきたのだ。その圧力が、鎌柄(かまつか)を伝って腕を痺れさせた。そのまま前方へ弾かれた身体を翻し、マリーシアの前に降り立つ。
「エリウスどけて! あいつを撃てない!」
 背中のすぐ後ろで、強大な魔力が凝集している気配を感じた。
「そんなの撃ったら橋が保(も)たないよ!」
 略式ではなく正式に組まれた彼女の魔法なら、あの怪人にも通じるだろう。しかし、巨大な爆発や衝撃を巻き起こす大魔法に、この風化しかけた石橋が耐えられるとは思えなかった。戦いに気を取られていても、それがわからない彼女ではないはずなのに。
「じゃあ! どうやってあいつを仕留めるのよ!」
「下がってて!」
 まともに答える余裕はなかった。敵を牽制したまま、マリーシアを後ろへ下がらせる。明らかな劣勢であったが、打つ手がないわけではなかった。彼女のような魔法を操ることはできなくても、咒紋には別の使い道があることを、自分は知っている。
「あれ≠やるの……?」
「そうだよ!」
 肯きながら、指先を軽く畳んだ左掌(ひだりて)を眼前に掲げた。昂ぶる神気が全身から湧き上がり、狼火のごとく渦巻き始める。
「――《咒装化(リグニシオン)》」
 発動の契機となる咒句を呟く、と同時に灼けるような熱さが身体中を這い回り、掌(て)の内から烈しい光が溢れ出た。そこには、《着装》を行うときに灼きつけた戌(いぬ)の紋が浮かび上がっている。紋が発する輝きを織り込みながら絡み合う神気が、左手を包むように凝集してゆく。
 変化は身体を覆う装甲にも起きており、胸部の装甲板が外へ張り出すように滑動し、鳩尾に生まれた空隙に黒水晶に似た艶を帯びた球体が現れた。
「《解封(ディ・フォルド)》」
 命じるように囁(ささや)き、左掌を翻す。同時に、紋の輝きを織り込んだ神気が光の球となって放たれた。高圧にして高密度の魔力が凝縮された光球に怪人が目を瞠(みは)る。エリウスの掌より撃ち出された光球は、彼の手前で解(ほぐ)れながら放射状に拡がり、金糸のごとく輝く霊気の筋が咒紋や符号を綴り始めていた。描出されたこれらの咒像が、あらかじめ定められているかのような規則性をもって配列され、巨大な魔法円を形成してゆく。
 そして闇の中に顕れた魔法円には、中央に幅広い孔(あな)≠ェ空いていた。
なにもない≠フではない。
 これから、この魔法円に秘められた機能を発揮するために、それは、欠くことのできぬ有意な空白≠ナあった。
 エリウスの大鎌が踊り、円孔の画布に刃光の軌跡が刻みつけられる。
 鎌刃が閃くごとに魔力の篭められた刻印が姿を顕してゆき、最後に横薙ぎの一閃を加えることで、それ≠ヘ完成した。
 雄壮なる力を顕す、大地の刻印。
 エリウスは、完成した魔法円に向って左の掌をかざした。
「《大地の印(アルト・ランダス)》――!」
 叫ぶと同時に掌中の紋が輝きを増し、それに呼応するように魔法円が烈しい光を放った。再び霊気の糸へとほぐれた魔法円が、四囲に拡がりながらエリウスの身体に絡みついてゆく。純黒の装甲に霊光の紋様が灼きつき、大地に拡がる地割れのごとき様相を呈していた。
 紋様が四肢の隅々へ行き渡るのと同時に、鳩尾の黒水晶に魔法円へ刻んだものと同じ《大地の印》が浮かび上がる。
 全身を駆け巡る大地の紋様は、大鎌の刃にまで及んでいた。
 これが、純黒の魔装に秘められた、本来の姿なのか。
 ――さあ、来い。
 ――僕の本当の力を、見せてやる。
 身体中の血が滾り、両の腕(かいな)に力が漲ってゆくのを感じながら、エリウスは大鎌を手の内で踊らせ、怪人へ差し向けた。この挑発を受けるように、怪人が大剣を振り上げて踊りかかってくる。
 ――行くぞ、ジェド!
