【第二章】黄泉反す祭りの星夜の下に、命の縁は紡がれる
第十八話 少年は隠り世で《刀》と出逢う

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 流されている。
 流され続けている。
「うっ……」
 短く呻いたアストは、視界の中に濃淡の混じり合った闇があるのを認識した。
 ――目が、開くのか?
 闇しか見えない、という状態でも、目でものを見ることができたという安堵感が込み上げてきた。
 どうやら自分は、界瘴の表面に身体を浮かべたまま、どこかへ流されているようだ。
 まさかこれは、三途の河というやつではないか。
 河というよりは海のように界瘴が拡がっていたが、三途の河というのが、向こう岸が見えないほど河幅が広いものなのかどうかは、よく知らない。身体が何度も界瘴の波を被るところを見ると、河ではなく海のような気がしてくる。
 永延と続く界瘴の海原に身を浮かべながら、虚ろとした眼で上空を見上げた。そこも、界瘴だ。ここは海面だけではなく、水平線から天穹に至るまで、すべてが界瘴に包まれている。
 界瘴の波を被り、何度か海中に沈んだ。もう、苦しいという感覚すら、わからなくなっていた。
 また、沈んだ。沈んだままなのに、なにも、感じない。
 自分はもう死んだから、苦しくないのだろうか。
 死ぬとは、こういうことなのだろうか。
 界瘴に呑まれた人たちは、皆、自分と同じようになっているのだろうか。
 わからない。
「?」
 そのとき、なにかが聞こえた。 
 笛の、音色のようだ。
 誰かが、いる。
 そう認識しただけで、身体がもがきはじめた。……浅ましい。もう死んだのに、まだ誰かに助けてもらうことを、期待しているのだ。
 頭が、海面に出る。
 身体が、息を継ごうとする。まるで、生きている人間のような振る舞いだ。……いや、自分が生きていようが死んでいようがどうでもいい。とにかく、人の姿を見たい。
 笛の音色がどこからきているのか、探そうとした。どこにも、見えない。見えたのは、頭上に舞い踊る桜の花片(はなびら)だけだ。
 桜の花片?
「あそこに、誰かいる……?」
 見えた。
 波立つ界瘴の向こうに。小さな人影。淡い紅紫色の衣に身を包んでいる。あれは確か、小袖≠ニかいう東国の着物だ。
 界瘴の流れが、急になった。界瘴が、あの人影に近づくことを、避けようとしているように感じる。
 人影の姿が、徐々にはっきりと見えてきた。笛を吹いていたのは、透き通った羽衣のような薄絹を頭に被った、黒髪の少女だったようだ。だが、少女は目を閉じていた。これでは、アストの姿に気付かない。声を出そうとしたが、界瘴の波に口を塞がれた。運が悪い――のではない。界瘴は、明らかに、アストが少女に呼びかけることを、妨げようとしているのだ。
 このまま、流されて、しまうのか――
 アストが諦めかけた直後、笛を奏でる少女の指が、止まった。その眼が、開かれる。澄んだ黒い瞳が、アストの姿を捉えていた。その口許に、微かな笑みが浮かぶ。
『ほう――。これはただならぬ縁を持つ旅人が流れ着いたものでござるな』 
 少女が呟く。その声は、頭の中へ直接響いてくるように聞こえた。音≠ニして聞こえるのは知らない言葉であるにもかかわらず、そこに内包された意≠ェ伝わってくる。
『これに掴まりなされ』
 少女は頭に被っていた薄絹を外すと、その片端をアストに向って投げ込んできた。宙を踊るようにするすると伸びてきた薄絹が、アストの身体にしっかりと巻きつく。
 その手並みの鮮やかさに感歎しながらも、こんなもので引っ張ったら千切れたりしないのだろうかと思う。
 しかし、屑藁(くずわら)を寄越されるよりは益(ま)しと考えて両手で掴まると、
『もうしばしの辛抱でござるぞ』
 少女が薄絹を引いた。あんな小柄な子に、自分を界瘴から引っ張り上げる力があるとは思えない。だが、少女が薄絹を引くたびに、アストの身体は確実に彼女のもとへ近づいていった。薄絹は、滑らかで柔らかい手触りから想像されるよりは遥かに丈夫で、急に破れたり、裂けたりしてしまいそうな気配は少しも感じられない。