 異形の黒貌に穿たれた眼孔が光り、大鎌が払われた。大剣が弾かれ、斬圧に堪えかねた怪人の巨体が微かに浮き上がる。
 力は、こちらが上だ。
 そんなの、改めて確かめるまでもないことだった。
 このまま、ひと息に押し切る。
 すぐに体勢を立て直した怪人が、己を奮い立たせるように雄叫びを上げた。
 怖いのか。
 この大鎌の刃が。
 僕の力が。
 この身体に漲る、咒装の輝きが。
 電火を散らす大剣が、再び挑みかかってくる。
 しかし、撫でるように振るわれた大鎌がその一撃を易々と打ち払う。
 何度来ようが、同じだ。
 逃げるなら、今のうちだぞ。
 いいのか。 
 この力、全部、遣うぞ。
 いいのか。
 この力、全て吐き出すぞ。
 もう――、抑えきれない。
 身体中に湧きあがる力を早く解放しなければ、手足がはちきれそうだ。
 僕の中に目醒めた魔物が――、お前を――、喰らう。
 突き出された大剣を半身になって躱した。伸びきった相手の腕を攫(つか)み、力任せに投げ飛ばす。橋梁を揺さぶる振動音。体勢を立て直そうとする相手の頭上へ、跳躍。宙で幾度も身を翻し、斬撃の驟雨(しゅうう)を浴びせる。虚空に踊る影。そして、鎌。黒き刃が奔るごとに、怪人の身体に血の筋が生まれた。その手に操られる大剣が懸命の抵抗を見せていたが、防ぎきれるものではない。両者が刃を交わすたびに、血の筋がより大きく、より深くなってゆく。
 ――これで、終わりにしてやる。
 大鎌が振り上げられ、その刃に宿る咒装から魔光が溢れ出した。
「《破壌の牙(グランス・バイド)》――!」
 鎌刃が唸りを上げ、魔光が棚引いた。怪人が吼え、烈しさを増した電光の剣で迎え撃つ。だが、咒装化を果たした大鎌の一撃を食い止めることはかなわない。死魔の牙が、鋼も、電光をも噛み砕く。大剣が千切れ飛び、驚愕に目を見開く怪人の額へ大鎌の刃が食い込んだ。断末魔の叫びすらない。頭蓋を断ち割った閃軌が筋骨隆々たる巨体を切り裂き、腰まで深々と抉る。その直後、正中を奔り抜けた魔光の軌跡から地割れのような光が拡がり始めた。振り切った大鎌を引き戻し、刃の根元へ咒紋を追記する。
 すぐ、楽にしてあげるよ。
 呻き声も出せずに悶え続ける怪人へ呟き、石畳を蹴った。橋上を異形の影が駆け抜け、標的の胴へ幾筋もの斬軌が刻まれる。
 次の瞬間、怪人の身体に眩い光芒が浮かびあがり、一つの巨大な咒紋を形成した。
 顕れた咒紋の意味は、《爆砕》。
 怪人の遥か後方へ抜けた異形の戦士が、刃にこびり付いた黒血を払うように大鎌を振り下ろした――、刹那。
 爆光。
 白々とした光が、怪人の身体を喰い破った。橋上に灼熱の火球が開く。鉛色の巨躯が瞬時に蒸散し、爆圧によって振動した橋梁は石畳が破砕され、大穴が穿たれていた。
 橋上を爆風が馳せ過ぎてから数秒後。灼け融けて大半を焼失した大剣の柄が、エリウスの足下へ転がり落ちてきた。他に、残ったものはない。
 頭領と見られる一体が斃されたことで恐れ慄(おのの)いたのか、他の怪人たちが川へ飛び込むなどして一目散に逃げ去ってゆく。
「……ちょっと、やりすぎちゃったかな」
 橋を壊さないように戦うつもりだったのに、この力はまだまだ自分の手に余る。うまく戦えたかの反省はともかくとして、敵を追い払うことはできたようだ。
 一つ息をつき、背後を振り返る。
 燻る黒煙と焼け焦げた石畳の向こうに、マリーシアの姿が見えた。
 彼女を守れたのだから、ひとまずはそれで十分かと思う。
 自分の五体が無事であることを示すつもりで、大鎌を高々と掲げてみせた。
「なにカッコつけてんのよ」
 呆れたような言葉をかけられたが、声音の中に幾ばくかの安堵が含まれているのがわかった。 
「ぼけっとしてないで、早く戻ってきなさい」
「大変だったんだよ。少しは労(ねぎら)いの気持ちがあってもいいと思うけど?」
「ああそう、頑張ったわね。橋が崩れると困るんだから、壊したところはあんたが責任もって直しなさいよ」
「無理言わないでよ」
 どうやら、橋を壊すなと言ったエリウスが石畳に大穴を空けてしまったことに対して、意地悪を言われているようだ。
 でも、これはこれで彼女らしい労い方かな、と納得した異形の戦士は仮面の内で微笑していた。

   †

 まるで、死神のようだった。
 恐慌をきたして逃げ散ってゆく怪人たちの背を見送りながら、刀を鞘に納める。
 ヴァンだけではなく、エリウスも本当の力を隠していたのだ。
 アストは、全力を尽くしても怪人たちの頭(かしら)には敵わなかった。
 自分と仲間たちとの間には、少々の修練を積んだくらいでは埋めがたいほどの力の差がある。わかっていたことではあるが、胸を埋める劣等感に現実を再認識する以上の意味を見出せそうになかった。
 今の自分では、みんなの足を引っ張るだけだ――
 切りがなく続いてしまう自責の念を、知らずと作っていた拳の中に握りつぶした。
 いつまでも思い悩んでいては、本当にみんなの足を引っ張ることしかできなくなってしまう。
 顔を上げると、咒装を解いたエリウスにヴァンが話しかけようとしているところだった。
「お前も力を隠していたのか」
「そっちと同じだよ」
「なにがだ?」
「咒装を維持するのは力の消費が激しいんだ。そう何度も遣えないよ」
「なるほど、俺の章紋と使い勝手は同じか……。もっとも、行使するのが善なる英雄の力か、邪悪な犬の力か、という明白にして決定的な違いはあるが」
「ジェドは邪悪じゃないよ」
 エリウスの言葉から察するに、自身に紋の力を与えた状態を保つのは、魔法を絶え間なく使い続けるのと同じように魔力と精神力を磨り減らすものなんだろう。
 そういえば、先ほどの怪人たちも武器や己の肉体に咒紋のようなものを刻み付けていたと思い出す。あれは、同様の理屈で紋を刻み付けた対象に魔法の力を付与する術であったのかもしれない。
 彼らが人の言葉を理解できるようには見えなかったが、思っていたより高い知能を持った種族だったのだろうか。
 不意に、刀を振っていた手や腕に気味の悪い感触が這い回ったので、アストは掌を服にこすりつけた。相手が怪物とわかっていても、人に酷似した生き物を斬ったことに対して身体が生理的な忌避感を示しているようだ。逃走した怪人の群れがすぐに襲いかかってくることはないだろうが、またあの連中と戦うことはあるかもしれないと考えると、陰鬱な気分に襲われた。
「それで、あいつらは何者だったんだ?」
 嫌な心持ちをはぐらかすように、ふと思いついた言葉を口にしていた。
「ここに連れて来られた、異界の鬼かもしれないわね」
 マリーシアが《辞書》を手元に呼び出すと、ひとりでに紙面をめくった《辞書》が、角の生えた人型の魔物の姿を宙に投影した。
 分厚い肉の鎧を纏った巨体に、残忍さと凶暴性を宿した形相でこちらを睨む鬼の影像は、あの怪人たちとよく似ている。
「なんでこんな物騒な連中を連れて来るんだよ」
「飼い馴らすことができれば、兵器として戦争で使えるでしょ。そのために、この界層を異界に似た環境にしたのかもしれないわね」
 マリーシアが語った推測の半分は納得できたが、残りは違った。
「いや……、さっき覗いた死者の記憶だと、なにかの異変が起きたせいで、ここに界瘴が流れ込んできたように見えたな」
「それなら、彼らが環境の制御に失敗してなんらかの事故が起きたんじゃない? ……まぁ、詳しいことを調べるのは後回しにしましょう」
「そうだな」
 幸いにも、戦いの激しさの割には重度の戦傷を負った者はいなかったので、かすり傷や軽い打撲傷にはマリーシアの薬やリリィの魔法による手当てを施すことにした。浅傷ばかりとはいえ、自分が一番多く傷を受けているのが情けなく感じる。
 とりあえずの応急処置を終えて先へ進もうとしたとき、ルシェルが左腕をさすりながら身震いするのが目に入った。
「どうしたの?」
「……いいえ、なんでもありません」
 気になって声をかけてみたのだが、ルシェルからは、それ以上の気遣いを拒むような答えが返ってきただけだった。
 彼女も、人に似た生き物を斬った後の嫌な手触りを感じているのかもしれない。
「瘴気の濃いところに長くいるせいで、身体によくない影響が出ているのかもしれません。早くこの界層を抜けましょう」
 リリィの言葉に従って石橋を渡った一同は、円環を頂く太樹の根元に広がる森の中へ足を踏み入れた。



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