『手を、出しなされ』
 いつの間にか、手を伸ばせば届くところまで引っ張り寄せられていた。
「君は……」
『身明かしなぞ後でいくらでもできよう。ささ、今は我が身を救うことだけに専心しなされ』
 言われるまま、手を差し伸ばす。右手同士が、しっかりとつながれた。小さい手だ。でも、とても温かく感じる。
 それからすぐ、少女の傍に引き上げられた。
「うぐっ――」
 お礼を言おうと思ったのだが、身体の中からなにかが逆流してくるような気持ち悪さに襲われて、蹲(うずくま)った。
『界瘴をしこたま呑みこんでしまったようでござるな。すべて吐き出してしまいなされ』
 少女がアストの背を撫でていた。口の中から、どす黒い汚泥が溢れ出る。もう二度と呑みたくないものだが、短い間に二回も呑んでしまったのだから、三回目もあるかもしれないと思う。
 界瘴をすべて吐き尽くすまで、少女は嫌な顔一つせずに、アストの背を優しく撫で続けてくれた。
『少しは落ち着かれたでござろうか?』
 様子を窺うような少女の声に、ただ肯く。身体の中に溜まっていた界瘴を吐き切ってしまうと、多少は気分が楽になった。
「ありがとう……、助かったよ……」
『いやいや、礼には及ばぬよ』
 ようやくのことでお礼を述べて少女の顔を見上げると、彼女は優しげな微笑を返してくれた。 
「ここは……、どこなんだ……?」
 尋ねながら、アストは周囲を見回した。界瘴の海はここまで打ち寄せてこれないようで、少女の周辺だけは、暗く、なにもない地表が拡がっている。地表といっても、砂や土で覆われた大地があるわけではなく、触ったところでなんの質感も得られない空虚な平面が、そこにあるだけだった。
「まさか、あの世?」
『そのようなものでござるな』
「そうか……。じゃあ、おれ、やっぱり死んだんだ……」
 薄々は感じていたことだが、目頭がじわりと熱くなった。
『いや、ここは隠(かく)り世(よ)には違いござらぬが、おぬしが死んだわけではござらぬよ』
「どういう、ことなんだ?」
『縁でござるよ』
「縁?」
『左様(さよう)。おぬしと拙者との間に結ばれた強き縁が、おぬしを生きたままここまで導いたのでござろう』
 少女の物言いは、よくわからなかった。
 隠れ場の丘まで逃げるときに、《道》のようなものを感じて走ることができたのが、彼女の言う《縁》のおかげなのだろうか。
 あの《道》は、八重桜の根元に突き当たったところで終わってしまったと思ったのに、あの世までずっと続いていたのかもしれない。
 あの八重桜には、そういう不思議な力があったのか?
 本当に《縁》というものがあるとするなら、自分とこの子にはいったい、どういう繋がりがあるというんだろう?
 この子は、何者なんだ?
 その正体について勘繰りながら、小袖姿の少女に視線を走らせた。
 布地を仄かに染める紅紫は、隠れ場の丘にある八重桜の花と同じ色だ。よく見ると、海を想わせる藍色の腰帯には、八重桜の刺繍が施されているようだった。
 再び彼女の顔へ視線を戻す。
 黒髪を切り揃えたおかっぱ頭の少女は、なかなかに可愛らしい顔立ちをしていた。空から降りてきたヴェルトリアの少女と比べれば鼻は低いし小さいが、薄卵色の肌は瑞々しくて張りがあったし、澄んだ黒瞳はぱっちりとしている。顔自体の印象は幼いにも関わらず、紅く色づいた唇には、微かに女の色香が宿っていた。背丈は、ちんちくりんのサーシャとどっこいどっこい、というところだろうか。
 それでも、古風で妙ちくりんな言葉遣いを除けば愛嬌のある娘であることは間違いなかった。背格好が似ているサーシャと同じく胸元が平たいというのが、少し残念なくらいだ。
 容姿の吟味はそこまでにしておくとして、少女の風采は、アストが想像していたご先祖様たち≠フ姿そのものである。
 とすれば彼女は、ご先祖様の霊かなにかであろうか?
 それとも、こんなところにいるということは――
「もしかして、君は、死神とかってやつじゃないのか?」
『いやいや、拙者は――、はて、なんと身明かしを立てればよいものやら』
 小首を傾げた少女は、そのまま少し黙り込んでしまった。
「さっき、身明かしは後でいくらでもできるって言ってただろう?」
『むう……、どうも長い間ここに立ち続けたせいで、ほとんどのことを忘れてしまったようでござるな』
「なんだよそれ」
 その言葉が真実かどうかはともかく、忘れたというのならば、あえて問い質さないほうがよいと思えた。
「?」
 ふと、少女の後方にある大きな影が目に入った。
「桜の、樹?」
 それは、一本の見事な八重桜の樹だった。撓むように枝垂(しだ)れた樹冠のあちこちで、紅色の濃い花々が咲き乱れている。隠れ場の丘にある八重桜も、春にはこれと同じような姿で花盛りを迎えるのだが……。
『ああ、これはおぬしより一足先にここへやってきたものでござるが、このまま流してしまうのも惜しいので、ちょいと引っ張り上げたのでござるよ。まぁ、これも縁でござるな』 
「あの桜、おれと一緒に流されてきたのか? 桜にも、縁ってやつがあるのかよ?」
『ふむ。縁というものは、人と人を繋ぐ縁だけではござらぬぞ』
 少女の言うことは、やはりわからない。
 しかし、隠れ場の丘にあった桜が自分と一緒にこんなところまで流されてきたのなら、少女が言うところの《縁》というやつが存在するような気もしてくる。
「君は、ここに住んでいるのか?」
 アストがそう尋ねたのは、桜の樹の隣に古びた小屋があるのを見かけたからだ。だがそれは、小屋というよりは、寂れた祠(ほこら)のようにも見える。
『まぁ、左様なものでござるが、拙者はここに住んでいるわけではなく、ただひたすらに立ち続けているのでござるよ』
「なんのために?」
『それが、なんのためかは忘れてしまったのでござる』
「なんだそりゃ?」
 あっけらかんとした調子で少女が答えるので、アストは肩透かしを食らったような気分になった。
『恐らくは、拙者がここに立ち続けること、それ自体に意味があったような気がするのでござるが、この状況を見るに、さして意味はなくなったのやもしれぬ』
 相変わらず少女の物言いはよくわからなかったが、その言葉に嘘があるようには聞こえなかった。でも彼女は、意味もわからないまま、こんなところにずっと立ち続けていたのだろうか。
「いったい、いつからここにいたんだ?」
『ふむ。拙者がここに立ち続けてから、かれこれ千年か、二千年以上にはなっているはずでござるな』
「二千年!?」
 二千年といえば、現在の神誓暦が始まる以前にあったとされる、《昏(くら)き時代》まで遡る大昔のことだ。アストが想像しようとしても気が遠くなるような伝説の時代から、彼女はここにいたというのである。
「こんなところに、二千年以上も前から……?」
 改めて、陸海空のすべてが界瘴に囲まれた世界を見渡す。もし自分がここに一人で立ち続けていたなら、五分と持たずに気が狂ってしまうだろう。
「本当に、何も憶えていないのか?」
『名前くらいは憶えてござるぞ。拙者の名は――』
 少女は立てた人差し指で、空中にすらすらと文字のような軌跡を描いた。

  綾 乃

 という形状の二つの文字が、宙に刻まれる。
『アヤノ、にござる』
 それが、描かれた文字の読み方なのだろう。
「アヤノ――っていうのか」
 自分たちに近い響きを持った名だ、と思う。
『左様にござる。では、おぬしの名を訊いても構わぬでござろうか?』
「ああ……」
 少女――アヤノが先に名乗ったからには、自分も名乗らないわけにはいかないだろうと思った。
「おれは、アストっていうんだ。字は、なんて書くのか忘れたけど、明日に、人とか、そういう感じだったと思う」
『ふむ。アストどの、でござるな』
 アヤノが先ほどの要領で、宙に、

  明 日 人

 と三つの文字を描く。両親に教えてもらったのも、そんな形の文字であったような気がした。
『――して、アストどのは、なぜゆえに界瘴に呑まれたのでござろうか?』
「なぜって言われても、おれにもなにがどうなってるのか、よくわからないんだけど……」
 話せば長くなりそうだが、今夜起きた出来事を、順を追って説明するしかないと思った。



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